番外 加納一郎(1898-1977)人物伝
稚内カラフト犬訓練所にて 1955年
加納一郎(1898-1977)作家、翻訳家、極地研究家
大阪の道頓堀に生れる。5、6歳の頃、父の仕事の都合で京都へ転居、少年時代を過ごす。1911(明治44)年、京都府立第一中学校入学。1915(大正4)年夏、加納に終生の山心を植え付けた恩師金井千仭先生に連れられて、級友ら数名と御岳、槍ヶ岳に登る。同年、全国の中学に先駆けて山岳部を創設する。
1916(大正5)年、北大農学部に入学。スキー部に在籍し、板倉勝宣、松川五郎らと登山とスキーに打ち込み、1920(大正9)年十勝岳積雪期、1922(大正11)年旭岳冬季などの初登頂を果たす。
1921(大正10)年、板橋敬一と「山とスキーの会」を結成(命名は並河功北大スキー部長)、本邦初の山岳雑誌「山とスキー」を、編集に板倉勝宣、中野政一、松川五郎を加えて発刊、積雪期登山の普及に努めた。この雑誌は編集責任者を代えながら1932(昭和7)年までに100号が発行された。「山とスキーの会」解散後は、大野精七らがこれを引き継いで「山と雪の会」が結成され、機関誌「山と雪」が10号まで発行された。
1923(大正12)年、林学科を卒業し、国家公務員の身分で道庁拓殖部に勤務、余暇には山とスキーに明けくれた。同年、北海道庁の宮尾長官の発案で、北海道の山岳観光の啓発を目的に、総裁に長官を置く官製山岳会「北海道山岳会」を設立、自身は常務理事として業務にあたった。有名な大雪山黒岳の石室などこの時期に多くの避難小屋が建設された。
1924(大正13)年、敏子と結婚。この年、多くの山行を共にしたすぐれた山仲間で、人として多くを教えられた板倉勝宣が立山弥陀ヶ原で遭難死する。「山とスキー26号」は板倉の追悼号になっている。
この頃、全日本スキー連盟の発足と連盟規約、スキー競技規則の制定、第1回全日本スキー選手権大会(小樽市)の開催に尽力する。
1927(昭和2)年、前年に航空船ノルゲ号で北極海横断飛行に成功したロアルト・アムンセンの講演を札幌で聞き、感銘を受ける。同年、処女作「北海道の山とスキー」(北海道山岳会)を出版。
1928(昭和3)年、業者の自然破壊に手を貸す役人生活に嫌気がさし、道庁を退職、朝日新聞大阪本社編集局に勤務する。同年、RCCに入会、藤木九三、西尾一雄、水野祥太郎ら阪神地方の個性的な岳人らと交流。
1933(昭和8)年、朋文堂から発行された雑誌「ケルン」の編集同人となり、宮崎武夫、諏訪多栄蔵らと編集にあたった。遠征主義を掲げた編集方針で、ヒマラヤ、極地の情報や資料を盛り込んだ清新な内容であった。この雑誌は1938(昭和13)年までの5年間に60冊を発行した。1981(昭和56)年にアテネ書房から復刻版が発行されている。
1938(昭和13)年、結核のため朝日新聞社を休職(1年後に退職)。肺結核、腎臓結核を相次いで病む。病勢が落ち着いてから原稿生活に入る。
1942(昭和17)年〜44(昭和19)年に朋文堂から発刊された季刊誌「探検1〜5号」の編集責任者を務めた(注1)。「アムンゼン探検史」「北極圏と南極圏」「世界最悪の旅」などの翻訳書はこの時期のものである。
1944(昭和19)年、妻子と共に札幌へ疎開し、北大林学教室(演習林本部)図書室に勤務、本を読みふける。戦後は林業ジャーナリズムの仕事を手掛け、10年間に「林業解説シリーズ」120冊(全127号)(注2)を発行、ほかに2つの林業雑誌(「北方林業」(1949年)(注3)、林(1952年)(注4)の創刊に係わり(注)、編集にあたった。戦後の日本の林業、林学への最大の貢献者であった(渡辺啓吾 北方林業通巻601号)。
1955年の文部省の南極活動開始以降は「白い大陸ー南極探検物語」「南極へ挑む」など、極地関係の著書、翻訳書を多く発表した。 1957年の第1次南極観測隊編成にあたっては、極地研究家として犬ぞりの使用などに関して大いにアドヴァイスをした。文部省と永田武東大教授の“南極観測は学者の仕事で探検などというものではない”という意見に対し、加納は“まだ人間が上陸したことのない未知の領域に基地を設置することは探検であり、探検あっての上の観測だ”と主張、第1次観測隊の上陸と越冬を後押しした。
1968年の古稀祝に弟子達によってプレゼントされた北極、アラスカ、ネパールへの初めての旅を楽しんだ。
1972年、札幌を離れて藤沢市へ転居する。札幌在住の27年間には自宅「霧藻庵」で多くの著作、翻訳を発表すると共に、極地を目指す若者達を育て、その中から多くの人材を世に送りだした。
1972年、古希記念事業として探検関係者が総力を結集して、朝日新聞社から朝日講座「探検と冒険」全8巻を刊行した。加納は自身も第6巻「探険」の編集にあたった。
1977年、心不全のため逝去、78歳。北大山の会会員、日本山岳会名誉会員
弟子達の編集による「加納一郎著作集全5巻」(教育社)が、1986年に刊行された。
(注1)
季刊誌「探検」)
加納は1〜5号を編集しているが、第6号が編集者を替えて特集「軍需鉱物特撰」として発行されている。
(注2)
「林業解説シリーズ」
戦後、当時の著名な学者、研究者らの研究で得られた知識・成果を、解りやすく林業現場に還元・普及することを目的で、シリーズものとして鋭意継続刊行した。林業現場のみならず国民の森林・林業の啓発に大いに貢献した。
(注3))
「北方林業」
1949年に創刊された北海道を中心とした林業の情報誌。現在も毎月発行を続け、一度も途絶えたことがないという歴史を持っている(2012年7月現在、通巻第760号)。当時戦後の混乱期の中で、森林を良くしていきたいという技術者のための雑誌として、帝室林野局北海道林業試験場長の原田泰と加納一郎のコンビでスタートした。
(注4)
「林」
1952年4月に創刊された北海道林務部(現北海道水産林務部)の広報誌。林業技術や知識等に関する林務部職員の意見交換の場として、また、人として思想・心情を述べ、所懐・作品を示しあう最も身近な場所として親しまれ、1977年の全国林業関係広報誌コンクール(応募数102誌)で「職場の機関誌で、これだけの品位と格調を25年以上持ち続けられてきた広報誌は極めてまれである」と評され、最高位の特別賞を受賞している。創刊以来一度も休まずに発行され続けてきたものの、社会・経済環境の変貌にともない刊行が困難となり、2001年7月号(通巻第592号)をもって終刊となった。
北大山岳館「加納一郎文庫」
著作
翻訳
- 北海道のスキーと山岳/北海道山岳会/1927
- 氷と雪/梓書房/1929
- 極地集誌/朋文堂/1941
- 氷雪圏の記録/山と渓谷社/1947
- 雪の世界/子供の国/1947
- 極地を探る人々/朝日新聞社/1950
- 山・雪・探検/河出書房/1955
- 未踏への誘惑ー二十五人の極地探検家/朋文堂/1956
- からふといぬー南極へいったソリ犬たち/日本評論新社/1959/犬飼哲夫共著
- 極地の探検・南極/時事通信社/1959
- 極地の探検・北極/時事通信社/1960
- 北海道開拓秘録1〜4(改訂)/時事通信社/1964
- わが雪と氷の回想/朝日新聞社/1969
- 極地探検ー未知への挑戦者たち/社会思想社/1970
- 山・雪・森ー霧藻庵雑記/岳(ヌプリ)書房/1981
雑誌編集
- アムンゼン探検史/ロアルト・アムンゼン/朋文堂/1942
- 北極圏と南極圏/コーリン・ベルトラム/朋文堂/1942
- 世界最悪の旅/チェリー・ガラード/朋文堂/1944
- 南極へ挑む/マウント・エヴァンス/朋文堂/1956
- 南極に挑む/ポール・W・フレージャー/時事通信社/1960
- フラム号漂流記/フリッチョフ・ナンセン/筑摩書房/1960
- 千島紀行/ステン・ベルクマン/時事通信社/1961
- 極点浮上ー北氷洋の原子力潜水艦/ジェームス・カルバー/時事通信社/1961
- 両極/ウィリー・レイ/時事通信社/1963
- 南緯90度/ポール・サイブル/筑摩書房/1967
- 白い道ー極地探検の歴史/ローレンス・カーワン/社会思想社/1971
雑誌寄稿
- 山とスキー1〜100号/山とスキーの会/1921〜1930
- ケルン1〜60号/朋文堂/1931〜1938
- 探検1〜5号/朋文堂・1942〜1944
- 林業解説シリーズ/日本林業技術協会/1949〜1959
全集
- 登山と極地探検家/山岳講座第3巻/共立社/1936
- ノルデンショルドの欧亜就航記/山と渓谷1月〜連載/山と渓谷社/1946
- 凍死と凍傷/山岳講座/第5巻/1954
- バード伝/20世紀を動かした人々第14巻/講談社/1963
- 私の見た本多勝一君/現代の探検第9号/山と渓谷社/1971
- 霧藻庵雑記/岳人1月号〜連載/東京新聞出版局/1972
- 極地探検と冒険第6巻/朝日新聞社/1972
- 朝日講座「探検と冒険」全8巻/加納一郎古希記念出版/朝日新聞社/1972
- 加納一郎著作集1〜5/編集委員:北村泰一、堂本暁子、西堀栄三郎、樋口敬二、本多勝一/教育社/1986
Tweet| |
番外 フォスコ・マライーニ |