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書評・出版・ 2016年3月18日 (金)

【読書感想】山あり愛あり 佐川光晴2013 米山悟(1984年入部)

少し前、山岳部OBのMLで紹介されていた佐川さんの小説に、北大山岳部員のその後を書いた話があると聞いて、このたび読みました。2013年出版の小説で、読むの遅かったです。先月文庫化されたそうです。
北大山岳部で山を登ってヒマラヤにも登った主人公がバブル末期に都市銀行に就職して山をやめ、バブルの不良債権をひたすら片づける仕事を務めたあと、40代半ばで仕事を辞め・・・という話で、全く登山小説ではないのだけれど、同時代の作家が、同時代を生きたおそらくたくさんの惠迪寮生たちの人生で構成したフィクション・・かもしれません。銀行に行った連中は、多分、こんな風に90年代以降を送ったのだろうか。


佐川さんは、惠迪寮で私と同じ部屋で一緒に住んでいました。一年先輩で、大変濃厚な寮生活を共にしました。文章の端々に、寮生活の際に交わした部屋ノート(交換日記)や、とりとめのない部屋での対話を思い起こしました。更には寮生集会(寮生による討論会)、大学当局との交渉の場などで、中心となって寮生の意見を述べ挙げる頼もしい佐川さんの姿を思い出しました。
この小説の主人公は誰だろう?というような話もMLではありましたが当時の山岳部で大手都市銀に就職した人はいないし、モデルの人物はそもそも居ないと思います。ただ、主人公が松本の出身であることや、卒業間際に大切な山仲間が遭難死したのを機に登山家ではなく就職を決めた話など、なんだか思い当たる部分も少々ありました。

先日読んだ村上春樹の「職業としての小説家」という本で、作家は誰か特定のモデルをすっかり描いて小説を書くわけではない。ただ、日常の中で出会う人で、何かちょっと心に引っかかるしぐさや癖を、善悪を問わず、そのまま心の引き出しにしまっておいて、そのストックが多ければ多いほど、小説の中の小さな話があふれるように出てくる、というような事を書いていました。佐川さんの創作のごく一部に、何か引き出しの中にそっとしまわれた一部に私や、同時期を過ごした個性豊かな寮生たちの記憶があるのなら、とてもうれしいことだと思いました。

登山シーンは、ヤマ場の夢の中で意外にもたっぷり現れます。松本のふるさとの山、常念岳にも登る、それに1943年の冬季初登にまつわるペテガリ岳も出てきます。確かに現役部員にとって、冬季ペテガリ初登ルートは憧れの計画です。1982年冬季ダウラギリも、それに道岳連のガンケルプンズム遠征まで出てきます。よく調べていますよ。

この小説の肝は山登りでも不良債権処理でもありません。今もっとも進行中の大問題と新しい流れ、貧困母子家庭のための低金利銀行NPOの話、ノーベル賞受賞したバングラディッシュのグラミン銀行の話です。小説では、今の日本で、女と対等な関係を築くことができなかった男たちによって助け無しのどん底に落とされた女がいかに多いか、という社会問題と、それを解決できるかもしれない方法を訴えます。このあたりが佐川さんらしいところかもしれません。
しかし不寛容なフェミニストだった女性活動家の「家族帝国主義者!」のセリフには、佐川さんをおもいだして思わず大笑いしました。

当時の惠迪寮は反帝反スタ、というかノンセクトラジカル(無党派過激派)というか。学生自治運動封じ込め路線の文部省に忠実な北大当局が、新寮建て替えを契機に完全管理をもくろんでいて、これまで連綿と続いて来た寮の自治権を奪おうとしていた時期でした。旧寮時代には10人ぐらいの大部屋で、プライバシーは無くとも寝ても覚めても他者と付き合う生活を通し、他では得難い人格形成を培う部屋だったものが、この年の建て替えで一方的に完全個室になり関係を分断されました。考えた自治会側は分断統治を図る大学事務員を追い出して寮を占拠し、壁をぶちぬいて個室を減らして対抗しました。一時的に公権力の及ばないアジ―ルを作り出したのです。新入寮生は当局ではなくそれまでどおり学生自治会で選ぶとして、寮生による入寮銓衡委員会が、自主入銓を貫徹しました。その時の新入学生で強行入寮したのが私の代30人ほどで、熱烈歓迎されました。銓衡委員会にたしか、2年目の佐川さんがいました。委員長だったかもしれません。や、それはヤマジさんか。そのすぐあと、佐川さんは寮長を務めました。人と話す時、爛々と輝く目をいつもまっすぐ見据えて話す人でした。入寮希望者の面接で、学ラン正装した銓衡委員がズラリ並ぶ前で向かい合い、「米山君は山登りが好きとのことだが、寮の裏の空き地に雪山があるので、登ってきて感想を述べてくれたまえ」という課題を与えられました。私はその足で5mほどの除雪の山を登り、真っ白な雪の中を懸命に這っていた小さな虫を見つけ、その虫を救おうかと思ったけれどそれをやめた話をしたのを覚えています。
アジールですから怪しい人たちも出入りして、また活気がありました。大学事務員や警察が突入してこないようバリケードを作ってアングラ劇団のブルーシート小屋を寮の裏に建てて公演をしたこともありました。こうした抵抗運動と共に、太鼓を打っての寮歌放吟、赤フンのストーム乱入など数々の歴史的文化資産はたゆまず継承し、充実の寮生活でした。惠迪寮には、それまでの少年期を脱皮して「自由を手にして、遠くに行きたいんだ!」と津軽海峡を越えた若い男たちであふれ返っていました。
共用棟で寮生集会をやっている脇を、山に出かける私は大きいザックとスキーを担いで通ったこともあります。集会でなくて山に行ってすまんなあ、と思いながらもやっぱり山の方がいいや、と思っていました。佐川さんの脇を、楽しそうに山に出かけて帰って来る私の姿を、どこかで覚えていてくれて、銀行職場で浮きまくりのどこか世間離れした元山男像を描いてくれたのかもしれません。
「牛を屠る」「ジャムの空壜」で、佐川さんのその後の90年代は読んでいました。確かな屠場での技術と暮らしを時間をかけて身につけ、溢れ出づるものがあって、小説家になったんだと思いました。次は「おれのおばさん」読んでみよう。
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