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明治・大正期(〜1925)


明治・大正期(〜1925)について

日本風景論/志賀重昂/1894
Review/meiji/nihon.html 日本風景論/志賀重昂/1894 1.日本風景論 志賀重昂(しがしげたか)/1894年/政教社/221頁 日本風景論の表紙 傷みが激しい 山岳館で最も古い和書 日本風景論の表紙 傷みが激しい 山岳館で最も古い和書 日本風景論の第1ページ 右の絵は木曽寝覚ノ床 日本風景論の第1ページ 右の絵は木曽寝覚ノ床 復刻版表紙(図は木曽駒ヶ岳) 日本山岳会1975年 復刻版表紙(図は木曽駒ヶ岳) 日本山岳会1975年 志賀重昂(1863-1927)、号矧川、地理学者、評論家、政治家  三河国岡崎康生町(現愛知県岡崎市)に岡崎藩士で学者の志賀重職の長男として生まれる。1874(明治4)年、東京芝の攻玉社に学び、明治11年、東京大学予備門に入学するも退学。明治13年、札幌農学校の五期生として入学、明治17年、卒業する。  卒業後、長野中学校(現長野高校)に博物科教師として就職するも、酒席で県令と喧嘩して懲戒免職となる。翌1985(明治18)年、英国が朝鮮の巨文島を占領したというニュースに接し、海軍の練習艦「筑波」に便乗して対馬周辺を視察、軍事的献策をした。明治19年、再び「筑波」に便乗し南太平洋諸国を歴訪、その体験を踏まえて南洋への進出を唱え、「南洋時事」を出版した。  1888(明治21)年、三宅雪嶺、杉浦重剛らと政教社を興し、雑誌「日本人」を発行し(のち「日本及び日本人」)、主筆として政府の表面的な近代化に反対し、国粋保存主義を唱えた。  明治29年、進歩党に入党、明治30年、松方内閣(いわゆる松隈内閣)で農商務省山林局長に、大隈内閣では外務省参事官を務めた。明治35年に衆議院議員となるが、37年の総選挙で落選、政党政治から離れた。  以後、一介の学者、旅行者として自己の使命のために生涯を捧げた。「日本風景論」は日清戦争に世を挙げて熱中しているさなかに刊行され、国民に熱狂的に迎えられ、9年間で15版を重ねるベストセラーとなった。重昂は3度にわたって世界各地を巡り、「世界山水図説」(1911年刊)、「知られざる世界」(1926年刊)を著した。明治44年早稲田大学教授となる。1927年逝去、享年64歳 日本山岳会名誉会員、英国王立地学協会名誉会員 内容  本書が出版以来熱狂的に迎えられて15版を重ねた理由は、わが国土の景観と景観美に文学的な表現と新しい地理学的性格を与えることによって、これまでの大和的、盆景的な景観意識に対して、日本人の景観意識に重要な変革を与えた革命的な意義を持っていたからに外ならない。(資料1解説 土方定一)  日本の山川を精力的に歩き回り、地理学上の見地から本書を書き上げた。日本の風景美を作りあげた理由として重昂は緒論で、 (一)日本には気候、海流の多変多様なること (二)日本には水蒸気の多量なること (三)日本には火山岩が多量なること (四)日本には流水侵食激変なること を挙げ、以下各章に分けて詳述している。  日本には火山岩の多量なることの一章では、日本の火山を各地域に分けて山脈別に詳しく説明、各火山の位置、標高、登山経路を記し、一種の登山案内となっている。重昂の地理学者としての面目躍如である。北海道内では恵庭岳、ヌタクカムシュペ(大雪山)、マッカリヌプリ(羊蹄山)など19山について記述している。  恵庭嶽 胆振国支笏湖の北に峭然兀立す 札幌より南に臨む。海抜凡三千八百尺、峭然たる火口あり、山頂に鋭尖なる岩塊あり、札幌農学校寄宿舎南室の玻璃窓に映発するもの實に此嶽、想ひ起す、十年前此の嶽色の几前に落ちたることを、知らず嶽色恙なきや否や  しかしながら重昂は札幌農学校に学び、道内の山野をくまなく踏査したはずなのに、肝心なヌタクカムシュペでは石狩岳ただ一つ、「石狩川の源、海抜七千尺」と簡単に記しただけで、大雪十勝にまたがる十数座の二千メートル峰には一言も触れていない。  「この『日本風景論』のもつ日本人の景観意識の革命は、小島烏水が『日本風景論が出てから、従来の近江八景式や、日本三景式の如き、古典的風景美は一蹴された感がある』と述べているように、この書のまず最初に挙げるべき功績であるに違いない。次に、この書の出現以来、日本近代登山史が始まっている。日本登山界の第一の先覚者、小島烏水はこの書によって槍ケ岳の登攀を志し、後代ジュニアたちから日本の山の父とまで呼ばれた木暮理太郎は、志賀の説く花崗岩に魅入られて木曽駒ヶ岳に登ったといわれる。」(資料1解説 土方定一)  日本山岳会は英国人の宣教師W.ウェストンと重昂の示唆により,1905 (明治38) 年に設立された(所蔵図書7)。重昂は1906(明治39)年、同会入会、その年に発行された高頭式「日本山嶽志」(当ガイドブック4.参照)に“日本アルプスに登るべし”と推薦文を寄せている。  「四付録、登山の気風を與作すべし」では「山は自然界の最も興味ある者、最も剛健なる者、最も神聖なる者。登山の気風輿作せざるべからず、大いに輿作せざるべからず」と声を大にし、さらに活字を一段と大きくして、「学校教員たる者、学生生徒の間に登山の気風を大いに輿作することに力めざるべからず。その学生生徒に作品の品題を課する多く登山の記事を持ってせんことを要す」と登山思想の鼓吹を学校教員に訴えた。また、この章は登山技術の解説書であり、テキストブックとなっており、当時としては貴重なものであったと推察される。  「札幌在学中、道内に足跡を印さなかった土地はなかったというくらい、人跡未踏の僻地を探検し、つねにアイヌ人を案内者として深山幽谷を跋渉したと伝えられたのは、最近三田博雄氏の書かれたものによると(所蔵図書6)、全くの誇張であったという。事実、彼の経歴から見れば、探検家でも登山家でもなかったことは明らかで、彼の体験と実地調査によってこの本が書かれていると考えると、とんだ見当違いである。近代登山術を紹介したところなどについても、三田氏は外国の参考書をいくつか想定しておられ、その気になれば、そのくらいの知識はわけもなく得られるはずだといわれる。それどころか、重昂の独自の発想に基づくと思われた彼の風景論も、その原型をジョン・バラックの『自然美と我々の棲む世界の驚異』に求められるという。三田氏の説が認められると、ますます重昂のオリジナリティは希薄となるが、このような知識を紹介し、新しい機運を呼び起こした先覚者・啓蒙家としての地位は少しも動揺するものではなかろう。地理学者山崎直方は、重昂の地理学を厳格に言えば科学的でなかったと批判するけれども、彼の偉大な功績は、実に地理学の民衆化であり、国民化であったと評価しているのである。」(所蔵図書5.解題 皆川冠一) (註1)国粋保存主義 血統的に一系の天皇をいただく日本の国家体制の優秀性と永久性を強調する国体論 参考文献 日本風景論 志賀重昂/1975/復刻日本の山岳名著/大修館書店 知られざる国々 志賀重昂/1943/日本評論社 志賀重昂全集1巻〜8巻/1928/志賀富士男/志賀重昂全集刊行会 日本山嶽誌/高頭式/1906/博文館 覆刻日本の山岳名著 解題/日本山岳会/大修館書店/1975 山の思想史/三田博雄/岩波新書/1973 山岳/日本山岳会/第六年第二号
八甲田山遭難始末/歩兵第5連隊/1902
Review/meiji/sounan.html 八甲田山遭難始末/歩兵第5連隊/1902 2.遭難始末 歩兵第5連隊編集/1902(明治35)年/歩兵第5連隊発行/270頁 明治35年7月23日発行 明治35年7月23日発行 奥付 奥付 「遭難始末」の折込地形図: 遭難直後に作成した正確な1/1万地形図に遭難部隊の経路、遭難者の位置、捜索部隊の活動状況が示されている 「遭難始末」の折込地形図: 遭難直後に作成した正確な1/1万地形図に遭難部隊の経路、遭難者の位置、捜索部隊の活動状況が示されている 内容  1902(明治35)年1月、日本陸軍第八師団歩兵第五連隊(青森駐屯)が、八甲田山で冬期訓練中に遭難した事件の連隊による正式報告書。本文238頁に付録32頁、図4葉が付されている。  訓練への参加者210名中199名が死亡するという日本山岳史上最大の遭難事件。新田次郎著「八甲田山死の彷徨」(新潮社1971年)、高倉健主演の映画「八甲田山」(1977年、東宝映画)で一般に広く知られるようになった。  日清戦争後、満州の利権をめぐって日露間は険悪の度を加えつつあり、第八師団は仮想敵国を露国として厳寒期に戦闘が行われる場合の準備をしていた。冬期八戸平野に侵入した敵に対し、奥羽街道を東進して迎撃に向かう友軍を援助するために、青森から田代を経て三本木へ進出が可能か、具体的な計画を立てるために雪中行軍が実施された。 目的の項で次のように述べている:  行軍ノ目的ハ雪中青森ヨリ田代ヲ経テ三本木平野ニ進出シ得ルヤ否ヤヲ判断スル為メ田代ニ向テ一泊行軍ヲ行ヒ若シ進出シ得ルトセバ戦時編成歩兵一大隊ヲ以テ青森屯営ヨリ三本木ニ至ル行軍計画並ニ大小行李特別編成案ヲ立ツルニアリ。  夏は三本木まで1日で到達できるが、雪中であるため途中田代、鱒沢の2ヵ所に宿泊の計画で、明治35年1月23日、大隊長山口讃佐、中隊長神成文吉大尉指揮のもとに青森屯営を出発した。小峠に達した午前11時半頃から天候が急変し、風雪強く、寒気が加わり、携帯の食糧は凍結した。午後4時頃、行軍は馬立場に達したが、糧食運搬隊(人力橇)は深雪で難航、さらに吹雪はますます猛烈となり、ために橇を放棄、日没とともになんの幕営装備もないままで露営することとなった。  露営地は粗散セル小樹林ニシテ以テ風雪ヲ遮蔽スルニ足ラズ、(略)----此夜風雪甚ダ強カラザリシモ寒風ハ峻酷ニシテ零下七、八度ヨリ十二、三度ニ下レリ。各小隊ノ雪濠ハ幅約二米突、長五米突五十許ニシテ掩フニ屋蓋ナク、敷クニ藁ナシ。樹枝ハ之ヲ伐採スル事ヲ力メタリト雖モ器具ニ乏シク且ツ積雪深クシテ運動自由ナラズ(略)。----先ニ分配シタル餅ハ氷ッテ石ノ如ク爐火ニ煖メテ僅カニ飢ヲ凌グノ料トナスヲ得タリ  1月24日、行軍開始二日目、夜半を過ぎて風雪ますます激しく、気温は零下20度に及んだ。兵卒に軍歌を歌わせて鼓舞し、睡眠を防ぎ、足踏みをして凍傷を防いだ。この事態を重く見た大隊長山口少佐ら将校は協議の結果、目的は概ね達したとして帰営することに決した。午前2時半、露営地を出発したが吹雪に阻まれて道に迷い、ワンデリングを繰り返して駒込川に迷い込み、鳴沢高地へはい上がろうと力を尽くし消耗した。崖が登れず力尽きて倒れる者が出て、行軍最初の犠牲者となった。前露営地より数百米進んだだけであったが、それ以上の前進が不可能となり、午後5時、凹地を捜して露営することとなった。  正午頃高地上ノ小阜ヲ経遶シ鳴沢凹地ニ出ン事ヲ勉メシモ風雪怒号厳寒益々暴威ヲ加ヘ天地全ク晦瞑トナレリ。(略)-----手足漸ク凍傷ニ罹リ、鬚髯眉モ氷柱ト変シ、顔面多クハ暗紅色ヲ呈シ、睡魔ニ襲ワレタルガ如ク、昏倒シテ路傍ニ斃ルル者続出スルニ至リ、漸ク悲惨ノ景観ヲ呈セリ。  1月25日、行軍開始三日目、神成中隊長が午前3時頃人員を点呼したところ、三分の一は既に倒れ、三分の一は凍傷で運動の自由を失い、三分の一は比較的健全であった。寒気は依然として厳しく、また口にするものなく、飢餓は深刻であった。午前3時頃、馬立場を目指して露営地を出発したがコンパスは凍って用をなさず、ほぼ勘に頼っての行軍で部隊はバラバラの状態となり、凍傷に罹った兵士は次々と脱落していった。午後3時頃、先頭の兵が馬立場に達し、午後5時頃、凹地を見つけて露営した。  此夜風雪寒気昨夜ト異ナラズシテ糧食燃料一モ之ヲ求ムルニ途ナク士卒ノ神身又全ク萎縮シ殆ント常識有セズ従テ食欲ナク又暖ヲ求ムルノ念ナシ唯茫然トシテ睡魔ニ侵サレ昏倒スルモノ幾回ナルヲ知ラス互ニ相戒メテ或ハ叫呼シ或ハ打撃ヲ加ヘ以テ凍死ヲ防キシノミ  1月26日、行軍開始四日目、午前1時頃人員を点呼したところ応える者30名のみであった。兵員は連日の寒気で凍傷に侵され、胸を没する深雪との格闘と飢餓に心身衰弱し、無限の間にあるもののようであった。帰路を求めて駒込川に陥り、渓谷に進路を阻まれる者、辛うじて帰路を見出しながら疲労と空腹と寒さで倒れる者、もはやほとんどの兵は前進が叶わなかった。この日、連隊の救援隊が大峠まで捜索を行なったが、吹雪に阻まれて田茂木野へ撤退した。  1月27日、連隊本部救援隊は大滝平から2、3百米先で雪中に埋まって仮死状態の後藤房之助伍長を発見する。これを最初に2月2日までに山口大隊長(駒込川大滝付近で発見された)を含む17名が救助された(内6名入院中死亡)。遭難した193名の遺体収容が終了したのは5月27日であった。  第五連隊は遭難発生からちょうど6ヵ月後の7月23日に「遭難始末」第1版を発行した。本書は同日付であるが第2版で、第1版との相違は付録の有無である。第2版の付録は急遽つけられたもので、兵がいかに風雪と戦ったか、いかに上官を庇護したか、いかに戦友の屍を背負って退避したかなどの美談集で、軍はこれによってこの遭難事件は人災ではなく、酷寒、烈風、飛雪による天災であったと印象づけようとした。(所蔵図書4)  このような事態の急変時には防寒装備、食料など隊の対応能力を見極め、危険と判断したら撤退するのが軍隊に限らず山岳での常識である。第五連隊は遭難の原因は大隊長山口少佐の非常時対応の失敗にあることを知っていたが、それを隠し、天候の激変に求めたことは「第三章遭難当時における青森付近の気象」の末尾にある「サレバ一月二十四日ニ起レル気象ノ変化ハ這回遭難ノ一大原因タラザルヲ得サルヤ明カナリトス」とあることによって明らかである。軍医の中には「身一つならば兎も角も、二百九人をひきいたる、身は隊長ぞ何所までも、一度定めし其の事は、命を懸けてやるといふ、無謀の事のあるべきか」と指揮官を批判する者もいたが、外へ向かって言うことはできなかった。(所蔵図書4)  大隊長山口少佐は救助から二日後に死亡したが、その死因をめぐって心臓麻痺、自殺、軍部による処分などの意見がある。(資料3/所蔵図書3)  新聞「萬朝報」は社説で「五連隊の責任」と題して、‥係険悪化の兆候にもかかわらず、行軍を強行したこと、地形と天候から難所越えは無理との田茂木野の住民の諌止にもかかわらず、案内人を同行せずに進発したこと、雪穴で天候回復を待つべきなのに、いたずらに彷徨して体力を消耗したこと、ち難を憂慮した地元民が連隊本部に救援隊派遣を進言したにもかかわらず、連隊長が取り合わず、ために死者を増やしたこと、を非難している。さらに「萬朝報」は同月22日に弘前を発し、八甲田山を踏破し、28日に青森に到着した福島大尉率いる弘前31連隊が道案内5名を雇い入れ(田代からは7名)、24日の大風雪では雪穴で待機して無事であったことを挙げ、第五連隊の判断がいかに稚拙であったかを非難している。軍はこれらの非難を考慮して遭難事件取調委員を任命したが、調査結果は報告されなかった。(資料1)  歩兵第五連隊の兵卒は当時宮城、岩手両県から徴兵された人たちであり、青森付近の地理が不案内の上に北国の風雪に対して経験が十分ではなかった。(資料1)加えて防寒装備は貧弱で到底冬山に耐えるものではなかった。第一章行軍の目的計画で服装について次のように命令しているが、冬山に対する配慮が見られない。 一.略装ニシテ一般防寒用外套手套着用藁靴ヲ穿チ上等兵以下略衣袴着用ノコト ニ.下士官以下飯盒、水筒、雑嚢、携帯糒一日分ヲ背嚢ニ容ルルコト 三.一般午食携帯ノコト(飯骨柳ニ容ルコト) 四.小食トシテ丸餅二個携帯ノコト(ソノ他ノ四個宛ハ行李ニテ運搬ス)  第八師団はこの遭難事件から得た知見を寒地での戦争時における凍傷、凍死予防に生かそうとの試みがなされ、日露戦争では凍傷による死者はなかった。(所蔵図書3)しかしながら、1904年1月の激烈を極めた黒溝台会戦で第八師団の戦死者は1555人、負傷者は1693人に及んだ。(資料2) 参考資料 青森市史別冊 歩兵第五連隊八甲田山雪中行軍遭難六十周年記念誌/青森市/1963 秋山好古と秋山眞之―日露戦争を勝利に導いた兄弟/楠木誠一郎/PHP/2009 後藤伍長は立っていたか/川口康英/北方新社/2015 八甲田山死の彷徨/新田次郎/1971/新潮社 八甲田雪中行軍の研究/松木明知/2002/ 八甲田雪中行軍の医学的研究/松木明知/2001/ 雪中行軍山下少佐の最後/松木明知/2004/
西蔵旅行記(上)(下)/河口慧海/1904
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日本山嶽志/高頭式/1906
Review/meiji/takatou.html 日本山嶽志/高頭式/1906 4.日本山嶽志 高頭 式(たかとう しょく)/1906/博文館/1400頁 表紙 表紙 内扉 内扉 編纂者前庭ヨリ南東ヲ望ムノ図(越後三山、左カラ駒ケ岳、中ノ岳、八海山) 編纂者前庭ヨリ南東ヲ望ムノ図(越後三山、左カラ駒ケ岳、中ノ岳、八海山) 高頭式(1877-1958)幼名:式太郎、本命:式、通称:仁兵衛  1877(明治10)年、新潟県三島郡深才村深澤(現長岡市)の豪農、高頭家の長男として生まれる。同郡片貝村の片貝高等小学校で生涯畏敬してやまなかった大平晟先生(1965-1943、日本山岳会名誉会員)に出会い、登山に開眼する。幼年時代病弱だった高頭にとって師大平は自分の生命を甦らせてくれた恩人であった。1896(明治29)年、父の死去にともない19歳で家督を継ぎ、仁兵衛を襲名した。1898(明治31)年、21歳の夏、友人と富士山、同年9月には地元の八海山に登山する。しかし、心配する母から登山禁止令が出され、やむなく登山をやめる。  登山を禁止されて、その不満のはけ口として古今の地理、和歌、詩文集、紀行書を読み、抄録を作成した。それらを基に日本の山岳百科事典とも言える「日本山嶽志」を編纂、1906年(明治9)年に博文館から出版した。  本書発刊の前年に日本山岳会が結成され、高頭はその創立発起人の一人となり、年間千円(1000人分の会費に相当)の寄付を18年間続けるなど会の財政面を強力にバックアップし、その運営を軌道に乗せた。  本書発刊後、再び登山活動に打ち込むようになる。1906(明治39)年、白馬岳、立山、燕岳、槍ヶ岳、1908(明治41)年、北岳、1909(明治42)年、小島烏水らと白峰、明石岳、1916(大正5)年、槍ヶ岳、穂高縦走など、日本アルプスの探検登山の黄金時代に活躍した。日本山岳会「山岳」の発行人を第1号から27号までの28年間を務めた。「日本太陽暦年表」「御国の話」の著作がある。1958(昭和33)年、82歳で逝去。日本山岳会第二代会長、同名誉会員 内容  母親から登山を禁止された高頭が、その不満を癒すために編纂した日本最初の登山百科事典は、大判総クロース、1360頁、地図・写真30枚、木版図表163図という膨大かつ充実した内容で、三千部が印刷され、うち千部は全国の図書館、学校、知友へ寄贈された。編纂のための資料は家蔵本を含めて3万冊、蔵がいっぱいになるほどであったという。  石黒忠悳(子爵、陸軍軍医総監)、三島中洲(漢学者)、建部遯吾(社会学者)、小川琢治(地理、地質学者)、小島烏水(登山家、日本山岳会創立メンバー)による序文だけで⒛頁を費やしている。  内容は索引、登山術、山嶽諸説、日本地質構造概論、本篇(山嶽各記)、山嶽噴火年表、山嶽表の7編から構成されている。付録に山岳会主意書・規則書、日本群島山嶽系統図がある。  “索引”は全国(クナシリ、エトロフから台湾まで)2130座を国別(畿内、山城国など)に分類、さらに称呼別(ア之部など)、字画別(一画、二画など)に配列して読者の便を図っている。  “登山術”の序で編者は次のように言う。 「本邦ニテハ、高山大嶽ニ攀登スルモノ極メテ少ナク、随テ登山術ノ如モ、未ダ深ク之ヲ研究セルモノナシ、故ニ今マ登山ニ関スル知識ノ敷及ヲ図リ、且ツ之ガ研究ノ料ニ資スルトコロアラントシ、先ズ諸書ニ散見セルモノ、二三ヲ採リテ左ニ録ス、請フ大方諸氏、更ニ知ル所アラバ、寄示ヲ惜シムナカランコトヲ」  日本人が未だ登山の知識、経験に乏しいことを認め、人々にその向上、充実への協力を求めている。  小島烏水は“登山に就きて“で「日本は山嶽国といへど、日本国民ほど山嶽の知識に欠乏したるはなかるべし」と慨嘆している。そして先年(1902年)、槍ヶ岳に登った折、猟師からウォルター・ウェストンが穂高周辺を広く歩き回ったという話を聞き、ウェストンの自宅を訪問、彼からヨーロッパにおけるAlpine Clubの活動、機関誌の発行、山小屋の建設など多くの知見を得た。その中でウェストン夫人が登山に同行すると聞き、その健気なる振る舞いに舌を巻き、日本女子もそうあるべきで、そのために日本男子は意識改革をすべきと説く。  烏水は自分の経験と研究から登山の時季、服装、携帯品、天幕、山中の仮屋、飲料水、食料、天候、山頂での注意について詳しく解説し、例えば服装について、 「背廣の洋服に半窄袴(半ズボン)、股引(普通所謂『ズボン下』は尻にあたるところに破れ目なきために、或場合に不便を感ず、和洋服に拘はらず、股引を可とす)ならば登山に最も軽捷なり、且つ洋服は成るべくを多くして品質は不透熱のものを可とす」と具体的である。  “山嶽諸説”と“日本地質構造概論(地質学雑誌から要約転載)”は、下記の30代〜40代前半の当時の第一線で活躍していた錚々たる自然科学者たちの論文集である。 矢津昌永(地理学)、神保小虎(地質鉱物学)、志賀重昂(地理学)、山崎直方(地理・地形学)、野中到(気象学)、石川成章(地質学)、坪井五郎(自然人類学)、佐藤伝蔵(地質学)、原田豊吉(地質学)、小川琢治(地質・地理学)  本書の主体をなす“山嶽各記”は各山の別称、所在、登路、標高(別表)、山容、風俗風習など、入手可能なあらゆる情報を盛り込み、またあるものは文章詩歌、俳句を添えている。収録2130座の先頭をなすのは“北日本−北海道−蝦夷山系−天塩山塊”の“辨花片山(ベンケナヤマ)”で、次のような解説が付されている。 「此山所在詳ナラズ、式(注:高頭のこと)案スルニ、天塩国中川郡北見国枝幸郡ニ跨レル山(土名ベンケナイヌプリ)ニアラザルカ、登路一里」  この情報の出典は「日本地誌提要」(元正院地誌課、明治5‐10年編纂)であることが“山嶽表”に明記されていて、標高700m、地質は斑糲岩としている。所在地は高頭の推察どおり枝幸町と中川町境界の現ペンケ山(716m)であろう。当時は上瀧山ないしはペンケナイヌプリと呼ばれていたのであろう。登路一里はどこからの距離か不明である。上瀧山の名称は現在の地形図には見当たらない。蝦夷山系とは現在は使われない名称であるが、北海道中央部を南北に走る北見・石狩・夕張の各山地と日高山脈を指している。  “山岳噴火年表”は各天皇期に発生した噴火を膨大な資料から拾い出し、まとめたものである。例えば天武天皇(第四十代)十四年には「三月、信濃国浅間山噴火、灰ヲ雨ラシ、草木皆枯ル」とある。この年表に収録された天武天皇から明治天皇まで1200年余りの噴火回数は296回としている。  “山嶽表”は収録した全山岳の標高、出典、地質を一覧表にまとめている。  最後に編集者からとして、本書が新設の「山岳会」の機関誌「山岳」より以前に出版されることを考慮して、本来「山岳」に付されるべき「山岳会設立趣意書・規則書」を付録とすると述べている。本書は日本山岳会にとって特別な文献であり、2005年には創立百周年記念事業の一環として内容を刷新した「新日本山岳誌」(所蔵図書3)が刊行された。これには3200座の情報が収められている。 参考文献 日本風景論 志賀重昂/政教社/1894 日本山水論 小島烏水/博文館/1907 新日本山岳誌 日本山岳会/ナカニシヤ出版/2005 日本山岳会百年史 日本山岳会/茗溪堂/2007
日本山水論/小島烏水/1907
Review/meiji/sansui.html 日本山水論/小島烏水/1907 4.日本山水論 小島烏水(こじまうすい)/1907第三版/博文館/ 357頁 扉 扉 表紙 表紙 小島烏水(1873-1948)、本名久太、銀行家、登山家、文筆家、浮世絵研究家  高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業後、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。  明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発さえて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下っている。翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストン師と偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となる。  「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。  浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳 内容  初版は明治38(1905)年、烏水32歳の出版、文章は文語体の美文調で書かれている。この時点では烏水は言文一致体にまだなじんでいなかったためと思われるが、難解な語句を用いた文語体を読みこなすのはなかなか骨である。  本書以前に4冊の単行本の出版、文芸批評、社会評論、エッセイ、山岳紀行、啓蒙的な山岳論の寄稿など、銀行員としての業務をこなしながら余技として多彩な文芸活動をしている。  本書は当時まだほとんど知られていなかった中部山岳へ足を踏み入れた経験を裏付けとした山岳の啓蒙書となっている。様々な観点から日本の自然のすばらしさを説明する第二章“日本山嶽美論”を中心に、第一章から第十二章で山水の意義、登山論、日本山系、登山の準備、森林美、渓谷の美、渓谷の生物について解説している。従来の山水趣味の紀行文から脱して、科学的知識も加えながら独自の山岳文学の道を開こうとしている点で特筆すべき内容となっている。第三章”登山論”で次のように述べている。  「登山いかに筋骨を鍛錬するも、いかに冒険の気象を涵養するも、いかに忍耐力を醞醸するも、いかに自然に親しむも、茫焉として雲烟過眼視せば、其獲るところ児童の遊戯に比して甚だしく多きを加へざるなり、旅行殊に登山に於て、特殊の便宜あるは、学術研究に資するに在り、−−−−チンダル氏の如き、フンボルト氏の如き、グレー氏の如き、フッカー氏の如き、皆親しく高山を跋渉して、各専門学科に他念なかりき」  第四章“日本の山系論”の千島及び北海道の山岳では北方四島の自然を詳述したのち、最北端のアライト島について、 「アライト島は、島形既に洋中より筍起せる山、山態園錘形を成し、上部三分の一は恒に白雪を被ぶる、蓋し千島列島の最北端に在り、寒帯に入ればならむ」 伊藤秀五郎、小森五作が千島列島最高峰アライト山(2339m)に初登頂したのは、本書出版から20年後の昭和2(1926)年であった。  第五章“登山準備論”は、装備、食料、幕営の方法、天候などについて詳しく述べており、「日本風景論」に比して、槍ヶ岳登山をするなど実践的な登山家であった烏水の解説は実際的である。  第八章“日本の高山深谷を跋渉したる外国人及び其紀行”はW.ウェストンとの衝撃的な出合いについて述べている。槍ヶ岳登山の折、案内の猟師から西洋人が槍ヶ岳へ登った話を聞く。この西洋人がウェストンであることが偶然の機会から分かり、横浜の自宅を訪問する。この時のウェストンの示唆により日本山岳会を創設した経緯を詳しく記述している。 「やがて隣れる書室より、出で来たりたる紳士こそ『日本アルプス』の著者なれ、英国人としては寧ろ短躯の方なるべけれど、肩胛濶くして肉緊り、骨勁く、その方形の顔に、英人特有の剛毅なる硬性を眉端口邊に皴描したれど、眼細く顎肥えて、半面宗教家たる忍辱相を示す、過般みまかりたる探検家スタンレイ氏、亦短躯にして温貌なりしと聞く、おもふに同型ならむか」  烏水は明治32年〜35年に3期に分けて本州横断の山旅を行っているが、本書にはその内のまだ鉄道が開通していなかった木曽街道を歩いた時の紀行が掲載されている。烏水は木曽川の美しさを称えて次のように記す。 「木曽川の水の色は、何とも口に出ぬ、透明無色の水も、分子が厚く累なれば、青色を構成すると聞いたが、その青色を染め出した水が、岩の上を奔流するので、上流は暗澹たる安山岩が多く、中流以下は雪白の花崗岩ばかりで、水の色が川底の岩に配して変化するが中にも、純粋の瑠璃色を見るのが、實に絶絶奇と評すべきである」 参考文献 小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館 日本アルプス1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版) アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版) 日本アルプス登山と探検 W.ウェストン/岡村精一訳1933/梓書房 小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社 山岳第1年1号〜3号 日本山岳会/1906
山水無尽蔵/小島烏水/1906
Review/meiji/mujin.html 山水無尽蔵/小島烏水/1906 6. 山水無尽蔵 小島烏水(こじまうすい)/1906/隆文館/312頁 表紙 表紙 風景 丸山晩霞 風景 丸山晩霞 風景 丸山晩霞 風景 丸山晩霞 小島烏水(1873-1948) 本名久太、銀行家、登山家、文筆家、浮世絵研究家  高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業し、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。  明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発されて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下っている。翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストン師と偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となる。  「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。  浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳 内容  烏水はかねてから本州横断の山旅を念願していたが、明治32年10月、浅間山に登ってから保福寺峠(松本・上田間)、稲倉峠(シナグラ峠、松本市)を越えて、松本から諏訪湖を訪ね、さらに木曽街道を下った。つづいて明治33年10月、高山から乗鞍岳に登り、北上して富山へたどり着いた。明治35年8月には上田、松本、白骨温泉を経由して霞沢を遡上して稜線を越え、梓川から槍ヶ岳を極め、鎌田川右股を下った。  本書にはこれらの旅の紀行文、「浅間山の煙」「秋の木曽街道」「乗鞍岳に登るの記」「飛騨縦断記」「日本海の紅」、これらの紀行の延長線上の輝かしい記録「鎗ヶ岳探検記」の6編が収録されている。  その「鎗ヶ岳探検記」の冒頭に烏水は次のように書き、はげしい登高意欲を燃やしている。 「余が鎗ヶ岳登山を思い立ちたるは一朝一夕のことにあらず。 何が故に然りしか。 山高ければなり。 山尖りて嶮しければなり」  烏水は3年の間心をとらえて離さなかった槍ヶ岳登頂を明治35(1902)年8月、友人岡野金次郎と果たすことができた。「鎗ヶ岳探検記」はその時の紀行文である。  明治35(1902)年8月、延伸開業されたばかりの篠ノ井線で松本を目指すが、豪雨出水のために田澤で停車、雨中を歩いて松本に到着する。翌朝、飛騨街道を島々に入った。計画ではここで案内人に猟師を雇って徳本峠を越えて上高地へ入ることにしていたが、陸地測量部の仕事に猟師、人夫が動員されていて案内人が得られないまま稲核に足を延ばして1泊する。ここからさらに檜峠を越えて白骨温泉に2泊、ここで案内人2人を雇って沢渡から“険絶悪絶を極めたる”霞沢を遡行、稜線を越えて梓川へ出た。  翌8月16日、梓川をさかのぼり、赤沢の岩小屋に荷を置いて頂上を目指すが、悪天候で果たせなかった。翌日、快晴に恵まれながら岩小屋を出発、ついに登頂を果たす。 「おののく足を踏みしめつ、三角測量標を建てたる一皴峰に蝸附して上がる、絶巓より突兀たると二百尺、胆沮みて幾回か落ちむとしてはしがみつき、瞑目して漸く攀ぢ了りたるところ、我が鎗ヶ岳の最高点にして、海抜實に一萬一千六百五十二尺、山は遠く遠く塵圏を隔てて、高く高く秋旻に入り八月炎帝の威、今果たして幾何ぞとばかり----------。」  このあと蒲田谷右股を下った。上から見たところ下山は簡単そうに想えたが、辛酸を味わうことになる。一行が蒲田の部落に到着したのは夜中になってであった。 「ここに至りて一行大いに沮み、進むに能わず、退くに術なし、時計を検すれば、午後二時夏の、日長しと雖も、甕の底の渓谷なればにや、黄昏に近きたるかとおもはるるまで光弱く、霞ははや谷を渉りててしろく、渾沌としてただ急瀬雷吼の如くおどろおどろと鳴りはためくを聞くのみ、然れども蒲田の荒村は未だ何里の先にあるかを知らず」  翌日、高原川に沿って北上、神岡経由富山へ出た。  「秋の木曽街道」は中央線開通以前の木曽路の情景を描いている。鳥居峠を越えようとして奈良井宿に泊まった翌朝のこと、 「褞袍を着たる婆さま入り来たり、『お客様、よべちょっくら寝せられたかの、けさは十三夜荒れだんで、えら寒気がしずらあ』といひながら、障子を開けて裏の山を見上げ、『早いの見なされ、山は雪であらず』といふに、起き直りて、眩ゆくさす朝日に、手を額翳しながら仰げば、淙淙として刃を研ぐごとくに流れて行く渓水を障てて、聳えたる山は、布のごとき一簇の雲を擁して、頂は雲を冠れり」  鳥居峠頂上で御嶽はじめ信濃飛騨国境に新雪をかぶって連なる山々の景観を楽しんだ。 参考文献 1.不二山 小島烏水/1905/如山堂 2.小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館 3.日本アルプス 1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版) 4.アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版) 5.日本山嶽志 高頭仁兵衛/1906/博文館 6.小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社
千山萬岳/志村烏嶺/1912
Review/meiji/senman.html 千山萬岳/志村烏嶺/1912 5.千山萬岳 志村烏嶺(しむらうれい)/1912/嵩山房/334頁 表紙 表紙 見開き 見開き 挿入画 大町付近の晩春 挿入画 大町付近の晩春る 志村烏嶺(1874-1961)、植物学者、登山家、山岳写真家  栃木県那須郡烏山町(現那須烏山市)に生れる。一八九六(明治二十七)年、栃木県尋常師範学校卒業後、栃木県の小中学校、師範学校、仙台第一中学で教員を勤め、一九〇三年、長野中学校に博物・地理の教師として赴任。休日ごとに飯綱山、戸隠山、八ヶ岳、横岳などに登山し、高山植物採集を続けた。  一九〇四年八月、長野市を徒歩で出発。柳澤峠に立って初めて白馬連峰を目の当たりにし、今までの山とはけた違いの大きさに驚嘆する。以来、北アルプスとそこに咲く草花に魅せられ、植物研究・山岳写真撮影を目的に山々に入った。日本山岳会創設にも関わった。生涯で四千種もの植物標本を作製したと言われ、それらは国立科学博物館、市立大町山岳博物館などに収められている。  初期の山岳写真家としての功績も大きく、一九〇四年の白馬岳登山で得た写真を、いち早く園芸雑誌に発表し、それを契機に「日本山水論」、「日本山嶽志」や「山岳」創刊号を烏嶺の写真が飾った。さらにウェストンにより杓子岳の写真が「アルパイン・ジャーナル」第二三巻一一七一号(明治三九年二月発行)に掲載され、日本アルプスがヨーロッパに紹介された最初の写真となった。一九〇六年四月発行の日本山岳会「山岳」第一号の巻頭写真「白馬の大雪渓の写真」も烏嶺の撮影である。  山での撮影がいかにたいへんであったかは、器材一式で一貫目もある組立暗箱式のカメラで、明るい光の下でもキャビネ版(約一六一二センチメートル)のガラス乾板の露光に三十分以上、後処理に一枚一時間を要したことを考えるとよく分かる。  一九〇九(明治四二)年、「高山植物採集および培養法」、山岳写真集「山岳美観」第一・第二集、一九一三(大正二)年、「千山萬岳」出版。  一九一八年、台湾台中中学校に転ずる。同年、新高山(玉山)に登る。長野中学赴任から台湾に渡るまでの十三年間に毎年の白馬岳のほか御嶽、木曽駒ヶ岳、乗鞍岳、槍ヶ岳、常念岳、大天井岳、燕岳、立山、尾瀬燧岳、飯豊山、磐梯山ほか多数の山に登り、植物採集とその研究に精力を注いだ。  一九二二年、教職を退き、東京目黒に植物園「素香園」を経営、関東大震災の際には一時期ここが日本山岳会の事務所となる。一九二四年、埼玉県横曽根村(川口市)に転居し、農園を経営する。晩年は植物採集・標本整理で過ごした。一九五六(昭和三十一)年、八十三歳にして最後の白馬岳登山を果たす。一九六一年、八十七歳で逝去。 内容  W. ウェストンが序文を寄せている。烏嶺は本書出版の意図について、「登山家の伴侶となり登山の気風を鼓吹することを得ば実に著者の之にすぎたるはなし」としている。紀行四編、研究論文二編および日本高山登路案内略記からなり、付録として日本高山標高表が付されている。 「木曽の御嶽及駒ヶ岳」は木曽街道を歩き、御岳山と駒ケ岳に登った時の紀行である。御岳山に登った友人から、小屋が完備し、七合目には浴槽もあり、頂上も設備完全飲食等に不自由なしですこぶる俗化していると聞かされて、一種嫌悪の情を抱いていた。しかし木曽の古道についてはさまざまな道中記を見て、「益益荒涼たる古駅を訪はんとするの念禁ずる能わず」と感じ、一九〇七(明治四十)年七月に六日、洗馬から木曽街道をたどった。鳥居峠で御嶽山を遥拝し、木曽十一宿の首位にある福島町から合渡峠を越えた。  顧みれば漠々たる暗雲木曽の本谷を埋め、駒ヶ岳を何処と問ふ由もなく、前面は怪雲濃霧黒澤の谷を覆い、五百重の雲を突破して、蒼空の磨き出だされたる雄渾偉大の御嶽の山塊、紫匂う山色の美、言語に絶し、谷々に残る千古の雪は日光に輝き、右の右方に近き最高点は問わずして剱ヶ岳たるを知る、‐‐‐‐御岳山容の雄大なるは、日本アルプス中に匹儔少なし、暫時は吾を忘れて佇立せり、‐‐‐‐。  黒澤口より山頂を目指した。途中七合目の山小屋に一泊し、小屋の主人の人情にふれた、翌日頂上に達したが、山頂近くに御嶽郵便局があり、一万尺の天界に郵便局があるのは他にはないことと驚く。参拝者での混雑や整った設備の商売っ気には触れず、ひたすら頂上からの絶景を次のように記す。 ーーーー猶遠く北方を望めば、白駒奔騰する乗鞍の尖峰、巍々乎として千古の雪を戴き、高く雲漢を摩す、東西の山脚天地の間に神秘の一線を劃し、右は信濃の高原に左は高山の高台に、乗鞍の北方槍ヶ岳の尖頭、、穂高の〇峰、簇々として高さを競う。  下山は王滝口へと下り一泊、崩越えから木曽川へ出た。芭蕉の句で有名な「棧や命をからむ蔦かつら」の架け橋を渡ろうとするが、橋板がなく渡れない。そこへ十四、五歳の少女が走って来て、船で渡してくれた。薄汚れた衣服を着けた少女であったが、その親切心と機敏な行動に感激する。翌早朝、上松から駒ヶ岳を目指す。  絶頂は円頂高潤巨人の頭顱の如く、彼の火山頂の崢たるに似ず、円満具足頗る温容あり、寳剱ヶ岳が嶽に至りては、矗々として一剣寒く天を指すがごとし。  頂上付近でミヤマウスユキソウが咲いていた。ヨーロッパアルプスのものに比して「形態著しく矮少確にその一変種となすべきもの、余はヒメミヤマウスユキソウなる名称を下す」。伊那へ下ろうとするが、夕方より暴風雨となり、途中玉の窪の避難小屋で不安な一夜を明かし、  漸々下るに従って路一層険悪、喬木帯を脱すれば、飢餓疲労、殆んど其の極に達せる余は、嚇々たる烈光を浴して卒倒せんとせしこと幾回なるを知らず。  そして午後二時、ようやく伊那にたどりつく。  「高原の雨、峠の霜」では、御代田(現しなの鉄道御代田駅)から坂本までの碓氷峠越えの中仙道旧街道を歩いて、かつて殷賑を極めた街道筋の宿駅が鉄道施設によって急速に寂れていく有様を、愛惜をこめて描いている。その鉄道も現在は上越新幹線の開通で横川から軽井沢までは廃線、軽井沢以北は第三セクターの運営となった。  「日本アルプス縦走記」は、一九〇七(明治四十)年七月、中房温泉から燕岳連脈の東沢乗越しを経て高瀬川に下り、烏帽子岳直下の山稜から野口五郎岳、鷲羽岳まで単独(人夫と)で縦走した記録で、日本アルプスの縦走記としては最初のものである。紀行文には先蹤者にしか見られない新発見の喜びが躍動している。本書によれば、この山行の後、日本アルプスを縦走した例は一九〇九(明治四二)年、辻村伊助の飛騨山脈、一九一〇年、小島、高頭、高野による槍ヶ岳より黒岳、一九一一年、榎谷による針ノ木峠から槍ヶ岳へと続く。  当初の計画は笠ヶ岳まで縦走して蒲田温泉に下る予定であったが、人夫の類蔵が鷲羽岳まで来たときにこの山が笠ヶ岳と言って譲らず、またもう一人の人夫の体調がすぐれないことから縦走を中断、再び高瀬川へと下った。此の退却について烏嶺は日本アルプスの研究が遅れているためと嘆いている。  「乗鞍行」は、一九一一年八月、梓川を遡行し、大野川より乗鞍岳登頂の記録である。雷雨、先達に連れられた登山団一行との石室で同宿し、その付近で七年前にあった五名の凍死事件などを思い出しながら、登頂を果たした。島々を経って四日目であった。  烏嶺は生涯で四千種もの植物標本を作製したと言われるが、本書中の研究論文「高山の植物」では植物分布について、高山植物の由来、分類、栽培の可能性などについて、詳しい考察を試みている。紀行文にも見られるように、登山では常に高山植物に目を配り、観察し、標本採集に務めている。  「日本アルプス」は日本アルプスについての解説書である。名称の由来、南北アルプスの特徴について概説する。 「日本高山塘路案内略記」は富士山はじめ、四十三峰についての登路案内と植生の解説で、これには百十四頁を費やしている。 参考文献 高山植物 武田久吉/1916/同文館 高山植物の研究 河野齢蔵/1917/岩波書店 日本山水論 小島烏水/1907/隆文館 日本アルプス-登山と探検 W.ウェストン/1957/創元社 日本山嶽誌 高頭式編/1975大修館 よみがえる高根の草花/2007/市立大町博物館 
アルペン行/鹿子木員信/1913
Review/meiji/alpen.html アルペン行/鹿子木員信/1913 6.アルペン行 鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)/1913/政教社/ 表紙 表紙 見開き 見開き 鹿子木員信(1884-1949)、教育者、哲学者、思想家、登山家  旧熊本藩士の家系で、甲府に生まれる。東京府立第一中学から海軍予備校を経て、一九〇四(明治三七)年、海軍機関学校卒業。同年、日露戦争が勃発し、巡洋艦「八雲」に乗り組み従軍する。一九〇六年、海軍を退き、京都帝大で哲学を学び、翌年、渡米。ニューヨークのユニオン神学校に入学、一年後にコロンビヤ大学でニーチェについて修士論文を提出している。滞米中に本格的にドイツ哲学を学ぶことを決意し、一九一〇年、ドイツに渡ってイエーナ大学のルドルフ・オイケンのもとで学び、博士号を取得した。  滞欧中の一九一一年八月下旬から一ゕ月間,、ヨーロッパアルプスの高原を一人で踏破した。この時の紀行が本書「アルペン行」である。  一九一四(大正三)年、帰国し、慶応義塾大学哲学科教授となる。槇有恒ら山好きの学生に請われて一九一五年、慶應義塾山岳会を設立し、多くの登山家を育てた。  一九一八年、慶應大学を辞し、細川護立公の後援を得て、哲学研究のためにインドへ向かった。ダージリンに五ゕ月間滞在し、その後、シッキムに入り、カンチェンジュンガ地域を踏査した。登山を終えてカルカッタに戻り、仏跡巡礼などを行うが、これら一連の行動をインド独立運動を扇動するスパイとイギリス官憲に疑われて拘束され、即時インドから追放、シンガポールの牢獄に九日間監禁されたのち、日本へ強制送還された。シッキムでの紀行は一九二〇(大正十)年「ヒマラヤ行」として出版された。  一九二一年、東京帝大文学部講師となる。この時代に東大スキー山岳部の創設に協力する。一九二三年、文部省在外研究員としてドイツへ赴き、滞在中にユングフラウやマッターホルンなどアルプス登山を行なう。帰国後、日独文化協会設立に携わり、一九二七(昭和二)年四月、再びベルリンへ赴き、昭和四年までドイツ日本協会の運営にあたった。  一九二九年、九州帝大教授、一九三二年、同法文学部長。一九三九年、九大退官後、徳富蘇峰が会長の大日本言論報告会の事務局長を務め、国粋主義思想の普及に努めた。戦後は戦中の右翼的思想・行動を問われてA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに拘置された。一九四七年、釈放される。一九四九年逝去、六十五歳. 内容  スイス・アルプスのベルナーオーバーランド及びチロルの山旅の紀行で、筆者の感動がひしひしと伝わってくる。時代はまだ日本人の訪問は極めて少なく、加賀正太郎がユングフラウに登頂したのが前年の明治四十三年、ユングフラウ鉄道がヨッホ駅まで開通したのが翌明治四十五年であった。  序「アルペン行にはしがきす」でこの旅について鹿子木は次のように語っている。  明治四十四年、夏八月の下旬より、その秋立つ九月の末に至るまで、背嚢を背に、チーゲンハインの杖を手に、健脚に委せて、孤影飄然、ヨーロッパ・アルペンの高原を踏破した。  僕はヨーロッパ・アルペンの大自然に対して、心行くばかり、時に涙出づる程までに、之と語った。この大自然と拮抗し、之と闘い、之を克服しつつある勇敢なる民を見、親しくその間に交わった。   八月二十日、イエーナを発ち、スイス国境の町バーゼルへ向かった。バーゼルではニーチェが十年を教授として過ごしたバーゼル大学を訪問、そのみすぼらしいたたずまいに驚くが、そこから輩出した偉人たちを思い、「校舎などは第三も第四も第五も、第十ものことだ。医学であるとか、農工、理化学であるとか、完全した特殊の設備を必要とするものの外校舎などは、どんな廃屋でもいい。私立大学の管理者などは以って顧みる所あって然るベシだ」と思う。  ジュラ山脈からオーバーベルナーランドのアルペンの連山を見ようとしたが果たせず、少年時代にバイロンの筆によって深く心に刻み込まれたジュネーブに向かう。ジュネーブではルソーの銅像に何とも言えぬ温情を感じ、サンピエール大聖堂はじめジュネーブ大学の創設者ジョン・カルヴァンの遺跡を訪ねる。  レマン湖を船で渡り、東岸のシヨン城を訪れた。  此等の区画を通って奥に進むと即ちバイロンがその熱烈の筆に不朽ならしめた窟牢である。ーーー様々な人が彫った数知れぬ名前の内バイロンの名を探していると、突然、右の学生が「あゝバイロン!」と叫ぶ。その指さす所を見ると成程例のバイロンの狂ったような筆跡、まがうべく もない。小さな謙遜なしかも覇気に溢れた字の跡は、百年を経った今日尚ほバイロンその人の精神を彷彿せしめている。  レマン湖畔のベイトー・ションから鉄道でローヌ川上流のロイク村に向かった。明日のゲンミー峠越えに備えて、古靴に鋲を打ってもらった。明日の峠越えに備えて体を休めておこうと思ってベットに入るや否や、南京虫の襲撃を受け、首筋、腕等が腫上ってしまった。その夜は南京虫との戦いに明けてしまった。  翌朝快晴の中、ゲンミー峠を目指して出発する。この絶壁のような峠は十八世紀中頃に地元の人間が三年間かけて作ったという。この頑強で偉大な自然に対して挑むスイス人の勇気に感心せざるを得なかった。ついに峠の頂上に達した。  見るとレムメルンの氷河が直ぐそこになだれかかって青白く氷付いている。そしてその少しづつ溶けた水が、流れてダウベの湖水をなしている。西南を見るとダーレ、ローンの谷を挟んで向こうにワリス、アルペンの連山が一団となって雪を戴き雲に纏われ、層重の波を為して聳立している。その間にモンテ・ローサの高峰が恰もこの羣雄を率いる帝王であるかの如くに白皚々の衣を装うて羣を抜きんでている。  下りにかかってしばらくすると、右の靴のかかとが取れてしまった。足を引きずりながらカンダーの谷を下り、夜八時に近いころ、カンダーステークの小さな宿に泊まった。インターラーケンで靴屋を探して厚さ一分もあろう牛の皮で作った頑固な人間の歯のような鋲をぎっしりと打ち込んである靴を買った。ユングフラウの気高く清らかな姿を見ながら、ラウターブルンネンに一泊、翌朝、旅行以来の快晴の中をミューレンへ登り、ユングフラウ、メンヒ、アイガーの景観を楽しんだ。  ラウターブルンネンから汽車でウェンゲンヘ、クライネシャイドエッグ、アイガー氷河の散策を楽しんだ。夕方七時、グリンデルヴァルド目指して靴擦れに痛む足を引きずりながら歩く。グリンデルヴァルドについたのは夜九時過ぎであった.  翌日、グリンデルヴァルドの氷河巡りを楽しみ、マイリンゲンを目指して下山の人となった。途中、純白の青みがかった氷塊が剱を逆立てたように群がり立つローゼンラウイ氷河を見た。  此の氷の山、之を囲む赤裸々の高山薄暮一人此の雄大なる大自然の間に立ちて、僕は自然が特にこの地を僕のために造ったように感ぜざるを得なかった。沈黙、寂寞、然り荒寥、偉大の自然の中にある時にーー僕は限りなき喜びと感謝と、心の躍りを感ずる。  フィーアヴァルトシュテッテ湖畔のキュストナハトからアルペン最後の山、リーギーに登り、アイロロへ、ルガノ湖畔の小村マロッジアに泊まる。翌日汽車でチューリッヒへ向かった。翌日チューリッヒ美術館を見学、画家の生命そのものが躍っているフェルディナンド・ホッドラーの絵に感動する。  チューリッヒからサンモリッツへ、シルヴァ・ブラナ湖畔の心地良い、親切なホテルに一泊。翌日、ベルニナなどの高山に囲まれたシルス湖のほとりで、病める心を抱いて訪れたニーチェを想った。ここの自然はニーチェに偉大な感化を与え、永遠の否定、一面灰色の世界から永遠の工程、光と力と寒気の世界へ大飛躍を試みた。  十五日間のスイスアルペンの漂泊に別れを告げ、九月五日、チロルへと向かった。チロルではアーヘン湖のほとりに粗末な一室を借り、チロル・アルペンでの生活を始めた。読書をし、アーヘン湖の周りを経めぐり、時に山へ登り、二週間をこの地に過ごした。九月二十七日、アーヘン湖を去って、墺独国境の険を超え、健脚の人でも普通二日かかる行程を一日で馳せて、夜中にテルツの街に入った。 参考文献 ヒマラヤ行 鹿子木員信/1920/政教社 登高行15号‐山岳とスキーの思い出‐/鹿子木員信/1957/慶応義塾体育会山岳部 わたしの山旅/槙有恒/1968/岩波書店 わが登高行/三田幸夫/1979/茗渓堂
日本の山水/河東碧悟桐/1914
Review/meiji/nihonsansui.html 日本の山水/河東碧悟桐/1914 7.日本の山水 河東碧悟桐(かわひがしへきごどう)/1914/紫鳳閣/678頁 表紙 表紙 背表紙 背表紙 左:河東碧悟桐 明治42年9月1日白山登山記念 左:河東碧悟桐 明治42年9月1日白山登山記念 河東碧梧桐(1873-1937)、俳人、旅行家、紀行家  愛媛県千船町(現松山市千船町)に松山藩士の五男として生れる。1887(明治20)年、松山高等小学校から伊予尋常中学(現愛媛県立松山東高校)に入学、同級生の高浜虚子と共に正岡子規に師事する。1891(明治24)年、子規の奨めもあり、中学を4年で中退して上京、第一高等学校受験のため金城中学5年に編入するが、入学試験に失敗し帰郷、松山の中学に再入学する。  1893(明治26)年、中学を卒業、虚子に1年遅れて第三高等学校に入学。学制改革のために三高が一時廃校となったために、虚子とともに第二高等学校(仙台)に編入するも窮屈な校風に耐えられず、3ヶ月で中退。  1895年から新聞「日本」に入社する。明治30年、子規「ホトトギス」創刊、碧悟桐、のち虚子が選者となる。  1902(明治35)年、子規35歳で没後、新聞「日本」俳句欄の選者となる。1904(明治37)年ごろから碧悟桐提唱の「新俳句」が隆盛となる。1906(明治39)年、師正岡子規の俳句革新の原点に立ち返り、いま一度自分を見返すべく足かけ5年にわたる全国遍歴の旅に出る。その時の紀行文が上信越、東北、北海道の旅「三千里」(1910年刊)、西国の周遊「続三千里」(1914年刊)である。碧梧桐は名所旧蹟を巡る旅に飽き足らず、人跡未踏の僻地や深山幽谷に分け入った。立山、白山、白馬、槍などの峻峰に攀じ、また冬の陸奥や北海道に足を伸ばしている。1913(大正2)年7月、越中黒薙温泉から黒部川清水平を経て白馬岳登山(本書「日本の山水」に所収)、1915(大正4)年夏に長谷川如是閑、一戸直蔵と針の木から槍ヶ岳縦走を実行した(「日本アルプス縦走記」)。  子規以後の低迷する俳句を反省して「新傾向」を唱える碧悟桐と、「守旧派」の虚子と対立するようになる。自由律、ルビ俳句などを推し進めるべく努力するが、句力の衰えを感じ、1933(昭和8)年、還暦を機に引退を表明し、俳壇の第1線から退いた。  大正10年1月〜11年1月、渡欧、ユングフラウヨッホに登る。  昭和12年、腸チフスから敗血症を併発して急逝、65歳。 内容  高浜虚子と共に正岡子規の弟子で近代俳句を拓いた河東碧梧桐は、俳句革新を推し進めるべく、一九〇六(明治三九)年八月〜一九〇七年十二月の第一次、一九〇九(明治四二)年四月〜一九一一年七月の第二次の延べ三年二百日の全国一人行脚を行なった。山好きの碧梧桐はこの行脚の途中や旅の先々で山に登り、登らない場合でもその景観・伝承・風俗を記録しているが、それらをまとめたのが本書である。  内容は、序に代えて・山岳篇概論・富士山・各地の富士・日本アルプス・諸国の名山・その他の名山の七章からなる。碧悟桐は「序に代えて」で「日本には為にならない案内書が多数ある中で異色を呈するものは、日本風景論(志賀重昂)と日本アルプス(小島烏水)の二書のみであるが、これらも風景の美を言い、大を言い、壮を言い、偉を言うのみ、日本アルプスはヨーロッパかぶれして風景を趣味的にしか見ていない」と批評する。この二書にしてこうであるから日本の山岳書は「貧寒空虚」である。しかし、本書は「我等の見たる山水観、ただ全国を遍歴して得たる実地の見聞を叙述するに止まる。案内書の形式を脱することに於いて、この落莫境裡に立つ満足を思ふのである。」と自負している。  第一次行脚の一九〇七(明治四十)年二月二十五日〜五月三日、北海道に滞在する。函館から根室へ向かう途中、蝦夷富士(後方羊蹄山)を仰ぎ見た。「各地の富士」の章でその印象を述べている。 函館より北して、渡島と後志間の重畳たる山間を過ぎ、真狩、倶知安両駅の一高原に出ずる時、何人も先ず眸を放って仰望するもの、その端正なる円錐形状の蝦夷富士である。  まだ積雪が多かったため、山には登っていないが、地質・山名由来・古事記の阿倍比羅夫の故事・登山史を詳しく紹介している。  一九〇九年七月末、立山へ登った。その紀行文は「日本アルプス 立山山塊」に詳しい。これから六年後の一九一五年七月、碧梧桐四十三歳の時、大阪朝日新聞記者の長谷川如是閑、天文学者・一戸直茂、七名の強力と共にで針ノ木峠から槍ヶ岳までの縦走を行った。この縦走は史上二番目の快挙であった。この時の記録は長谷川との共著で「日本アルプス縦走記」の題名で出版された(大正六年)。   「日本アルプス」の章では「白馬山登山記」が圧巻である。第二次行脚の途中、信州側から秀峰白馬山を仰ぎ見て感動、登ろうとするが雪が深いことなどを理由に宿の主に強く阻止された。それから五年後四十二歳の時、今度は越中側から登攀を試みた。 「探険に登られるお方は年にお一人かお二人あるか無しですから」と前途を危ぶむ宿の主人の声に送られて、案内者と出発した。清水平を経て猫又谷を登る。この沢は現在でもかなり剣呑なルートである。沢をつめて一泊、翌早朝山頂に着いた。下りは信州側の大雪渓を葱平から白馬尻に出た。  本書では二十三の独立峰と五つの山群について述べているが、いずれも俳人らしい細やかな自然観察とおおらかな性格から来る大きな情景描写は、読んでいて飽きない。俳人としてばかりではなく、登山家としても突出して優れた人物であった。 参考文献 日本風景論/志賀重昂/1894/政教社 日本アルプス(1)〜(4)/小島烏水/大修館 忘れられた俳人 河東碧悟桐/正津勉/2012/平凡社
高山植物/武田久吉/1917
Review/meiji/kozan.html 高山植物/武田久吉/1917 高山植物 武田久吉(たけだひさよし)/一九一七年/同文館/一〇二頁 表紙 表紙 扉 扉 武田久吉(たけだひさよし 一八八四〜一九七二)植物学者、民俗学者、登山家  英国公使アーネスト・サトウと武田兼の二男一女の二男として東京に生れる。府立尋常中学校、東京外語学校卒業。一九〇七(明治四十)年札幌農学校講師。一九〇九(明治四二)年英国へ留学、ロンドン大学、バーミンガム大学に学ぶ。一九一二(明治四五)年、王立キュー植物園を本拠に植物の研究を続け、一九一六(大正五)年帰国後、京大、九大、北大(一九二〇年、北海道帝大附属水産専門部)などで講師を務め、植物学を講じた。  小学生の時に妙義山登山を手はじめに富士山、八ヶ岳、日光、白馬岳、北岳など各地の山に登り、中学時代には博物学教師・帰山信順の薫陶を得て博物学同志会に参加、「博物の友」を創刊、研究登山を行って同紙に紀行・研究を発表した。一九〇五(明治三八)年七月、初めて尾瀬に足を踏み入れ、日本山岳会会報「山岳」創刊号に「尾瀬紀行」を発表、尾瀬の素晴らしさとその真価を世に伝えた。  最初の尾瀬訪問から四半世紀後の一九二三(大正十三)年、尾瀬にダム建設計画が浮上していた。これに危機感を持った尾瀬小屋主人平野長蔵から請われる形で調査のために尾瀬を再訪した。この調査には館脇操(註1)も同行、尾瀬ヶ原をくまなく探査し、桧枝岐にも足を伸ばしてた。ダム建設はそれから四十年に亘る粘り強い反対運動の結果、一九六六年に東電の水利権破棄で決着を見た。尾瀬の自然保護に対する思いは深いものがあり、ダム建設の阻止、国立公園の指定など、彼の存在と努力に負うところが大きい。  日本山岳会の創立に参加、第六代会長を務めた。昭和三十五年に日本自然保護協会を設立するなど、エコロジストの草分けとしても知られる。山歩きは七十余年に及び、植物学方面の、特に高山植物の著作も多いが、山の随筆・紀行も出版し、「尾瀬と鬼怒沼」(一九三〇年朝日新聞社)が代表作である。  一九六九(昭和四五)年、八十六歳で天然記念物緊急調査のため館脇操、鮫島惇一郎・和子夫妻(註2)の案内で、大雪山黒岳に登った。辻井達一は「大雪山の高齢者登山の記録であろう」と述べている(北海道大百科事典一九八一年道新)。国際民族学会委員、日本自然保護協会理事、国立公園協会評議員、日本山岳協会初代会長などを歴任。一九七〇(昭和四五)年秩父宮記念学術賞受賞 一九七二(昭和四七)年6月逝去、八十九歳 内容  A6版、図版十六頁、本文百二頁の小冊子で、英国留学から帰国直後の大正六年の出版。“はしがき”で我が国の自然の美観を説く書籍は数あるが、高山植物の一般書は見当たらないのは遺憾とした上で、 ーーー多年内外山嶽の間を彷徨して、自然より学び得たる賜物を經とし、先進書家の学説を参酌して之を緯とし、以って此の小冊子を編むに至った。幸にして登山者の伴侶となり、究学者の僚友ともならば、余の望はこれに過ぎないのである。 と述べ、登山者用ハンドブックを目指したものであるとし、素人にもわかりやすく解説している。どのような場所でどのような植物が見られるか、例を挙げて説明、図版も多く掲載している。例えば、木曽の御岳について、 往古より芙蓉峰についでの名山である御岳は、山上の地域が甚だ広いから、高山植物の量も種類も更に豊富で、いはゆるお花畑の美観を恣にすることができる。 として二十数種類の高山植物を挙げている。  内地産高山植物の種類の数はざっと百五、六十種類もあり、その内我国特有の顕花植物は七十種類ほどあるとしている。  本書と全く同時期(一九一七年)に岩波書店より河野齢蔵(註3)の布張上製本「高山植物の研究」が発刊されている。河野も武田と同じように高山植物の著書に見るべきものはないので、浅学を顧みず出版するとし、得意の山岳写真技術を用いて写真を多数取り入れている。全体の半数近くを割いて低地での栽培法について述べているが、現代の高山植物保護の観点からすると疑念を抱かず採取することに時代を感じる。  本書は坂本直行氏の寄贈であるが、武田の希望したように山へ携行したものか、かなり使い込んでいて植物の標本も挟まれていた(註4)。 (註1)館脇操 一八九九年〜一九七六年 北大山の会会員 植物学者(植物地理学 植物群落学)  横浜市に生まれる。神奈川県立第一中学校(横浜一中)を卒業後、一九一八年北海道帝国大学予科入学、宮部金吾、工藤祐舜に師事。一九二四(大正十三)年七月、武田の尾瀬調査に同行、武田の代表作「尾瀬と鬼怒沼」に館脇の記録「尾瀬をめぐりて」が収録されている。同年北大農学部生物学科卒業、一九五二年北大教授、北大附属植物園長を兼ねる。  学生時代、北海道を隅々まで踏査、卒業後は千島列島、アリューシャン、満蒙北支、黒竜江上流から大興安嶺ほかに旅した。戦後はヨーロッパ各地、ロッキー山脈、カナダから北米太平洋岸国立公園ほかに、六十九歳の年にはシベリヤを訪れた。これらの旅の紀行をまとめた「北方植物の旅」が一九七一年、年朝日新聞社より発刊された。 受賞=一九四九年北海道文化賞、一九六〇年日本農学会賞、一九七二年北海道新聞文化賞 主な著書=「植物誌北方編」「北欧雑記」「植物の分布」「北方植物の旅」など (註2)鮫島惇一郎 一九二六年〜  北大山の会会員、一九五〇(昭和二十五)年、北大理学部植物学科卒業、北大助手を経て、農林省林業試験場北海道支場に勤務。エンレイソウ属を研究。「スウェーデン・イェーテボリ植物園紀要」および「原色図譜エンレイソウ属植物」を植物学者の妻和子と共著。著作「草と樹」「北海道の花」「草樹との出会い」など多数 (註3)河野齢蔵(一八六五年〜一九三九年)  信濃国安曇郡犬飼新田村(現松本市島内)の庄屋河野通重の四男として生まれる。明治二十二年、長野県尋常師範学校を卒業。長野県内の小学校、師範学校、高等女学校などで教鞭をとった。在職中から県内はもとより、北海道、千島、樺太まで出かけ、登山、高山植物研究、山岳写真撮影を行った。「高山研究」、「日本アルプス」共著、「日本アルプス登山案内」など著書多数。  松本サリン事件の第一発見者河野義行は、齢蔵の孫娘の夫。事件の舞台となった義行の棲んでいた河野家には今でも河野齢蔵の表札が掲げられている。(深志同窓会トンボの眼鏡第45号2014年)  三兄は河野常吉。常吉は北海道拓殖行政に関わり、アイヌ研究分野に大きな影響力を残した。常吉の子息で北大農学部卒業の弘道は昆虫学者・アイヌ研究者、北海道学芸大学教授。広道の子息本道は北大文学部卒業のアイヌ研究者、常吉以来三代にわたりアイヌ研究に携わった。 (註4)図版「えぞつがざくら」「こけもも」(植物名鑑定は鮫島惇一郎) 参考文献 武田久吉「尾瀬紀行」山岳第一巻第一号 一九〇六年 武田久吉「尾瀬と鬼怒沼」梓書房 一九三〇年/li> 武田久吉「登山と植物」河出書房一九三八年/li> 武田久吉「明治の山旅」創文社 一九七一年/li> 河野齢蔵「高山植物の研究」岩波書店 一九一七年/li> 館脇 操「北方植物の旅」朝日新聞社 一九七一年/li> 石村義典「評伝河野常吉」北海道出版企画センター 一九九八年/li>
秘密の国 西蔵遊記/青木文教/1920
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ヒマラヤ行/鹿子木員信/1920
Review/meiji/himalaya.html ヒマラヤ行/鹿子木員信/1920 9.ヒマラヤ行 鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)/1920/政教社/204頁 扉 扉 表紙 表紙 鹿子木員信(1884-1949)、哲学者  東京生まれ、東京府立第1中学を経て、海軍機関学校卒業。日露戦争に従軍、1906(明治39)年、中尉で海軍を退き、同年京都帝大哲学科選科入学。翌年、ニューヨークに渡り、ユニオン神学校とコロンビヤ大学で学んだ。1910(明治43)渡欧し、ベルリン及びイエナ大学で哲学を学び、博士号を取得。この間、1911年8月下旬から1ヶ月間ヨーロッパアルプスの高原を1人で踏破した。この時の感激を綴ったのが「アルペン行」である。  1913(大正2)年、帰国後、慶応大学哲学科教授となる、山岳部創立にあたって槙有恒らの相談役となる。1918(大正7)年慶大を辞し、ダージリンへ、カンチェンジュンガ地域を踏査。1921(大正10)年、東京帝大文学部講師、東大スキー山岳部の創設に協力する。1923(大正12)年、文部省在外研究員としてドイツへ、ユングフラウやマッターホルンなどアルプス登山を行なう。1926(大正15)年、九州帝大教授、1932(昭和7)年、同法文学部長。1939(昭和4)年、退官後は徳富蘇峰が会長の大日本言論報告会の専務理事、事務局長を務め、国粋主義思想を広めた。戦後はA級戦犯容疑者として巣鴨刑務所に拘束されるが、釈放される。  1919(大正8)年12月6日、北大スキー部主催の「鹿子木員信ヒマラヤ登山幻灯講演会」が北大中央講堂で催されている。 内容  本書は日本人が登山を目的に、初めてヒヤラヤに挑戦した記念すべき記録である。前著「アルペン行」とは同じ出版社、同じ版サイズ、同じ装丁の姉妹編である。  アルペン行から七年後の一九一八(大正七)年、哲学研究のためにダージリンに滞在中の鹿子木は、単身シッキム・ヒマラヤを目指していた。イギリス官憲との長いやり取りの末、ようやく十五日間のみ有効のシッキム入国旅券を得て十月十七日、リエイゾン・オフィサーのベンガル人、人夫と共にダージリンを発った。目標はカンチェンジュンガ東尾根チンセップ(五八三六メートル)登頂である。雨期のダージリンに数ゕ月を過ごし、時折の晴れ間から望見される崇高で雄偉なカンチェンジュンガを望んでヒマラヤ行を決するに至ったが、その時の心境を次のように述べている。  ダージリンにあること数月、屡々此のカンチェンジュンガの挑戦の声を聞いて、僕は空しく、再び印度の平原に下りて行くを、恰も巨人の挑戦の前に、旗を捲いて戦場を去る劣敗者のことのように思われてならなかった。かくて僕は、前途に横はる幾多の困難障害を思い、私かに、ためらひつつも、ヒマラヤ行を計画した。  装備を整えるのに苦労した。天幕は槇有恒が仙台で試験的に作って贈ってくれた面積一坪ほどの紙製の天幕、氷銊(アイス・アックス)はカルカッタのアイス・アックスを見たこともない友人が鍛冶屋に作らせて送ってくれたが、はなはだ不完全であった。ザイルもまた、カルカッタの友人が莫大な費用を投じて新しく作らせて送ってくれた。アイゼン・背嚢などは望むべくもなく、きわめて貧弱な装備であった。  チャクン、ガイジン、チュンブン、ヨクスン、プレイグ・チュ、ゾングリ、オクラタン、チェマタン(地名は原文のまま、以下同じ)と泊を重ね、十月二十六日、ダージリンを発ってから十日目にダイチャ・ラ(五〇〇八メートル、Gocha・La)に到達した。霧が深く、期待した大景観を十分に視野にすることはできなかった。  眼を挙げて望めば、強き南の風、依然、絶えず雲と吹雪を飛ばしその吹き断つ切れ間、切れ間に、東にパンジムの一角、南にオクラタンの大氷河、西にカンチェンジュンガ南尾根の諸尖峰、北にタルンの深き氷の谷を隔てて、直ぐ頭の上に蔽い被さるがごとく如く屹つカンチェンジュンガ東尾根の一角が、幻の様に、隠見している。カンチェンジュンガの絶頂は、雲の後ろ深く匿れてついに見るを得なかった。  峠からタルン氷河(Talung Glacier)へ五百メートルほど下りたところ(ヤンボック平)でキャンプ、明日はタルン氷河を越えてトンション氷河(Tongashiong Glacier)から目的の先人未踏のチンセップを探るべく早く眠りについた。 しかし、翌朝は降雪で景色はまったく見えなかった。目指すチンセップはその所在さえ分からない。フレッシュフィールドの「Round Kanchenjunga」付図を頼りにタルン氷河に下りようとしたが、人夫らの帰路が降雪で閉ざされることへの懸念を了とし、撤退を決めた。  翌々日、チンセップ撤退のせめてもの腹いせにと黒カプア峰四八一五メートル(註Kabur)を目指した(この山は一八九九年にフレッシュフィールドがカンチェンジュンガ一周をした時に登頂している)。頂上直下の大岩壁を裸足になってしがみついてみたり、人夫のターバンを使ってザイル代わりしたりしながらようやく乗り越え、午前九時四十五分、黒カプア一五八〇〇フィート(四八一五メートル)の頂上に達した。カンチェンジュンガ、カブルーはすっかり雲に隠れて見えなかった。  帰路は東側の国境沿いにとり、ダージリンに到着したのは十一月五日であった。  フレッシュフィールドのカンチェンジュンガ一周によって周辺の地形がほぼ判明したのが一八九九年である。本格的な登山隊としては一九〇五年、ヤルン氷河から挑戦したイギリス・スイス隊で、六三〇〇メートル付近に達したが、雪崩に遭遇して隊員を失い撤退した。その後、鹿子木の挑戦まで、カンチェンジュンガ周辺に登山を目的として接近した者はいなかったのである。  鹿子木は、この旅行はカンチェンジュンガ遠征への偵察行であり、第二、第三の計画を考えていたことを「あとがき」で述べている。しかし、この旅行後にまったく身に覚えのないことながら、英官憲によりスパイと見做されて追放処分を受けた。同行のリエイゾン・オフィサー(ベンガル人で本書の中ではDとしている)が終始、彼の言動をスパイ報告した結果であった。カルカッタの三井物産社宅で逮捕され、直ちに英汽船で強制送還された。シンガポールでは牢獄に十日間拘束された。「あとがき」は鹿子木の無念さにあふれており、この屈辱が鹿子木のヒマラヤ計画を挫折させたと言える 参考文献 アルペン行 鹿子木員信/1913/政教社 登高行15号‐山岳とスキーの思い出‐/鹿子木員信/1957/慶応義塾体育会山岳部 わたしの山旅/槙有恒/1968/岩波書店 わが登高行/三田幸夫/1979/茗渓堂
山行/槙有恒/1922
Review/meiji/sanko.html 山行/槙有恒/1922 10.山行 槙有恒(まきありつね)/1922/改造社 表紙 表紙 アイガー東山稜の一部 アイガー東山稜の一部 寄贈者の署名 寄贈者の署名 槙有恒(1894-1989)、登山家  仙台に生れる。1911(明治44)年、慶応義塾予科に入学、1914(大正3)年、日本山岳会に入会。1915(大正3)年、慶応義塾山岳会創設。1917(大正6)年慶応義塾大学卒業。1918(大正7)年、アメリカ・コロンビア大学留学するも、1年余りでアメリカでの生活を切り上げて、1919年より2年間ヨーロッパで過ごす。この間、スイスのグリンデルヴァルドに滞在し、2シーズンに渡りアルプスをくまなく登山し、1921(大正10)年、F.アマッター、S.ブラヴァンドら3人の熟練した地元ガイドと共にアイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)の初登攀に成功、日本の登山界に大きな刺激と影響を与えた。1923(大正12)年1月、立山松尾峠にて暴風雪のため遭難、同行者板倉勝宣を失い、自らも凍傷を負う。1925(大正14)年、日本で初めての海外遠征隊を組織し、カナダ・アルバート峰に16時間の苦闘の末、初登頂。1956(昭和31)年日本山岳会マナスル遠征隊隊長、同峰初登頂を果たす。仙台市名誉市民、文化功労賞受賞、第7代日本山岳会会長、イギリス・アメリカ・スイス各山岳会名誉会員。 内容  本書扉に「比の微いさき書を板倉勝宣君の霊に捧ぐ」の献辞がある。「山と或る男」「アルペンに於ける登山の発達」「登高記」「南側よりのアルペン」「山村の人と四季」「板倉勝宣君の死」「岩登りについて」の7章からなる。全篇を通して見ると、登高精神、山の歴史、登攀記、山村の生活、遭難、岩登り技術と、山という大きな世界を総合的に理解するように構成されている。1874年の最初の試みから前後12回に亘って、名だたる登山家を拒み続けたアイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)の初登攀については第3章に述べている。  「私達は勝った。併しブラヴォーを叫んだ訳でもない。只4人互いに手を固く握り合った、そしてストイリが只一言『ヘルは之で世界の人となった』と言った。雲が一時晴れた東方に大シュレックホルンが赫と夕日を浴みて聳える。」  大正8年から3年間北大に在籍し、北大スキー部の登山技術向上に大いなる貢献をした板倉勝宣の松尾峠での遭難については、第6章に詳しく報告している。 山岳館所有の関連蔵書 マナスル登頂記 槙有恒編/1956/毎日新聞社 わたしの山旅 槙有恒/1970/岩波書店 山頂の憩い 槙有恒/1971/新潮社 山の心 槙有恒/1974/毎日新聞社 槙有恒全集I II III 槙有恒/1991/五月書房 山とスキー26号 板倉勝宣君追悼/1923/山とスキーの会
岩登り術/藤木九三/1925
Review/meiji/iwa.html 岩登り術/藤木九三/1925 11.岩登り術 藤木九三(ふじきくぞう)/1925/三祥堂/86頁 表紙 表紙 断崖 断崖 藤木九三(1887-1970) ジャーナリスト、登山家、随筆家  福知山市生れる。京都三中を卒業、早稲田大学英文科に入学するが中退。1909(明治42)年東京毎日新聞に入社、同年やまと新聞に移籍、1915(大正4)年朝日新聞に移る。1916(大正5)年夏、東久爾宮の槍ヶ岳登山の随行記者として初めて日本アルプスに入り、本格的な登山家の道を歩み始める。1919(大正8)年、朝日新聞神戸支局長。1924(大正13)年1月、有峰から上ノ岳積雪期登山。同年6月、ロック・クライミングを目的とした山岳会「RCC同人」を水野祥太郎、西尾一雄と共に発足させ、六甲山の岩場を中心に岩登り技術を研究する。1925(大正14)年8月、早大隊と前後して北穂高滝谷を登攀した。1926(昭和元)年、渡欧、本場アルプスで腕を磨く。1935(昭和10)年、京都大学山岳部の白頭山冬期遠征に報道部員として参加。1936(昭和11)年、石鎚山冬期初登。1959年日本山岳会顧問 内容  朝日新聞社神戸支局長時代、芦屋地方の岩山に目をつけ、同好の士と共に芦屋ロックガーデンを開発し、岩壁登攀の技術習得に努め、1925(大正14)年、本書を発刊した。日本最初の岩登りテキストである。著者の主催するRCCの会員に配布したもの。軽装の小冊子ながら技術、用具の解説に使われている写真と挿絵が丁寧で、分りやすい。 山岳館所有の関連蔵書 屋上登攀者/1929/黒百合社 雪・岩・アルプス/1930/梓書房 雲表/1931/黒百合社 峰・峠・氷河/1933/朋文堂 雲表縦走/1935/三省堂 岳神/1943/朋文堂 雪線散歩/1935/三省堂 登拝頌/1943/山と渓谷社 エヴェレスト登山記/1954/河出書房 垂直の散歩/1958/朋文堂 チロルの伝説/1982/誠文堂新光社 ヒマラヤの伝説/1982/誠文堂新光社 その他
大雪山 登山法及び登山案内/小泉秀雄/1926
Review/meiji/daisetsu.html 大雪山 登山法及び登山案内/小泉秀雄/1926 12.大雪山 登山法及び登山案内 小泉秀雄(こいずみひでお)/1926/大雪山調査会/403頁 表紙 表紙 著者スケッチと説明 著者スケッチと説明 小泉秀雄(1885-1945)、植物学者、登山家  山形県米沢市に生れる。1904(明治37)年、東京府立順天中学卒業、同年盛岡高等農林学校に入学するも家庭の事情により退学。1907(明治40)年、試験検定により師範中学、高等女学校理科教師免許取得。山形県内で中学校に勤務の後、1911(明治44)年、道立上川中学校(現旭川東高)に理科教師と赴任。以後旭川を離れるまでの9年間、寸暇を惜しんで大雪山全域を踏破、地形・地質調査と植物採集を行う。「山岳」に「大雪山登山記」(第11年3号)、「北海道中央高地の地学的研究」(第12年2、3号合本)の先駆的な記録を発表した。大雪山調査会の依頼により今までの研究調査の結果を、「大雪山 登山法及び登山案内」にまとめ、1926(大正15)年に刊行した。高知県第三中学校、長野県立女子師範学校を経て、松本高等学校講師。1933(昭和8)年、共立女子薬学専門学校教授に転じ、現職で死去した。後に膨大な植物標本と詳細を極める手書きの大雪山山岳図、植物図譜などが残された。 内容  大雪山を世に広く宣伝する目的で、1924(大正13)年に組織された「大雪山調査会」の依頼で小泉が執筆し、大正15年刊行された。新書版の大きさで403ページの大部である。構成は2編からなり、第1編は登山技術と塩谷温泉(現:層雲峡温泉)並びに松山温泉(現:天人峡温泉)からの登山案内、第2編は大雪山の名称由来、地形・地質、気候、動植物など学術調査報告、さらに巻末には「高山植物の保護区域の設定」の必要性を訴え、自然保護の先駆的役割を果たしている。写真図版、地形図、スケッチが69図挿入されている。スケッチは著者自身の手により、科学者の目による精密で美しいものである。小泉は本書で大雪山という名称を山群の総称としたほか、個々の山の命名もしており、そのほとんどが現在に引き継がれている。 山岳館所有の関連蔵書 日本山岳会 山岳第11年3号、第12年2,3号 日本山水紀行 大町桂月/1927/帝国講学会 大雪山のあゆみ /犬飼哲夫編/1965/層雲峡観光協会 登山歴程 /児島勘次/1973/日本写真印刷 大雪山わが山小泉秀雄 /清水敏一編/1984/白楊印刷 大雪山わが山小泉秀雄(続) /清水敏一編/1984/白楊印刷 小泉秀雄・植物図集 /1995/小泉秀雄・植物図集刊行会
山の人生/柳田國男/1925
Review/meiji/jinsei.html 山の人生/柳田國男/1925 13.山の人生 柳田國男/1925/郷土研究社/308頁 函表紙 函表紙 柳田國男(1875-1962)、民俗学者  兵庫県田原村(現福崎町)に生れる。1897(明治30)年、第一高等学校、1900(明治33)年東京帝大法科卒業。農商務省に勤めるなど官僚の職につく傍ら、「遠野物語」(1900年刊)などの民俗学への道となる書を著した。1913年、民俗学雑誌「郷土研究」を創刊、この頃、研究心のおもむくままに国内を旅行した。内閣書記官局記録課長、貴族院書記官長を歴任し、1919(大正8)年、官界を去る。翌年朝日新聞社客員となり、全国を調査旅行し、三部作「雪国の春」「秋風帖」「海南小記」を発表する。1921(大正10)年、新渡戸稲造の推挽によって国際連盟委任統治委員となり、1923(大正12)年までジュネーブに滞在、ヨーロッパ諸国を旅行した。1926(昭和元)年、財団法人日本エスペラント学会を設立し理事に就任。1949(昭和24)年、日本民族学会発足、初代会長。1962(昭和37)年に死去するまで民俗学に心血を注いだ。日本学士院会員、文化勲章受賞(昭和26年) 内容  「遠野物語」が発端となって、山人に対する柳田の関心が引き起こされ、「山人考」「山人外伝資料」「山の人生」を発表した。  冒頭の明治中頃に起こった二つの犯罪事件は、柳田が法制局参事官をしていた1902年〜1914年間に、調べた事実の中で衝撃を受けた事件を記した。一つは、飢餓の年に山に住む炭焼きが、働き口も売る物もなくなり、食べ物を探しに町へ出るが、得る物なく手ぶらで帰って来ると、悲惨な生活に耐えられなくなった二人の子供が、炭焼きに殺してくれとせがんだ。炭焼きも絶望から頭がくらくらして子供を殺してしまう。もう一つは九州山中に隠れ住む親子の無理心中事件である。  この家族のように、極度の貧しさから山で生涯を送る者、何らかの理由で村に居られなくなった者、フラフラと山へ入って行った者、世を捨てて山に隠れ住む者などが山人として登場する。「遠野物語」では、山人は村人にとって恐怖の対象であったが、「山の人生」に出てくる山人は、村人の仕事を進んで助け、その報酬に五平餅や握飯を与えられる。柳田が収集した山人の生活の実情を記録した本である。 山岳館所有の関連蔵書
 

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昭和期1(1926〜1930)
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