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部報解説・ 2007年3月2日 (金)

これまでの部報紹介・部報5号(1935年)後半/(米山悟1984年入部)

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5号後半は千島、樺太の山行記録が特徴。樺太の山は、ソ連国境(北緯50度線)近い地味な山だが、当時の辺境の様子がわかって面白い。


部報5号(1935年)後半分
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚
●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一

1935年七月からの二〇日間、照井と水上の二人。シュンベツ川から遡りナメワッカを超えて札内川へ。シュンベツ川中流の、イドンナップ沢出会いからポンイドンナップ沢出会いまでは厳しいので、尾根を挟んで南側を並行して流れるペンケアブカサンベ沢を行き、尾根超えをしてチヤワンナイ沢に降りて本流に戻る。(この区間は今も林道が通らず、シュンベツ川上流へは、コイボク林道から尾根を超えてカシコツオマナイ沢経由で延びている。)驚くべきはこのルートの要所要所各沢の出会いには簡単な小屋がけがしてあり、岩魚釣り、砂金取り、マタギなどが工面しあって使っている。北大山岳部では前年にも2パーティーがナメワッカを登っているが、このパーティーは天気に恵まれず、停滞を重ね、イドンナップやカムエクのアタックを割愛してなんとか乗っ越した。乗っ越し前の四日間は「只一本の水筒の水と、すつかり黴が生え悪臭さへ発するパンに餓と渇を醫して来たのだから。」という苦労をしている。

● 北千島 初見一雄

1935年七月、函館から199トンの船で八日後、摺鉢湾に着く。島では二〇トンほどの発動機船で移動する。船上での見聞を思うさまと共に記述。最高峰アライトの登山記がある。苦労なく登り、山頂で歌を歌って帰ってきた。

アライトの漁場(夏だけやってくる漁師たちの番屋)で親切にしてくれる漁師の出身が南部と越中で、「『何もお構ひ出來なくて氣の毒ですちや』かふ云ふ越中辯が迎へて呉れたのは千倉の麓に在る西川の漁場だつた。」「雨に降り込められた劔澤の小屋では『明日も駄目ですちや』と八郎が首を振り乍ら云つたのが思ひ出されるし、槍の殺生小屋では遙る々々尾根通しにやつて來た平藏が『久しぶりですちや』と挨拶を殘して大股に槍澤を降つてゐつた、」この時代の山岳部は北千島にも出掛けるし、北アルプスにも出掛けていた。現代と違う交通事情を考えると驚くべき行動範囲だ。平蔵とは平蔵谷に名を残す芦峅寺の平蔵だ。占守島の国端崎まででかけ、カムチャツカの山を眺める。戦前、北千島の豊かな自然は日本の国内だった。10年後にはこの山々を失う事になろうとは。

尚、巻末の年報によれば、部報5号の二年間に千島を訪れたパーティーは他にも二つある。
・ ウルップ島1934夏、根本、石橋、千葉。地質調査の目的で訪れたので、登山は鐘湾のBCから赤崩川を遡行して地獄山(1013m)に登ったのみとある。
・ 国後島・ルルイ岳1935年7月、白濱、高橋。高山植物の採集を主目的に入山。体長を壊し、山頂手前で仕事を優先して引き返している。

● 北樺太の山々
名好山 本野正一
1935年8月、本野、水上の二名。前年秋には豊原(現ユジノサハリンスク)近郊の樺太最高峰、鈴谷岳(現・チェーホフ山)の記録もある。間宮海峡に面した旧恵須取(エストル・現ウグレゴルスク)から名好川を登り、名好山(東経142度30分、北緯49度10分・標高不明)をアタックする。小樽港からエストルまで直行便ながら船で足かけ三日。大平炭山への軽便鉄道で入山。造材の飯場、山奥に暮らす老人の小屋などを辿り、山頂へ。この年、測量隊が入っていて、山頂には櫓もあった。途中、熊の頭骨など広いながら下山、20年以上も山麓で暮らしている老人の小屋で熊と野菜の煮込み料理やジャコウジカの珍味を食べさせてもらう。「『話の種を食はしてやらう。』さう云つて、小さい肉片を持つてくる。よく身の締つた、上等のロースのやうな美味いものであつた。是はこの北の國にだけ住んでゐる麝香鹿の肉であつた。私達はその肉片を噛み緊め乍ら、自由にこの密林を駈け廻つてゐた臆病な獸の伸び切つた姿體を思ひ浮かべてゐた。」帰りは恵須取→来知志(ライチシカ)の湖→春内→自動車で東海岸の眞縫→落合の王子製紙の独身寮の先輩宅→豊原→大泊→稚内→陸路札幌と帰る。

樺太の一等二等の三角測量は1933年までに終わっているそうだが、三等三角点の測量をして始めて高度が判明するそうで、国境(北緯50度線)近いこともあり持参した空中写真測量要図(25000)の地形図の不確かな部分や間違い部分の考察をしている。彼らは陸軍測量部の最後の測量隊と相前後して登っていたことになる。10年後にはソ連に取られてしまうのだが。このため標高のわからぬ国境近くのこの山域には夢があり、敷香岳、恵須取岳周辺の、もしかしたら1700mを超える山があるかも知れないということで、名好岳を目指したとのこと。実際には1200-300mくらいのヤブ山だったが。訪れてみると意外や造材と狩猟者によってこの未知の山域は歩かれていたことを知る。札幌からの交通費一人当たり往復で29円40銭、と内訳など細かく書いてあるのが面白い。なお、「サハリン・モヂリは平原が起伏してゐるやうな山々」というアイヌ語なのだそうである。これまでロシア語だと思っていた。

樺太に関する文献表 水上定一

●知床半島の春 豊田春満

根室本線厚床から今は無き標津線で中標津へ、そこから乗り合い自動車で標津へ(鉄道はこの時代中標津までだったということだろう)、そこから定期自動車で羅臼へ。春の原野と海を叙情たっぷりに描いている。乗り合い自動車の様子、羅臼温泉の描写など詳しく面白い。羅臼の中腹から硫黄岳往復。三ツ峰の近くに美しい沼を見つける。雪の中に目のように開いた小さな沼。「それは丁度希望を蒼空に向けた青く澄んだ瞳の樣であつた。うれしくなると何時も子供の樣に無邪氣にはしやぎ出す瀬戸は、此時も感歎の聲をあげたのであつた。」雪解けの季節には稜線上にこんな沼がよくできる。この稜線で僕も5月に出会ったことがある。とてもきれいな色をしているのだ。

このときは、三ツ峰、サシルイ、オッカバケの地名がまだ無い。翌日羅臼岳をアタック、その夜の記述。「夜になると皎々と春とも思はれないばかりに冱えた月が、國後の方から昇つて來て晝のやうに明るくなり、此羅臼岳の斜面は幻想的な青白い光を放ち出した。空一杯に漲つた月光の無數の針は何か竒怪な曲でも奏してゐる樣に、四邊の景色も晝とは全く一變した幻想的なものとなつた。雪を照らす月の光は登山者の激しいワンデルトリーブをそゝらずには置かない。私達も誰からともなくスキーを穿いて此夢幻の世界へと歩き出したのであつた。妖精じみた影法師ともつれ合つて滑り廻つたり、いろんな山友達が籠城のテントの中で教へてくれた樣々な歌を口ずさみ乍らほつゝき歩いたり、或は梢だけ雪から出した嶽樺の間を縫つて尾根蔭の闇の中にこつそりとしのび込んでみたり、夢遊病者の樣な彷徨に夜の更けるのも忘れてゐた。天幕に歸つた時には焚き火はもう殆ど灰になりかけてゐた。一しきり新しい薪をくべ乍らしばらく二人で駄辯つて、それから天幕に入つたが、頭は天幕を明るく照らす月の樣に冱えてなかなか寢つかれなかつた。」この部報で一番好きな一節だ。

●三月の石狩川 石橋恭一郎

1935年3月上旬、石狩川本流から石狩岳を目指す。積雪期初登の伊藤秀五郎氏の記録から8年、その後結氷した大函を通過するパーティーはこれが初めて。この間林道(現・国道39号線)が延びたが、冬の可能性はナダレなどの要因はじめ未知だった。アイヌの猟師の足跡を追い行ってみるとこの林道が意外と使えた。

ユニ石狩沢の合流点(当時の林道終点)から奥へ進む。この一帯の石狩沢は渡渉できる幅ではないので右岸を行くか左岸を行くかで運命を分ける。「この日私達は右岸を選んだばかりに豫定地までに一泊を餘儀なくされた。」当時の核心は、大河の遡行だった。結局数本のドロ柳を倒して橋を架けて左岸を行く。ヤンペタップ合流の先にベースを設け、石狩岳をアタックするが、連日の吹雪に日数を使い果たし往路を下山する。前石狩沢からの登路、巨大なデブリを見る記述がある。当時のむき出しの野生が凄い。「突然行く手の眼界が開けて、私達は只々恐怖と畏敬とにおのゝいたのである、其處には立木一本も認められぬ小高い凹凸の雪の丘が行く手を塞いでゐた。一抱もある大木が根こそぎにもぎ取られ、打ち碎かれて、枯れた殘骸を露出して散亂し、或物は斜面に引かゝり、叉或物は逆につゝ立ち、横に縱に、深い積雪にも拘はらず首を突き出してゐる有樣は、實に凄慘な状態であつた。恐らく早春のデブリーであらう。石狩岳の山頂から北走する主稜の一角から、ひたむきに密林を薙倒して、五百米を一氣に澤に落込み、餘勢をかつて、對岸の急斜面を狂ひ昇つた其の物凄い光景を想像して、私達は互に顏を見合せるのみであつた。雪崩の蹟は見上げる山稜迄くつきりと一線を劃して、山稜は烈風に盛に雪煙を上げてゐる。」

●創立前後の思出 渡邉千尚
スキー部山班からの独立と恵迪寮旅行部からの創立10年を節目に、創立時新人だった渡邉氏による当時の活気あふれる様子を書いた小文。「時期至つて大正十五年十一月十日に發會式を擧げたがその前後の緊張振は大したものだつた。若手連は遮二無二山岳部創立に突進して、先輩連がスキー部との間に入つて、苦勞してゐることなどは少しも知らずに居つた。」「生の惱みを味はつた部員は頑固なものだつた。笑つて過ごしてしまふやうな事でも、互ひに讓らずに激論を鬪はすことが度々あつた。」「登山術は未熟でも、意氣は仲々壯んなものがあつた。慶應山岳部のアルバータ行に刺戟されて、我々もカムチャツカの最高峰クルチエフスカヤに登る計畫を立てゝ國際關係なども全然考慮に入れずに,叉我々が毎月もらふ學費を飮まず食はずに貯めたつてどうにもならないのに儉約して貯金しようなんて相談したこともあつた。」

やはり千島の先のカムチャッカに目を付けていた話がおもしろい。当時1920年代は日露戦争でカムチャッカ沿岸の漁業権を日本が獲得、国策会社「日魯漁業」が荒稼ぎしていた時代だ。日本人のこの地域への入り込みは、戦後冷戦期に較べればはるかに盛んだった。ただ、1924年まで続いたシベリア出兵(ロシア革命に対する干渉戦争)のため、恐らく登山許可の可能性が無かったのだろう。

年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点

(解説前編後編
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