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53 単独行 加藤文太郎(かとうぶんたろう)/1941/朋文堂/286頁


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表紙カバー
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千丈沢俯瞰
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剣岳頂上にて
剣岳頂上にて


加藤文太郎(1905-1936) 登山家、製図技師
 兵庫県浜坂町(現新温泉町)出身。浜坂尋常高等小学校卒業後、1919(大正8)年、当時の神戸三菱内燃機製作所に勤務しながら、兵庫県立工業学校夜間部卒業。1923(大正12)年頃から本格的に登山を始める。六甲山全山縦走など関西の山を数多く登り、1928(昭和3)年にRCCに入会する。この頃までに南北アルプスの主だった峰は、ことごとく登った。1928(昭和3)年頃から毎年、専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に、エネルギッシュな積雪期の単独登頂を果たした。中でも1930(昭和5)年2月の槍ヶ岳冬期単独登頂、1931(昭和6)年1月、薬師岳・上の国〜烏帽子岳を10日間かけて縦走、1932(昭和7)年2月、槍ヶ岳肩の小屋から32時間連続行動をして笠ヶ岳往復などの成果により「単独登攀の加藤」、「不死身の加藤」として有名となる。1930(昭和5)年1月には東大山の会の剣沢遭難直前に偶然遭難パーティと同行した(B-17「銀嶺に輝く/剣沢に逝ける人々参照」。1936(昭和11)年1月、数年来のパートナーであった吉田富美久と共に、槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遇い、天上沢に滑落して30歳の生涯を閉じる。遺稿集「単独行」には登山記録が総てまとめられている。
 郷里浜坂町に記念碑と町立加藤文太郎記念図書館がある。小説(新田次郎『孤高の人』)やドラマのモデルとなった。

内容
 北鎌尾根で遭難死した加藤文太郎の遺稿集「単独行」(私家本)は、関係者に配布されたが、その後1941年に朋文堂から再編集されて一般刊行された。26編の随筆と紀行からなる。読みやすい文章ばかりではないが、人には決して真似のできない体験が、本の中に生々しく脈を打っている。今なお、多くの登山者に読まれる由縁である。1973年、二見書房より復刻版が刊行されている。

 「序文」でRCCの創立者であり、先輩であった藤木久三は、加藤文太郎について次のように述べている。
「がっちり組んだ四つ相撲―わたしは嘗て加藤君の山の登り方について、そういふ風のことを筆にしたことがある。実際加藤君はいつも正面から正々堂々と、「山」にぶつかって行った。その勇気、沈着、用意周到な挑戦ぶりは、まったく男らしさといふ形容に尽きていた。そして加藤君こそ、わが国登山史を通じ、身をもって「単独」の実践に偉大なる業績をのこした第一人者であった。---------そして加藤君のように、生まれながらの環境と資性から単独行に走った人は類が少ないと思ふ。この点加藤君はまったく生まれながら単独行者の風格を備えていた。そしてある意味では、真に国宝的な存在であった。」

   冒頭の「単独行について」で加藤は、過去12年間の山行から確立した自分の単独行について次のように明確に規定している。
「------危険だから、危険でないとか、技量等をもって単独行を云々することはできない。単独行をしたい人こそ単独行をすべきであり、またさういふ人こそ単独行をなしうる第一の資格がある。-------単独行者よ、見解の相違せる人のいふことを気にかけるな、もしもそれらが気にかかるなら単独行をやめよ。」
 「一月の思い出―剣沢のこと」は、剣沢小屋で田部、窪田ら東大パーティーと偶然一緒になった時の記録である。加藤は一足先に下山をして難を免れたが、東大パーティーの6人は、雪崩に小屋ごと押し流され埋没死した。加藤はこの遭難について、「一月のことを思い出すのは僕には耐えられぬほど苦しい。だがそれをどうしても話してしまわなければ、僕は何だか大きな負債を担っているような気がしてなりません。」と言って、遭難パーティーとの邂逅のいきさつを記し、自分の態度が悪かったので東大パーティーの気分を悪くした等と反省をしきりにしている。全体を読むと、加藤の非よりもむしろ、冬の山小屋に同宿しながら加藤を疎外する東大パーティーの態度に違和感を覚える。

山岳館所有の関連蔵書
単独行/加藤文太郎/1973/二見書房(復刻版)
 
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