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32.先蹤者 アルプス登山者小伝 大島亮吉(おおしまりょうきち)/1935/梓書房/650頁


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箱と表紙
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大島亮吉
大島亮吉


大島亮吉(1899-1928) 登山家、著述家
 東京に生れる。慶応商工学校から1919(大正8)年、慶応義塾大学予科に入学する。1917(大正6)年、中学生ながら慶応義塾山岳会に入会を許され、同年7月中房温泉から燕‐槍の縦走を果たし、上高地に下る。槙有恒がリーダーのこの山行が、大島の北アルプスとの出会いであった。大島の数多い山行の中で特筆すべきは、1920(大正9)年、スキーによる杓子尾根より白馬岳登頂、1922(大正11)年3月、リーダー槙有恒と積雪期槍ヶ岳初登、1924(大正13)年春の奥穂高、北穂高岳の積雪期初登頂である。1924(大正13)年、慶応義塾卒業、翌年兵役へ、1926(大正15)年3月、除隊。北海道にも足を延ばし、その時の紀行2編は登高行に発表された(内容参照)。
 1928(昭和3)年3月25日、積雪期の槍・穂高縦走を目指して雨の中を横尾岩小屋を出発した。併し、天候が依然思わしくない為、北尾根4峰から下山を始めたが、突然大島がスリップして涸沢側へと墜落死した。28歳の若さであった。彼の死は、大正12年1月、25歳で遭難死した板倉勝宣の死とともに、近代アルピニズム揺籃期にあった日本山岳史の中で大きな損失であった。
 大島は、兵役を含む僅か7年ほどの間に、登高行(慶応大学山岳部)、山とスキー(山とスキーの会)、山岳(日本山岳会)に数多くの論文、紀行、随想を発表している。また優れた語学力で、諸外国の登山に関する文献を研究し、新知識を日本に紹介した。遭難後、これらは友人達によりまとめられ、「山‐研究と随想」(1930年岩波書店)及び「先蹤者‐アルプス登山者小伝」(1935年梓書房)として刊行された。

内容
 「山 研究と随想」(B-14参照)発刊の5年後に友人達により刊行された本書は、スイス人で自らモンブラン第3登を果たして「科学的登山の父」と称されたオラース・ベネディクト・ドゥ・ソーシュール以下32人のアルプス登山「先蹤者」の小伝である。国別では、マッターホルン初登頂のエドガー・ウィンパーら英登山家19人のほか、スイス5人、ドイツ4人と続く。32人の登山家群の中で、大島はアルバート・フレデリック・マンマリに重点を置いた。ほかにヨーロッパアルプス登山小史3編と初登頂史4編が収められている。また、所収登山者及び著名な案内人の肖像写真を載せている。

 刊行するに当たって大島の友人達は、遭難からすでに10年経っており、当時とは日本の登山界もずいぶん差異があり、登山界に新しく寄与することは甚だ僅少であると考えたが、
 「乍併、千三百ページに余る努力の結晶たる遺稿を前にしては、如何にもそのまま篋底のものたらしめるに忍び得ないものがあり、結局故人を記念するを主意として出版することとなったのである。‐‐‐‐当時此の種の文献が日本に極めて僅少で、且つ一歩も足を欧州アルプスに印したことのない若者が、此の種の研究に払った努力と山岳に対する熱意とには今日と雖も十分認められていいのではないかと思ふ」
と「編者のことば」で述べている。

山岳館所有の関連蔵書
登山史上の人々 大島亮吉/1968/三笠書房
登高行 第2,5,6,7号 慶応義塾大学山岳部
山とスキー 13〜91号/山とスキーの会
山岳 第20,21年/日本山岳会
山 研究と随想 大島亮吉/1930/岩波書店
大島亮吉全集 本郷常幸・安川茂雄編/1970/あかね書房
 
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