記事・消息・ 2006年11月29日 (水)
板倉勝宣遺躅の碑 /北大山の会東京支部 石本惠生(1961)
去る平成18年10月7日、富山県芦峅寺において故板倉勝宣氏の遺躅の碑の補修完成記念式典が行われた。この会合は学習院大学山岳部OB会、山桜会が主宰し、慶應大学登高会、北大山の会、芦峅寺関係者ら約40名が参加して行われた。折からの低気圧の接近で大荒れ、大雨であったが、芦峅寺のはずれの丘の記念碑の前で全員黙祷をおこない板倉氏の冥福を祈ると共に、記念碑の修復を祝った。
板倉氏は日本の近代アルピニズムの先駆者として知られ、厳冬期の立山連峰松尾峠において、大正12年1月17日26歳の若さで遭難死した。彼は学習院高等科を卒業後、北海道大学に入り、加納一郎、松川五郎らとともに札幌近郊の山々、大雪山山系にスキー登山をおこない、北の山々に輝かしい足跡を残すとともに、北アルプスの山々にも多くの足跡を残した。また同氏は山登りに関して鋭い洞察力を持ち、日本山岳文学史上秀逸な作品を多く残している。同氏は北大山岳部創設(大正15年)以前にこの世を去ったが、山岳部の創設については加納一郎氏と共に多く貴重な助言をしたと伝聞する。
学習院山桜会では数年前から部史の編纂をしていたところ、板倉さんの記念碑が芦峅寺にあることを知り、2004年にここを訪れた。しかし碑は古くなり荒れ放題になっていたことが明らかになった。この偉大な先輩の誉れを保存することを決めた同会は昨年より募金を行い、この度その補修工事を完成させたものである。
山岳部現役の頃よく芦峅寺に出入りしていた私は、佐伯トンコとこの碑の掃除を何度かしたのを覚えている。トンコは祖父に当たる佐伯静男さんから板倉さんの遭難の話を聞いたと飲みながら話してくれた。もし板倉さんが生きていたらその後の日本の山登り、ヒマラヤ登山も変わっていただろうな、とよく話していた。
碑の側に立てられた「この碑の由来について」には学習院山桜会のご好意により北大山岳部・山の会の名前も併記されている。
劔・立山方面にお出かけの際は是非立ち寄り故人の遺徳に触れて頂きたい。
以下、碑文を記す(なお、原文は縦書きですが、編集上横書き表示となっています)
ーこの碑の由来についてー
板倉勝宣は大正十二年一月十七日、立山弥陀ヶ原の松尾峠
において遭難した。 享年二十六歳。旧制學習院中等科・高等科
時代より山登りをはじめ、 北海道帝国大学卒業し、京都
帝国大学大学院進学を目前にして雪の立山に短い人生を
閉じた。行を共にした慶應義塾出身の槇有恒、三田幸夫ら
と共にわが国近代登山の黎明期の先駆者として、自らが唱
えた積雪期スキー登山の途上での事故であった。
板倉が大正八年三月に試みた槍ヶ岳は、 現代まで続く登
山の出発点として記憶される必要がある。 板倉はこの山登
りにおいて、登山の方向に明瞭な指針を示したのである。声
高にではなく、 いかにも板倉らしく控えめにではあったがこ
れを意志的に唱えた。
この碑は、板倉の死によって失われたものの大きさを惜し
む関係者と佐伯静氏ほかの芦峅衆によって大正十四年十一
月に建立されたが、今般、老朽化により補修を加えた。碑文
は旧備中松山藩士,荘田要二郎氏の起草になる。 登山者と
しての可能性はもちろん、人間としてありあまる才能を秘
めたまま早世した板倉勝宣の存在をとこしえに留めようと
する願いである。
平成十八年十月
學習院輔仁会山岳部・山桜会
慶應義塾體育會山岳部・登高会
北海道大学山岳部・山の会
芦峅寺関係者
学習院山桜会では数年前から部史の編纂をしていたところ、板倉さんの記念碑が芦峅寺にあることを知り、2004年にここを訪れた。しかし碑は古くなり荒れ放題になっていたことが明らかになった。この偉大な先輩の誉れを保存することを決めた同会は昨年より募金を行い、この度その補修工事を完成させたものである。
山岳部現役の頃よく芦峅寺に出入りしていた私は、佐伯トンコとこの碑の掃除を何度かしたのを覚えている。トンコは祖父に当たる佐伯静男さんから板倉さんの遭難の話を聞いたと飲みながら話してくれた。もし板倉さんが生きていたらその後の日本の山登り、ヒマラヤ登山も変わっていただろうな、とよく話していた。
碑の側に立てられた「この碑の由来について」には学習院山桜会のご好意により北大山岳部・山の会の名前も併記されている。
劔・立山方面にお出かけの際は是非立ち寄り故人の遺徳に触れて頂きたい。
以下、碑文を記す(なお、原文は縦書きですが、編集上横書き表示となっています)
ーこの碑の由来についてー
板倉勝宣は大正十二年一月十七日、立山弥陀ヶ原の松尾峠
において遭難した。 享年二十六歳。旧制學習院中等科・高等科
時代より山登りをはじめ、 北海道帝国大学卒業し、京都
帝国大学大学院進学を目前にして雪の立山に短い人生を
閉じた。行を共にした慶應義塾出身の槇有恒、三田幸夫ら
と共にわが国近代登山の黎明期の先駆者として、自らが唱
えた積雪期スキー登山の途上での事故であった。
板倉が大正八年三月に試みた槍ヶ岳は、 現代まで続く登
山の出発点として記憶される必要がある。 板倉はこの山登
りにおいて、登山の方向に明瞭な指針を示したのである。声
高にではなく、 いかにも板倉らしく控えめにではあったがこ
れを意志的に唱えた。
この碑は、板倉の死によって失われたものの大きさを惜し
む関係者と佐伯静氏ほかの芦峅衆によって大正十四年十一
月に建立されたが、今般、老朽化により補修を加えた。碑文
は旧備中松山藩士,荘田要二郎氏の起草になる。 登山者と
しての可能性はもちろん、人間としてありあまる才能を秘
めたまま早世した板倉勝宣の存在をとこしえに留めようと
する願いである。
平成十八年十月
學習院輔仁会山岳部・山桜会
慶應義塾體育會山岳部・登高会
北海道大学山岳部・山の会
芦峅寺関係者
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コメント一覧
松川宏彦
投稿日時 2007-2-17 23:40
一部訂正します遺稿集のシリアルナンバーは、37でした。北大山岳部創設80周年記念誌を作成されると聞きましたが楽しみにしています。
米山
投稿日時 2007-1-22 7:58
石本様、松川様
私にとっては伝説の人物、板倉氏、松川氏ですが過去の部報などを読んでいると20代前半の若者の情熱が伝わってきて、山の原始性は異なるけれども、時代を超えて共感できるのです。
その後「山と雪の日記」として出された本の元になった板倉氏の「遺稿集」は関係者だけに配られた貴重なものだそうですね。松川五郎氏のその後をお知らせいただき、ありがとうございました。
私にとっては伝説の人物、板倉氏、松川氏ですが過去の部報などを読んでいると20代前半の若者の情熱が伝わってきて、山の原始性は異なるけれども、時代を超えて共感できるのです。
その後「山と雪の日記」として出された本の元になった板倉氏の「遺稿集」は関係者だけに配られた貴重なものだそうですね。松川五郎氏のその後をお知らせいただき、ありがとうございました。
松川宏彦
投稿日時 2007-1-21 22:53
故板倉勝宣氏の遺躅の碑が補修されたことはなによりです。私は文中板倉氏の友人であった松川五郎の(五男)宏彦です。父は30年前に他界しましたが遺品の中に板倉氏の黒い表紙の遺稿が大切に保存してありました。シリアルナンバー38でした。板倉氏の文は大変読みやすくファンの一人です。一度訪ねてみたいものです