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43 瀬戸君・高田君追悼録 湊正雄・朝比奈英三代表編集/1939/北大山岳部/166頁


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表紙
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D尾根上のケルン、後方は上ホロ
D尾根上のケルン、後方は上ホロ


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見返し、カットは坂本直行
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遭難現場見取り図
遭難現場見取り図


内容
 1938(昭和13)年12月27日、北大山岳部十勝岳冬期登山練習合宿中の5日目、上ホロカメットクより下山中の第10班(3年班)の湊正雄(リーダー)、瀬戸三郎、高田徳(のぼる)が底雪崩に巻き込まれた。湊は辛うじて脱出したが、他の2名は雪崩に埋没し、高田は2日後に、瀬戸は翌年6月4日に発掘された。山岳部創部以来初の遭難であった。
 本書は、両君の追悼のために遺体の捜索など跡始末に忙殺されていた山岳部の仕事と離して、友人有志の手で編集され(編集代表朝比奈英三、湊正雄)、遭難の翌年11月に発行された。序は、今裕北大総長、鈴木限三山岳部長、山崎春雄教授、犬飼哲夫教授、伊藤紀克OBが寄稿している。内容は学校関係者、友人、親戚、肉親ら34人による追悼と、山岳部による経過報告からなる。

 十勝岳吹上温泉を拠点にした北大山岳部の冬期十勝合宿は、1928(昭和3)年から行なわれ、例年100名前後が参加していた。この年は77名が参加し、初年班5班、2年班3班、3年班4班、先生班2班に編成され、連日雪上訓練やピークハントを行っていた。合宿5日目の12月27日、第10班(3年班)と第8班(2年班)は合同で吹上温泉を出発、崖尾根、Z-D経由で上ホロカメットクへ向かい、11時半頂上到着、12時過ぎに第10班、第8班の順で下山にかかった。シーデポにもう直ぐの地点まで来た時、第10班の湊、瀬戸、高田の3名が雪崩に巻き込まれた。湊は辛うじて自力で這い出したが、他の2名はデブリに埋没した。部員、OB、地元上富良野青年団らによる必死の捜索により高田は2日後に遺体となって発見されたが、瀬戸は翌年6月になってようやく収容された。
 雪崩発生の位置は、上ホロカメットクD尾根の八手岩と反対側の富良野岳側斜面上部(標高1750m付近)である。先頭を歩いていたリーダーの湊は、「遭難当日の事」の中で雪崩に流されていく時の状況を、次のように冷静に観察している。
「唯夫は歩いている途中でしたが、一瞬!おやと感じさせる程はっきりしたものであった事は確かでした(註:湊がその前に聞いたシューという音について)。そしてこの音と殆ど前後して後から後から連続してバーンといふ力のこもった音がその辺一面におこって、私たちの乗った斜面は一斉に動き出しました。屋根の雪が落ちる時に、私達が経験するザーといふ戦慄すべき音と共に、始めはゆるく、次第に早く私達は転落してゆきました。全く心に余裕がありませんでしたので、瀧のように崩落する雪塊の波の中にもまれつつも雪崩だと気付くまでには大分間がありました。
−中略−
後から後から巨大な雪塊が足をさらいます。とうとう転倒しました。両手も両足も雪の中にとられ、大の字の姿勢になって雪に閉じ込められたまま落ちてゆきました。今はもう疲れきって観念しました。最後に転がって来た雪塊が胸から顔の上に載ってまったく何も見えなくなってしまいました。やがて馬橇のとまる時の様なギーといふ音とともにデブリ全体がミシミシと停止しました。」

 雪崩の発生原因について、合宿に参加していた佐々保雄助教授(当時)は、他の先生方と協力して現地を調査し、次のように結論付けている。(「雪崩現場の観察其他について」)。
「雪崩の発生した地帯は二区域に分けることができる。一つは澤頭一帯に広く起こったもので、落下形式から謂えば所謂『板状雪崩』即ち積雪上層が板状破片に破砕し落下したものである。その範囲は図示の如く斜面に沿い長さ百二十米幅最大八十米厚さはその切裁断面によれば平均三十糎内外と認めた。この雪崩は遭難者等よりやや遅れて降っていた六名の部員の足下から切れて起こったもので、うち二名が引き込まれて数米流され、弾き出された形で止まり助かっている。他の一つはその西方、澤の北壁に起こったもので、幅七十米、長さ略六十米、殆ど全積雪層をめくって滑落し、下半部は特に山肌の岩石偃松を露出せしめ、所謂『底雪崩』として猛威を振るっている。
―中略―
たまたまこの板状雪のクリティカルな部分に足を踏み入れた部員によって板状雪崩が発生し、これによって部員2名が数メートル引きづられた後、側方へ放り出された。板状雪崩の滑落による震動の波及あるいはその下流による斜面下積雪層の剥落等の為、北斜の異常堆積部即ち雪楯部はその歪が破られ滑落するに至った。偶々雪楯部の上部を歩行中の部員3名はこれに巻き込まれるに至った。」
 文中の“異常堆積部即ち雪楯部”とは、積雪が風によって吹き飛ばされ叩きつけられた斜面の、特に上半部に異常に厚く堆積した風成雪地帯で、人やスキーによる衝撃を受けると底雪崩が誘発される、と解説している。

 山岳部の主任幹事であった葛西晴雄は、「今回の遭難事件について」で遭難を総括した上で、友を失った悲しみと今後の山との付き合い方について次のように語っている。
「吾が部が年に歳に夏冬を問わず北海道の山野に絶えず歩みをつづけて以来此処に十二年余り、その間私達は嘗て一度も今回の如く山に友を失うことの悲しみを味はった事が無かったのである。
―中略―
吾々はもとより山に死ぬ事を望むものではない。反対に山を知れば知る程覚えるのは山への愛着であり生きる事の重大さである。この時にあたって今回の事は吾々に再三再四山への反省を促したものであった。今は亡き両君の吾々に残したあらゆる意味に於ける山への教訓は清く偉大であった。それを単に吾々への貴き贈り物として受けるには吾々の失ったものは余にも大きいが、この悲しい事実を既に起こった事として大自然の前に認めなければならない事は明らかであるし、同時に吾々がこの事実を認めつつも徒に人間の無知をかこつものではない事は前に述べた通りである。吾々はたとへ少しでも構わない、一歩でも進んで自然の姿を掴み之が核心に触れなければならない。そしてそのあらゆる意味に於いて自然の核心に触れるべく真面目に慎重に山に精進する努力こそは吾々の行くべき道であると同時にこの貴き犠牲をして永遠に意義あらしめるものと信ずるのである。」
 葛西と共に山岳部の有力メンバーであった有馬洋は、「ケルンの事」で山の死について次のように語っている。
「皆、戦争の世で何時命を捧げねばならないか知れないと言う事とは全く別に、山に死ぬことは世の人からは全くつまらないこととは思われるか知れませんが、我々には我々の本当の意味での生活の大きな部分を占め、まして我々の心を己がものにしている“山”に死ぬことが何の悔やむ所の無いばかりか、我々もまたこんな美しい此の世のユートピアで清く死に、まして自分とは何の知己も係りも無い多勢のうるさい人々よりは、自分の心を本当に知って呉れる仲間だけに静かに山にケルンの一つを積んで葬ってもらいたいものだと思いました。」

 この遭難からわずか1年後の1940(昭和15)年1月5日、ペテガリ岳を目指していた葛西、有馬を含む山岳部の主要メンバー8名が、コイカクシュ札内岳直下で雪崩のため遭難死した。彼らのためのケルンは、有馬が望んだように仲間だけで静かにコイカク山頂に積まれた。

山岳館所有の関連蔵書
思いで/湊正雄編/1940/私家本
北大山岳部部報7号/1940/北大山岳部
歩み/葛西晴雄・有馬洋/1941/私家本
 
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