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22. エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高柳春之助訳/1941/岡倉書店/294頁
原題:Everest1933/Hugh Rattledge/1934


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内表紙
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左:C4  右:ノース・コルへ
左:C4  右:ノース・コルへ
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BCよりエヴェレスト
BCよりエヴェレスト
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C.E.エンジェル「ヒマラヤへの挑戦」より
C.E.エンジェル「ヒマラヤへの挑戦」より


ヒュー・ラトレッジ(1884-1961) 行政官、探検家
 インド陸軍中佐を父として生れる。ドレスデン、ローザンヌ、さらにチェルテナムのパブリックスクールで学ぶ。1903年、ケンブリッジ、ペンブローク・カレッジに奨学生として入学、1906年、第2級優等生学位を得て卒業。1908年、インド政庁入庁試験に合格、インド各地の州事務所勤務を経て、1925年〜32年、ヒマラヤ山麓のアラモラ州副知事に就任する。この間、ナンダ・デヴィ内院に3回接近を試み、1925年にはロングスタッフと共に、ナンダキニ河を遡行、ナンダ・デヴィとトリスルとの間のコルに達した。1926年、H.ソマベル、R.C.ウィルソンと東ティンプ氷河から内院へ入るコースを探った。さらに1932年、アルプスのガイド、エミール・レイと内院南壁のマイクトリ東方のコル(マイクトリ・コル)の下に達した。
 1926年夏、夫人とチベットに入り、カイラスを一周し、試登した。
 1933年、英国第4次エヴェレスト隊の隊長として指揮を取り、第2次攻撃でフランク・スマイスが8570mまで到達したが、疲労と時間切れのため断念した(本書)。1936年、再度第7次エヴェレスト隊の指揮を取ったが、この年も6週間も早く5月初めに始まったモンスーンの為、ノース・コルから上に登ることは出来なかった。
 インド政庁退官後は、農業を志してスコットランドのムル島周辺のゴメトラ島を購入したが、エヴェレストから帰還後は考えを変えて、舟を購入し海上生活に転身した。1950年以降はダルトモア近くで余生を送った。

内容
 1924年の英国第3次エヴェレスト遠征隊(参照:2.「エヴェレスト登山記」)から9年ぶりの1933年、ダライ・ラマの許可を得てラトレッジを隊長とする第4次遠征隊を送った。本書はラトレッジによる公式報告書の和訳である。

 エリック・シプトン、フランク・スマイス、L.R.ウェージャー、ウィン・ハリスなど新進の登山家12名と輸送指揮官2名の大遠征隊である。過去の遠征隊と同様、ネパール鎖国によりチベット側からの攻撃であった。キャラバンは3月に2隊に分かれてダージリンを出発、4月17日、東ロンブク氷河にベース・キャンプを設営した。前回にとったノース・コルへのルートは、斜面が蒼氷の大斜面と化し、ひっきりなしに雪崩れていたため、やむなく7名のポーターが雪崩で惨死した第2次隊(1922年)と同じルートをとった。

 例年より2週間早く、5月21日にモンスーンが始まった。7650mにC5、8220mにC6を建設、5月30日、ウィン・ハリスとウェージャーがC6を出発、北東稜へ向かった。登攀中、稜線から20メートルほど下の一枚岩の上に置かれた、マロリーかアーヴィンが持っていたと思われるスイスのウィリッシュ製のピッケルを発見した(のちにアーヴィンのものと判明)。北東稜第2ステップは高さ30メートルほどのツルツルの岩壁で、とうてい登攀不可能と判断された。そのため、第3次隊のノートンが使ったイエローバンドから大クーロアールに入るルートを進んだ。クーロアールでの難しい登攀で時間切れとなり、ノートンが到達した地点(8572m)以上には進めず撤退した。

 翌々日、スマイスとシプトンが第2回攻撃に向かった。途中シプトンは体調不良のため引き返し、スマイスは1人で深雪で滑りやすいイエローバンド経由、大クーロアールへと向った。しかし、そこは深い軟雪に覆われた急傾斜の岩壁であった。 「午前十時に大クーロアールの西側についた。十一時に私は高さ僅か五十呎進んだのみでそれはウィン・ハリスとウェージャーが達したのとほぼ同じ場所であった。かかる状態の下に於いて時が我々を頂上に近付き得ないようにしてしまった。そしてかかる辛い仕事は何時間の間続けられることは出来なかった。--------私は頂上を眺めたのを覚えている。それはなんという無慈悲な位無頓着で、私の喘ぎや茂垣とははるかにかけ離れて超然として見えたことか!」

 スマイスはC6で第3夜を過ごし、翌日、激しい風雪の中をC4へ生還した。スマイスはこの時かかった凍傷にもめげず、BCで休養ののち、他の隊員たちとC3へ入り、再度の攻撃を狙って粘りに粘った。しかし、全山は新雪に覆われ、ノース・コルの斜面は今にも雪崩れそうになるに及んで、6月21日、ついに撤退した。

 ラトレッジは北東稜の稜線下60呎(註:18m)、第1ステップの250ヤード(註:230m)東で発見され、のちにアーヴィンのものと判明したピッケルについて次のような見解を述べている。

「この斧(註:ピッケル)は惨事(註:1924年のマロリーとアーヴィンの遭難)を目の当たりに記録しているように見える。如何なる登山者も一枚岩の上に故意にそれを捨てるなどという事はあり得ない。しかも斧がそこにあるということはスリップが起きた時に偶然落ちたかそれとも、持ち主が綱(註:ザイル)を握ろうとして、両手を空にするため、斧を置いたことを示しているらしい。」

 そして彼等が登頂に成功したか否かについて今回の登攀を基に考察し、マロリーが北東稜第2ステップを登攀することはかなり無理だったのではないか、と推察しながらも次のように述べている。 「そして恐らくはこの事件は推察の問題として常に残るであろう。-------吾々は彼等が成功したと考えたい。というのは3回の探検を通じていつも最前線に立ったマロリーと、殆んど比類を見ぬくらい職務に忠実であったアーヴィンとより外に成功の栄冠に値する者は誰もいないからである。」

 英国のチベット側からのエヴェレストへの挑戦はこののちさらに3回行なわれた。1935年、新しいルート偵察を目的にシプトン隊長以下7名の第5次隊がノース・コルまで達した。1936年、第4次に続きラトレッジ隊長が率いる12人の隊員と23人のシュルパからなる強力な第6次隊がなにがなんでも登頂をと意気込んだが、この年もモンスーンが非常に早く襲来し、深雪に悩まされてノース・コルに達しただけで無念の涙を飲んだ。1938年、ティルマン隊長以下ヒマラヤ経験者6人の小遠征隊による第7次隊が挑戦したが、この年も例年の1ヶ月前にモンスーンが襲来し、2回の頂上攻撃も従来の最高到達点にまで達することなく敗退した。英国隊がエヴェレスト初登頂に成功したのは1953年、戦後開国したネパール側から南東稜を経由してであった。

山岳館所有の関連蔵書
  • The Light of Experience/Younghusband/1927
  • The Epic of Mount Everest/ Younghusband/1929
  • Mount Everest:The Reconnaissance, 1921/Lt. Col. C.K. Howard-Bury and other members /1929
  • The Fight for Everest: 1924/By Lt. Colonel Norton, E.F. and other members/1925
  • Everest 1933/Hugh Ruttledge/1934
  • First Over Everest/Commodore, et.al/1933
  • George Mallory/David Robertson/1969
  • Everest Reconnaissance-The First Expedition 1921/Mallory,G. Robertson,D./1991
  • エヴェレスト登山記/ヤングハズバンド/田辺主計訳/1931/第1書房
  • エヴェレスト登攀/ヤングハズバンド/田辺主計訳/1936/第1書房
  • エヴェレスト探険記/ヒュー・ラトレッジ/高橋春之助/1941/岡倉書店
  • キャンプ・シックス/スマイス,F.S./伊藤洋平訳/1959/朋文堂
  • エヴェレストへの闘い/ノートン, E/山崎安治訳/1968/あかね書房
  • マロリー追想/パイ, D/杉田博訳/1972/日本山書の会
  • エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリイ伝/ホルツェルほか/田中昌太郎訳/1988/中央公論社
  • 他エヴェレスト関係多数
 
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