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書評・出版・ 2015年6月3日 (水)

【書評】ダーチャと日本の強制収容所 米山悟(1984年入部)
ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。
一家が長い船旅で神戸に着き、札幌へ移動する途上、東京で出征兵士を見送る場面に出くわし、100名ほどの見送りの若者が大騒ぎをして大声で歌い万歳三唱しているのを見て「恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それまで観察した日本人は極端なまでに自制的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた。数カ月まえに南京虐殺の記事をアメリカやイギリスの雑誌で読んだときは、大げさなプロパガンダだと思ったが、ふと、事実だろうと思った。」p51)と日記に書いている。時代に身を置いて得た直感を書いている。この時代の人たちはみな、居なくなってしまったが、親日家のマライーニが直感したむきだしの暴力性は異邦人ならではの客観性があったと思う。

以前にも触れた、スパイ冤罪で逮捕された北大生、宮沢弘幸氏のいきさつもある。開戦初日1941年12月8日には、同じ手口で全国で396名も逮捕されたとある。開戦キャンペーンであり、今も変わらない公安機関の特別取締と同じような官僚の仕事ぶりだ。宮沢氏は、マライーニ家や、同じく逮捕された米国人教師レーン夫妻と親交を深めていて、それだけで特高に目をつけられてしまったのだった。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=699

札幌での留学期間を終えても、戦争で帰国のめどが立たない。京都大学の講師の職を偶然得て、マライーニ一家は京都へ引っ越す。その後日米開戦。1943年9月8日イタリアではムソリーニが失脚し連合軍と単独休戦協定。北部は忽ちドイツ軍に占領され、ムソリーニがドイツに救出され4日後ナチス傀儡のサロー政権が生まれる。日本と同盟を結ぶこの政権への忠誠を、マライーニ夫妻はそれぞれ別々に尋問され二人とも拒否した。拒否したものは強制収容所に送られる。イタリア降伏後、情報がほとんどない中で、在日イタリア人の間で空気は豹変したという。疑心暗鬼になり、大使館はナチ式の敬礼をした。

「1943年の時点で日本が降伏していれば日本人の戦災死者310万人のほとんどは死なずに済んだ」と、今の私は知っている。イタリアはこの時点で降伏しており、以前は少し羨ましく思っていた。しかし現実は、ドイツ占領下のフランスやオーストリアと隣接していたために、あっという間にナチスに侵攻され、その後のイタリアはファシストとパルチザンが国を二分する内戦になっていたのだった。こちらも過酷だ。だが、そこが無謀な戦いをズルズル続けて、国としての主権も含めて何もかも失った(今もまだない)日本と決定的に違う。戦後70年辿った敗戦後史の行方も含めて。

マライーニ一家と60名ほどの宣誓拒否者の強制収容所は愛知県天白村の松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収して改造した施設だった。約2年間。今なら2年とわかるがその時は何年続くかわからない、特高警察監視の厳しい収容所で、食糧が減らされ、マライーニ一家は幼い娘姉妹3人ともども飢えに飢えた。特高は差し入れのパンを渡さず、地面に埋め人糞をかけておいた、それを掘り出して食べたという。子供も含めた収容者に対する念入りないじめが詳しく書かれている。そこまで居丈高な特高が敗戦の日を境に卑屈な態度に豹変したことも。

日本を愛するあまり、戦後の著書でのF.マライーニの記述は、「収容所時代を「」で括って書いている」という。父、フォスコばかりではなくその後作家になったダーチャでさえ、日本での収容所体験を、まだ書けていないという。

ダーチャ・マライーニは20以上の小説はじめ詩篇などを書き、現在イタリアでもっとも多くの外国語にその著作を訳され、度々ノーベル賞候補に挙がる作家だ。ダーチャの作品のテーマ、「牢獄からの解放」は日本での7歳から9歳を過ごした強制収容所時代の体験の影響が強いことは間違いない。ダーチャは、記憶を容易に文章にできず、ずっと先送りにし続けているが、いつか必ず文章にすると書いていた。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601188
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