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    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...米山

書評・出版・ 2022年11月26日 (土)


信州松本を代表する社会人山岳会、クライミング・メイト・クラブ、CMCの50周年記念誌を読んだ。

CMCは1970年創立。会報の「攀友」は年に数回発行して現在169号まで発行されている模様。山行記録一覧を見れば、ザイルを使うレベルの山行のみでほぼ毎週のように山行を行なっている。今回は1991年発行の20周年記念誌以来の大きなまとめ。

内容は91年以降の30年分の山行一覧。それから全会員氏名一覧。信州大学山岳会の憶えのある名前もいくつも見つかる。懐かしい人の名も故人もあり、私自身の名も、以前ご一緒した山行記録の欄に見つけて驚いた。山行回数が多いので、時間記録や天候などまでは無く、ルートもすべて詳細は無い簡単なものだ。

CMCの歴史を知りたい部外者の私が最も興味深かったのは、創立以来50年間会を引っ張ってきた百瀬尚幸氏による創立期の詳しい話だ。県山岳協会加盟の申請に赴いたときの気持ちや、90年代にチベット登山協会との交流山行にCMCがあまり関わっていなかった事情などが察せられた。百瀬氏はじめCMC創立メンバーは団塊世代ながら、それ以前からあった社会人山岳界とはほぼ無縁に、ほぼ自力で力を付け、人を集めたのだ。だから全国的に山岳会が凋落した2000年代にも衰えず、今も独自の実力を持ち魅力を放っていることが伺える。


ほぼ毎年のように行われた槍穂高連峰の冬季長期縦走記録の、百瀬氏を軸にした記録セレクション(といっても5本+23本も!)。30代の百瀬氏が70代になってもまだ続く記述が、この会の骨組みとなってきたことを示す。日本一の山域、槍穂高連峰の冬季長期山行を、毎年なのだ。

この背骨に加えて、草創期CMCを方向付けた有明山と赤沢岳という地元未踏岩壁の夏冬の初登記。「後立三部作」の針ノ木、スバリ、赤沢岳西面の三稜線への世代を越えた入れ込み様など、CMCならではのマイナーだけど歯ごたえ満点の羨ましい山行記が並ぶ。海外記録にはメルー・シャークスフィン、バフィン、トランゴタワー・・・。メンバーはそれぞれに高レベルで別の山域に向かう。統一感はないけど、ありきたりな山行をしないところが一貫している。他のどこのクラブにもない歴史と現在を作ったのはなんだろう。

私は松本出身で1984年に北大山岳部に渡り、その後90年代と2010年代に数年ずつ長野県に転勤して登山に関わってきた。この間のCMCの孤高性はずっと変わらない。登山界の変化は大きく社会人山岳会の状況は全国どの町でも次世代につながらず、50年回転している会は多くはなかった。

松本の場の引力にも一つの要因がありそうだ。山があり、町に魅力があり、他の土地から移り住む人が多い。山が好きで来る人もいるが、住んでから好きになる人もいる。信州大学の学生の多くは他県から来ていて、CMCの記録には、信大山岳会出身のピオレドール・クライマー3人の名もあった。この町を活気づけているのは間違いなくそんな人達で、私の知る会員も外から松本に来た人がほとんどだ。

そして地元の未知ルートを探究した独自の強みを持つ創設者たちは、自信故にその面々を尊重し自由にさせ、多様性を内包した。それが活気ある伝統として生きているのではないか。

攀じ友=ヨジトモ=climbing mate

記念誌を読んだだけの情報で、フカヨミをしてみました。

A4 297p
2022.11.19 発行
編集長 河竹康之
https://cmc-jp.net/

記事・消息・ 2022年10月24日 (月)


10/15〜16開催。来週現役は北大で雪崩講習会があるというので例年より1週早い。
現役OB計20名が参加、前夜祭は赤岩帰りや小屋担当幹事が遅かったりで18時頃暗くなってスタート。




シェフT君(4年目)のメニューはポテトサラダ、ダッジオーブンで丸鶏香草ロースト、お好み焼き、炊き込み釜飯、おでん等、味もなかなかで皆満足。先週の下沢さん追悼会の残りの酒や食材、さらに参加OBの差し入れもあり豪華だった。



焚火を囲んで1年目とOBの自己紹介、そして夜遅くまで久しぶりに山の歌、寮歌を歌いまくった。1972のリコピーの手作り歌集や関西支部1993の歌集「山の四季」も年寄りが持ち込み「ぼくらの故郷」「かわらぬ恋」は2部合唱の指導も。小屋に入っては年寄りの自慢話や山や装備の情報交換。




翌朝も年寄りは早起き、朝食後は薪割り、掃除、ワックスがけに汗を流す




薪割挑戦の女子1年目




本祭は95周年を祝い山の四季を歌う。乾杯の代りにBerg Hile!と声を合わせ、締めは記念写真。



若手OBは3人が来てたが早朝に帰って写真には不在。紅葉はほとんど落ちてしまったが途中では真っ盛り、現役は来月に入れば準備山行が始まり冬山を目指す。頼もしい1年目が5人もいるがリーダースタッフになる上級生も女子の比率が多く少し不安、若手OBの協力が是非必要。

記事・消息・ 2022年10月21日 (金)

10/15越前谷さんの声掛けで、故下沢さんを偲ぶ追悼会に建設に関わった小舎会員と山行を共にした仲間が美国小舎に集まった。

1981年に下沢さん、越さんの呼びかけで有志手作りの小舎。翌年に会員のほとんどが隊員だったダウラギリ冬季登頂と小舎の完成を祝った。

小泉君の設計で積雪期の雪の多い場所ということもあって20年持つか?と思っていたが、昨年40周年を迎えた。設計と建築が素人でもここまで持った。


1954年入部のロタさんを筆頭に、ゲストにワンゲルOBでツルのマスターだった大内さん、東京からも5名の参加、一番若い志賀(1976年入)まで23名参加。

スライドショーでは参加者からの思い出の山行写真や動画が綴られ、若き日の山行姿や合宿の集合写真にコメントが添えられ懐かしんだ。


美酒と肴で焚火を囲んで語らい、そして久しぶりの山の語らいと歌で最後は2時まで。


やはり我々は焚火が命。コロナ禍で会えなかった3年分を取り返すように旧交も温める。焚火を囲んで下沢さんの魂も一緒に浸ったかも。山岳部の縦横の糸が交差した時間を過ごした。
差し入れを随分いただき下沢夫人や西元会長、カメ(74年入部)、チンパン(77年入部)の一升瓶、上野さんからもワイン1ダース、、、参加者その他の方々からも数々頂き、ありがとうございました。



朝。左から同期の宇一丸、鐙、山崎さんらと1年上の冷奴さん。


毛利君のドローンで空撮


下沢奥様にも来て欲しかったが同期のヘルスさんらが帰途追悼会の報告をされたと聞く。皆で見たスライド画像を後で届けるとしよう。

書評・出版・ 2022年7月14日 (木)


登山愛好家として美濃、越前国境のこの地域と伝統の暮らしに興味を持った。稜線は標高1000mほどだが日本海を背にして豪雪に見舞われ、大河揖斐川の広大な源流地帯はほとんど平地がなく、渓谷登攀者には静かで広い魅力ある山域だ。山間には、自動車道路が通る以前は数十軒ほどの規模の集落が点在していた。ここに1970年代から長時間かけて官僚たちがダムを造る計画を淡々と進めてきた。2006年日本最大の貯水量という徳山ダム完成。

ここにできれば死ぬまで暮らしたいと住んでいた、広瀬ゆきえさんの暮らしぶりを通して、揖斐川源流域の門入(かどにゅう)という集落の「現代化以前」の営み、たとえば栃の実の渋抜き法や山菜キノコマムシに、各種山仕事などを記している。

読み進むとそれにとどまらず、1918年生まれのゆきえさんの生涯を辿ることでわかる、何世代も続いてきた血族の持つ強さや、行動範囲の広さなど改めて知る。ダムが永遠に奪ったものの真価は、ここまで読まなければわからなかった。

14歳にして30キロ背負ってホハレ峠を越えて、鳥越峠も越えて長浜の高山まで繭の出荷。彦根まででかけて女工労働。門入の仲間となら、外に出るならば、北海道の真狩もパラグアイも同じなんだな。岐阜の柳ヶ瀬近くにあった徳山村連絡所の訪問もおもしろかった。



著者が30年間通い詰めた晩年、ついに追い出されるまでの門入での、誰もいなくなってしまったけどお金を使わなくて済む世界が、技ある人には自由な天国なんだな。朝から晩まで働きお金にはならないけど生きるための純粋な営みだ。若いときには遠くへ開拓に出て、農閑期の日雇いや出稼ぎもして現金を得て外食する楽しさも驚き知った、子供を遠い学校にやるための現金収入も要った。それだけ経た上で、子供の頃から身につけた、生きるための純粋な生活技術と行動技術を持つ自信と幸福。これが羨ましい。でもそんな晩年の天国も移住地に追われた。

移住者住宅に移った後、ゆきえさんがスーパーの特売ネギを買わなかった話が、凄くこたえた。
「わしは、たくさん人のためにネギも作ってきた農民や。自身を持って畑でネギを作って、みんなにくれてやったもんやが、その農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや。ちょっと情けなくなったんや。」

著者が長い時間をかけて関係を築き、徐々に理解しながら発見して気がついた話が盛り込まれた優れたノンフィクションです。

今はホハレ峠は足で越える人は絶えて久しいよう。渓谷登山愛好家として、ホハレ峠越えて門入を訪ねてみたい。病気の子供を背負ったり、60キロの栃の板を背負ったりして人々が越えた峠だ。


ホハレ峠ーダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡
2020年4月 彩流社
大西暢夫 写真・文

記事・消息・ 2022年1月24日 (月)


この投稿がうまくつながらなくて、だいぶレポートが遅くなったが、昨年晩秋のヴェチア祭り。コロナで私以外のOBは写ってません。女子が4名も




前夜祭。現役が料理をふるう




私はコロナを避けて乾杯後、小屋管理のアドバイスをして退散




翌朝私は再訪して祭りに参加。祭りといっても記念写真を撮るくらいだがヴェチアの歴史を少し語った




部歌の山の四季を歌ってヘルヴェチアの神様に献杯!だけはした




祭り後は大掃除に薪割り。女子もチャレンジ。今年の薪はトイレ脇の大きくなりすぎて、また小屋に傾いたキハダの木で夏に伐採したもの。




煙突掃除の後は床掃除とワックス磨き。他の北大小屋から比べると床が汚いので、ハッパをかけてしっかり磨いてもらう

書評・出版・ 2021年4月24日 (土)


地方の百名山の書は数あるけれど、県山岳協会や当地の新聞社が手分けして踏査して協議して選んだ本が多いのではないだろうか。中には各市町村に公平にというような選定もある。岐阜にも、上述のような選定を経た1975年の「ぎふ百山」があったが、124山と絞りきれていない。また高速道路ができ徳山ダムができて環境の変わった今の時代にふさわしい「佳き山」を選びたいと、著者清水克宏氏は最新情報を載せるため五年に限って踏査し選定したという。

ひとり個人が候補の100以上を登って選んだというものは、深田久弥の日本百名山と清水栄一の信州百名山だけではないだろうか。強い計画力と実行力とを要する情熱、そして教養がなければなし得ないのではないか。

私は先月3月に石徹白から白川郷まで一週間の白山縦走をしてきたばかりで、歩いてみて知りたく思ったこと
「なぜ三つの越前、加賀、美濃の禅定道のうち最も泰澄法師ゆかりで正統のはずの越前道がいま見るかげもないのか?」
「なぜ石徹白はあの独特の雰囲気なのか?」
「念仏尾根の妙法山周辺の複雑な地形もやはり古くから人が通ったのか?」
などすべての好奇心の答えを、この本は歴史的な視点から教えてくれた。


信州人の私の目線で岐阜県とはどんな県か。長野県と北アルプスを挟んで対称の位置にありながら、信濃にはない多様性がある。北陸豪雪地域に面した山嶺が長く、標高はなくても遠く深い奥美濃や、白山に連なる国境があるかと思えば、鈴鹿山脈にも木曽山脈にも引っかかっていて、実に多様。それから低山だけれど個性ある山と人里の多い県中央の山間部。これらを俯瞰して一冊の中に眺めることができた。

この多様な山域の隅々まで、歴史的背景や地名山名の由来なども漏らさず盛り込まれている。往時の修験者、木地師、鉱山師に関する話も、知れば山歩きで見える風景を変える要素だと思う。とりわけ、徳山ダムで沈み非常に行きづらくなった千回沢山(とても100山に入れるわけにはいかなかったとある)や、廃村の馬狩で出会う現地の人とのささやかな交流の話などはとてもおもしろい。日本の山里には従来、人と文化があり、今はそれが失われゆく時代なのだ。こうしたさりげない話が貴重なのだと思う。そうした時間軸を意識すると、コラムで触れていた奥美濃の山を紹介した昭和15年刊行の「樹林の山旅」には、たいへん興味を惹かれた。

岐阜県の山にはその名前が地形図に載っていないものが多いという。信州との対比で、濃尾平野以外は山がちなので、遠くの名山が抜けて見えない、そのため名前が広く認知されなかったり、飛騨山脈が視覚としても印象に残らないのではないか、との話もしていただいた。本書に一貫するのは、そんな「少し不遇な」岐阜の山への愛着である。

私はいくつ登ったのかな?うきうき数えてみたら34だった。楽しいものだ。
私も、筑摩、安曇両郡(犀川流水域)50名山を選んでみた。故郷の山への愛である。

ナカニシヤ出版2021年5月
森の国水の国 岐阜百秀山
清水克宏
2200円

書評・出版・ 2021年3月7日 (日)

毎日新聞夕刊で特集ワイド面記事を書く、藤原章生会員(1980年入部)の最新刊です。海外取材の長い58歳記者(当時)の、プライベートなダウラギリ2019年遠征記。

なぜこの年齢になって八千m峰を目指すのか。著者の幼年期の体験、青年期の山、海外支局取材時のさまざまな話を交え、高所の及ぼす脳や精神への影響から、話はどんどん死と時間、恐怖と勇気、シンパティコ、達観と情熱、なぜ山に登るのかというテーマに至る。昔から相当な読書量だったうえ、著名人のインタビュー経験が豊富であり、ジミー・チン、メスナー、原真、リカルド・カシンなどの発言や行間にふれる部分が面白い。大澤真幸の「他の誰にも出来ない仕事」の話が良かったです。

故郷を出て男ばかりの共同体に初めて入門した1984年の私にとって、東京の下町の育ちだそうで、きっぷの良い話しぶりに、人をじろりと見る目つき、あけすけにものをいい、最後にニヤリと笑える話を添える藤原さんはちょっとワルなインテリとして、憧れの人でありました。直接の先輩である2,3,4年目のひとつ上の5年目でもあり、何より1984年のガルワール・ヒマラヤ、スダルシャン・パルバットのメンバーでした。1年目の私には近い将来の憧れの未来そのものでした。興味はなかったけど、くわえタバコの麻雀にものこのこついていきました。


私が半人前を終えかけた3年目の4月上旬、藤原さん鷲尾さんに誘われて、立山、剣に登りました。大町の扇沢からスキーかついで冬季休止中の関西電力のトロリーバストンネルを延々歩いて、ケーブルカーの真っ暗な階段トンネルも延々登って、いきなり立山の東面に出るアプローチでした。今では考えられないけど、当時は特に止められなかったし許可とか危険とか、そういう日本社会ではありませんでした。ここに雪洞を掘って3日間、悪天缶詰になって、最後は雪崩が危なく日数切れで引き返しました。4泊も穴の中でヒマだったかといえば、藤原さんの面白い話を朝から晩まで聞いて、ゲラゲラ笑って過ごしたのを覚えています。全く話の上手い人でした。本書にも出てくるけれど、20代の若い時代特有の「シンパティコ(人懐っこさ)」の話には、このときのことを思い出しました。当時、名前しか知らなかったOBの小さな話を、顔マネ、口真似しながら藤原さんが話してくれるのですが私は腹を抱えて笑いました。

その後、藤原さんは新聞記者、私はTVカメラマンになり、業界は同じでも全く違う仕事でした。はじめ私は山岳撮影が主な関心でしたが、藤原さんのように誰か興味深い人にとことん話を聞くドキュメンタリーのような仕事にあこがれてきました。留学や海外支局で日本を離れた藤原さんを、グアダラハラ、ヨハネスブルク、ローマと、夏休みなどによく訪ねました。昔からずば抜けた読書量で、あるとき話のはずみで文庫本の巻末にある他の本の紹介広告のタイトルを見ながら、これも読んだ、これも読んだ、と数十冊ほとんどすべて読んでいた話を聞いて驚きました。彼に勧められて読んだ本も数多くP.フォーバス「コンゴ川」、G.マルケスあれこれ、関川夏央、丸山健二など、私が本を読むようになったきっかけかもしれません。特集ワイドの取材でインタビューに行く前に、相手の著書は全集含めてほとんど読んでいくとあり、納得します。

本書では、やはり高所登山中に受ける精神的な影響の話で死に対する考察があります。いつか20代の頃、どこかの国を訪ねたときの雑談で「俺は最期、死ぬ時に、間際にどんなことを思うのか、横になり朦朧としながらも、心に浮かぶこと、考えることを様々、全部ペンに書き取りながら死にたいね」と言っていたのを読書中に思い出しました。やはり、ずっとこれは大切なテーマだったんだ。

あらすじを書いてもネタバレになるので、藤原さんの追悼文のようになってしまったけれど、少し上の先輩の勤め人の節目である定年退職間際の心の内など、私も大いに関心が高く、今後の人生でも常に先を行くセイパイに変わりありません。まだ30年、人生は続く。

書評・出版・ 2021年1月28日 (木)

100年を迎えた早大山岳部と稲門山岳会の100周年記念事業誌。昨年はお祝いの催しも計画していたが、covid19の影響で中止になったとのこと。

1920年前後、第一次大戦後の好景気で日本社会は鉄道が伸び、大衆の観光や旅行や登山活動にも広い裾野が伸びた。以前から大学生を中心に行われていた登山界にも逸材が流れ込んできた時代で、老舗の大学山岳部はこの頃相次いで山岳部を創立した。北大もスキー部が1912年から創部、そこから山岳部が独立したのが1926年。


リュックサックはもともと現役の部報であり、2011年に14号が出ていて、今回は15号。1990年代・平成以降は現役部員が少なかったためリュックサックは次第に両者合同の内容で編集されているようだ。内容は過去100年の早大山岳部のあゆみがダイジェストで記される一方、14号以降の10年分の活動報告が厚めに盛り込まれている。

冒頭のまとめはよくまとまっていて、早稲田の100年を今回初めて知ることができた。実は早稲田の歴史について、失礼ながらこれまであまり印象がなかった。K2の大谷映芳氏と、翻訳家の近藤等氏と、あとは80年代の同世代数人の名を知る程度だった。早稲田は伝統があり部員も充実していたのに、死亡遭難事故や不運が多くヒマラヤ登山では79年ラカポシ、81年のK2まで成功を得ることができなかったことを初めて知った。また、その後の世相の変化による90年代以降の部員減少期の組織的葛藤や不信。ヒマラヤで活躍を期待されたやる気に満ちた若手が次々に死亡遭難事故で失われる苦しみなど、かなり踏み込んで事情を読むことができた。


他大学との対話でこれからの山岳部を考える、という企画のひとつに、北大山の会から11人が座談会に出席し、北大的な山岳部気質などを紹介する機会が設けられた項目がある。私達にとって、早稲田も含めた東京の山岳部の活動は、「監督、コーチ」「合宿」「トレーニング」という存在が示すように、かなりスポーツ的に見える。歴史的にも、他校山岳部との競り合いを強く意識している気配を感じる。「スポーツ科推薦入試」も2000年代にあったとあり、発想としては競技スポーツを連想する。極端に言えば、彼らから、その要素を引き算して、さてどう山に登ろうか!といったものが北大流だったのだということを感じた。そしてそれぞれの寄稿を読むと、やはり早大自身の中にも「個人山行⇔合宿」という大きな対立する概念があり、それを内的に処理できず、苦悩して来ているように思えた。

巻末に年次順の会員名簿が併記されている。おかげで記録を見る際にたいへん助かるのだが、会員の総数が、ここに載せられるほど少ないことに驚いた。80年代以降のほとんどの年は一学年一人か二人しかいないのである。よくぞ続いてきたものと思う。

どんな時代でも大学山岳部にしかない魅力は、学生時代の当事者にはその時はわからないけれど、100年も続いた縦の時間軸を越えて、皆が同じ青年期を過ごした経験を共有できることだ。行く山は同じでいい(違う山でもいいけど)。馴染みのメンバーが生涯居る。おなじみの雪稜で迷い、おなじみのナメ滝で滑り落ち、おなじみのクラックに右手を突っ込む。おなじみの飲み屋におなじみのヒュッテ。ヒマラヤやデナリはオマケだ。老いたメンバーはそのおなじみの定点があることで、自分がどれだけ遠くまで来たか確かめる。若いメンバーには尊敬する先輩がいればそれでいい。そして、山で死んだ仲間のことを時々思い出すのだ。人のライフサイクルをまたいだそういう共同体は今、日本でほぼ失われつつある。なにかに勝たなくていい、文化を伝承するのが、大学山岳部でありたい。

書評・出版・ 2021年1月26日 (火)

著者は硫黄島1945司令官、栗林中将のノンフィクション「散るぞ悲しき」で憶えのある著者。かなりの鉄道オタクとのこと。特に廃線ジャンル。樺太鉄道は憧れなので期待して読む。雑誌の連載紀行をまとめたものなので旅行記として読みやすい。

サハリンは、アイヌ・ニヴフ・オロッコ、ロシア、日本、ソ連の時代変遷で地名が三つある。ロシアとソ連時代でも違う。サハリンの地図を片手に、更に地名対照表を片手に読むと更に楽しい。

白秋、賢治など日本統治時代に訪れた人々の足取りも盛り込まれチェーホフ、林芙美子、村上春樹まで改めておさらいできる。後半の宮沢賢治の亡き妹を悼む詩集と辿るパートは東北本線や津軽海峡の下りなどの検証なども含めてサハリンからは離れるけれど、時刻表や車種の証拠からも詰める乗り鉄オタク手法込みのノンフィクション検証で、1923年の傷心の旅を解析するところはお見事。賢治の詩編の一言一句の吟味になるが、これはこれで大変面白かった。はるか昔読んだ賢治の詩は不思議と心に残りあり、詩特有の曖昧な受け取りだった言葉の数々も先行研究もうまくまとめられてこの本で明確になりました。賢治特有の草花や鉱石の解説も詳しい。妹の死、樺太鉄道旅行、そして銀貨鉄道の夜への流れを解釈する。

やはり樺太山脈スキー縦走に行かなければならないなあ。山岳部の仲間と、コロナが収まったら、旧国境を積雪期に越えて北上したい。帰りは鉄道で帰るのだ。やる気が出てきました。何キロくらい、無補給で行けるだろうか。  

書評・出版・ 2020年12月16日 (水)

日本山岳会東海支部で、1970年のマカルー南東稜初登以来、50年間名古屋岳人のヒマラヤ遠征、東海支部の組織運営を担ってきたご本人77歳の総まとめ自伝本。東海山岳に関わった人にはたいへん興味深い歴史の、一つ一つの裏側を語ってくれる。

そして、AACHにとっては、偉才、原真氏の右腕として尾上氏が携わった数々の話が興味深い。東海支部設立、アンデス、ヒマラヤ遠征のゼロからのスタート、組織作り、資金集め、日本山岳会本部との確執(というかみんなが知っている妨害工作)、現場での破綻、遭難スレスレの格闘と成功などの歴史が尾上氏目線で語られる。関係者の多くが亡くなっているのも、おそらく今書ける理由でもある。やはり生き残った強みである。みんなが知りたいことでも、関係者が居る前ではなかなか文字にはできないものだ。何より尾上氏のその後果たしてきた実績と信用が、彼の書くことならと、周りを納得させられたのだろう。50年経って、やはりマカルー南東稜は歴史になったのだ。

1970年マカルー南東稜初登は、ヒラリーに「あの南東稜をまさか日本人が登るとは」と言われた、当時難しすぎる未踏8000mのバリエーションで、同年の日本山岳会(本部)のエヴェレスト(ノーマルルート第六登)に比べると、事情を知るものには段違いの快挙だった。だが、これは「思想家・原真」の強烈すぎるリーダーシップによって鍛え上げられた先鋭集団だから成功した。そのいきさつを、原さんの右腕役を務めた尾上氏が文章にした本書は、まことに興味深い。マカルーを、東海支部を、新撰組にたとえる下りがある。「尾上、明日までに○○を切れ」とささやく原さんはまさしく土方歳三ではないか。ぞくぞくするような展開である。


本書後半では、原さんが去った後の東海支部の40隊にも及ぶ海外登山隊の切り盛り、尾上さんを育てた東海高校剣道部、日大山岳部の活動なども触れられる。名古屋という土地に於ける人のつながり、その時代の背景が、門外漢にも判って大変おもしろい。1960年代の日大山岳部が極地山行に傾倒していたのを少々知ってはいたが、ここまでグリーンランドや北極点に通っていたとは。ヒマラ高峰系の海外ではなく、ソリを曳いて未知未踏の極地エリアに分け入るスタイルは北大の志向に近いものがある。日大山岳部の池田錦重氏や、名古屋山岳会の 加藤幸彦氏も触れられる。私はお二人と90年代にガッシャブルムやチョモラーリで山行を共にしたことがあり、知らなかった一面を読むことができた。人には出会う以前から歴史があり、そのいきさつを知ると、知っている人であってもまた多面的に見えてくる。

「誤解を恐れずに書けば、山登りは死ぬほどおもしろいのであり、おもしろいほどあっけなく人が死ぬ世界である。」ぎくりとするが的を射ている。誤解されそうなので書くが、人の死がおもしろいのでなく、「(その山登りがギリギリ生還するような過酷なレベルのもので、おもしろければ)おもしろいほどあっけなく人が死ぬ」という意味と解釈する。敢えて誤解されそうな書き方をするところが尾上氏流の味かと思う。こんなお節介は不要か。原真も書いていた。「山には死があり、したがって生がある。下界の多くにはそれがない。」
また原さんの本をよみたくなった。

  尾上昇(おのえ・のぼる1943年生まれ) 2020 中部経済新聞社 1600円+税  
 
 
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