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1.日本風景論 志賀重昂(しがしげたか)/1894年/政教社/221頁


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日本風景論の表紙 傷みが激しい 山岳館で最も古い和書
日本風景論の表紙 傷みが激しい
山岳館で最も古い和書
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日本風景論の第1ページ 右の絵は木曽寝覚ノ床
日本風景論の第1ページ 右の絵は木曽寝覚ノ床
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復刻版表紙(図は木曽駒ヶ岳) 日本山岳会1975年
復刻版表紙(図は木曽駒ヶ岳) 日本山岳会1975年


志賀重昂(1863-1927)、号矧川、地理学者、評論家、政治家
 三河国岡崎康生町(現愛知県岡崎市)に岡崎藩士で学者の志賀重職の長男として生まれる。1874(明治4)年、東京芝の攻玉社に学び、明治11年、東京大学予備門に入学するも退学。明治13年、札幌農学校の五期生として入学、明治17年、卒業する。
 卒業後、長野中学校(現長野高校)に博物科教師として就職するも、酒席で県令と喧嘩して懲戒免職となる。翌1985(明治18)年、英国が朝鮮の巨文島を占領したというニュースに接し、海軍の練習艦「筑波」に便乗して対馬周辺を視察、軍事的献策をした。明治19年、再び「筑波」に便乗し南太平洋諸国を歴訪、その体験を踏まえて南洋への進出を唱え、「南洋時事」を出版した。
 1888(明治21)年、三宅雪嶺、杉浦重剛らと政教社を興し、雑誌「日本人」を発行し(のち「日本及び日本人」)、主筆として政府の表面的な近代化に反対し、国粋保存主義を唱えた。
 明治29年、進歩党に入党、明治30年、松方内閣(いわゆる松隈内閣)で農商務省山林局長に、大隈内閣では外務省参事官を務めた。明治35年に衆議院議員となるが、37年の総選挙で落選、政党政治から離れた。
 以後、一介の学者、旅行者として自己の使命のために生涯を捧げた。「日本風景論」は日清戦争に世を挙げて熱中しているさなかに刊行され、国民に熱狂的に迎えられ、9年間で15版を重ねるベストセラーとなった。重昂は3度にわたって世界各地を巡り、「世界山水図説」(1911年刊)、「知られざる世界」(1926年刊)を著した。明治44年早稲田大学教授となる。1927年逝去、享年64歳 日本山岳会名誉会員、英国王立地学協会名誉会員

内容
 本書が出版以来熱狂的に迎えられて15版を重ねた理由は、わが国土の景観と景観美に文学的な表現と新しい地理学的性格を与えることによって、これまでの大和的、盆景的な景観意識に対して、日本人の景観意識に重要な変革を与えた革命的な意義を持っていたからに外ならない。(資料1解説 土方定一)
 日本の山川を精力的に歩き回り、地理学上の見地から本書を書き上げた。日本の風景美を作りあげた理由として重昂は緒論で、
(一)日本には気候、海流の多変多様なること
(二)日本には水蒸気の多量なること
(三)日本には火山岩が多量なること
(四)日本には流水侵食激変なること
を挙げ、以下各章に分けて詳述している。
 日本には火山岩の多量なることの一章では、日本の火山を各地域に分けて山脈別に詳しく説明、各火山の位置、標高、登山経路を記し、一種の登山案内となっている。重昂の地理学者としての面目躍如である。北海道内では恵庭岳、ヌタクカムシュペ(大雪山)、マッカリヌプリ(羊蹄山)など19山について記述している。
 恵庭嶽 胆振国支笏湖の北に峭然兀立す 札幌より南に臨む。海抜凡三千八百尺、峭然たる火口あり、山頂に鋭尖なる岩塊あり、札幌農学校寄宿舎南室の玻璃窓に映発するもの實に此嶽、想ひ起す、十年前此の嶽色の几前に落ちたることを、知らず嶽色恙なきや否や
 しかしながら重昂は札幌農学校に学び、道内の山野をくまなく踏査したはずなのに、肝心なヌタクカムシュペでは石狩岳ただ一つ、「石狩川の源、海抜七千尺」と簡単に記しただけで、大雪十勝にまたがる十数座の二千メートル峰には一言も触れていない。

Highslide JS  「この『日本風景論』のもつ日本人の景観意識の革命は、小島烏水が『日本風景論が出てから、従来の近江八景式や、日本三景式の如き、古典的風景美は一蹴された感がある』と述べているように、この書のまず最初に挙げるべき功績であるに違いない。次に、この書の出現以来、日本近代登山史が始まっている。日本登山界の第一の先覚者、小島烏水はこの書によって槍ケ岳の登攀を志し、後代ジュニアたちから日本の山の父とまで呼ばれた木暮理太郎は、志賀の説く花崗岩に魅入られて木曽駒ヶ岳に登ったといわれる。」(資料1解説 土方定一)
 日本山岳会は英国人の宣教師W.ウェストンと重昂の示唆により,1905 (明治38) 年に設立された(所蔵図書7)。重昂は1906(明治39)年、同会入会、その年に発行された高頭式「日本山嶽志」(当ガイドブック4.参照)に“日本アルプスに登るべし”と推薦文を寄せている。

 「四付録、登山の気風を與作すべし」では「山は自然界の最も興味ある者、最も剛健なる者、最も神聖なる者。登山の気風輿作せざるべからず、大いに輿作せざるべからず」と声を大にし、さらに活字を一段と大きくして、「学校教員たる者、学生生徒の間に登山の気風を大いに輿作することに力めざるべからず。その学生生徒に作品の品題を課する多く登山の記事を持ってせんことを要す」と登山思想の鼓吹を学校教員に訴えた。また、この章は登山技術の解説書であり、テキストブックとなっており、当時としては貴重なものであったと推察される。

Highslide JS  「札幌在学中、道内に足跡を印さなかった土地はなかったというくらい、人跡未踏の僻地を探検し、つねにアイヌ人を案内者として深山幽谷を跋渉したと伝えられたのは、最近三田博雄氏の書かれたものによると(所蔵図書6)、全くの誇張であったという。事実、彼の経歴から見れば、探検家でも登山家でもなかったことは明らかで、彼の体験と実地調査によってこの本が書かれていると考えると、とんだ見当違いである。近代登山術を紹介したところなどについても、三田氏は外国の参考書をいくつか想定しておられ、その気になれば、そのくらいの知識はわけもなく得られるはずだといわれる。それどころか、重昂の独自の発想に基づくと思われた彼の風景論も、その原型をジョン・バラックの『自然美と我々の棲む世界の驚異』に求められるという。三田氏の説が認められると、ますます重昂のオリジナリティは希薄となるが、このような知識を紹介し、新しい機運を呼び起こした先覚者・啓蒙家としての地位は少しも動揺するものではなかろう。地理学者山崎直方は、重昂の地理学を厳格に言えば科学的でなかったと批判するけれども、彼の偉大な功績は、実に地理学の民衆化であり、国民化であったと評価しているのである。」(所蔵図書5.解題 皆川冠一)

(註1)国粋保存主義
  1. 血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の優秀性と永久性を強調する国体論
参考文献
  1. 日本風景論 志賀重昂/1975/復刻日本の山岳名著/大修館書店
  2. 知られざる国々 志賀重昂/1943/日本評論社
  3. 志賀重昂全集1巻〜8巻/1928/志賀富士男/志賀重昂全集刊行会
  4. 日本山嶽誌/高頭式/1906/博文館
  5. 覆刻日本の山岳名著 解題/日本山岳会/大修館書店/1975
  6. 山の思想史/三田博雄/岩波新書/1973
  7. 山岳/日本山岳会/第六年第二号
 
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