ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
最新のエントリ
最近のコメント
  • 21年03月22日
    Re: 【中部日高】ナナシ沢1823m峰南面直登沢→コイボクシュシビチャリ川...北陵高校山岳部OB
  • 17年01月29日
    Re: これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)...佐々木惠彦
  • 16年12月17日
    Re: ペテガリ冬季初登・72年前の今村さんのゲートル  米山悟(1984年入部)...やまね
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...米山
  • 16年07月28日
    Re: 暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました...さわがき
  • 16年07月04日
    Re: 医学部戦没同窓生追悼式のご案内...AACH
  • 16年06月17日
    Re: 道新に今村昌耕会員の記事...AACH
  • 15年12月22日
    Re: おくやみ・谷口けい 米山悟(1984年入部)やま...すぎやま もちやす
  • 14年12月09日
    Re: 【書評】アルピニズムと死 山野井泰史 2014.11(米山悟1984年入部)...まっちゃん
  • 14年10月25日
    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...米山

山の会昔語り・ 2009年1月24日 (土)

山の会裏ばなしー(24)ー勿体ない焚き火
山の会裏ばなしー(24)

   勿体ない焚き火

北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和二十九年秋には連休があった。新入社員なので未だ実習員の分際だったがこの好機は逃せなかった。

せっかく飛騨に住んだのだからアルプスの飛騨側のバリエーションを拓きたい、山岳会に入っていた二人の同僚と先ずは黒部五郎岳や双六岳方面の沢の偵察を行うことにした。

地図によると金木戸川は相当のハコの連続だが、双六川と高原川が合流する浅井田の集落近くから金木戸川のハコの上のテラスに森林軌道が残っていた。途中迄は軌道に便乗し、撤去された軌道跡は中ノ俣川と金木戸川の合流を超えて広川原まで残っていた。それから沢歩きでさらに打込谷をかなり遡行して、樅沢岳は夏なら尾根伝いに登れそうだし黒部五郎から南に伸びる尾根は冬山の対象になりそうなことを見付けてから中ノ俣川の合流点付近まで戻って古い飯場の跡らしい所にキャンプした。裏話はここからである。

先ずは人跡もまばらなこの沢で日高でやっていたような大きな焚火をした。食事も済ませて駄べっているうちに、連れの二人は本州人なので最近の北アルプスのなどの事情を知っていた。この頃はもう立木を切り倒す焚火など御法度という。いいだけ焚火を楽しんでからそんなことを言い出し、そのうち話も途切れてしまった。その時、古い部報で見た昭和五年入部の井田清先輩の話を思い出して話をつないだ。その当時、日高山脈の夏山にはフガイド兼人夫として山に知識のあるアイヌの人を雇うパーティーが多かった。話はこの井田先輩が、日高を闊歩していたアイヌの人、水本文太郎爺さんを連れてトッタベツ川に入った時のことで、以下は先輩の文である。

戸蔦別川は雨で底深い音をたてていた。(中略)

夜になると谷川の流れは黒鉛のように見えてその暗さは気味悪く身に沁みわたってきた。私たちは焚火の赤い色を恋いしながら誰も皆んな湿った谷間の気配に肩をすぼめていた。赤い焔の間にいると、その夜の闇を振り向くのさえ怖ろしいほど深かった。二三間先の川辺に水を汲みいくのも体中が何となくぞっとした。(中略)

仕方なしに赤い焔を無暗と高く燃え上がらせる事が何か小さな安心を私達に贈って呉れる唯一つのことのように思われた。

その様に虚勢を張った焚火を水本の爺さんは「もたいない」と言って嫌った。(中略)水本の爺さんは、その中で神様のようにニコニコしていた。その笑いも赤子の様に明るかった。

「じいさん何処かで大きな雪崩の出たのを見たことがあるかい」
「ある」
「雪のかたまりはどんなだった」
「でっかかった」
「氷のように固かったかい」
「それはかたかったさ」
「じいさんは何処かに岩のでかい山はないかね」
「ある」
「この頃はね、靴の裏にくぎをつけたり、爪の様なものをつけて岩だの雪崩のある山を皆んな登りたがっているんだよ」

爺さんは恥ずかしそうに笑い乍ら二人の若者を見返っただけで何とも言わない。

「そいつは馬鹿だ」と突然その一人が言う。

爺さんは困惑そうにし乍それもそうだという顔付きで笑う。(中略)
(後略)

さて、我々が金木戸谷に入ったのは昭和二十九年で「も早戦後ではない」と言われ始めた頃である。北アルプスにも真新しい登山服、靴で時間を競って登る人が増えていた。

登山具も工夫するより買ったものといった風潮。そこで四十年も前に燃え過ぎる焚火すら勿体ないと芯から感じていた、あの爺さんを忍んだのだった。しかしこの時、連れの二人には、この話も現役時代そのままの古典スタイルだった小生の詭弁としか映らなかったに違いない。
  • コメント (1)

新しくコメントをつける
題名
ゲスト名   :
投稿本文
より詳細なコメント入力フォームへ
 
コメント一覧
米山   投稿日時 2009-1-27 21:49
井田清さんのその文覚えがあります。デルス・ウザーラみたいな事を云うと思いました。以前チベットの集落で焚き火をやったら、もったいない、と小さい炎にされてしまいました。あそこは薪が少ない事情もあるのですが、アイヌやゴリト人のように薪が豊富な栃でももったいないと云っていたのですね。

金木戸川に森林軌道があったのですか。僕は打込谷から笠に登りました。
 
 
 
Copyright © 1996-2024 Academic Alpine Club of Hokkaido