20. 外蒙の赤色地帯/ヘミング・ハズルンド/松本敏子訳/1942/弘道閣/308頁
Tents in Mongolia/Heming Huslund/1924
ヘミング・ハズルンド(1896-1948) 探検家
有名な音楽家を父としてコペンハーゲンに生れる。普通教育をコペンハーゲンで受ける。生来快活な性分で、少年時代から自然に対する深い愛情を持ち、戸外の活動を好み、青年期に入ると学園生活よりむしろ農園の生活を好むようになり、一時は数年を農園で過ごした。この間兵役に服し、陸軍中尉に進んだ。やがて自分の周囲の限られた世界を脱して、見知らぬ遠い他国の風物に触れ、異なった人情風俗の中に身を置いて見たいという抑え切れない欲望が芽生える。たまたま同国人で医師のカール・クレブス博士の北モンゴル遠征計画を知り、自ら志願をして遠征隊の一員となった。1923年〜26年に亙る外蒙での生活は、決して愉楽に満ちたものではなかったが、この旅行を通じて彼が知り合いになった蒙古人の生活、歴史、気質に魅了された。
1927年1月、北京でスウェン・ヘディンに招かれ、中央アジア探検隊の一員となる。この遠征は1927年〜30年にかけて行なわれた。音楽に堪能で、ヘディン隊の正式報告書にはモンゴルの民俗音楽の採集報告も掲載されている。
帰国後、欧州各地の博物館及び大学で人類学の研究を重ね、蒙古での経験を科学的に整理した。その成果は世界的に認められ、デンマーク国立博物館はハズルンドを隊長とする人類学調査のための遠征隊を、1936年〜37年に東蒙古へ送った。死後、カブールのオーレル・スタインが眠る墓地に埋葬された
内容
翻訳の題名の「外蒙の赤色地帯」は、外蒙(モンゴル)のロシア赤軍(註1)の支配下にあった地域を指す。
1923年、デンマークの軍人で医師のカール・クレブス博士は、外蒙のセレンガ川上流のブルグン・タルに農園を建設するために遠征隊を組織した。遠征隊の目的は、農業民族デンマーク人が外蒙に安住すべき適当な空き地を発見することであり、もしかして地下の富鉱を発見して大金持ちになることも目的の一つであった。また外蒙の主要産品である毛皮で一儲けすることも含まれていた。しかし、彼らにこの困難に満ちた大旅行をさせた最大の動機は、広大な人跡未踏の地における冒険の喜びであり、雪の蒙古、沙漠の蒙古、ラマの蒙古、遊牧の蒙古に対する憧れであった。この遠征隊に参加したハズルンドが、1923年〜26年の外蒙での経験を機知に溢れた筆で綴ったのが本書である。
1923年7月14日、クレブス隊長以下隊員7名は馬45頭、荷車15台、御者18人と共に張河口を出発した。内蒙古の滂江市では見学を楽しみにしていた蒙古廟を訪れたところ、すっかり荒廃した廟には野犬に食い荒らされた骸骨の欠片が散らばっていた。ロシア革命勃発後、態勢を立て直すべくモンゴルに侵入したロシア白軍(註2)が、ロシア革命の混乱に乗じて外蒙に武力進出を図っていた中国軍を、ハルハ蒙古族を使って虐殺させたものであった。以後、庫倫(ウルガ)に至る沙漠の道には、所々に中国兵の骸骨がうず高く積まれていた。ロシア白軍とそれに続くロシア赤軍の恐怖政治は,この古い隊商路を荒廃させていた。
遠征隊は庫倫で目指すブルグン・タル入植の権利を蒙古政府から、そして西洋人の資本家達から出資を得ることが出来た。9月26日、庫倫を出発、オルホン川を2日2晩、セレンゲ川を3日かかって渡った。夜は氷点下25度にもなり、ある時は大吹雪で3日間も1箇所に閉じ込められた。クレブス隊長と隊員の1人が凍傷にかかり、びっこをひきながら歩いた。苦難に満ちた旅を続けながら、ようやくボリルジュのラマ僧院にたどり着いた。1週間をそこで過ごして体調を整え、11月18日、デンマークを経ってからちょうど8ヶ月目に目的地に到着した。
ブルグン・タルに丸太小屋を建て、春になっていよいよ農場開墾を始めた。朝8時から夜9時まで働き、大麦、小麦、ライ麦、大根、トマトなどの種を撒き、家畜は馬18頭、牛115頭、羊300頭以上となった。2年目の春の終わりに近づくと共に、ブルグン・タルはますます素晴らしい農園となっていった。さらに農場を拡大すべく、その秋、庫倫に居る西洋の資本家達に出資を依頼するために、ハズルンドが代表でブルグン・タルを出発した。庫倫に到着してみると、蒙古を我が物にしようとするロシアの強い圧力が街の雰囲気を一変させていた。庫倫はウラン・バートル・ホタ(赤色権力の要塞の意)と改名していた。この地に住んでいた白人の小集団は数が減り、農園などに好んで資本を投ずるような資本家は全く居なくなっていた。
1925年冬、毛皮の買い付けのために国境の町キャフタへ出かける。キャフタでは猟師達のキャンプで彼らの話に耳を傾けながら幾週間かを過ごした。ここでは上々の商売が出来、上等な毛皮を大量に購入することが出来た。ここで不思議なラマ僧に出会う。その僧は行方不明になっているハズルンドの従者の帰還を予言し、その僧の去った日の夕方に予言どおり従者が現れた。ハズルンドは従者と共に、ロシア側にあるツアー時代の華麗な町“ツンハ”でしばし休息し、また故郷へ便りを出したいという誘惑から雪の国境を越える。しかし、国境から1日の距離で国境警備の赤軍兵士に拘束され、手足を縛られ、投獄される。様々な苦労の末に釈放され、ようやくキャフタに戻った。しかし、ロシア赤軍による圧迫は、西洋人の移民がモンゴルで生活することを許さなくなっていた。1926年3月、隊長のクレブス1人がブルグン・タルに残留し、隊員たちはモンゴルを離れることになった。モンゴルを出たハズルンドは張家口で働きながら、キャラバンの鈴の音が中央アジアへと消えていくのを聴き、新たな冒険への意欲を高めていた。
この本の出版後、ハズルンドはスウェン・ヘディンに招かれて、彼の「西北科学調査団」の一員となり、1927年から3年間、同調査団のキャラバンの指揮とモンゴルの人類学調査を行なった。
(註1)ロシア赤軍
1917年のロシア革命後に組織された労働者・農民軍のこと。特にロシア内戦期には赤軍という名称はボリシェビキ軍隊を指した。(ウィキペディアより)
(註2)ロシア白軍
1917年以降のロシア革命期における革命側の赤軍に対する反革命側の軍隊の総称。赤=共産主義に対する意味での白。(ウィキペディアより)
山岳館所有の関連蔵書
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