24. ナンダデヴィ登攀/H.W.ティルマン/池野一郎訳/1942/朋文堂/299頁
原題:The Ascent of NandaDevi/H.W.Tilman/1937
ハロルド・ウィリアム・ティルマン(1898-1977) 地理学者、探検家
富裕な商人の第3子としてリヴァプールに生れる。地元で小学校時代を過ごし、1909年、11歳の時にバーカムステッド校に入学する。1914年、ウールウィッチ王立士官学校に入学。1915年、英国砲兵少尉となり、第1次大戦中は西部戦線で戦い、1919年除隊。
退役軍人に与えられる制度を利用して、英国の植民地であったケニアに未墾の土地1平方マイルを得て入植、コーヒー栽培を行なう。1926年、父ジョン・ティルマンと共同出資してアサイ平原に新たに土地を購入、コーヒーを栽培し、英本国へティルマン・コーヒーの名で輸出した。1930年、コーヒー栽培の事業を覚えるためにケニアに来ていたシプトンと知合い、2人でキボ、マウェンジ、キリマンジェロ、ケニア山、ルウェンゾリなど東アフリカの山々を登る。
シプトンと同行した冒険旅行で、人生において情熱を捧げる趣味を見出したティルマンは、1933年、農場を友人に売却して帰国する。1934年、シプトンとヒマラヤに登場、ガルワル・ヒマールのリシ・ガンガのゴルジュを突破してナンダ・デヴィ内院へ初めて入った。1936年、アメリカ・イギリス合同隊に参加してナンダ・デヴィ初登頂。1938年、隊長として第7次英国エヴェレスト探検隊を率いる。8290mの第6キャンプから2度頂上攻撃を行なったが、従来の最高到達点に至らず敗退した。帰路、チベットとシッキム国境のゼム・ギャップを越える際、雪男とおぼしき足跡を発見する。1939年、陸軍に再編入となり、1945年まで各地を転戦する。1947年、カシュガルの総領事となっていたシプトンと新疆省のムスターグ・アタ、ボグド・オーラに試登。1950年、ネパール開国と同時にマナスル付近を探り、アンナプルナを試登した。
その後、ビルマで領事として短期間勤務、1953年、黄金時代を迎えたヒマラヤを去り、帆船・ミスチーフ号で気ままに極圏の海をさすらった。1977年、友人のタグ・ボート、アナバン号でフォークランドに向けリオを出航後、行方不明となった。
内容
1936年、米・英合同隊はナンダ・デヴィ(7816m)に初登頂した。大戦後にアンナプルナ(8091m)が登頂されるまで、このナンダ・デヴィが人間の登頂した最高の山であった。本書は隊長のティルマンによるこの遠征隊の記録である。
ガルワールの名峰、ナンダ・デヴィを目指して古くから多くの登山家がやって来た。しかし、登ることはおろか、その内院に入ろうとする試みは、東、西、南、北からなされたが、いずれも失敗に終った。1934年、ティルマンとシプトンによってリシ・ガンガのゴルジュが初めて突破され、内院からナンダ・デヴィを仰ぎ見ることができた。
それから2年後、同じルートから内院に入った米・英合同隊によってナンダ・デヴィは登頂された。この登山隊は最初アメリカで発案され、アメリカの意向ではカンチェンジュンガが目標であったが、シッキム入国の許可が得られなかったためにナンダ・デヴィに転進したものである。
隊員は、アメリカ側はC.ハウストン、W.F.ルーミス、A.シモンズ、A.カーター、イギリス側はティルマン、G.ブラウン、P.ロイド、N.E.オデール(2.「エヴェレスト登山記」参照)の8名で、いずれも経験豊富な登山家達からなる強力なパーティーであった。
ラニケットを出発したのは、すでにモンスーンの始まっている7月10日、打ち続く雨の中を山を越え、河を渡り、10日後にはアラクナンダ本流とダウリ河の分岐点、ジョシマートに着いた。ここでダージリンから呼び寄せていたシェルパ6名、ドーティア人ポーター37名、マナ人ポーター10名でキャラバンを編成、ダウリ河のラタ部落から尾根を越えてリシ・ガンガへと向った。ラニア川が合流する地点が難関の渓谷の入り口であるが、この合流点に達する前にどうしてもラマニ川を渡る必要があった。すでに7月下旬で、氷河の融水とモンスーンの降雨で増水したラマニ川を渡るのにドーティア人は怖気ついて、ついに渡ろうとしなかった。やむを得ず、ドーティア人37名を解雇、あとは隊員とシェルパ、マナのポーター10名で荷を背負い、険しいリシ・ガンガをひじょうな困難を経て突破、ナンダ・デヴィ主峰の南麓約4725mにベース・キャンプを設営したのが8月2日であった。
登路は、1934年の偵察によって決めていた南山稜に取った。しかし、この山稜は険しい斜面と脆い岩場からなる登攀が著しく困難なものであることが次第に分ってきた。C1(5850m)、C2(6220m)、C3(6400m)、C4(6615m)が設営され、8月24日、C4に5人の隊員が入った。この間の一番の誤算はシェルパの弱体であった。この年、エヴェレスト第6次隊、カンチェンジュンガ隊の遠征と重なり、優秀なシェルパを採用できなかったことがその原因であった。彼らはいずれも故障を起して、C2より上の荷上げは全部隊員の負担となったのである。翌25日、全員で7160mの地点までビヴァーク装備を荷上げ、26日にはオデールとハウストンが登頂を目指す事となった。しかし、その夜ハウストンが急病に冒されて行動不能となったためにティルマンに交代、翌朝6時に2人は頂上に向った。急峻な個所や深雪などがあり登攀は困難を極めたが、ついに午後3時に頂上に立った。1時間平均60m弱の登高であったことをもってもその困難さが想像できる。
「ナンダ・デヴィの頂上は、多くのヒマラヤの峰々の頂を飾っているような薄い不安定な所ではなく、180m近くの長さと18mくらいの幅を持った確固とした雪原であった。------静粛な空気、輝く太陽、そして雄大な眺望、――それはわれわれが期待し希望していたほど広範囲のものではないにしろ――山頂のすべては素晴らしいものであった。」
9月2日、ベース・キャンプを発って帰路についたが、ティルマンとハウストンは東側障壁のコルを越えてマルトリ経由で帰った。このコルは、1905年にロングスタッフが登って来て、その上に達したもので、2人はそれをロングスタッフ・コルと命名した。
本書は原書の直訳に近い文章が多く、また聞き慣れない造語が随所にあって、読み通すのに忍耐が必要である。この遠征についてはJ.L.アンダーソン著(水野勉訳)「高い山はるかな海 探検家ティルマンの生涯」が良く書かれている。
<補>この地域における日本隊の活躍
- ナンダ・デヴィ主峰初登頂と同じ1936年、日本最初のヒマラヤ登山隊としてナンダ・コート(6861m)を目指した立教大学隊(堀田弥一隊長ら5人)は、10月5日、北東稜から全員とシェルパ1名が初登頂した。
- ナンダ・デヴィ主峰・東峰(7434m)の縦走は、フランス隊、インド隊によって何回か試みられたが失敗、1976年6月、インド・日本山岳会の合同隊(鹿野勝彦隊長)によってまず東峰に登頂し、続いて主峰に至り、初縦走が成功した。
- 1974年12月、北大隊は冬期トリスル峰(7120m)登頂をトリスル氷河から目指してリシ・ガンガを遡行したが、途中でのポーターのたび重なるストライキのために前進を阻まれ、やむなく撤退した。
山岳館所有の関連蔵書
- Nanda Devi/F.E.Sipton/1936
- Snow on the Equater/H.W.Tilman/1940
- Nepal Himalaya/ H.W.Tilman/1952
- H.W.TILMAN The Seven Mountain Travel Book/Jim Perin/1983
- ナンダ・コット登攀/竹節作太/大阪毎日新聞社/1937
- ナンダデヴィ登攀/H.W.ティルマン/池野一郎訳/朋文堂/1942
- わが山の生涯/ロングスタッフ/望月達夫訳/白水社/1957
- わが半生の山々・赤道の雪・白嶺/シプトン・ティルマン・コガン/吉沢一郎・近藤等/あかね書房/1967
- 未踏の山河−シプトン自叙伝/E.シプトン/大賀二郎・倉知敬訳/茗渓堂/1972
- ネパール・ヒマラヤ/H.W.ティルマン/深田久弥訳/四季書館/1976
- カラコラムからパミールへ/H.W.ティルマン/薬師義美訳/白水社/1975
- 高い山はるかな海−探検家ティルマンの生涯/J.L.アンダーソン/水野勉訳/山と渓谷社/1982
- ナンダ・デヴィ縦走/日本山岳会/茗渓堂/1977
- トリスル遠征について−北大山の会会報第44号/野田四郎/北大山の会/1976
- エヴェレストへの長い道/E.シプトン/深田久弥/創元社/1988
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23. チベット/マライニ/1942 |
25. 一登山家の思い出/エミール・ジャベル/1937 |