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11.山の魂 フランシス・シドニイ・スマイス 石一郎訳 1938 朋文堂
原題:The Spirit of the Hills/1935/Francis Sydney Smaythe


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表紙
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著者より加納一郎へ寄贈署名
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フランシス・シドニー・スマイス(1900−1949) 登山家、写真家、作家
 英国ケント州に生まれる。バーカムステッド校に入学、在学時代(1914‐1919)に山に夢中になる。ファラディハウス工業学校を経てブラッドフォードの機械工場に勤務、余暇に登山に励んだ。  1926年、英国空軍に入隊するが、病を得て翌年除隊。その後、モンブラン北東面の直登ルートを開拓するなど、モンブラン山群での一連の登攀活動を通じて登山界で頭角を現す。
 1930年、ディーレンフルト率いるカンチェンジュンガ国際登山隊に参加。北壁にルートを見出そうとしたが、雪崩によりシェルパが死亡、転進して北西稜をうかがったが、急峻な岩壁に阻まれて敗退した。帰りがけにネパール・ピーク(7145m)、ジョンサン・ピーク(7459m)に登頂。これ以後タイムス紙所属の登山ジャーナリストとして活躍する。
 1931年、ガルワールのカメット峰(7756m)に初登頂、当時人間の登った最高のピークであった。この山は1907年のロングスタッフ以来、先人による10回もの試みを退けていた峻峰である(報告書「Kamet Conquered」1932、 田辺・望月共訳「カメット登頂」)。
 1933年、H.ラトレッジを隊長とする英国第4次エベレスト遠征隊に参加。北東稜にルートをとり、8350mにC6を建設して、シプトンと共に最後の挑戦をするが、途中から体調不良でシプトンが下山、スマイス一人で大クーロアールに達しが、そこが限界であった。報告書「Camp Six」 1937年(キャンプ・シックス 伊藤洋平訳 1959)を著す。
 1936年、再びラトレッジを隊長とする英国第6次エベレスト遠征隊に参加、不運にも例年よりも早いモンスーンが襲いかかり、深雪に悩まされて、辛うじてノース・コルに到達したのみで終わった。
 1937年、ニルギリ・パールバット(6474m、ダウラギリ山群)、マナピーク(7272m、カメット山群)に初登頂。
 1938年、ティルマンを隊長とする英国第7次エベレスト遠征隊に参加するが、この年もモンスーンが1か月も早く襲来、8290mのC6 から2回にわたって頂上攻撃に挑んだが、従来の最高到達点にも至らずに終わった。
 スマイスは、1929年に発行した「Climes and Ski Runs」を初めとして、以後20年間に美しい山岳写真を含む27冊の著書を世に出した。 1949年、胃潰瘍で死去、49歳であった。


内容
 スマイス35歳の著作で、カンチェンジュンガ遠征後に出版した“The Kanchenjunga Adventure”(1930年)、カメット峰登頂後に書かれた”Kamet Conquered”(1932年)に続く3作目で、前2著の紀行とは異なり、山のエッセイで、 感受性豊かでロマンチストの著者が、山についてのびのびと優しく語っている。

「君は何故山に登るのか」――――序より
 こうした質問に答えられるのは、ただ具体的な経験とその経験に滲みこんでいる表現的な思想とだけである。その経験は潜在的で、ちょうど白日の光の中には数多の色彩が、含まれているように数々の部分から成り立っている。とすると、その経験の十分の一も言葉に移すことは難しい。

「山男の生立ち」――――少年時代の無鉄砲な山登りを回想して
 山で恐怖を覚えたら、無理をしてさらにその恐怖を征服してやろうなどと思ってはいけない。むしろ引っ返してその恐怖を無くしてしまうがいい。が、実地になると進むよりも引く方がずっと人間的な勇気がいる。破壊するものが恐怖で、建設するものが物を楽しむ性質なのだから、この二つが一緒になってうまくやって行けるわけがないが、しかし登山は楽しむもの、懐かしむものであって、決して恐怖の手によって虐待されるべきものではない。海面からエベレストの頂上に至るまで、用心しつつもつい思わず招いたというようなことなく、およそ恐怖と名のついたものの影さえあってはならないのである。だから我々は慎重に恐怖を除き、山から戻ったら心から、「まったく愉快だったな」と云いたい。

「低山歩き」――――低山であろうと高山であろうとそれはスマイスにとって問題ではない、尽きない山の味を求めて飽きることがない。
 それは私が子供の時居たことのある北部丘陵地帯だった。山が好きならホームスベリーの山頂以上に登る必要もあるまい。山の高い低いは大した問題じゃなくて、大事なのは山そのものなのである。低い山がこう教えてくれる。たとひ二百呎か三百呎の小さな山でも、そのどこかに尊いものがある。より高尚なリズムに人生を調和させようとする何かが含まれていると。地表から盛り上がった土塊、かくも微妙な転形を完成し、かくも歓喜をもたらすものが他にあろうか。そこにはどこかにより偉大なものがある。それこそ山々の抱く山の魂であろう。

「ヒマラヤ遠征」――――エベレスト頂上へあと300m足らずまで迫った男の再挑戦への思い
 ヒマラヤに登るのは自然との血族関係を実際に結ぶことだ。そうした実現には天罰が下されるかもしれない。苦痛を伴うかもしれない。がそれだけに、より活気に満ちた喜びに溢れた究極の完成があるのだ。努力と苦難によってのみ自己を発揚し、認識を深め、道徳的身長を発育させ、真実と歓喜を見出すに至るのが、宇宙の不動の原則だからである。肺臓を喘ぎはづませて、勇気を振い起こしながら、いつかは地上最高の地点を踏みしめることができるかもしれない。それは征服者の心を持って踏みしめるものではなく、我と我が身を鼓舞し持って生まれた生来の勇気を最大限に発揮し、否、勇気以上の勇気を振うことのできるある力が自分には授けられていることを知りつつ、つつましく、しかも感謝に満ちて踏みしめることであろう。

「花の谷間」――――遠征の帰路、偶然足を踏み入れた花の谷に魅了された。のち、幻の花として有名になる青い罌粟を見たのもこの時だった。
 更に下ると、花の谷間になった。―アルプスの花も、英国の花も、ヒマラヤの花もある。―桜草や野薔薇やアネモネや狼牙の花。紫シオンの花堤とクリーム色の芍薬の細径―勿忘草と青い罌粟の花。流れのほとりの金盞花。山腹のいちはつ。飛燕草。あみがさ百合。ばら色の蘭。黄菊。葵。なづな。小人のような石楠花等。
 私たちは岩棚の花の中にキャンプを張った。雨は止んだ。季節風のために生まれた霧が散らばり、名もない未踏の峰々が姿を現した。漂う太陽の光が遠い雪の山腹を輝かしている。空気は雨気を含んで甘く、花の香りに匂っていた。

「断片」――――結び
 時が経てばやがて手も足も筋肉も疲れ果ててしまうであろう。けれども山に向かう私達の心は決して疲れを知らない。山に登るばかりが能ではなく、もっと違った感情がそこにはひそんでいるからである。山の登るのではなくて山の中で暮らしてみたいものだと、山好きは言うかもしれない。若い時は精力的な筋肉労働の奴隷のような感があったのが、時の経つにつれ、次第に精力も愛情も均されていかなければならないことを知る。感覚的な熱狂さは消えるかもしれない。しかしさらに瞑想的な人間になって、老齢がやがて這いよって来ようとも、山々に対して抱く愛情のために、肉体の勇気の失せるのを、どうしようもなく徒に嘆いてばかりはいなくてもいいだろう。

 こうして山から帰ってくると、私達の肉体も心も魂も新鮮なものとなり、またすばらしい気持ちで人生の数々の問題にぶつかってゆく。しばしの間山の中で私達は素朴に聡明に幸福に暮らしたのだった。良い友達を作った。好ましい冒険もやった。信念を抱くことによって私達は満足するがいい。山々を創造した神の愛に満足するがいいと山々が教えてくれた。

山岳館所有の関連蔵書
  • The Knchenjunga Adventure /F.S.Smythe/1930
  • Everest 1933/H. Ruttledge/1934
  • キャンプ・シックス/F.S. スマイス/伊藤洋平訳/朋文堂/1959
  • カメット登頂(世界山岳全集4)/F.S. スマイス/田辺主計・望月達夫共訳/朋文堂/1961
  • ウィンパー伝 -栄光と悲劇の人(世界山岳名著全集2)/F.S. スマイス/吉澤一郎訳/あかね書房/1966
  • カンチェンジュンガ登頂/G.O.ディーレンフルト/横川文雄訳/1956/朋文堂
  • エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高柳春之助訳/1941/岡倉書店
 
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