ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー

昭和期2(1931〜1935)


昭和期2(1931〜1935)について

上越国境/角田吉夫/1931
Review/syowa2/jouetu.html 上越国境/角田吉夫/1931 16.上越国境 角田吉夫(つのだよしお)/1931/大村書店/337頁 函と表紙 函と表紙 利根川水源の写真と上流地図 利根川水源の写真と上流地図 角田吉夫(1907- ?)  東京に生まれる。法政大学英法科卒業、在学中は同大山岳部創立メンバーとして活躍し、南北アルプス、奥秩父、北海道の山々に登った。1925(大正14)年7月、槍・穂高縦走、1927年3月、乗倉岳、1928(昭和3)年3月、穴毛谷により笠ヶ岳、6月、塩見岳より三峰川下降、8月、石狩岳より石狩川下降、1929(昭和4)年1月、仙ノ倉山。特に力を入れたのが上信越にまたがる山域で、この地域の積雪期パイオニアとして知られる。著書「上越国境」は、この地方の最初の山岳案内書である。日本山岳会「山日記」の編集に尽力する。日本山岳会名誉会員。 内容  東は尾瀬から西は苗場山に至る群馬県、新潟県国境とその付近の山と谷についての詳細な「案内編」と「紀行編(1),(2)」からなる。長大な山域の研究を1冊にまとめたパイオニアワークの結晶である。田部重治は「序」で、 「君は凝り性である。一たび事に従事すれば、そのことに徹しなければ止まない性を持っている。スキー登山に於ても、岩登りに於ても、山岳写真に於ても、君は決して人後に落ちるものではない。・・・・・恐らくこの書は今迄に公にされた上越国境を物語るものの内最も優れたものである。」  案内編「利根川の上流について」では利根川上流の地形、文献、過去の二つの水源探検隊の行動を研究し、紀行編「利根川水源」で大水上山から5日をかけて宝川温泉まで下って先の研究を実証している。現在は奥利根湖の底となってしまった小穂口澤付近の景況について、 「廊下は水長澤の近くで漸く終わっている。緑の山毛欅が一段とさえる。左岸より水長澤は静かに合流している。広い谷、緩やかな流れは此処に至って初めて大利根の洋々たる下流の雄大さを眼前に彷彿せしめるものである。」  歴史にしばしば登場する三国峠は、現在は国道17号線(三国トンネル)で簡単に通過できるが、角田の頃の峠の様子について次のように述べている。 「(越後側より)峠に至る途中1012.5mの水準最高点の記号の付近にお助け小屋があるが今は廃朽して宿泊は出来ない。峠には大きな鳥居と三国権現の社殿があり、四、五人を容る避難所ともなる。」  挿入されている多くの写真が、いずれも素晴らしい。随所に適切な案内図、巻末に詳細な参考文献目録、地名索引が付されている。 山岳館所有の関連蔵書 上越国境(日本山岳写真叢書)/塚本閣治/1946/山と渓谷社 上越国境の山々 日本山岳風土記4/代表編集長尾宏也/1959/宝文堂
銀嶺に輝く・剣沢に逝ける人々/東京帝大スキー山岳部
Review/syowa2/ginrei.html 銀嶺に輝く・剣沢に逝ける人々/東京帝大スキー山岳部 17.銀嶺に輝くー報告と追悼 東京帝国大学運動会スキー山岳部/1930/164頁 剣沢に逝ける人々 東京帝国大学山の会編著/1931/梓書房/195頁 「銀嶺に輝く」函と表紙 「銀嶺に輝く」函と表紙 「銀嶺に輝く」雪崩発生の原因解説 「銀嶺に輝く」雪崩発生の原因解説 「剣沢に逝ける人々」扉 「剣沢に逝ける人々」扉 東京帝国大学スキー山岳部(Tokyo Imperial University Ski Alpine Club = TUSAC)  TUSACは1923(大正12)年に誕生した。1930年代頃までの部には他の大学山岳部には見られない特色があり、これが後年まで続く自由闊達で体育会系運動部によくある上下関係の少ない、TUSACのチームカラーの源をなしている。そのひとつは、TUSACが旧制高校山岳部で既に第一級の登攀経験をもち、日本の登山界を代表する錚々たる群雄の集まりで、山仲間ではあっても上下関係のないサロンであったこと、もうひとつ、私大のように予科〜大学という一連の続きがなく、また例えば三高〜京大といった特定高校との結びつきもなく(一高〜東大というのも戦後の神話)広く全国の高校から集まったため、先輩・後輩という意識があまり生まれなかったことである。(東大運動会スキー山岳部ホームページより)  戦後は1959(昭和34)年10月の滝谷遭難で6名の部員を失うという悲劇があったが、海外に積極的に挑戦、1963年バルトロカンリ(7312m)、1965年キンヤン・キッシュ(7852m、遭難発生のため撤退)、1971年チューレン・ヒマール(7371m)、1980年シブリン(6543m)、1984年K7(6943m)などの登攀に成果を収めている。 内容  1930(昭和5)年1月、TUSACのOB窪田他吉郎、田部正太郎、その岳友松平日出男、慶応大学学生土屋秀直、芦峅寺ガイド佐伯福松、佐伯兵次の6名が、剣岳登頂を目指して剣沢小屋で天候の回復を待っている時、大雪崩に襲われた小屋が壊滅、睡眠中の6人全員がその小屋の中で遭難死した。 1月20日、第2回捜索隊により全員の遺体が収容されたが、遭難から10日以上経っていたにも拘らず、窪田氏は収容直前まで生存していたことが分った。さらに遭難から4ヵ月半経った5月末、TUSACのメンバーが遭難跡から田部氏と窪田氏の手帳を発見、この手帳から遭難が1月9日であることが判明した。この二つの手帳は、遭難とその後の状況の説明と、近しい者達への遺書であり、遭難した両人の誠実な人柄を物語っており、死に直面した人間の悲痛な心境をありのままに伝えている。  「銀嶺に輝く−報告と追悼」は、TUSACが遭難のあった年の7月に発行したもので、山行のための準備から遭難に至るまでの報告、雪崩発生の原因、捜索状況、遺書の解読、多数の写真からなる“報告”、窪田、田部両君の経歴、思い出などの“追悼”の2部から構成されている。雪崩の原因については、鶴ヶ御前(2776.6m)手前のコルから発生した乾燥新雪雪崩が、約400mの落差を流下して小屋を直撃したものと考えられた。  「剣沢に逝ける人々」は、遭難に対する社会的反響が大きかったこと、「銀嶺に輝く」の購読希望者が多く、用意した600部では間に合わなかったことから、OB会である山の会が前著の報告を整理、一部訂正し、前著に入っていなかった他の4名の追悼も入れて、梓書房から翌1931(昭和6)年1月に発行した。 山岳館所有の関連蔵書 滝谷-1959年10月6日/TUSAC/1960 バルトロ・カンリ1963/東京大学カラコルム遠征隊/日本放送出版協会 キンヤンキッシュ1965/東京大学カラコルム遠征隊/茗渓堂 K7初登頂/TUSACカラコルム学術登山隊/1987 チューレン・ヒマール仮報告書/東京大学ネパールヒマラヤ遠征隊/1971 山と友/1981/東大山の会五十周年記念/東大山の会 輝けるときの記憶-山と友?/2000/東大山の会七十五周年記念誌編集委員会
北海道の山岳(登山案内)/編者代表田中三晴//1931
Review/syowa2/hokkaido.html 北海道の山岳(登山案内)/編者代表田中三晴//1931 18.北海道の山岳(登山案内) 編者代表田中三晴//1931/晴林堂/376頁 表紙 表紙 扉 扉 日高登路概念図(1/20万) 日高登路概念図(1/20万) 北大山岳部創部期に活躍した以下の6名と晴林堂店主田中三晴が編者となっている。 館脇操(1924年農学部生物学科卒)、坂本直行(1927年農学実科卒)、沢本三郎(1928年農学部畜産科卒)、須藤宣之助(1930年農学部化学科卒)、井田清(1930年農学部畜産科卒)、山縣浩(1932年工学部機械科卒) 田中三晴:慶応大学山岳部OBで大島亮吉と同級。大正9年大島亮吉と共にクァウンナイ川から石狩岳を登り、石狩川を下る(参照:B-14、大島亮吉「山 研究と随想」)。北海道の夏山開拓者の1人。札幌山鼻に晴林堂書店を経営していた。 内容  「序」は槙有恒が寄せている。同書が発行された1931(昭和6)年は、冬の石狩岳初登頂の3年後のまだ日高山脈の夏・冬の初登頂が試みられている時代である。そのような時代に発行された本書1冊のみで、もちろん北海道の山すべての案内が含まれているわけではないが、編者たちが道内の山の初登頂に勇猛に挑んでいた北大山岳部の錚々たるメンバーであるために、取り上げられている山の案内は、簡潔、的確である。編者代表の田中三晴は「はじめに」で次のように記し、本書が本道初の綜合登山案内書であると宣言している。 「今や本道山岳主要登攀を大体終わりたるも、未だ比等山岳に関する纏りたる登山案内書を見出さず、本州に於ける此の種の著書多きに比し、甚だ心寂しきを覚ゆ。ここに於て自分は前掲の数氏と共に、その足跡をたづねて、ここに一書をおくり出そうとするのである。」  「日高山脈」の項を見ると、 「北部,中部の澤が急峻で、箱、滝の連続をなしているのに反し、南部の澤は非常に緩やかで歩行容易である。又北部の山々は、夙に多方面より登山せられ、且一般に知られているが、中部、南部は未だ余り登られず、未知のものが多い。」と紹介している。  慶応大による夏のペテガリ岳初登頂が本書発行の1年後、北大が執念を燃やした冬のペテガリ岳初登頂は、本書発行から12年後であった。写真が14葉、1/20万日高登路概念図、十勝連峰冬期登路概念図など図版6葉が挿入、添付されている。箱入りの立派な装丁である。 山岳館所有の関連蔵書 記念 創立十五周年/北大スキー部/1926 北大山岳部部報1号(1928)〜3号(1931) 山とスキー 1号〜100号、 山と雪 1号〜10号 大雪山ー登山法及び登山案内/小泉秀雄/1925/大雪山調査会 北海道のスキーと山岳/加納一郎/1927/北海道山岳会 山ー研究と随想/大島亮吉/1930/岩波書店 山と雪の日記/板倉勝宣/1930/梓書房
山 詩集/井田清/1931
Review/syowa2/yama_shi.html 山 詩集/井田清/1931 19.山 詩集 井田清(いだきよし)/1931/山と雪の会/180頁 表紙 表紙 扉 扉 伊藤秀五郎 詩集「風景を歩む」 伊藤秀五郎 詩集「風景を歩む」 井田清( ?−1957) 実業家、詩人、登山家  東京に生れる、1930(昭和5)年、北大農学部畜産学科を卒業。北大山岳部創設期のメンバー。1926(昭和元)年2月、夕張岳にスキー登山、同年5月、ニセイカムシュペ、同年9月、赤岩山試登、1927(昭和2)年1月、上ホロカメットク、同年7月、ピリカペタン沢から札内岳、エサオマントッタベツ岳、1928(昭和3)年2月、石狩岳など数々の意欲的な山行をしている。  井田の北大卒業後の消息は、当時の友人達が鬼籍に入った事もありはっきりしない。以下は断片的な情報による消息である。 山崎英雄(昭和18年入部、農学部生物学科卒業)は井田の思い出を次のように語っている。 学生時代の井田は、山崎春雄先生宅を良く訪問していた。ヘルヴェチア・ヒュッテの建設時、手伝いによく来ていた。戦中は騎兵隊に入っていたらしい、サーベルを下げて現れた。戦後も山崎宅へ2,3回来たが、来てもゆっくりせず、何か分らないが慌しく帰っていくのが常であった。 山の会時報6号(昭和12年12月)に掲載の中野征紀宛の手紙。 ヘルヴェチア・ヒュッテ10周年記念写真に対する御礼、10周年に出られなかったお詫び、ヘルヴェチアと山崎春雄先生とグブラーさんの思い出を綴った心温まる手紙である。最後に「この冬はまたまた支那で暮らしそうです。フラフラ歩き好きはますますつのるばかりです。」とある。 時報24号(昭和25年12月)の会員消息 編集者が井田の事務所を訪問した時のこと。「銀座資生堂3階に事務所があり、鳥羽湾の真珠研究所で真珠の養殖について偉大な発見をした由」というちょっと度肝を抜かれる話が載っている。続いて「近く氏の新しい詩集が発刊されるとのことである」とあるが、実際に発刊されたかどうか、定かでない。 会報44号(昭和51年8月)に桜井(南部)信雄の「1本のピッケル」という記事。 これは井田の死後、桜井が井田愛蔵のシェンクのピッケルを遺族から譲られるが、それが井田に渡るまでの経緯、シェンク親子のどちらが鍛造したものかなどを知人22名に取材した話である。井田の消息に関する部分を拾うと、 「彼は登山家であったが、又詩人でもあり、詩集「山」を出版し、何れかと言えばやや感情的な性質を持っていたように見受けられた。」「彼が渡欧したのは昭和8年8月(1933年)で・・・」「戦時中軍属として満州に居た間、知人がピッケルを預かり、帰国後再び彼の手に渡り大切にしていたものであろう。」桜井の話の結論は、井田は現地で父のシェンクから手に入れたものであろう、と結論している。井田は1933(昭和8)年夏、磯野計蔵(註)、案内人のサミュエル・ブラバンドとメンヒ、ユングフラウ、アイガーなどの山々に登った。桜井が述べている井田の「1本のピッケル」は、現在、北大山岳館の壁を飾っている。1本のピッケルにまつわる古い楽しい話である。 内容  詩集「山」は、山と雪の会の発行、発行者は井田清、武者小路実篤が序を寄せている。“序詞 山”“谷間”“樹氷と掌”“瞼の奥”“クマ笹”“やまみち”“白粉をぬった女”“沼歩き”の8部から構成され、56篇の詩を載せている。  山の出版の3年前、伊藤秀五郎は詩集「風景を読む」を出版している。題字は日夏耿之介(詩人)、跋は外山卯三郎(美術評論家)による箱入りの立派な装丁である(参照:上の写真)。井田の白表紙のあっさりとした装丁の詩集に比し、余りにも立派である。井田は、伊藤のこの詩集に影響されて自分の詩集を発行したのであろうか。伊藤の沈鬱で難解な詩と比べると、井田の詩は明るくて分りやすい。 日高の山 僕は喜んで居るのだろう。 こんなにも毛深い峰の上で ハンモックのような這松に身を埋めて 松の香で一杯な山の蒼穹を見て居るのだから そして朝焼けの雲海が薄い透明な曙の裡で 静かな夢の様に凪いで居る明け方 僕はそっと枯枝に火を移す。 又一日の山旅の始る朝の火を。 軽い朝風が火を吹いて 赤い火花が薄光の中で灯火の様に慓える頃 尾根の腹にはられた天幕の中では 網の魚の様にどいつも谷の方へずりこけたまま眠っている。 小さい天幕の嫌ひなアイヌ達は 冷たくひえた焚火の傍で 円く石の様に行儀よく眠り続けている。 谷側の体の下には枯木をかって はみだしやうのない尾根の腹で 峰の広い胸に抱かれている彼等は 天幕の中に這入ると幼児の様にむづかるのだ。 ーつづくー 岩壁 あの岩壁の うすい裂目に身をしのばせて 青黒い冬の水平線や 遠くの白い山々を見て居よう 岩陰で 私はこっそり 小さなパイフェをくゆらそう 夜には そっと岩陰から空をのぞこう 何処か遠くの山では 氷や樹氷が闇にうす寒く鳴って居るだろう 私は寂しいから岩穴の中で炭俵をゆすぶって その懐かしい氷や樹氷の声を聞かう (樹氷は風でよく粉炭の様な音をたてるのです) 山岳館所有の関連蔵書 詩集 風景を歩む/伊藤秀五郎/1928/厚生閣書店/東京詩学協会版 頂/中村邦之助/1934/私家本 北大山岳部部報/1,2,3号 北大山の会会報/6,24,44号 山と雪/1,2号/山と雪の会 スイス山案内人の手帳より/岡澤祐吉/1987/ベースボール・マガジン社 (註)磯野計蔵(1907-1966) 東京商科大学山岳部OB。1930年8月、奥又白より前穂北尾根・西穂縦走、同12月、種池小屋から厳冬の鹿島槍登頂などの記録を残す。1933年3月〜1934年4月渡欧。明治屋第4代社長。
山と渓谷/田辺重治/1932
Review/syowa2/yamakei.html 山と渓谷/田辺重治/1932 20.山と渓谷 田部重治(たべじゅうじ)/1932/第一書房/572頁 表紙 表紙 扉 扉 田部重治(1884-1972) 英文学者、登山家  富山県室村(現富山市長江)に生れる。第四高等学校を経て、1907(明治40)年、24歳で東京帝大英文科を卒業。海軍経理学校で教鞭をとったのち、東洋大学、法政大学で英文学を教える。法政大学ではスキー山岳部長を務めた。  東大在学中に木暮理太郎を知り、2人で毎日曜といってよいほど東京郊外を歩き回る。最初の山らしい山は、24歳の時の妙高であったが、木暮と言うまたとない友人を得て、活躍の場は日本アルプスへと広がった。1913(大正2)年には木暮と槍ヶ岳から日本海へ至る13日間の大縦走をやってのける。奥秩父の紹介者としても知られ、飛騨、秩父の山々で、日本近代登山史上にも特筆される未知の山稜や渓谷をたどる探検的な登山を行なった。「日本アルプスと秩父巡礼」を始めとする数多くの著書を残した。日本山岳会では幹事、評議員を歴任、同名誉会員。 内容  田部重治が山行を始めた24歳からの10年間の紀行、随筆をまとめた「日本アルプスと秩父巡礼」が、1919(大正8)年、北星堂から出版された。この出版後10年間に書いた紀行、随筆を加えて、1929(昭和4)年、第一書房から「山と渓谷」として刊行された。572頁の大部である。山岳館所有の本書は1932(昭和7)年6月発行の第18版で、短期間での版の多さから見て、この本が如何に当時の岳人たちに読まれたか分る。内容に優れ、かつ装丁が質素で、同時代の他の山岳図書の半値である事も人気の一つであったろう。  内容は、随筆20編、北アルプス関係13編、南アルプス関係2編、秩父関係14編、その他5編からなり、巻末に登山行程表、5万分の1陸地測量部地図参照表が添付されている。  田部は、大学時代に木暮理太郎と知り合ったのをきっかけに、山に登るようになったが、故郷の山である立山、薬師岳に登り、一層強い感動を受けた(「薬師岳と有峰」(明治42,3年))。以後の「槍ヶ岳より日本海まで」(大正2年)は上高地-槍ヶ岳から黒部五郎岳を経て立山-剣へ、さらに早月川を下って日本海滑川までの13日間に亘る大縦走、「毛勝山より剣岳まで」「剣岳より赤牛、黒岳を経て大町に至る」(大正4年)は日本海魚津から毛勝山、剣岳、黒岳、野口五郎岳を経て大町へ下る9日間の縦走、「御岳と乗鞍岳との間の幽境」(大正9年)は木曽上松から御岳に登り、飛騨側へ下り、乗鞍岳へ、さらに野麦峠を経て奈川度から梓川を遡り上高地への山旅、そしてその他の紀行もいずれも探検的な要素を含む素晴らしい山旅である。  自序で「大体において作者は、日本アルプスを紹介することよりも、秩父を描くことに力を入れた・・・・・」、そして「秩父の印象」(大正5年)では「しかし秩父の真に誇るに足るべき特点は、今迄繰り返し言ったやうに、山容その物にあるのではなくて、深林と渓谷の美にあるのである。」と述べている。笛吹川東沢の初遡行「笛吹川を遡る」(大正4年5月)は、その時の紀行を「見よ!笛吹川の渓谷は、狭り合って見あぐる限り上流の方へ峭壁をなし、その間に湛へる流水の紺藍色は、汲めども尽きぬ深い色を持って上へ上へと続いている。・・・・・」と驚きと喜びがそのまま伝わってくる文章で著している。  田部の文章はゆったりと、忠実に、決して誇ることなく自分の行動を記述し、それがいずれもが内容のある山旅であり、紀行文である。社名であり、雑誌名である「山と渓谷」は、創立者川崎吉蔵が本書の書名を田部から譲り受けたものである。 山岳館所有の関連蔵書 スキーの山旅/田部重治編/1930/大村書店 紀行と随筆/田部重治/1934/大村書店 峠と高原/田部重治/1934/大村書店 山への思慕/田部重治/1935/第一書房 雪庇/田部重治/1937/帝国大学新聞社 山を語る/田部重治/1937/大村書店 山の憶ひ出(上)(下)/木暮理太郎/1938/龍星閣 山と随想/田部重治/1939/新潮社 青葉の旅・落葉の旅/田部重治/1941/第一書房 旅への憧れ/田部重治/1943/新潮社 旅路/田部重治/1943/青木書店 随想 山茶花/田部重治/1943/七丈書店 ふるさとの山々/田部重治/1944/六合書院 登山の今昔/木暮理太郎/1955/山と渓谷社 日本アルプスと秩父巡礼/田部重治/1975/大修館書店 わが山旅五十年/田部重治/1978/二見書房 忘れえぬ山旅/田部重治/1983/三笠書房
山の素描/黒田正夫・初子/1931
Review/syowa2/subyo.html 山の素描/黒田正夫・初子/1931 21.山の素描 黒田正夫・初子(くろだまさお・はつこ)/1931・山と渓谷社/276頁 表紙 表紙 扉、墨絵は三の窓 扉、墨絵は三の窓 黒田正夫(1897-1981)雪氷学者、登山家   東京に生れる。一高を経て東大工学部冶金科卒。卒業後、(財)理化学研究所に入所。年少の頃より登山を始め、一高旅行部で本格的登山に打ち込み、北アルプスの高峰をことごとく登りつくした。近代登山の草分けの1人で、若い頃の著書「登山術」では岩登りでの確保(ジッヘル)理論や、スキーのズダルスキー以来の技術を紹介している。初子と1923(大正12)年結婚、「以来、一生の最上の山友達」となる。本業は金属材料学であったが、山に登るうちに雪氷の魅力に取り付かれ、いつしか本格的に雪氷に取り組むようになった。理研黒田研究室を率いて金属に止まらず数々の業績を残したが、その数々の1つが雪氷であった。1950〜1956年、日本雪氷学会会長。 黒田初子(1903-2002)料理研究家、登山家  東京に生れる。双葉高女を経て東京女子高等師範学校卒。20歳で正夫と結婚後、正夫の指導で本格的な登山を行なうようになった。北アルプスの小槍、剣岳を始めとする数多くの女性としての初登攀や、秩父の渓谷での初遡行などの記録を残している。70年以上に亘り、自宅で料理研究室を主宰、著書に「お料理のレッスン70年」「いきいき90歳の生活術」など。 内容  黒田正夫、初子夫婦の共著。冬、春、夏、秋、谷、高原の6部21編の紀行、22編の随筆、カラコルム紀行1編からなる。紀行は正夫の大正10年の日記を除き、いずれも夫婦で行なった1925(大正14)年から1931(昭和6)年までの山行記録である。夫婦で外出するだけでも何かと白い眼で見られがちであった当時にあって、夫が妻を伴って体力と技術と精神力を必要とする山行を行なっているところがおもしろい。  初子は登山を始めた翌年には、笛吹川東澤、西澤を遡行(「笛吹川西澤」)、昭和5年には厳寒の唐松岳へ(「厳冬の唐松岳」)、翌6年元旦には槍の穂を登る(「元旦槍ヶ岳に登る」)。唐松岳の頂上近くでは突風が雪煙を舞い立たせて、山の姿も見えない。「この底力の知れぬ吹雪の集団に対して、戦いを挑むものこそ己を知らぬ痴者である」と決断し、白馬岳への縦走を中断、下山する。この日、剣沢小屋で東大スキー部の6名が、雪崩のために遭難死している(B-17「銀嶺に輝く」「剣沢に逝ける人々」参照)。  自然をしっかりと見つめた美しい記述からなる本書だけに、「御岳山は荷かつぎの人夫もすれていて、賃金などもぼるし、一体に感じがよくない」(「木曽御岳」)等の、江戸時代に覚明行者によって開山された昔から信仰登山の人々への奉仕を業として来た山人たちへの蔑視とも取れる記述には違和感を覚える。
ヒマラヤの旅/長谷川伝次郎/1932
Review/syowa2/himarayanotabi.html ヒマラヤの旅/長谷川伝次郎/1932 22.ヒマラヤの旅 長谷川伝次郎(はせがわでんじろう)/1932/中央公論社/ 箱 箱 表紙 表紙 カイラス略図 カイラス略図 パンチチェリの山稜で憩う長谷川と友人のマサジー パンチチェリの山稜で憩う長谷川と友人のマサジー ゲンボル尾根からナンガ・パルバット南面,右方遥かにカラコルム連峰見ゆ ゲンボル尾根からナンガ・パルバット南面,右方遥かにカラコルム連峰見ゆ 長谷川伝次郎(1894-1982) 古美術研究家、登山家  東京に生まれる。生家は江戸中期から続く日本橋小伝馬町の老舗タンス店。東京高師付属中学に学び、大関久五郎の薫陶を受け、中部山岳に登る。中学卒業後は家業を継いだが、関東大震災(1923年)で店が焼失したのを期に廃業し、兄弟三人で北海道に渡り、鶴居村で牧場経営を始めた。1925(大正14)年、少年時代から心惹かれていた東洋古美術研究のため、仕事を末弟に任せインドへ渡る。インドでは詩人タゴールが経営するビスワバラライ大学芸術科に入学し、古美術研究に没頭し、またインド全域にわたって民族探索の旅を続けた。1927年5月には中部ヒマラヤを横断してカイラス巡礼へ、1928年にはカシミールとナンガ・パルバット周辺を巡る旅を行った。この三つの紀行が本書に収められている。,br>  4年間のインド・ヒマラヤの旅を終えて帰国した長谷川は、写真とスキーを友として日本の山を歩き続けた。第2次大戦前は、国の命により京都の国宝の仏像を写真に納めた。 内容  「ヒマラヤの旅」は、1932(昭和7)年、中央公論社より発行された。布張表紙、大きさ23×31cm、2000部限定、定価12円の豪華本で、序は槙有恒が寄稿している。三つの紀行からなる「ヒマラヤの旅」、201葉の写真を収めた「写真集」、追録として三田幸夫「ダージリンを中心とする山旅」と木暮理太郎「ヒマラヤ雑記」が載せられている。  「カイラス巡礼」は、1927(昭和2)年1月友人マサジーとともに、ヒマラヤ山脈を越えてカイラスを訪ねる旅である。日本人がヒマラヤ越えをしてカイラスを訪ねる旅は、ネパールからチベットへ入った1900(明治33)年の河口慧海以来であった。5月7日タナクプールで汽車を降りた2人は、カリ河沿いにチベット国境に向かい、現地の人々の助けを借りながら、苦難のキャラバンの末にチベット国境のリプレク峠(5500m)を越える。  「狭い岩の間の峠には、二・三間の高さの積石があり、上に樹枝を立て、枝に結び付けられた赤、白、黄の布片と羊毛が、風に翻って居た。これぞインド、ネパール、チベット三国の国境である。・・・・・今までと異なったあたらしい景色が展開した。これまで通過して来たヒマラヤ主脈や、ザスカル山脈の峨々として麓に森林や鮮緑の草地を持つ優雅な景色に引替へ、これはどこまでも悠久な景色だ。」  そして平原にどっしりと聳えるグリルマンダータに感動する。チベット入りしてからは無事カイラス一周を果たし、8月10日、3ヶ月ぶりにインドの土を踏む。この紀行では、インド、チベットの大自然を写実的に描くとともに、原住民の生活を細やかに見つめ、その習俗がありのままに報告されている。翌1928(昭和3)年1月、単身でインド南部とカシミールの旅に出る。5月にカシミールへ入り、スリナガール、バクンに滞在した後、ナンガ・パルバット観望に出発する。現地で鍛冶屋に作らせたピッケルを手に、氷河を登り、岩尾根を攀じ、ゲンボル尾根(20,000呎)に立って、ナンガ・パルバットの壮観に接した時の感動をキャラバン途中から三田幸夫に送った書簡に記す。  「三田兄 八月一日に久しく滞在していたバワンを出発して、パハルガムから大ヒマラヤ山脈に沿うて西北に進み、数多の峠を通過してとうとうナンガ・パルバットのすぐ南の二万七百三十呎のルッパルに続く、誰も登ったことの無い尾根の二萬呎の所まで登って今帰り道だ。素敵に愉快な旅行だった。」  現在見てもその迫力に圧倒される山の写真、山の人々の優しい表情や静かな町の風景写真が、当時の日本の若い岳人たちのヒマラヤ熱をいっそう高めたことは疑いないであろう。昭和初期の山の会会員達から山岳館へ寄贈される図書の中に、本書が含まれていることが多いのはそのことを物語る。 山岳館所有の関連蔵書 西蔵旅行記(上)(下)/河口慧海/1904/博文館 ナンガ・パルバット エーデルワイス叢書/ ヘルリッヒコッファ、K/1954/朋文堂 北海道大学西ネパール遠征隊報告書/1964/北大山岳部・山の会 ナンガ・パルバート登攀史 ヒマラヤ名著全集8/バウアー、P/1969/あかね書房 ナンガ・パルバット回想/ヘルリッヒコッファ、K/1984/ベースボールマガジン 河口慧海日記 ヒマラヤ・チベットの旅/河口慧海/奥山直司編/2007/講談社文庫
氷河と万年雪の山/小島烏水/1932/
Review/syowa2/hyoga.html 氷河と万年雪の山/小島烏水/1932/ 23.氷河と万年雪の山 小島烏水(こじまうすい)/1932/梓書房/406頁 表紙 表紙 フッド山(3429m) フッド山(3429m) 富士山8合目石室の小島烏水(茨木猪之吉画) 富士山8合目石室の小島烏水(茨木猪之吉画) 小島烏水(1873-1948)、登山家、文芸批評家、浮世絵研究家  高松市に生れ、のち父の勤務の関係で横浜へ移住。明治25(1892)年、横浜商業学校卒業し、横浜正金銀行入行(のちの東京銀行)。早くから文筆に興味を持ち学生時代は雑誌「学燈」を編集、卒業後は勤務のかたわら文芸雑誌「文庫」記者として活躍、明治30年代の青年文壇にあって文芸批評、社会経済批評、山岳紀行を精力的に発表。  明治27年に発行された志賀重昂「日本風景論」の未知の高山の紹介記事に触発されて、当時ほとんど知られていなかった中部山岳に足跡を印した。明治32年、かねてより念願であった本州縦断の山旅に出て、保福寺峠、稲倉峠、諏訪湖を経て木曽街道を下り、翌年には高山から乗鞍岳に登っている。明治35年8月、岡野金次郎と共に白骨温泉から霞沢を越えて槍ヶ岳に登り、この時の紀行「鎗ヶ岳探検記」を「文庫」に連載して当時流行し始めた登山熱を高揚させた。明治36年、「日本アルプス 登山と探検」の著者、W.ウェストンと偶然のことから知り合い、彼の助言をうけて明治38年10月、仲間7人と共に日本山岳会(当初はイギリスのアルパインクラブに倣って単に山岳会と云った)を創設して初代会長となった。  「日本アルプス」全四巻を刊行後の大正4(1915)年、正金銀行サンフランシスコ支店ロスアンゼルス分店長として渡米、のちサンフランシスコ支店長に昇格、昭和2(1927)年まで11年余アメリカに在勤した。滞米中にはヨセミテ渓谷、シャスタ、マウンテン・フッド、ベーカー峰などに登る。本書「氷河と万年雪の山」(1932年)は烏水のアメリカ生活がもたらした記念碑的著作である。  浮世絵、西洋版画の収集・研究のパイオニアとしても知られ、著書に「浮世絵と風景画」「江戸末期の浮世絵」がある。収集品の内900点余りは横浜美術館に収蔵されている。1948年12月23日没、74歳。 内容  本書は小島烏水が滞米中および帰国後に執筆した紀行・随想・研究18編が収められている。「序」で「米国の山々と、日本の山々を、同じ綴りのもとに閉じ合わせて、かの氷河と、わが万年雪との間に、全般は同じうせざるも、一味相通ずる宿命的関係を看取しようと試みたのである」と述べているように、彼の日本アルプスでの登山、氷河地形研究の延長線上でアメリカ西部の山々を登っている。  本書前半の「米国の『山岳氷河』」「氷河の谷から万年雪の山へ」「シェラ・ネバダと飛騨山脈の比較」「火と氷のシャスタ山」「フッド登山」「ベエカア山の氷河登攀」「ベエカア山氷河手帖」「山と氷河の古本を漁る」「氷触のロッキー山」は、氷河を持つ山々の探索と研究に充てられている。多忙な業務の合間を縫ってサン・ゴルゴニオ、ヨセミテ渓谷、レイニア、シャスタ、フッド、ベーカーの山々に足跡を印した。冒頭の3編は日本アルプスとの比較研究で、烏水の永年のフィールド・ワークの積み重ねの成果である。 「米国の『山岳氷河』」冒頭で、シェラ・ネバダ山脈に「生きた氷河」を発見したジョン・ミューア(John Muir,1838-1914)の業績を称え、日本においても山崎直方が明治35(1902)年に「氷河はたして本邦に存在せざりしか」と氷河問題を提起したことを紹介している。 「日本アルプスから送られて、私はシェラ・ネバダに来た。かつてはラスキンを読みふけった私は、シェラの氷河の発見者であるところの、ジョン・ミューアを思慕するようになった。『山への門戸は、私に終局を知らない新生涯を開いてくれた。』といったのはラスキンであるが、山への門戸が、終局を知らない氷河の新生涯を開いたのは、ミューアである。ミューアこそは拝氷教の使徒である。それを開いた山は、シェラ・ネバダである。『カアル氷河』の残存することによって、日本アルプスのありし姿を、世界のいずこの山岳よりも、よりよく彷彿させてくれることによって、私は年々シェラ・ネバダの高地帯へと分け入る。漂石の一小片は、私を神秘のシェラ氷河へとおびき出す役目の、山鳩であった。」  烏水が氷河問題に興味を持ち始めたのは明治三十年代にさかのぼる。「日本アルプスの雪蝕地形論」で氷河とのかかわりについて次のように述べている。 「山崎直方博士が『高山の特色』を、東京地学協会で講演せられた時には、私は聴衆の一人、しかも恐らくは、最も熱心なる一人であったと信ずる。同氏の一言一句を味わひ、同氏の示された薬師岳のカアル、白馬岳のスケッチ、又欧州アルプスの写真などに、どのぐらゐ、胸を躍らしたことであろう。(中略) 結局私は、日本アルプスの疑似氷河地形をもって、萬年雪の蝕削せる地形と判断した。即ち氷蝕説の代わりに、雪蝕説を立てたのは、明治四十四年十一月の『山岳』雑誌第六年第三号に載せた『日本アルプスと万年雪の関係』なる一文に於いてであった」  さらに日本の氷河について,「カールは、私の見るところ、万年雪の浸蝕作成したもので、他のU字谷、堆石、吊り懸け谷も万年雪の副成に係はるのである。」と、カール雪蝕説を結論づけている。烏水のこの説は、現在の万年雪浸食作用の考え方とは異なるが(註)、地質、雪氷に全くの素人の銀行員が、科学的な眼で自然を緻密に観察し、徹底的に研究し、しかも全く的外れとはいえない結論を得ていることに、やはり一通りの登山家ではなかった、との思いを強くする。  「日本アルプス縦横」では日本アルプスの名称についての歴史的考察をし、命名者はイギリス人のお雇外国人で冶金技師ウィリアム・ガウランドであることを史実を挙げて証明している。この章は日本アルプスの歴史について、貴重な証言集となっている。  「槍ヶ岳の昔話」は志賀重昂の死に接して、また老境にあるウェストンの生涯を思いおこして書かれたもので、二人の恩師によせる敬愛と感謝の念がこめられている。1913年11月、英国山岳会の重鎮、ダグラス・フレッシュフィールドを迎えての日本山岳会の晩さん会でこの3人が会した逸話を紹介している。フレッシュ・フィールドは、当夜の楽しかった会合を英国の「アルパイン・ジャーナル」に記述したのみならず、のちに主として日本の山の紀行を集め「雪線以下」(Below the Snow Line)と題して出版された本の中でもふれている。  「木曽街道の錦絵」は、けわしい山道の多かった木曽街道(中山道のこと)は東海道に比べて紀行文や絵画が少ないが、その中でも英泉、広重の筆になる「木曽街道六十九次」は傑作で、特に英泉の「木曽路駅野尻伊奈川橋遠景」は優れていると評している。浮世絵に造詣の深かった烏水らしく、自身も訪れた木曽街道の景観を絵画的に観察している。 山岳館所有の関連蔵書 The Japanese Alps /Weston.W/1896/John Murrey The Play Ground of the Far East/Weston.W/1918/John Murrey Below The Snow Line/Freshfield,D.W/1923/Constable & Co. 不二山 小島烏水/1905/如山堂 日本山水論 小島烏水/1907/隆文館 山水無尽蔵 小島烏水/1906/隆文堂 山岳趣味 小島烏水/1928/毎日新聞社 氷河と万年雪の山 小島烏水/1932/梓書房 偃松の匂い 小島烏水/1937/書物展望社 山谷放浪記 小島烏水/1943/青木書店 山岳文学 小島烏水/1944/大洋出版社 山の風流使者 小島烏水/1949/岡書院 小島烏水全集 全14巻/編集近藤信行ほか/1979〜1986/大修館 日本アルプス 1〜4 小島烏水/1975/大修館(復刻版) アルピニストの手記 小島烏水/1975/三笠書房(復刻版) 日本風景論 志賀重昂/1894/政教社 日本山嶽志 高頭仁兵衛/1906/博文館 日本アルプス登山と探検 W.ウェストン/岡村精一訳1933/梓書房 小島烏水‐山の風流使者伝 近藤信行/1978/創文社 山岳第1年1号〜3号 日本山岳会/1906 (註)雪食作用[ニベーション]nivation 雪の働きによって生じる浸食作用をさす。残雪や越年性(多年性)雪渓の周縁部では、凍結融解の繰り返しによって岩石が破砕され、岩片は融雪水によって運び去られるので、雪食凹地(雪窪)と呼ばれる浅い凹地が作られる。また積雪層のグライドや底ナダレは、岩盤の表面をわずかに削り取る。雪食作用はこのような浸食作用の総称であるが、残雪や雪渓の周縁で生じている凍結風化であって、積雪が直接、浸食作用をしているわけではない。(日本雪氷学会「雪氷辞典」)
赤石渓谷/平賀文男/1933
Review/syowa2/akaishi.html 赤石渓谷/平賀文男/1933 24.赤石渓谷 平賀文男(ひらがふみお)/1933/隆章社/300頁 扉、表紙欠損 扉、表紙欠損 池山釣尾根より間ノ岳及び農鳥岳 池山釣尾根より間ノ岳及び農鳥岳 平賀文男(1895-1964) 登山家、政治家  山梨県穂坂村(現韮崎市)に生れる。甲府中学、目白中学を経て、1917(大正6)年、早稲田大学政経学部を卒業。1920(大正9)年、白馬岳登山から本格的に登山を始める。南アルプスは、早くからウェストンはじめ登山者や地質学者がかなり早くから入っていたが、アプローチが長く不便だったこともあり、北アルプスのように一般には開けてはいなかった。平賀は南アの登山を開発し、一般登山者に門戸を開くべく、自ら南アに入り込んでいった。1924(大正13)年、甲斐山岳会を設立。1925(大正14)年3月に野呂川を遡行、大樺沢からの北岳登頂は、京大隊に次ぐ積雪期第2登であり、この登頂をを初めとして冬期の南ア諸峰にパイオニアとして足を運んだ。1926(昭和元)年、当時ほとんど唯一無二であった南アの案内書「南アルプスと甲斐の山々」を発刊する。郷里にあっては農業を営むかたわら、村会議員、県会議員を務め、戦後は穂坂村村長、韮崎市文化協会会長、山梨県山岳連盟顧問などを歴任、地方の行政と文化の発展に尽くした。 内容 「日本南アルプス」(B-10参照)の著者による、南アルプスの山々を水源とする大井川、富士川、天竜川の上流地帯の谷歩きの報告書である。目次は順に、田代川、東俣川、西俣川、赤石沢、聖沢、尾白川、大武川、小武川、荒川、御勅使川、早川、三峰川、黒川川、戸中川、寸又川、冬の大井川、大井川下流となっている。巻末に「身延山の鳥類−小鳥の鳴き声を聴く」がある。  「序詞」に「余の著作する山岳書は常に、その山岳の山麓に生れて、その山村に育ち、朝夕その皓例なる山岳に親しく接触し、思考してそれへの限りなき愛着心より生ずる郷土開発の使命の幾部分かを自負する以外の何物でもない。」とあるように、郷土愛から渓谷を実地踏査し、その奥深い、かつ美しい水の流れを叙述したものである。ほとんどが紀行文スタイルであり、その中に史実や動植物に関する文章を記す。  安部川から中河内川に入り、大日峠を越えて、大井川を上流にたどった紀行には、 「大島の部落に着く。上坂本の少しく北へ百三十間もある長く細い吊り橋が懸かっていた。この辺のかわらは甚だ幅広く、水は網流になっている。川の中程に、草木の生えた岩が島の如く取り残されてあった。大島は二十二戸、大島澤の釣橋を渡ると又人家が二、三軒あって、その村端れの家が田代口の南アルプス案内者瀧浪要太郎方である。・・・・・」 と電源開発が入る以前の大井川上流が描写されている。そして、大井川上流奥の天然林の伐木の歴史について、 「伝説並びに資料を参照すれば、元禄五年より七、八ヶ年に亘って、江戸の商人、紀伊国屋文左衛門や、駿府の松木屋郷蔵等によって御用木を伐採せられたのを最初とするらしい。・・・・・」 など、大井川の歴史について探求する。  平賀は、登山を楽しむと共に、故郷の動物、植物、歴史、民族などに広く興味をいただいて本書を記述していることは、「日本南アルプス」と同様である。一つの山域を水の流れを中心に探った書である。 山岳館所有の関連蔵書 日本南アルプス/平賀文男/1929/博文館 中央・南アルプス/1959/長尾宏也編集代表/宝文館 わが南アルプス/1976/白旗史郎/朝日新聞社 南アルプス1-4 日本登山記録大成16-19/1983/山崎安治他編/同朋社 北岳・赤石と南アルプス/今西錦司・井上靖監修/1984/ぎょうせい 南アルプス/1988/信濃毎日新聞社 南アルプス/田代宏/1988/グラフィック社 南アルプス/柏瀬裕之ほか/1997/白水社
高山深谷/日本山岳会編/1933
Review/syowa2/kouzannsinkoku.html 高山深谷/日本山岳会編/1933 25.高山深谷 日本山岳会編(にほんさんがくかい)/1933/梓書房/258頁 箱と表紙 箱と表紙 穂高涸澤岳より槍ヶ岳(冠松次郎) 穂高涸澤岳より槍ヶ岳(冠松次郎) 冬の十勝岳大砲岩(河田黨) 冬の十勝岳大砲岩(河田黨) 内容  日本山岳会は、1910(明治43)年から1917(大正6)年までの間に、山岳写真集「高山深谷」8輯を世に出した。本書第9輯は、第8輯から16年ぶりの昭和8年の発刊で、8輯までは会員の手作りで会員のみに頒布されたが、第9輯は梓書房から一般向けに刊行された。写真は50葉が収録されているが、これは会員及び会員外の力作数百点から選別された。それぞれの写真には、会員による随筆が付されている。  「序」で小島烏水は次のように書いている。 「顧れば、嚮に『高山深谷』を出した時には、日本の高山、殊に日本アルプスの写真を獲ることは、極めて難しく、登山者も少なかったが、高山の景象を、巧みに撮影し得る人と言っては、更に限られていた。内容は毎輯十二枚程の写真を、各台紙に貼り付けたもので、第一輯の如きは、百部の予約が、半数しか得られず、その他と雖も、百二十五部以上に出たのは、無かったと記憶する。併しそれらの写真は、日本アルプス探検時代を去ること、未だ遠くないだけに、原始の自然は、早期登山者の印画に収められて、同じ山谷の姿にしても、現在のそれと対照すれば、今昔の感に堪えないものがあるばかりか、山川変遷史の、有力なる資料ともなっている。」  そして、その後の16年間に、山の題材も写真技術も格段に豊富になっているので、今回作成された写真集は、「形式に於ても、内容に於ても、前の『高山深谷』と異なったものであるから、精神において、前者を紹述すると雖も、効果に於ては、新しい創作である。」としている。    北海道関係では河田黨「冬の十勝岳大砲岩」「富良野シーデポより十勝岳」「冬の十勝岳」、島田巽「厳冬の十勝岳主峰」、角田吉夫「サウス岳」、佐々保雄「千島パラムシリ島赤岳、白煙岳」の6点が収録され、随筆は島田巽、角田吉夫、伊藤秀五郎、加納一郎、佐々保雄が担当している。  なお、第十輯は1941(昭和16)年、アルスから刊行された。
登山スキー術の手引/北海道帝国大学山岳部/1933
Review/syowa2/tozanski.html 登山スキー術の手引/北海道帝国大学山岳部/1933 26.登山スキー術の手引 北海道帝国大学山岳部/1933(第1版)1938(第2版) /北海道帝国大学山岳部 左:第1版扉、右:第二版表紙 左:第1版扉、右:第二版表紙 第2版付図 静止中の角附 第2版付図 静止中の角附 第2版付図 ボディ・スイングとクリスチャニア 第2版付図 ボディ・スイングとクリスチャニア 沢本三郎(1900-1979)  本書は、巻末の伊藤秀五郎の「スキー登山についての注意」を除き、全て沢本三郎の執筆になるので、彼の略歴を紹介する。  沢本は北大山岳部創部時の伝説的先輩で、サワモのニックネームで知られる。山岳部時代、1926(昭和元)年1月、暑寒別岳冬期初登、同2月、夕張岳冬期初登、同7月、ニペソツ山初登、1927(昭和2)年1月、カメホロカメトック冬期初登など多くの記録を残した。山口健児(1930年農学部卒)の「北大山岳部五十周年記念誌『山岳部創立のころの回想』」から、沢本に関する部分を引用する。長くなるが文中で山口健児も述べているように、北大山岳部創設にあたって彼の果たした役割の大きさを考える時、我々北大山岳部に連なるものが、忘れてはならない人物だからである。  「(山岳部が歩みだすや否や)忽ちにして部の目的や進路が定まり、対内的にも対外的にも態勢を整備強化することが出来たのは、沢本三郎、伊藤秀五郎という性格の全く対蹠的な二人が、時を同じうして北大に居た幸運によるものと思っている。山岳部第一年目の主任幹事は沢本三郎が、第二年目を伊藤秀五郎が務めて、ここに部の基礎は磐石となった。しかしながら、この二人は結局うまくゆかず、その後袂を分ってしまった。(伊藤秀五郎君は)北海道の山を語るものなら誰一人知らぬ者はないが、沢本三郎君は忽然と姿を消してしまい、そのまま杳として山の連中から全く消息を絶ってしまった。  しかし沢本君が山岳部創立に果たした役割は大きく、忘れてはならない人物である。・・・・・彼は、明治三十三年東京銀座で生れ、東京府立一中を出て、すぐに第一高等学校に入学したというから凡人ではない。 一高では学問よりスポーツに精を出し、特に山登りとスキーに熱中し、当時三年制であった旧制高等学校に六年在学したが、ついに卒業せずに退学してしまった。さらに徹底してスキーに打ちこむために、大正十四年北大農学部畜産二部専科に入学して我々の前に現れたのである。彼のスキー歴は、大正八年一高旅行部員として高田の歩兵連隊で手ほどきをうけたのが最初であるというが、彼のスキー理論は堂々たるもので、彼に太刀打ちできるものは、当時既に居なかった。  私は彼が大学で何を勉強したのか全く知らない。後に理学部へ転じたとは聞いたが、何年居たのか、いつ卒業したのかも知らない。併し、彼とはよく山へ出かけ、一緒に札幌交響楽団にも在籍した。彼はセロ奏者としてもただならぬ才能を持っていたのである。  大学を出て以来、私は地方勤務や軍隊生活が長かったので、久し振りに彼にあったときは戦後まもなくであった。そのとき彼は東京大学伝染病研究所に勤務していたが、相変わらずスキー理論に没頭していた。  昭和三十三年暮、彼は世に跋扈する誤れるスキー理論に大反駁を加えるという意味で、創元社より「正しいスキー術」なる一書を刊行して、サワモトセオリーの健在を示した。この時の出版祝賀会は大変なもので、三田綱町の三井倶楽部で槙有恒、麻生武治、黒田正夫、松沢一鶴、三井高孟の諸氏ら百余名が集まり、マックアーサー元帥が涎を流したという酒蔵を前に、一同にて彼の快著を心から祝福したものであった。」  山口は、会報49号にも沢本の追悼文を寄せているが、その最後で次のように述べている。  「沢本君は北大山岳部にとって、忘れ得ぬ人であるが、奇行も多かったので評価は人によって異なるものがあったことは免れない。棺を覆ってみた今日、人々の見方はどうであっても、やはり稀に見る逸材であったことをつくづくと感ずるばかりである。」 内容  大きさ13×19cm、71頁、ソフトカバーで携行し易く、また活字が大きくて読みやすく、丁寧で分りやすい図解が随所に挿入されている。今日でもこれほど初心者を意識して書いたすばらしい教本は多くはない。1938(昭和13)年、在庫切れのため改訂第二版が出版された(84頁)。改定版も沢本が執筆しているが、第二版緒言で、追加、変更部分があるので第一版を全部抹殺する、と述べている。  沢本は第1版「緒言」で、「この小冊子は北大山岳部スキー合宿に来る、初心者の為に書いたものである。故に登山に役立つスキー術の外は悉く省略した。」そして登山家のスキー術とは、「スキー術のためのスキー術ではなく、登山の一手段としてのスキー術なのである。故に山岳部のスキー合宿に来る程の人は、必ず登高の精神の下に、スキー術を練習してもらいたい。」と述べている。  内容は図入りで懇切丁寧な指導書となっており、沢本の部員に対する正しい登山スキー術向上への並々ならぬ熱意が感じられる。  この欄の筆者の貧弱なスキー術では、沢本が本書で展開している理論の適切な評価などとても不可能なので、競技スキー史研究家の中浦皓至氏「スキー技術の歴史と系統(ターンへの挑戦)/1991北大図書刊行会」から沢本理論の部分を引用する。 「沢本理論は次の三点において高く評価される。第一は、世界トップの理論家のコールフィールドの理論をはじめ、アールベルクやローテーションなどに関する多くの文献を咀嚼し、それを発展的に吸収していること。第二に、それは単なる理論を越え、長年に亘って北大山岳部の練習法として定着し実践的検証に堪えていたこと。そして第三に、この点が技術=理論史的に最も重要なのだが、『回転の切換えは荷重しながら行なう』という主張である。この事は現在のスキー技術に対しても当てはまる今日的な課題である。」 山岳館所有の関連蔵書 Wunder des Shneeshuhs H.Schneider/1926/Gebrunder Enoch Verlag 正しいスキー術 沢本三郎/1957/創元社 北大山岳部五十周年記念誌1926-1976 北大山の会/1976 スキー技術の歴史と系統(ターンへの挑戦) 中浦皓至/1991/北大図書刊行会 北大山の会会報1〜55合本/1999/北大山の会
泉を聴く/西岡一雄/1934
Review/syowa2/izumi.html 泉を聴く/西岡一雄/1934 27.泉を聴く 西岡一雄(にしおかかずお)/1934/朋文堂/310頁 表紙 表紙 扉 扉 西岡一雄(1886-1964) 登山用具店主 登山家  滋賀県大津市に生れる。大阪北野中学を経て、第三高等学校に入学するも中退。大阪、青島(中国)各税関勤務を経て、1921(大正10)年、友人の出資で大阪にマリア運動具店を開店、登山用具の他、野球やテニスボールなどの輸入品を扱う。東京、福岡に支店を開くが、関東大震災で東京店が全滅、その影響もあってマリア運動具店を閉鎖する。運動具店を通じて藤木九三と知り合い、藤木の指導と感化で登山が本格的になる。,br>  1924(大正13)年、登山用具専門店の草分けとなる「好日山荘」を開業、登山用具専門店の草分けとなる。戦争中一時閉鎖するが、店員の大賀寿二の協力で復活する。1925(大正14)年8月、北穂高岳滝谷の初登攀に友人と挑戦するが、豪雨に遇い不成功に終わる。1942(昭和17)年、高瀬渓谷北葛沢を櫻井順一を案内に完全遡行するなどの記録を残した。  好日山荘は、山内、門田のピッケルとアイゼンを普及させ、また登山技術の向上を図り、登山とスキーの発展に大きく貢献した。西岡が亡くなった後は、大賀寿二が経営に当たったが、時代の流れには抗し切れず、2001(平成13)年に大阪・好日山荘は77年の歴史の幕を閉じた。RCC同人、日本山岳会会員 内容  「好日山荘」の創立者として名高い著者が、昭和初期に書いた紀行と随筆45編が収められている。著者の「登山の小史と用具の変遷」(1958朋文堂)で用具に関する薀蓄の深さを窺い知ることが出来るが、本書にも用具に関する数編が収められている。その中の1編「アイスピッケルを讃ふ」では、札幌の門田直馬(註)と仙台の山内東一郎の製品の優れている事と、彼らの製品に打ち込む姿を次のように記している。  「-----されば強がち、名も高い紅毛人の鍛えたといふ如上の優品以外にも、日本に於も、今や数々の良品が生れてきた。仙台山内作、北大系統の門田作(註)は即ちこれが双璧であって、細野のものは余程落ちる。  蒼茫として雪にくれゆく札幌平野、窓をひらくと手稲の頂白雲低迷し、樹氷を叩く朔風は強い。その風の音をききつつ、灼熱の鋼片は、大鋏にはさまれてアンビルの上に躍る。カンカンカン、冴えたる槌の音、その火の色を凝視する人の顔。,br>  仙台は青葉の風が吹く。広瀬川を隔て古城には不如帰が鳴いている。ここ閑静なる大町の里、無口にして眉上れる工人、無限の良心を胸深く湛えて、火色を一心に見つめてゐる。女房の差し出す一椀の茶はその儘に、板戸の上におかれ、一人の徒弟を相手に、この寡黙な工人は、裸形にして、赤錬の焔をあげつつ、気のむくままに存分に、無碍にピッケルを打ち出している。」  「滝澤谷をうかがふ」は1925(大正14)年8月、友人の辻谷と滝谷の初登攀に挑戦するが、途中で下山して来た藤木九三から藤木パーティと早大のパーティが既に登攀に成功したことを知る。諦めきれずに第3登を狙って、翌日の午前9時に小雨の中を槍平小屋を出発するが、途中から篠つく豪雨となる。止む無く濁流とひんぴんたる落石に恐れおののきながら、九死に一生を得て、ようやく下山することができた。無謀と非難されてもしょうがない登山ではあるが、登頂への情熱がほとばしり、臨場感に溢れた文章である。  「澤・谷・川」などは、西岡の民族史に対する造詣の深さをうかがわせるエッセイである。 山岳館所有の関連蔵書 山河をちこち 西岡一雄/1947/朋文堂 山村好日 西岡一雄/1949/蘭書房 登山の小史と用具の変遷 西岡一雄/1958/朋文堂 人生翔び歩き 和久田弘一/1982/私家本 好日山荘往来(上下) 大賀寿二/2007,2008/ナカニシヤ出版 (註)  1931(昭和6)年、北大の学生で山岳部員だった和久田弘一は、札幌の鍛冶職人門田直馬に試作させたピッケルを持って好日山荘を訪れた。その時の情景を和久田は、自著「人生翔(と)び歩き」で次のように書いている。 「当時大学生のシンボルであった角帽をかぶり、ピッケルを二本持って乗り込んだのですから、西岡さんも一寸びっくりされたことと思います。西岡さんの経営する大阪の好日山荘は山道具店としては最も信用のある店でした。多分、私の顔を見て山道具を買いに来たのだろうと思われたと思います。ところがピッケルを売り込みに来たと知って、さぞかしびっくりなされた事でしょう。私はこのピッケルの材質の特徴、同じ材料でアイゼンを作って成功したこと、それと門田さんの腕の良いことを話して、良かったら買ってもらいたいと話したのです。  そこで西岡さんはピッケルを手に取り、姿をしげしげと眺め、それから手に握って数回振ってバランスの良し悪しを試され「これは良く出来ている、買いましょう」と言うことになり、このとき初めて門田作のピッケルが商品として認められたのです。その時のうれしかったことは今でも忘れません。‐‐‐‐‐」
霧の旅/松井幹雄/1934
Review/syowa2/kiri.html 霧の旅/松井幹雄/1934 28.霧の旅 松井幹雄(まついみきお)/1934/朋文堂/434頁 箱と表紙 箱と表紙 上:天神峠より上越国境山脈の展望 下:伊香保温泉岸権旅館より眺めた冬の上越山脈 上:天神峠より上越国境山脈の展望 下:伊香保温泉岸権旅館より眺めた冬の上越山脈 松井幹雄(1895-1933) 中学校教師 登山家  東京に生れる。東京府立工芸学校(現東京都立工芸高校)に学ぶ。卒業後、校長の推挽で母校の教鞭をとる。幼少時から母親の郷里の榛名、赤城を歩き、甲武信岳にも登った。大正時代、日本アルプスに行くことは、金も暇もかかる大仕事であったが、一般の人々でも日帰りか1泊で山登りを楽しもうという趣旨の下に、1919(大正8)年、松井が中心となり同士が寄り集まって「霧の旅会」(註)を設立した。松井のホームグラウンドは、秩父、多摩、丹沢、道志などで、特に大菩薩を愛し、1929(昭和4)年に広大社から「大菩薩連嶺」を出版した。明朗な人柄で、スポーツ万能の頑健な体力に恵まれていたが、36才の若さで腸閉塞のため急逝した。 内容  松井幹雄の遺稿集で、死の翌年(昭和9年)朋文堂から出版された。霧の旅会会員であった武田久吉、木暮理太郎が故人を惜しむ「序」を寄せている。内容は3つに分類されており、第1の「霧の旅」は、松井が会誌「霧の旅」へ寄せた原稿の中から「大菩薩連嶺」所蔵以外のほとんどが網羅されており、年代が新しい順に編集され、全体の分量の2/3を占めている。第2の「薫風帖」は、「山岳」「山と渓谷」「ハイキング」などの雑誌に発表したもの。第3の「書簡抄」は神谷恭、加藤留五郎の両氏にあてた書信の一部である。収集された原稿は、会員尾崎喜八が整理・校正した。  巻頭の「烏帽子の小屋へ」は彼の絶筆で、急逝から3ヵ月後に会誌に掲載された。大町で石突きのついた金剛杖と草鞋を買って、バスで笹平へ、高瀬川を遡って濁小屋で一泊、次の日は雨の中を濁沢を登って烏帽子小屋へ入る。  「けむくて仕方がないので、腹這いになって一緒に話をしていると、雨に濡れた塚本氏一行(註:写真家塚本閤治のこと)が漸く三ッ岳の先から戻って来た。久闊を叙しているうちに、漸く元気が出てきて、熱い汁を啜ったりしていると、もう夕方だ。」  翌日はよく晴れた。  「小屋の屋根に陽がさす頃、烏帽子岳への往復を終った私等は身支度をして、今日は静かな烟をあげている小屋を離れた。『雷鳥がいますから、早くカメラを‐‐‐‐』塚本さんの一行が呼びに来て呉れたので朝露を蹴散らしてかけていった。」  絶筆となったこの一文はここで終っている。彼の紀行は、行く先々を道順どおりに、平凡な言葉で語り継いでいく。それでいて少しもあきさせない、力のある文章である。 山岳館所有の関連蔵書 高山植物 武田久吉/1916/同文館 大菩薩連嶺 松井幹雄/1929/広大社 静かなる山の旅 河田/1927/自彊館 登山と植物 武田久吉/1933/河出書房 山の絵本 尾崎喜八/1935/朋文堂 山の憶ひで(上、下) 木暮理太郎/1938/龍星閣 旅に住む日 河田/1941/日進書院 尾瀬と鬼怒沼 武田久吉/1975/大修館書店 一日二日山の旅 河田/1978/木耳社 (註)霧の旅会  松井幹雄が中心となって1919(大正8)年に設立され、1944(昭和19)年頃解散した。会の創立当時、日本アルプスの登山の大半は、地形などの情報や設備が乏しいこともあり、ガイド・人夫に地元猟師を雇い行われたために大変費用がかかり、金と暇のある上流階級のものであった。松井らは、社会人でも1日〜2日の山旅を楽しもうと、低山に活動を絞った「霧の旅会」を結成した。日本最初の町の山岳会である。当初4人で出発した会は、予期に反して多くの賛同者を得て大きく伸びていった。会員達による書籍も多く出版され、それに啓発された社会人の間に低山の登山が盛んになっていった。会の中心には文筆家の河田蓮尾瀬の紹介とその保護活動で知られる植物学者で第6代日本山岳会会長の武田久吉、詩人の尾崎喜八、登山家の木暮理太郎など著名な人達も名を連ね、文筆を通じての連帯も強かった。松井の急逝後もこれらの人々によって会は維持された。創立当初から発行された会誌「霧の旅」は、内容もレベルも高いものであった。
日本アルプスへ 日本アルプス縦走記/窪田空穂/1934
Review/syowa2/nihonalps.html 日本アルプスへ 日本アルプス縦走記/窪田空穂/1934 29.日本アルプスへ 日本アルプス縦走記 窪田空穂(くぼたうつぼ)/1934/郷土研究社/294頁 箱と表紙 箱と表紙 上高地清水屋に会した友人達 茨木猪之吉画 上高地清水屋に会した友人達 茨木猪之吉画 窪田空穂(1877-1967) 歌人、国文学者  長野県和田村(現松本市和田)に生れる。本名窪田通治。旧制松本中学(現松本深志高校)卒業、東京専門学校(現早稲田大学)在学中に一時退学して、小学校代用教員を勤めるかたわら歌作に励む。与謝野鉄幹に認められて新詩社社友となる。「山比古」「国民文学」の創刊にたずさわり、短歌、小説、紀行、古典評釈などを発表。1905(明治38)年、処女詩集「まひる野」を発表し、歌人としての第1歩を踏み出した。この間、電報新聞(のち東京日日)、国木田独歩経営の独歩社、婦人クラブ、読売新聞と記者生活を転々とし、私立女子美術学校(現女子美術大学)の教員も勤めた。1920(大正9)年、母校早大文学部に国文科が創設されたのを機に招かれて講師となり、1926(大正15)年、教授となる。早大時代に万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の三大評釈を著す。著書に歌集「まひる野」他、小説集「炉辺」、「窪田空穂文学選集」など多数。1943(昭和18)年、日本芸術院会員。1958(昭和33)年、文化功労者 内容  本書は、1916(大正5)年「日本アルプスへ」、1923(大正12)年「日本アルプス縦走」として出版された2冊の紀行文集を1冊にまとめて1934(昭和9)年に再版したものである。いずれも旅の具体的な様子がうかがわれる楽しい紀行集である。  松本の在に育った空穂は、山好きの歌人として知られる。「日本アルプスへ」は37歳の時(大正2年)初めて、少年の頃から心魅かれていた日本アルプスへ登った時の紀行である。友人の谷紀三郎と徳本峠を越えて上高地へ入り、ガイドに先導されて槍沢から槍ヶ岳を目指すが、悪天候に災いされて槍の肩から退却、目的を変更して焼岳に登った時の紀行である。「徳本峠越え」「上高地の渓谷」「田代池」「明神池」などは、1915(大正4)年の焼岳の噴火と大正池出現以前の上高地の自然を描いたものである。  上高地の清水屋で3人の友人、茨木猪之吉(山岳画家)、真山孝治(画家)、高村光太郎(彫刻家、詩人、画家) に偶然遇う。夜は彼らとランプの下で話に花が咲く。そのとき、廊下から高い訛のある声で、“婦人が病気で寝ているから、話し声を遠慮してくれ”と言う趣旨の要求をされる。その人は隣室に滞在中のかの有名なウェストンであった。空穂は 「まだ宵の口のことだ。それほどまでにいはなくてもいいだろうという気もした。『毛唐というものは‐‐‐』なんという陰口も出た。が、茨木君も高村君もウェストンに交際を持っていた。そして、ウェストンのこの山に対する位置を聞くと、遠慮するのも当然という気がした。」 と1度は気を悪くするが、素直に反省する。  この山旅から9年後、空穂46歳の1922(大正11)年7月、友人で日本山岳会会員の横山光太郎と烏帽子岳、槍ヶ岳間を縦走する。7日間の旅を100ページ余にまとめたのが「日本アルプス縦走記」である。この旅で前回果たせなかった槍ヶ岳登頂を果たすことができた。硫黄沢乗越しに1泊し、槍ヶ岳に向かう日の朝見た穂高岳と槍ヶ岳を、歌人の細やかな感性で次のように描写している。  「穂高岳! なんといふ威厳を持った山だ。その青黒い裾を大地の底深く据えて、空に溢れあがり盛り上がった山は、中腹以上はすべて真裸の赤岩をしている。そしてその赤岩の峰を幾つかに分って、起伏させている。その尖った峰、峰から峰を続けている狭い尾根は、空に乱して捧げている刃物のやうな鋭さを持っている。上高地から見た穂高岳は、威容を持っていた。威厳と共に品位を持っていた。ここで見る穂高岳は、威厳というよりも威力その物である。大地のつつんで持っている限りない力が溢れ出して、そのまま空にとどまったがやうである。  槍ヶ岳! なんといふ奇怪な姿だ。これは南から北へ亘った、屏風を立てたような山だ。山といふより山脈だ。こちらの面は、削り取ったやうな崖で、そしてその面は直ちに硫黄岳、硫黄沢となって、一面の赤をまじへた黄色い谷である。頂のない山は、鎌尾根といふ名をそのままに、大鎌の刃のやうな尾根を空へ向けている。その尾根の上に据わっている『槍の穂』は、ここから見ると、奇怪の上に重ねた奇怪なものに見える。」 山岳館所有の関連蔵書 山旅の素描/茨木猪之吉/1940/三省堂 日本アルプス紀行/1941/窪田空穂/二見書房 (註) 高村光太郎 茨木猪之吉を参照 真山孝治
わが山山/深田久弥/1934
Review/syowa2/waga.html わが山山/深田久弥/1934 30.わが山山 深田久弥(ふかだきゅうや)/1934/改造社/324頁 箱と表紙 箱と表紙 燧ケ岳(三平峠より) 燧ケ岳(三平峠より) 奥手稲のヒュッテ 奥手稲のヒュッテ 深田久弥(1903-1971) 作家、登山家  石川県大聖寺町(現加賀市)に生れる。旧制福井中学(現福井県立藤島高校)から第1高等学校に進学。旅行部のメンバーと共に、登山、スキーに励み、また文芸部では堀辰雄、高見順と知り合う。1926(大正15)年、東京帝大に入学、哲学科に在籍しつつ改造社に勤務、「現代日本文学全集」「改造」の編集に従事、また「文学」「文学界」同人として活躍する。「オロッコの娘」などの小説が好評だったことに勇気を得て、1930(昭和5)年、大学と勤めを辞めて文筆生活に入る。戦後、離婚問題などから10年近くの雌伏生活を余儀なくされるが、その後、内外の山の紀行やエッセイ、特にヒマラヤ研究に精力を傾注した。  深田は、膨大な山の作品を残したが、その中で双璧は、1959(昭和34)年から1963(昭和38)年にかけて雑誌「山と高原」に発表し、その後上梓されて第16回読売文学賞を受賞した「日本百名山」、1953(昭和28)年から死に至るまで雑誌「岳人」に書き続けた「ヒマラヤの高峰」である。1960年代から中央アジアを旅行し、紀行・探検記を著した。1958(昭和33)年には山川勇一郎(画家)、古原和美(医師)、風見武秀(写真家)と3ヶ月に亘りジュガール・ヒマール、ランタンヒマールを踏査し、我が国のライト・エクスペディションの先鞭をつけた。知床から屋久島まで、日本の山のサミットをこれほど広範囲に踏んだ登山家は数多くない。 1968(昭和43)年、日本山岳会副会長。1971(昭和46)年、登山中の茅ヶ岳(1704m)で脳卒中のため急逝。同郷の中谷宇吉郎は、幼稚園、小学校、大学の先輩。 内容  本書は、深田の膨大な山に関する著作のさきがけとなる山岳紀行随想集である。1929(昭和4)年ごろから5年間ほどに、新聞や雑誌に掲載した紀行及び随筆29編を収めている。著者自身による「あとがき」に、本書発行への思いを謙虚に次のように記す。  「僕は文壇では山岳家などと称せられているが、まだまだそんな資格はない。ただ子供の時から山が好きで今に至るまで気のむくままに山へ登っているといふことだけで、別に学問的な研究もなければ輝かしい登攀の記録もない。なまじいに売文渡世をしているばかりに、需められるまま山やスキーのことを書いてきたが、今一冊の本に出すとなると何かきまりの悪い思いがするのである。‐‐‐」  白山の麓、加賀市大聖寺に生れた著者は、「加賀の白山」の中で、冬の晴れた日に小学校の門前から白銀に輝く山を見て、「子供心にもあゝ美しいと本当に思った」と述べているが、幼少の頃からあけくれ仰ぎ見た、この<ふるさとの山>に対する想いは、なみなみならぬものがある。  「雪の札幌付近」は、1934(昭和9)年3月に津軽海峡を初めて渡って、“樹氷咲く壮麗の地”に感激する。友人らと国鉄奥手稲山の家(註1)に4日間滞在し、パウダースノーでのスキーを満喫したのち、パラダイス・ヒュッテに寄って帰札する。札幌では、伊黒正次(註2)らオリンピック選手の練習を北大シャンツェで見て(註3)、さらに近くの大倉シャンツェを見学し、スキージャンプの壮快さに驚く。いたる所にジャンプ台が見られ、子供がジャンプを楽しむ姿にも驚きを隠せない。  「円山で始め小学校の生徒の飛ぶのをみたが、鮮やかなものだ。こんな中からあるいは将来世界一のジャンパーが出るのかも知れないと思うとそんな子供達さへ何か尊敬に似た気持ちを感じるのであった。‐‐‐」  最終稿の「山に逝ける友」は、大学1年の時、八ヶ岳縦走を終って、通常ルートを外れて本沢温泉へ出ようとして雪渓で滑落死した友人、吉村恭一の追想である。いつの遭難でもそれに立ち合った者の心には、消えない傷が残る。 「すべての過失は僕の軽率と不注意にあった。僕はご家族のことを思うと、今も尚自ら責めずに居られない。しかし、吉村を想い浮かべると、あの人なつこい笑顔が、今は僕を悲しませる代わりになつかしい想い出で微笑ませてくれる。そして僕は例の冗談でも言いながら、朗らかな気持ちで彼の肩でもたたいてみたい気になるのだ。‐‐‐」 山岳館所有の関連蔵書 わが山山/1934/改造社 富士山/1940/青木書店 山の幸/1940/青木書店 峠/1941/青木書店 山頂山麓/1942/青木書店 四季の山登り‐その魅力・想い出/1956/社会思想研究会 ヒマラヤ 山と人/1956/中央公論社 雲の上の道 わがヒマラヤ紀行/1959/新潮社 氷河への旅 ジュガールヒマール探査行/風見武秀共著/1959/朋文堂 わが愛する山山/1961/新潮社 マチャプチャリ ヒマラヤで一番美しく嶮しい山/W.ノイス/翻訳/1962/文芸春秋新社 シルクロード/1962/角川書店 山があるから/1963/文芸春秋新社 日本百名山/1964/新潮社 山岳遍歴/1967/番町書房 瀟洒なる自然/1967/新潮社 雪白き山/1969/二見書房 シルクロード 過去と現在/1969/白水社 山頂の憩い/1971/新潮社 シルクロードの旅/1972/朝日新聞社 中央アジア探検史/1973/白水社 世界百名山‐絶筆41座/1974/新潮社 九山句集/1978/卯辰山文庫 ヒマラヤの高峰/1978/朝日新聞社 ヒマラヤ登攀史−八千米の山々-/1979/岩波書店 山岳展望/1982/朝日新聞社 山さまざま/1982/朝日新聞社 深田久弥山の文庫1-6/1982/朝日新聞社 世界山岳全集1〜13/共同監修/1960/朋文堂 ヘディン探検紀行全集1〜15、別巻1〜2/共同監修/1979/白水社 ヒマラヤの高峰1〜5/1964/雪華社、1983/白水社 エヴェレストへの長い道/世界教養講座/1998/シプトン、E 翻訳/平凡社 (註)国鉄奥手稲山の家 1930(昭和5)年、札幌鉄道局が旅客誘致を目的に建設した山小屋で、最大80名収容できる当時としては国内で最も設備の整った山小屋であった。電話が引かれ、冬は照明設備により夜間スキーが楽しめた。戦後、国鉄より北大に譲渡され、現在は“奥手稲山の家”の名称でワンダーフォーゲル部が管理する。 (註)伊黒正次 北大スキー部OB、戦前に活躍したスキージャンパー。1936年ガルミッシュパルテンキルヘンで開かれた第6回冬期オリンピックのジャンプ競技で第7位となる。 (註)北大シャンツェ 1932(昭和7)年、北大スキー部が建設した練習用ジャンプ台。山の会会員中村(昭和33年入部)の宅地に接する斜面に痕跡を残す(中央区宮の森)。昭和60年頃までスキー部競技班の合宿所が近くにあった。ジャンプ台跡を含む周辺の土地は北大の所有地であったが、近年民間に売却された。
北の山/伊藤秀五郎/1935
Review/syowa2/kitanoyama.html 北の山/伊藤秀五郎/1935 31.北の山 伊藤秀五郎(いとうひでごろう)/1935/茗渓堂/211頁 函と表紙 函と表紙 1840米の朝焼(札内川八の澤合流より)坂本直行画 1840米の朝焼(札内川八の澤合流より)坂本直行画 五月の十勝岳 坂本直行画 五月の十勝岳 坂本直行画 伊藤秀五郎(1905-1976) 詩人、生物学者、登山家  横浜市に生れる。横浜一中卒業後、1922(大正11)年、北大予科入学、農学部動物学科に進み、1929(昭和4)年3月卒業。引き続き大学院に2年間学ぶ。この間、1926(昭和元)年に北大山岳部を主軸となって創立し、当時未開拓であった北海道山々に、夏冬にわたり歴史に残る多くの先駆的な登山をした。その主なものは、 1923年5月暑寒別山群縦走、1924年1月十勝岳、1925年5月旭岳スキー登山、同7月美生岳、ポロシリ岳、1926年1月暑寒別岳、同7月北千島アライト富士、1927年1月天塩岳、チトカニウシ、1928年2月石狩岳、1929年1月ポロシリ岳、トッタベツ岳、同8月チロロ川−北トッタベツ岳−トッタベツ岳−トッタベツ川の単独行  この頃、大島亮吉、槙有恒、三田幸夫ら慶応の人々と親しく付き合うようになった。三田は横浜1中の先輩である。大学院終了後、東大解剖学教室副手、北大農学部講師を経て、1935(昭和10)年1月よりペンシルバニア大学大学院留学、2年半の米国滞在ののち、ヨーロッパ回りで帰国の途中、イタリア、スイスを巡遊、アルプスの空気にも接した。  1940(昭和15)年、北大に戻り、北大予科教授となる、学生主事兼務。1940(昭和15)年〜1944(昭和19)年、山岳班班長。1944(昭和19)年、突然北大を辞し、名古屋の軍需工場へ赴く。戦後は、中日新聞論説委員、三重県人事委員を歴任。1948(昭和23)年より北海道学芸大学教授兼厚生指導部長、北海道教育長、北海道教育研究所長と戦後混乱期の北海道の教育事業に奉仕した。1960(昭和35)年より札幌医科大学教授兼進学部長、1972(昭和47)年より札幌静修短期大学学長。1960年〜62年山の会会長。日本山岳会名誉会員 内容  先輩が残した北大山岳部関係者にはおなじみの名著である。著者30歳のときの出版である。冒頭に「この貧しき著書を私の最も敬愛する山の友 故大島亮吉君の霊に捧げる」とある。「序」は松方三郎が寄稿している。  紀行編と感想小論随筆編に分かれる。紀行編の「日高の山旅」や「石狩岳とニペソツ」「トナシベツ川」「北千島の印象」などは、当時の雰囲気を分りやすい文体で伝えてくれる。感想小論随筆編は、著者の山に対する心境や対し方を著す。冒頭の「静観的とは」では、著者の持論である静観的登山について考えを明らかにし、それは山を遠くから静かに観照するという意味ではなく、困難な登山の中にあって、自己を大自然の中に投入し、渾然と融合することに喜びを見出すという態度であると説明する。「山と山登りとの関係について」では大島亮吉について、「あのようなタレントに恵まれた登山家は、今後と雖も極めて稀にしか現れないであろう」と評価している。 以下に山の会会報の追悼文から本書に関係のある部分を引用する。 「伊藤秀五郎岳兄の追憶」中野征紀(第44号)  彼の「北の山」、この本は一個人伊藤秀五郎の代表作というよりも、我が国の代表的山の古典の一冊であり、伊藤の叙情文学は大島亮吉や尾崎喜八と並べて、バタくささもなく、ただの心象風景に終ることなく、日本的な雰囲気で気取りがなく、優しく、暖かく、ひたむきな素直さが満ちているように感じられるとも評価されている。 「伊藤秀五郎君の思い出」山口健児(第45号)  秀の思い出はいろいろ尽きない。その昔、ひたむきに山を眺めていた頃が眼に浮かぶが、特に冬の石狩岳の登頂にかけた執念と、北千島のアライト富士への2ヶ月余に及ぶ遠征には頭の下がるものがあり、北海道における近代登山の黎明期における壮挙であった。‐‐‐‐その頃の北海道は、雪と氷に閉ざされた多くの未知の領域ばかりで、原始的な詩情溢れる自然の中へ飛び込んだ者は大勢いたけれども、秀のような感受性と、優れた文才を持ったものは1人もいなかった。雪の山や、藪だらけの深い渓を、登りまくり捏ね歩くだけの連中にとって、彼が薀蓄ある美文を持って書き留めてくれた記録は、真にありがたき極みであった。今でも北海道の山といえば、秀の名著「北の山」を思い起こす人が多い。この本を読んで津軽海峡をリュックサックに凭れ、船酔いに苦しみながら渡った人も多かっただろう。北海道の山の良さを、またその良さを堪能したわれわれの姿を、美しく日本中に広めてくれたのは、つくづく伊藤秀五郎の文才であったと、あらためて謝意を表する次第である。 山岳館所有の関連蔵書 詩集 風景を歩む/伊藤秀五郎/1928/厚生閣書店 草原随想/伊藤秀五郎/1971/新樹社 北の山続編/伊藤秀五郎/1976/茗渓堂 詩集 山の風物詩/伊藤秀五郎/1977/茗渓堂 北海道の山旅/伊藤秀五郎/1981/ぷやら新書34/沖積社 山 研究と随想/大島亮吉/1930/岩波書店 北大山岳部部報1−7号/1928-40/北大山岳部 山とスキー1−100号/1921-1930/山とスキーの会 北大山岳部五十周年記念誌/1979/北大山の会 北大山の会会報1−55号合本/1999/北大山の会
先蹤者 アルプス登山者小伝/大島亮吉/1935
Review/syowa2/sen.html 先蹤者 アルプス登山者小伝/大島亮吉/1935 32.先蹤者 アルプス登山者小伝 大島亮吉(おおしまりょうきち)/1935/梓書房/650頁 箱と表紙 箱と表紙 大島亮吉 大島亮吉 大島亮吉(1899-1928) 登山家、著述家  東京に生れる。慶応商工学校から1919(大正8)年、慶応義塾大学予科に入学する。1917(大正6)年、中学生ながら慶応義塾山岳会に入会を許され、同年7月中房温泉から燕‐槍の縦走を果たし、上高地に下る。槙有恒がリーダーのこの山行が、大島の北アルプスとの出会いであった。大島の数多い山行の中で特筆すべきは、1920(大正9)年、スキーによる杓子尾根より白馬岳登頂、1922(大正11)年3月、リーダー槙有恒と積雪期槍ヶ岳初登、1924(大正13)年春の奥穂高、北穂高岳の積雪期初登頂である。1924(大正13)年、慶応義塾卒業、翌年兵役へ、1926(大正15)年3月、除隊。北海道にも足を延ばし、その時の紀行2編は登高行に発表された(内容参照)。  1928(昭和3)年3月25日、積雪期の槍・穂高縦走を目指して雨の中を横尾岩小屋を出発した。併し、天候が依然思わしくない為、北尾根4峰から下山を始めたが、突然大島がスリップして涸沢側へと墜落死した。28歳の若さであった。彼の死は、大正12年1月、25歳で遭難死した板倉勝宣の死とともに、近代アルピニズム揺籃期にあった日本山岳史の中で大きな損失であった。  大島は、兵役を含む僅か7年ほどの間に、登高行(慶応大学山岳部)、山とスキー(山とスキーの会)、山岳(日本山岳会)に数多くの論文、紀行、随想を発表している。また優れた語学力で、諸外国の登山に関する文献を研究し、新知識を日本に紹介した。遭難後、これらは友人達によりまとめられ、「山‐研究と随想」(1930年岩波書店)及び「先蹤者‐アルプス登山者小伝」(1935年梓書房)として刊行された。 内容  「山 研究と随想」(B-14参照)発刊の5年後に友人達により刊行された本書は、スイス人で自らモンブラン第3登を果たして「科学的登山の父」と称されたオラース・ベネディクト・ドゥ・ソーシュール以下32人のアルプス登山「先蹤者」の小伝である。国別では、マッターホルン初登頂のエドガー・ウィンパーら英登山家19人のほか、スイス5人、ドイツ4人と続く。32人の登山家群の中で、大島はアルバート・フレデリック・マンマリに重点を置いた。ほかにヨーロッパアルプス登山小史3編と初登頂史4編が収められている。また、所収登山者及び著名な案内人の肖像写真を載せている。  刊行するに当たって大島の友人達は、遭難からすでに10年経っており、当時とは日本の登山界もずいぶん差異があり、登山界に新しく寄与することは甚だ僅少であると考えたが、  「乍併、千三百ページに余る努力の結晶たる遺稿を前にしては、如何にもそのまま篋底のものたらしめるに忍び得ないものがあり、結局故人を記念するを主意として出版することとなったのである。‐‐‐‐当時此の種の文献が日本に極めて僅少で、且つ一歩も足を欧州アルプスに印したことのない若者が、此の種の研究に払った努力と山岳に対する熱意とには今日と雖も十分認められていいのではないかと思ふ」 と「編者のことば」で述べている。 山岳館所有の関連蔵書 登山史上の人々 大島亮吉/1968/三笠書房 登高行 第2,5,6,7号 慶応義塾大学山岳部 山とスキー 13〜91号/山とスキーの会 山岳 第20,21年/日本山岳会 山 研究と随想 大島亮吉/1930/岩波書店 大島亮吉全集 本郷常幸・安川茂雄編/1970/あかね書房
白頭山/京都帝大白頭山遠征隊/1935
Review/syowa2/peku.html 白頭山/京都帝大白頭山遠征隊/1935 33.白頭山 京都帝大白頭山遠征隊/1935/梓書房/148頁及び写真 箱と表紙 箱と表紙 天池の一角に立ちて 天池の一角に立ちて 京都大学学士山岳会 Academic Alpine Club Kyoto (AACK)  AACKは1931(昭和6)年、今西錦司をはじめとする京都大学旅行部の現役、OBにより、海外遠征の母体として創設された。なお京都大学学士山岳会の名称は、戦後つけられたものである。AACKはヒマラヤ初登頂を前提として作られ、当時から会員も京大出身に限定せず、志を同じくする者の会であった。初代会長は郡場寛、ついで木原均、3代目が桑原武夫といずれも京大教授である。戦前の白頭山、大興安嶺、内蒙古、カラフト、ポナペ島など、戦後はチョゴリザ、ヤルンカンをはじめとする数々のヒマラヤ初登頂や学術探検など、AACKは常に世界の探検登山をリードしてきた。 内容  本書は、今西錦司を隊長とする京大白頭山(2744m)遠征隊が、1934(昭和9)年12月から1月にかけて、厳冬期初登頂したときの報告書である。一部と二部に分かれ、一部は遠征の意義、登山用装備と行動日誌、二部は気象、植物、動物、写真などの科学技術である。  ヒマラヤ登山のトレーニング的な意味合いから極地法登山を展開し、1月7日に登頂した。以後のAACK海外登山史の原点となる記念碑的遠征である。隊員は今西隊長のほか、西堀栄三郎ら12名で、隊員のほとんどは以後の世界におけるAACKの学術探検に、大きな貢献をした人たちである。  今西は白頭山遠征の意味について「白頭山遠征について」の中で次のように述べている。 「白頭山遠征を以ってヒマラヤに対する1つの準備と解しても別段誤っているわけでないと共に、この遠征はそれ自身において1つの試練であり、独自の経験を提供するものであったと我々は解している。この解釈がヒマラヤを低く評価しているものでは無いにしても、少なくともヒマラヤで無くてはならないという至上命令の重圧から我々を自由にするものがなかろうか。白頭山でなくてはならなくなった故に我々が白頭山遠征を決行せる如く、ヒマラヤでなくてはならなくなった場合にはヒマラヤ遠征を文句なしに実行するのみである。」 山岳館所有の関連蔵書 大興安嶺遠征報告/京都帝大旅行部/1936/京都帝大旅行部 雪のホロンバイより大興安嶺/京都帝大旅行部/1936/京都帝大旅行部 ポナペ島/今西錦司/1944/彰考書院 アンナプルナ日記/AACK/1969/茗渓堂 チョゴリザ/AACK編/1959/朝日新聞社 チョゴリザ登頂/桑原武夫/1959/文芸春秋社 ノシャック登頂/AACK編/1961/朝日新聞社 サルトロカンリ/AACK編/1964/朝日新聞社 ヤルンカン/ AACK編/1975/朝日新聞社 追悼 ヤルンカンに逝く/井川他/1976/私家本 残照のヤルンカン/上田豊/1979/中央公論社 大興安嶺探検/今西錦司編/1975/講談社 カンペンチン/ AACK編/1983/毎日新聞社 ナムナニ/日中友好ナムナニ峰合同登山隊/1986/毎日新聞社 ヒマラヤへの道-京都大学学士山岳会の五十年/今西錦司/1988/中央公論社 梅里雪山/AACK編/1992/ AACK 梅里雪山事故調査報告書/ AACK編/1992/ AACK インドラサン登頂/京大山岳部/1964/河出書房 K12峰遠征記/1976/岩坪五郎/中央公論社 初登頂-花嫁の峰から天帝の峰へ/平井一正/1986/ナカニシヤ出版 その他 白頭山登頂記/今井通子+カモシカ同人会/1987/朝日新聞社
山の絵本/尾崎喜八/1935
Review/syowa2/ehon.html 山の絵本/尾崎喜八/1935 34.山の絵本 尾崎喜八(おざききはち)/1935/朋文堂/346頁 表紙 (傷みが激しい) 表紙 (傷みが激しい) 背表紙 背表紙 内表紙 内表紙 湖畔 (水彩画) ヘルマン・ヘッセ 湖畔 (水彩画) ヘルマン・ヘッセ 著者、美ヶ原にて 著者、美ヶ原にて 尾崎喜八(1892-1974) 詩人、登山家  東京築地に生れる。生家が商家であったことから京華商業学校(現学校法人京華学園)を卒業。卒業後は20代半ばまで銀行員などを経験し、その後、東京西郊で半農生活をいとなみ、詩作に耽った。高村光太郎ら「白樺派」の詩人達と親しく交わり、外国の詩人ではウォルト・ホイットマンやヘルマン・ヘッセ、ロマン・ローランに私淑した。山岳と自然を主題にした詩や散文に多くのすぐれた作品を残した。詩、エッセイ、翻訳のほかに、クラシック音楽への造詣も深く、音楽随筆集「音楽への愛と感謝」などがある。  山へ登るようになったのは30歳を過ぎてからで、河田呂涼作「一日二日山の旅」や「静かなる山の旅」(B-2「静かなる山の旅」参照)読んで感銘を受けたことがきっかけという。山の魅力を知るや、憑かれたように山行と自然観察・研究に没入し、山の詩文を書くようになる。松井幹雄の「霧の旅会」に所属し(B-28「霧の旅」参照)、河田呂蕕伴腓箸靴匿州の山野に親しみ、中級山岳を多く歩いた。晩年は北鎌倉に住み、尾崎の薫陶を受けた人々によって刊行された「アルプ」誌(註)に多く執筆した。 内容  著者の最初の詩文集で、26編のエッセイからなる。冒頭に私淑したヘルマン・ヘッセからの水彩画が載せられている。初版は1935(昭和10)年であるが、その後も装丁を変えて版を重ね、戦後は角川文庫、新潮文庫にも入っている。山岳部ルームの図書棚にデンと座っていたのをも思い出す人も多いだろう。カバーは無くなり、表紙は手垢に汚れ、角は擦り切れており、その姿から長年に亘り部員に親しまれてきた本であることが分る。新潮文庫版の自序の中で、著者はこの本のことを「我が心の物語」だと書いているが、部員達はこの本を手に取ってその「心の物語」にしばし耳を傾け、自分自身の心の物語を想い起したことだろう。  本書は、いわゆる紀行文や山水描写ではない。著者の自序で、 「愛する美しい山地を書いた、またそれに結ばれる心を書いた、これは貧しい書物にちがいないが、しかしそれでもこの世に対する私の歌だ、私の詩だ。これは!」 と言っている。 そして著者の山について次のように言う、 「僕は最後にこれだけのことを言いたい―――、 山を愛する者は山を愛するがいい。山の自然を研究する者は研究すればいい。探険家は探検するがいい。それはあらゆる人にとっての宝庫である。又さういふ事が好きならば山を相手にそれを征服するもよし、山登りの覇権(ヘゲモニー)を把るもよし、独占権を握るのもいい。  一切拘らず山は彼處に在り、山は居る。いつも平原と空との間に、紫外光線に打たれ、エエテルを浴びて。  ”ファウスト”の中で地の霊が言った、 Du gleichst dem Geist, Du bergreifst nicht mir. ”お前に解る霊にこそお前は似ている。俺にでは無い”と。」(「山に憩ふ」友に) 山岳館所有の関連蔵書 山のABC 全3集/尾崎喜八ほか編/1959/創文社 雑誌アルプ2-300号/1958〜1983/創文社、(196号は尾崎喜八特集/ 1974) 一登山家の思い出/エミール・ジャベル、尾崎喜八翻訳/1937/龍星閣 ワンデルング/ヘルマン・ヘッセ、尾崎喜八翻訳/1957/朋文堂 一日二日山の旅/河田/1978/木耳社 静かなる山の旅/河田/1927/自彊館 若き日の山々/串田孫一/1972/実業之日本社 山の絵本/静かなる山の旅/若き日の山/串田孫一ほか/1962/あかね書房 (註):雑誌「アルプ」  1958(昭和33)年3月、尾崎喜八命名による山岳雑誌「アルプ」が創刊された。串田孫一責任編集で創文社が発行元になっている。1983(昭和58)年3月、300号をもって終刊する。山の雑誌ではあるが、山の案内はしない、コース紹介、技術、用具などの実用記事もまるでない、広告は一切載せないという芯の通った清清しい雑誌である。300号のあとがきによると、25年間に600名を越える執筆者が協力したという。
山の隣人/長尾宏也/1935
Review/syowa2/rinjin.html 山の隣人/長尾宏也/1935 35.山の隣人 長尾宏也(ながおひろや)/1935/竹村書店/248頁 箱と表紙 箱と表紙 扉 扉 長尾宏也(1904〜?)登山家、随筆家  岡山県出身、青山学院に学ぶ。同校山岳部長であった別所梅之助(註)の薫陶を受ける。北海道から北ア、南ア、朝鮮の山々など、幅広く歩き、「旅にしあれば」、「山の隣人郷山風物詩」など著書多数。勤め人生活の後、昭和9年霧ヶ峰に「ヒュッテ霧ヶ峰」を建設する。山の中で暮らし、雑念を払い、自らの思索に耽るのが第一の目的であった。ここで作家、詩人や武田久吉、深田久弥、尾崎喜八らの親交を得る。ヒュッテで昭和10年夏に深田久弥らによって開かれた「霧ヶ峰山の会」は、多くの著名人を集め、楽しい有意義な山の集いであったという(岡茂雄「炉辺山話」)。惜しいことにヒュッテは、昭和12年に失火により消失した。 内容  中川一政の装丁で本文中の木版画が味わいを深めている。深田久弥の序文で、15編の随筆からなる。深田久弥は序文で著者を次のように紹介している。 「敏感で軽捷で疲れを知らなくて毛物の匂いさえしそうだ。けれども火を囲んで遅くまで話に夜を更かす時の君は、つつましく繊細な感情を持った近代人だ。」  そして本書について、 「こんな本は長尾君のやうな特異な人でなくては書けない。近代の複雑な感情に生きながら素朴な野性を失わずに居る君なればこそ、このような精到敏感な観察ができるのだ」 と書いている。  「山の隣人」とは、森と草原と渓川とに彩られた山々に生きているもの、そこでなければ生きられないものすべてのことである。クマもカモシカもキツネも、ワシも雷鳥もキジも、そして山の人や、池や石や木も山の隣人達である。「躯にも魂にも山の気の沁みこんだ人」(深田久弥序)が、この隣人達を愛惜の念を持って描いている。 山岳館所有の関連蔵書 日本山岳風土記/長尾宏也編集代表/1959/宝文堂 炉辺山話/岡茂雄/1976/実業之日本社 註:別所梅之助(1871-1945) 東京生れ、東京英和学校(現青山学院)神学科卒。同校教授、同校初代山岳部長、牧師。山の名文家として知られ、「山のしずく」、「霧の王国」などの著作がある。
 

昭和期1(1926〜1930)
前
山岳館蔵書ガイド
昭和期3(1936〜1940)
次
 
 
Copyright © 1996-2019 Academic Alpine Club of Hokkaido