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26.未知のカラコルム ションバーグ 志摩碌郎訳 1942 生活社
原題:Unknown Karakorum/1936/R.C.F. Schornberg


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左:表紙 右:扉
左:表紙 右:扉
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ムラングッティ氷河(Malangutti Gl.)中央部よりダストギル(Distaghil Sar,7885m)を望む
ムラングッティ氷河(Malangutti Gl.)中央部よりダストギル(Distaghil Sar,7885m)を望む

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南オプラン川上流のタジク人
南オプラン川上流のタジク人
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オプラン峠を望む
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ラスカムにあるフンザのミールの役所
ラスカムにあるフンザのミールの役所

レジナルド・チャールズ・フランシス・ションバーグ(1880-1958) 英軍人、探検家、神父
 イギリスに生れ、オックスフォードのニュー・カレッジで教育を受け、21歳で学業を終えたのち、直ちに高地連隊に所属し、以後の凡そ40年間のほとんどをインド辺境で過ごし、軍務の余暇を利用して中央アジア(トルキスタン)を手始めとして探検の世界に身を投じた。
 1927-31年、4度にわたって天山山脈周辺の旅を行なった。1929年にはウルムチでS.ヘディンの西北科学考査団(参照:28「ゴビ砂漠横断記」S.ヘディン)に会っている。
 1933年には探検のフィールドをカラコラムやヒンズークシュに移し、バツーラ山塊南部・西部を探り、チトラルに入った。
 1934年、2度にわたって北部カラコラムに向かい、その当時には明確にされていなかったヤルカンド河流域のシャクスガム渓谷を探り、ほとんど未知の地であったブラルド川やラスカム川(上ヤルカンド川)を探った(本書)。   1935年にはチトラルとカフィリスタンに広い足跡を残したが、この活動期間は半年に及んだ。
 1945年、65歳の時、1934年以来の宿願であったシャクスガム河(ブラルド河合流点からサルボラゴ氷河まで)の遡行を実現、さらに長躯してカラコルムの三大氷河(ヒスパー、ビアホ、シアチェン)を一挙に全部トレースした。
 ションバーグは多くの場合、単独で必要最小限の現地民を引き連れただけで、身軽な行動をとった。その点では組織化された近代的な登山隊、探検隊の多くと異なり、少人数で地図の空白部を埋めようとした19世紀の探検家達の衣鉢を継ぐものといってよい。ヒマラヤのロングスタッフ(英軍人18756-1964)、ティルマン(英探検家1898-1977)、シプトン(英登山家1907-1977)たちと同類である。
 第一次大戦中はインド、エジプトで従軍し、2度にわたり戦傷を負い、殊勲賞を受けた。第二次大戦前に大佐で退役し、仏領インドシナ、ペルシャで領事を務めた。
 こののち故郷に帰り、神学校で4年間学んだのち、正式にローマンカトリックの聖職者となり、オックスフォードのセント・ヨセフ療養院の専属神父として過ごした。1958年、78歳で死去。


内容
 1927年から4回続いた天山山脈南麓への旅を終えて、ションバーグは目標をカラコルム、ヒンズークシュ山系北側の未踏査の地域へと移し,1933年にはバツーラ山群南西の氷河を探り、さらに西に回り、ヤシンの谷へ入り、いくつかの高い峠を越えてチトラルへ入った。
 本書はその翌年の1934年、その当時明確にされていなかったカラコルム北面、特にシャクスガム渓谷探査行の記録である。ションバーグ以前のシャクスガム渓谷への探検行は、1887年のヤングハズバンド、1925年のフィッサー夫妻、1926年のメイスンにより行なわれたが、いずれも一部の地域に限られていた。

 ションバーグはこの紀行について「序」で次のように述べている。
 「本書は1934年、この山脈(注:カラコラム山脈)のより遠い、より近づき難い部分に対して行なわれた2つの旅行に関するものである。カラコラムの中、さして人に訪問されず、また皮相的な探検しか行なわれていないその北側で、個々の川は遠く中央アジアの沙漠に流れ入り、そこで荒れ果てた無慈悲な砂に飲まれてしまう。」
 「ここにおける困苦は言語に絶する。谷は深く、狭く、しばしば懸崖が続く。したがって夏は渡渉もできず、といって架橋もできぬ川があるために、冬には酷寒、複雑な(注:入手困難なの意?)食料と燃料、その他、たとえ不可能でないにしろ、ある程度効果のないものにしてしまう障害のために、前進は不可能である。」
 「この書に説く旅行はヤルカンド川の源流たるラスカム、オプラン、ムスターグ(シャクスガム)三河の地方に対してなされたもので、その中、ムスターグ河地域を主としている。」

 5月下旬、カラコラムの西の入口ギルギットを出発、ムルフーン谷からカールーン峠(4873m)へ登り、南の急斜面をシムシャール川へ下った。それを東へ溯り、シムシャール峠(注:Shimshal Pass,4735m、当時の英領インドと中央アジアの分水界))を越えて東側のブラルド川へ下った。
 「我々はすでに一つの大きな峠を越えて、次の峠(注:シムシャール峠)へ着実に上へ上へと這い上った。はじめは緩やかだったが、やがて険しくなった。その償いといってよいのか、頂上に立ったときの眺望はすばらしかった。まことに霧は大ピークの奥に憩い、雪はその断崖を暗くしていた。それでも景色は壮麗なものだった。シングシャール渓谷の下のほうの山々はすべて我々の前に展開し、あるいは空色の霞は雪の斜面をまだらに染めていた。我々の足下にはヤズギル氷河があり、その無数の水晶のような面は太陽にきらきら輝いていた。」

 最初の計画ではシャクスガム河(注:添付図のSHAKUSGAM or MUSTAGAH R.)を遡行し、サルポ・ラッゴ氷河に出る予定であったが、フンザのミール(注:フンザの首長)の背信による食料の補給の失敗と河川の増水のために渡河ができず、計画を変更して未知のオプラン川(シャクスガム河支流)を遡行、北のフンジェラーブ峠(Ghujerab Pass,5396m)を越えて、西のフンジェラーブ谷へ下り、フンザ渓谷へ戻った。
 「ここに到着して(注:シャクスガム河)、これからどうするか決めなければならなくなったが、これは容易なことではなかった。私の最初の計画は、ここより右折し、ムスターグ河(シャクスガム河)を溯り、遠くサルボ・ラッゴ氷河すなわちヤングハズバンドのいわゆるすゲット・ジャンガルに至ることとなっていた。 この河を目前に見て私は直ちに、東及び西にある遠い、しかも大部分知られていない地方を通って私の旅行を完成したいというのなら、計画を根本的に変えなければならないことを知った。」

 フンザの谷でしばらく休養したのち、8月5日、再びシャクスガム渓谷を目指してギルチャを出発、今度はクージェラーブ渓谷に新しいコースをとり、前回のシムシャール川へ出て、東のラスカム川を探った。ラスカム渓谷の特徴は、放棄された住居跡であった。
 「すぐ向いの対岸では、2,3のキルギス夫人が大麦に群がる鳥を嚇かして追い払っていた。それより道は旧オイ・ブルンの多くの廃墟の中を過ぎ、我々の前方の低い支脈の中にバジュ・アンディジャン(10750ft、3300m)、すなわちラスカム渓谷の前首都が見えた。この地は河の左岸に位し、流れは平坦な野原の外側に半月形をなして流れている。苦力はうれしそうに叫び声を上げ、4人のシングシャール人は我々に挨拶しにやってきた。彼らは故郷を六ヶ月間も離れていたので、若干の新顔を見るのが嬉しかったのに相違ない。毎春、この4人は、川の水量の増さないうちに故郷を離れ、フンザのミールの作物の世話のために、ここに来るのである。彼らは、秋になって帰京するまで、音信不通となるのだ。」

 帰途はシムシャール峠を越えて、フンザへのコースを辿った。彼にとって2度目のシャクスガム渓谷への旅は終った。もう冬が近づいていた。

 本書は二部全16章で構成されていて、第十四章から十六章は考察となっている。第十四章「ムスターグ渓谷における昔のルート」は、往古のインド〜中央アジア間の隊商路について、この探検から得た成果を元に考察している。第十五章「往昔における寇略」は、探検の途中で発見した隊商を守るための原始的な要塞から、フンザ人による隊商襲撃についての興味ある報告を行なっている。第十六章「若干の地理学的、言語学的考察」は、当時カラコルム地域を目指そうとした者達にとっては付録の地図と共に重要な資料になったと思われる。

山岳館所有の関連蔵書
  • Unknown Karakorum/R.C.F.Shomberg/1936
  • わが山の生涯/T.ロングスタッフ/望月達夫訳/白水社/1957
  • 地図の空白部(ヒマラヤ名著全集10)/エリック・シプトン/諏訪多栄三訳/あかね書房/1967
  • 未踏の山河−シプトン自叙伝/エリック・シプトン/大賀二郎訳/茗渓堂/1972
  • 異教徒と氷河チトラル紀行(ヒマラヤ人と辺境4)/R.C.F.ションバーグ/雁部貞夫訳/白水社/1976
  • プマリ・チッシュ登頂/北海道山岳連盟/1980
  • カラコラム登山報告書 SHUMARI KUNYANG CHHISH/北大山岳部・山の会/1981
  • オクサスとインダスの間に/ R.C.F.ションバーグ/広島三郎訳/理創社/1985
 
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