21. 新疆紀行/エリノア・ラティモア/神近市子訳/1942/生活社/335頁
Turkisitan Reunion/Eleanor H. Lattimore/1934
エリノア・ラティモア(1895-1970) 旅行家、紀行作家
アメリカ、イリノイ州エヴァンストンに4人兄弟の長女として生れる。父はノースウェスタン大学の数学教授。ノースウェスタン大学卒業後、カンサスシティで女子高教師となる。父が南京大学客員教授に招聘されたのを機に、両親と共に中国へ渡り1年を過ごした。帰国してコロンビア大学国際会館で働いた後、1924年、ヨーロッパ経由、シベリア横断鉄道で再び中国へ赴いた。1925年、オウエン・ラティモア(註)と結婚。1926年、新婚旅行でオウエンは徒歩でゴビ砂漠を横断し、エリノアはシベリア鉄道でノヴォシビルスク経由セミパラチンスクへ向い、中国国境で2人が再会する。この旅行をまとめたのが本書である。
この旅行後二人は帰国するが再度中国へ渡り、1929年〜1933年まで北京で暮し、夫婦で辺境への旅を行なった。1933年〜37年まではアメリカとアジア大陸を往復する生活が続いたが、日本の中国進出が激しくなるに及んで、オウエンの中国での仕事が難しくなり帰国した。第2次大戦後も夫婦は中国辺境の旅を何度も行なった。
1950年、オウエンはマッカーシーの「赤狩り旋風」の標的にされたが、数年間にわたり夫婦で法廷闘争を通じて闘い抜き、ついに勝利を勝ち取った。1963年、オウエンがリーズ大学中国研究学科主任教授となり、イギリスへ居を移した。1970年、オウエンのリーズ大学での任期終了によりアメリカに帰国するが、飛行機がニューヨークに着陸しようとした時、激しい胸の発作に襲われて急死した。
(註)オウエン・ラティモア(1900-1986)
ワシントンに生れる。幼少時を天津で過ごす。教育をイギリスで受け、上海、天津、北京などで実業関係の仕事に従事。1926年以降、中国辺境地域の踏査旅行と著述の生活に入る。戦後、対日賠償問題委員として来日した。国連対アフガニスタン技術援助委員会主査、イギリスのリーズ大学中国研究学科主任教授を歴任した。
内容
1927年初頭から9月にかけてのトルキスタンにおけるラティモア夫婦の全く型破りな新婚旅行の記録である。神近市子の訳が素晴らしいこともあって、著者の大冒険の感動が素直に伝わってくる紀行である。 夫のオウエンはゴビ砂漠を横断する為に、妻のエリノアより半年前に北京を出発、シベリア経由でやって来る妻と国境の町チュグチャクで再会、以後忠僕モーゼスを連れてチュグチャクを出て、新疆各所を回り、カラコルム峠を越えてカシミールへ出た。本書は妻エリノアによるその旅行記である。
内容は3部に分かれ、第1部(第1〜3章)はエリノアの雪のシベリア横断の一人旅、第2部(第3〜14章)はオウエンと再会して新疆各所を巡る楽しい旅、第3部(第15〜17章)はカラコルムを越える険しい旅である。
第1部の一人旅では、ゴビ砂漠を横断してウルムチに着いた夫オウエンからの電報を受け、北京から汽車でシベリア鉄道の支線セミパラチンスクまで行く(当時はそこが終点)。しかし、そこには待っているはずのオウエンは居なかった。国境でロシヤ入国が許可されないためであろうと判断したラティモアは、支那領事館がチュグチャクへ派遣する急使の馬橇に便乗、厳寒のシベリア平原をチュグチャクへ向かって出発した。大吹雪をついて国境まで640キロ、16日間の虱と垢にまみれての大冒険であった。そして、偶然チュグチャクの街角で不安げに妻を待ちわびる夫を見つける。
「それから(註:国境)2時間、黒と白の山脈の方に向けて雪の荒原を越えました。その山の麓にチュグチャクがあるのです。次に泥濘の町に、そしてキタイスキー(註:御者)は夫がいるかを訊ね出すために偵察に出かけ、その間私は荷物を積んだ橇の上に棲って待っていました。それから夫が街角を曲がって来て―――それがチュグチャクでした。」
第2部は夫オウエンと忠僕のモーゼスを連れての楽しい旅である。まず、イリ川上流のクルジャを訪ね、天山山脈を越えてカシュガルに着き、イギリス領事館の歓待を受ける。
第3部はカシュガルからサマルカンドを経てカラコルム峠を越え、ラダックのレーに出た。この道は昔から踏まれている隊商のルートであるから、格別目新しいところも無いが、オウエンの意図は現在のキャラバンルートを古代のそれと比較する事にあった。エリノアは、北京から中央アジアを通ってスリナガルへ出た旅行者としては最初の女性であった。カラコルム峠の情景を次のように述べている。
「索漠たる闇の中に道を求めて行くのがとても長い時間に思われたが、遂に暁が来て凍えた足にも暖かみを与えると思われましたが、同時にそれは隊商の腐乱した死体に飽くまで飽食した巨大な黒い大鴉が雷雲のように私共の頭上に舞いつつ羽ばたきつつしている、物凄い裸の小山の三途の川のような光景を見せていました。私共は絶え間なく登り続け、終に一層渓谷に入ってこの一番高い峠の最後の斜面に来た時には、それは小山に過ぎないように思われました。この時には、道には白骨と死んでから身の毛のよだつ形に硬直してしまった仔馬の死体が無数に並んでいました。ある死体は狼のために半ば食い荒らされていましたが、私共に絶えず頭上に舞いつれていて、仔馬を黒い翼の死の脅威で嘲っている不吉の大鴉を見ただけでした。私共が斜めに登っている間に、太陽が山の端から微かに現れてそれを黄色に染めるまでは、これは寒い黎明の中の物凄い小山に過ぎませんでした。カラコルムは黒い砂礫という意味です。頂上では八十年代にスコットランド人アンドリュウ・ダルグレイシュがアフガン族の1パサンに殺された場所を示す石塚の傍に休みました。――――峠の上では道は太陽に照らされた広い谷に降って行きました。平坦なむき出しの金蓮花の花床のあらゆる色彩で輝いているところで、生きているものの徴候は早朝の太陽の中に閃く遥かな西蔵カモシカの群れがあるのみでした。」
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