34 世界最悪の旅 チェリー=ガラード 加納一郎訳 1944年/朋文堂/796頁
原題:The Worst Journey in the World/1922/Apsley Cherry-Garrard
アブスレイ・チェリー=ガラード(1912-2004) 動物学者
24才(1910年)の時、スコットのテラ・ノバ号遠征隊の最年少メンバーとして参加した。南極ではエドワード・ウィルソン博士(動物学者)の助手として極地隊の支援隊に加わり、南緯85°15′まで支援したのち、エヴァンス岬の基地に生還した。その2ヶ月後、基地から240kmの補給地1トンデポに極地隊を支援するために出向き、スコットらの帰りを1週間待ち続けたが、迎えることが出来ず、むなしく基地へ帰還した。その10ヵ月後にも捜索隊メンバーに加わり、1912年11月12日、1トンデポ地から18kmの地点で、テントの中に遭難したスコット、ウィルソン、ポワーズの遺体を発見した。
南極探検から帰国後(1913年)、南極委員会から正式報告書の作成を依頼されたが、第1次世界大戦の勃発で従軍の為に執筆を断念、フランダース戦線(ドイツ軍との激戦地)に装甲車隊を指揮して戦い、重傷を負った。そのため報告書の完成は大幅に遅れ、南極から帰国の9年後の1922年にようやく「The Worst Journey in the World」の書名で発刊された。1939年、アンジェラ・ターナーと結婚。
ロバート・ファルコン・スコット Robert Falcon Scott(1868-1912) 英海軍士官、南極探検家
醸造所を経営するエドワード・スコットの長男としてイングランド南西部のデボン県に生れる。
13才で海軍兵学校を志願、15歳で見習士官、19歳で中尉に任官する。1899年、かねて南極点制覇の夢を実現する為に、隊長の人材を探していた王立地理学協会のマーカム会長から南極探検隊派遣計画を聞き、探検隊隊長として参加することを熱望、翌年中佐に昇進してのち、その任に当たった。
1901年7月、新造探検船ディスカバリー号で隊員46名を率いて初めて南極へ向かった。1902年11月、アーネスト・シャックルトン(探検家)、エドワード・ウィルソン(動物学者)と極点を目指し、極点まで850kmの南緯82°16′33″に達したが、シャックルトンが重い壊血病にかかり前進を諦めて基地へ帰還した。遠征に連れて行ったそり用の犬が、航海中に腐った干魚を食べさせられて全滅したために使用できなかったり、隊員が極地にあまりに未熟であった為に様々な齟齬が生じるなど多くの苦労をした。この遠征では極点に達することは出来なかったが、南極に関する多くの科学的知見を得る事ができ、その功績を認められて大佐に昇進した。
1908年、彫刻家のキャサリン・ブルースと結婚する。
1910年、テラ・ノバ号で第2次南極探検に赴く(本書)。極点に到達するが、ノルウェーのアムンセンに先を越され、帰途悪天候に阻まれて最後のデポにたどり着けず遭難死する。6ヵ月後に発見されたテントに残された日記の最後の日付は1912年3月29日であった。 ロンドンのウォルター・プレイスにはキャサリン夫人が製作した銅像が建てられている。
内容
本書は、南極点に到達しながら帰還途上で遭難したスコットの第2次探検について、隊員のチェリー・ガラードによって書かれた報告書である。この書以前にも1913年にレオナルド・ハックスレー(イギリスの小説家、随筆・批評家)によって編纂された「Scott’s Last Expedition (和書名「スコット最後の探検」)が発行されている。ハックスレーの報告書は、一般読者から地名や探検隊の行動が分り難いとの批判があり、ガラードはこれを意識して探検隊の全容について分りやすく理解できるように書いたと自身で述べている。
加納一郎が原著(全578頁)の翻訳を終えたのは太平洋戦争の末期であり、すでに極度に紙の少ない時代になっていたが、何とか用紙の配給をうけて初版3000部が1944年2月に出版された。菊版の粗末な用紙であるが、800頁に及ぶ加納一郎渾身の完全翻訳書である。我々が中高生の頃に紀行全集やノンフィクション全集などで読んだ「世界最悪の旅」は本書からの改訂ないしは抄訳である。
本書の内容は、序文、訳序、緒論、本文16章、地図6葉、写真・挿画15葉からなる。
加納は訳序で本書について次のように評している。
「一隊員の自由な立場からの記述であって、他の隊員の日誌や手紙や手記を取り入れてつとめて多面的に探検の様相をえがくと共に、若干の時をへだてた冷静な回顧のなかにも探検当時の著者の若さから来る生気をも伝えている溌剌たる好著で、恐らく数ある探検記のなかにおいて“世界最良の書”の一つに該当するものではあるまいかと思う。」
本書が伝える南極の気候風土の苛烈さ、アムンセンとの南極点到達争い、スコットと隊員達の友情は、多くの若者に感動を与え、彼らに探検への強い憧れを抱かせた。世界がいまだ多くの神秘や挑戦に満ちていた時代からの言葉を、「日本最良の訳書」の一つである本書から今一度あらためてじっくりと味わいたい。
ガラードは緒論で南極探検の歴史とスコットの第1回、第2回探検の概要を述べている。
20世紀初頭、南極は地球上に残された最後の“未知の大陸”であった。各国の威信と権益の対象となる処女地であり、極点到達を目指す機運は世界中で高まっていた。1901年、英国海軍士官R.F.スコットは、ディスカバリー号による南極探検隊隊長となり、極点まで850kmの南進記録を達成した。1909年には、ディスカバリー号探検隊のメンバーだったシャックルトンが、極点まで178kmの最南到達記録を樹立、各国の探検隊の目をさらに南極点へと引きつけた。そして、1910年にテラ・ノバ号がロンドンを出港する。
1910年6月1日、探検船テラ・ノバ号は33名の隊員を乗せて、ロンドンを出港した。1911年1月17日、マクマード湾ロス島エヴァンス岬に基地を建設する。スコットの第2次探検の目的には、科学上の観測・調査も含まれていたが、スコット自身にとっては南極点到達が国民に約束した大目的であった。エヴァンス岬の基地から極点までは直線距離にして1370km余あり、そのため途中に補給所を設ける必要があった。翌年夏の南極点到達を目指し、直ちにデポ(前進基地)の準備が全力で進められた。しかしその時、アムンセンもクジラ湾に基地を建設し、極点を目指して着々と準備を進めていた。
1911年4月〜10月、エヴァンス岬の基地で全員が越冬生活を送った。この間、新聞を発行したり、科学者達の講義や隊員のそれぞれの専門について講習が行なわれた。また、ウィルソン、パワーズ、ガラードの3人は、皇帝ペンギンの発生学的研究のために、人力そり2台を引いてグロージャー岬へ冬旅行に出かけた。卵を採集することはできたが、この旅行の目的だった皇帝ペンギンの発生学についは不十分な成果しか挙げられなかったが、5週間にわたりブリザ−ドに痛めつけられて帰還したこの旅行について、スコットは「本当にこれこそ未曾有の困難な旅であった」と調査隊員達の苦労を称えた。
春となり、いよいよ極点旅行への出発準備が整った。1911年10月24日、エヴァンスら4人の先発隊が2台の雪上車でエヴァンス岬を出発した。南極での雪上車の使用はもちろん初めてであり、大いに期待されていたが、出発から1週間足らずで2台とも故障し、修復不可能となった。次いで11月1日、スコットら10人の馬そり隊が、最後に11月5日にミアーズとドミートリーの犬そり隊2班が基地を出発した。12月9日、広大な氷原と横断山地との境界近く、ピアドモア氷河へ2日ほどの地点に到達し、旅の第1段階の氷床の行程は終った。ここで役目の終ったポニー(翻訳書では矮馬)5頭が射殺された(基地を出発する時は10頭であったが途中で半分が使えなくなり、次々と射殺された)。殺した馬は解体され、犬の餌となり、隊員も食べ、また帰りの食料として貯蔵した。
旅の第2段階は、ピアドモア氷河を遡行する行程であった。12月10日、4人一組で曳く3台の人力そりと2台の犬そりが出発、翌11日には氷河上に最初のデポを設置、ミアーズとディミトリの犬そり隊が帰路についた。犬そり隊と分かれたのち、3隊12人はおのおの360kgの荷物を積んだそりを引くことになった。それは実に大変な仕事であった。
「荷物は非常に重かったので、誰かちょっと手を休めてもそりが止まるのである。そりは軟らかい雪の中に鋤のように沈んでしまって、二三百メートル引きつづいて動かしてゆくのが精一杯であった。そりを始動させるのは、曳航するよりもずっと辛い仕事であった。というのはそりをちょっと動かすのに10回乃至15回も渾身の力をそり綱にかけなければならなかった。」
12月22日、氷河上に3つ目のデポ設置を終え、ここから支援隊4名が帰還した。1月2日には高原地帯の標高3000mを越えた。1月4日、南緯87°32′の地点で、エヴァンス少佐ら3名が支援の任務を終えて帰還した。最終的にスコット隊長、エドワード・ウィルソン、ヘンリー・ポアーズ、ローレンス・オーツ、エドガー・エヴァンスの5名が極点を目指すこととなった。
1月9日、シャックルトンが1909年に到達した南緯88°23′を越え、翌10日には最後のデポを建設した。この頃から気温が平均−28.2°、気温は−34.3°まで下がり、強い向かい風が吹き荒れ、全員が常時ひどい寒気を感じるようになった。
1月16日、極点まであと1日の地点で、1本の黒い旗と北東と南西の両方に走っているノルウェー人達のそり、スキー、犬の足跡を見つけた。
この日のスコットの日記、
「ノルウェー隊は余らの機先を制して極の第一人者となりたり。そは余らにとりてはすさまじき落胆にして余は祖国の人々に対して慙愧至極なり。万感こもごも至り、論難回を重ねたり。明日極点に到達し、しかるのち出しうる限りの全速をもって帰途を急がざるべからず。------」「極地の正に然り。さりながら予め期せしところとは大差の状況の下に。-------吹きあるる風、気温−29°、しかも妙にしめっぽく、大気の寒威は絶えず骨にまで透徹し-------。神よ!こは恐怖の場所なり-------」
1月17日18時30分頃、基地を出発してから78日目にしてついに極点に到達、翌18日に英国国旗を建てた。しかし、その時はアムンセンが到達してからすでに1ヶ月が経っており、極点にはノルウェー国旗が立てられていた。極点から3km程離れた場所にノルウェーのテントが設営され、食料、防寒具、手紙が置かれていた。
帰路、猛烈なブリザードとますます低下する気温に悩まされて、思うように前進が出来ない。2月16日にエヴァンスが凍傷と疲労から死亡、3月16日には足に重度の凍傷を負ったオーツが、「ちょっと外へ出てくる」と言葉を残してブリザードの中をテントから出て行方不明となった。皆の足手まといにならないように自ら命を絶ったのである。3月21日、残ったスコットら3人は極点から1152km、1トンデポまで1日行程の18kmの所でテントを張るが、極寒と猛烈なブリザードの為に前進を阻まれる。この時スコット達の持っていた食料はたった2日分だった。
支援を終えて帰還した隊員たちは、苦闘の末に2月末までに全員基地に到着したが、彼らの旅行も命をかけて壮絶なものであったのである。 1トンデポ付近で極点隊3人の遺体が発見されたのは、次の夏を迎えた1912年11月12日、アトキンソン軍医の指揮する救難隊によってであった。テント内には遺品の他、死の直前まで書かれたスコットの日記・地質標本等も遺されていた。特筆すべきは、南極点でアムンゼン隊から委託されていた手紙である。アムンセン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者に自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものであった。スコット隊が所持していた事によりアムンセン隊の南極点先達は証明され、また「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声を高めた。
スコットは1912年3月29日付の日記で次のように記している。
「三月二十九日木曜。二十一日このかた余らは絶えず西南西乃至南西の強風に見舞われ通しなり。二十日には各自二杯づつの茶をわかす燃料と二日分の食料を有したり。爾来、日ごとに二十キロを距る貯蔵所へ出発の構えをなしいたりしも、天幕の外にはただ荒れ狂う吹雪のありしのみ。いまや何ら好転の希望を齎しえず。余らは最後まで頑張らざるべからず、されど勿論、身は刻々に弱り行きて、終局は遠からざるべし。不憫のことなれど、もはやこれ以上、書きつづけうるとは思われず。入寂。願はくは余らの家族の上を見守りたまえ。」 スコットの遺書(スコットと隊員の遺族らに計12通)はイギリスの名誉に対する隊員の働きを称え、遺族への保護を訴たえたものである。 国民に対しての遺書で、遭難に至った理由を次のように記している。
「公衆への言葉
遭難の原因は組織の欠陥にありしに非ず。打ち込むべきあらゆる危険にあたりて不運なる目にありしに基づく。
一.千九百十一年三月における矮馬(注:矮馬;ポニーのこと、デポ設置作業中に氷が流れ出して3頭を失った)運送の失敗の為、余の意図したるよりは出発を延期するのやむなきにいたり、かつ運搬すべき資材の限度を低下せしめたり。
二.帰路を通じての悪天候、特に南緯八十三度において余らを停滞せしめたる長き荒天。
三.加えるに氷河下部における軟雪により進度を減じせしめられたり。------後略」
そして最後に国民に次のように呼びかけている。
「われらに命あらば余はわが僚友が打ち克ちたる酸楚(注:苦しみ痛むこと)、忍耐、勇気につき物語るべし。その必ずやいかなる人々の心をも感動せしめずんばおかざるべし。これらの粗末なる書きつけと吾らの遺骸とは必ずや顛末を物語るならん。されど、くれぐれもわれらのごとき大きく富める国はわれらに頼りをりし家族を恙なく見守りくるることと信ず。 アール・スコット」
1913年1月18日、待ちに待ったテラ・ノバ号がエヴァンス岬に入って来た。そして、探検隊は1月22日に南極大陸をあとに帰国の途についた。
最後にガラードは言う。「探検とは知的情熱の肉体的表現である。―」
山岳館所有の関連蔵書
- Farthest North(I),(II)/F.Nansen/1897/
- The Heart of the Antarctica Vol1/E.H.Shackleton/1909
- Scott’s Last Expedition (1)(2)/L.Hurley/1913
- Expedition South/W. Ellery Anderson/1957
- The Crossing of Antarctica/J.Fucha, V. &E.Hillary/1958
- South, The Endurance Expedition/E.Shackleton/1999
- 南北極地探検記/加宮貴一/講談社/1937
- 孤独/R.E.バード少将/大江恵一訳/大東出版社/1939
- 白瀬中尉探検記/木村義昌・谷口善也/大地社/1942
- 南極の征服(上)(下)/ロアルト・アムンゼン/道本清一郎訳/淡海堂/1943
- 極地を探る人々/加納一郎/朝日新聞社/1950
- 極地に逝ける人々/ド・ラ・クロワ/奥又四郎訳/新潮社/1957
- 南極物語/ド・ラ・クロワ/近藤等訳/1958
- 南極横断 地球最後の冒険(上)(下)/V.フックス/山田晃訳/白水社/1959
- フラム号漂流記/F.ナンセン/加納一郎/筑摩書房/1960
- アムンセン探検史/加納一郎/平凡社/1962
- アムンセン 極地探検家の栄光と悲劇/エドガー・カリック/新関岳雄・松谷健二訳/白水社/1967
- アムンセンとスコット ー南極点への到達に賭けるー/本多勝一/教育社/1968
- 白い大陸/W.サリバン/田中融二訳/早川書房/1968
- スコット/Pブレンド/高橋泰郎訳/草思社/1969
- 極地探検/加納一郎/社会思想社教育文庫/1970
- 極地探検物語/近野不二男/玉川出版社/1976
- 南極点/R.アムンセン/中田修訳/ドルフィンプレス/1980
- 南極探検日誌/R.スコット/中田修訳/ドルフィンプレス/1986
- 南極点/ロアール・アムンゼン/中田修訳/朝日新聞社/1994
- 世界最悪の旅/チェリー・ガラード/戸井十月訳/小学館/1994
- 南極のスコット/中田修/清水書院/1998
- エンデュアランス号漂流記/A.ランシング/山本光伸訳/新潮社/1998
- 南へ エンデュアランス号漂流記/A.シャックルトン/奥田祐士・森平慶司訳/ソニーマガジンズ/1999
- その他
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33. 神々の座−インド・西蔵紀行−/ティヒー/1944 |
番外 フォスコ・マライーニ |