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33.神々の座−インド・西蔵紀行− H.ティヒー 村上啓夫訳 1944 鎌倉文庫
原題:Tibetan Adventure/1937/Herbert Tichy


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ヒンヅー・クシュの頂上に立つ筆者
ヒンヅー・クシュの頂上に立つ筆者
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水牛の角から酒を飲むナガ族の男
水牛の角から酒を飲むナガ族の男

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神々の土地(チベット高原)
神々の土地(チベット高原)
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グルラ・マンダータ登攀C2
グルラ・マンダータ登攀C2
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グルラ・マンダータ登攀C3
グルラ・マンダータ登攀C3

ヘルヴェルト・ティヒー(1912-1987)  地質学者、著述家、登山家、ワンダラー
 オーストリア・ウィーンの出身。ウィーン大学学生だった1933年、東洋への強い興味と憧憬から友人マックス・ライシュとオートバイでインド、チベットを旅行して回った。帰国後、スウェン・ヘディンのチベットに関する著書を読み、アジア奥地への熱情を一層かきたてられた。
 卒業論文のテーマにヒマラヤを選び、1936年夏、新聞社の特派員の資格を得て、オートバイでボンベイ(現ムンバイ)から中部インドを縦断し、アフガニスタンに入り、同国内を遍歴後、転じて東部インドとビルマを訪れた。さらに巡礼に変装してヒマラヤ山脈を越えて鎖国のチベットへ入り、シェルパと2人でグルラ・マンダータ峰(ナム・ナニ峰7728m)の7000m付近まで登った。マナサロワール湖、カイラスを巡歴、再びインド、アフガニスタン、イランを経て翌年夏に帰国した(本書)。
 その後、アラスカ(1938)、東アジア(1941-48)、インド(1950-51)の各地を取材、あるいは放浪の旅で訪れた。
1953年にはシェルパ・苦力4名とカトマンズを出発、インド国境までの西ネパール横断の4ヶ月、600kmあまりの旅を現地食のみで過ごすという超小型遠征隊で成し遂げた(「Land der namenlosen Berge 1954」横川文雄訳 無名峰の聳える国 1957)。
 翌1954年、西ネパール横断で行を共にしたシェルパのパサン・ダワ・ラマと山仲間S.ヨヒラー、H.ホイベルガーのわずか4名の小パーティーで、ポスト・モンスーンに無酸素でチョー・オユー初登頂に成功した。派手な大規模登山隊が盛んだった当時としては、画期的な成功であった(ティッヒー「チョー・オユー登頂」1957、横川文雄訳)。 その後さらに北ケニア(1957)、ナイロビ(1963)、インドネシア(1971-72)、パキスタン(1976)などを取材旅行で訪れ、これらの経験を基に多くの著作を刊行した。


内容
 1935年夏、ウィーン大学生で23歳のティヒーはオートバイで、ボンベイ(現ムンバイ)から中部インドを縦断してアフガニスタンへ入り、同国を遍歴後、転じて東部インドとビルマを訪れた。さらに巡礼僧に変装してヒマラヤ山脈を越えてチベットへ入り,グルラ・マンダータ峰初登頂に挑み、7000m付近で敗退、聖峰カイラスを巡礼、様々な困難を経験して翌1936年夏、故国へ帰った。本書は大学生だった著者が、自身の探検旅行を濁りのない、かつ鋭い観察眼を持って回想した紀行である。

 ラホール大学の若いヒンズーの学生、チャッター・カブールとオートバイ(原著では自動自転車)でモンスーンの中、ボンベイを出発、アフガニスタンに向かった。大雨でぬかるむ道路、増水した川の渡渉に苦労しながら1日平均185マイル(約300㎞)のスピードで走破し、デリーに到着した。この町では日常的に回教徒とヒンズー教徒の衝突があり、いつも数人の瀕死人が泥まみれになって路上に倒れているのを見た。若い二人はこの光景に激しい衝撃を受ける。
 ラホールを一気に通過し、国境の町ペシャワールに到着。アフガニスタンに入ろうとしたが、インド人のカブールは入国の許可が得られなかったので、1人でオートバイを運転し、カイバル峠(1027m)を越えた。カブールではドイツ語学校に寄宿、住民との交流を楽しんだ後、ヒンズークシュ山脈を越えてパーミアンを訪れた。
「やがて私は、緑の野とポプラの樹立が続き、有名な仏像の丘を見下ろす、美しいパーミアンの渓谷に達した。この丘は平地から650ft(約200m)もある垂直の壁をなしてそそり立っており、その岩面一杯に仏像が浮き彫りにされていて、中には160ft(約50m)以上の高さを持ったものもあった。」

 インドへ戻るべくカブールを出立するが、途中でマラリアに罹り、熱と悪寒の発作で前に進めなくなり、道端に倒れるようにして野営した。その晩、朦朧としていると、銃を抱えた老人がそばにやって来て介抱してくれ、ティヒーのすぐ近くに毛布を広げて横になった。その翌朝、老人がなぜ自分のそばに寝たのか悟らされたのである。
 「私の熱に浮かされた混乱した夢は、突然銃声に破られたが、私の保護者の声に宥められて、私は再びすべてを忘れてしまった。次の朝、私の寝ている場所から数歩離れた所に豹の屍骸が横たわっていて、老アフガニスタン人はその獲物の皮剥ぎに夢中になっていた。彼は私の感謝にはほとんど振り向きもしないで、毛皮と銃とを抱えると向こうの丘の陰へ姿を消してしまった。」

 スリナガルで友人カブールに再会、体力の回復に努めながら地質調査を続け、秋の終わりにラホールに戻った。翌年春の復活祭までの数ヶ月間をラホールを基地にして地質学の調査・研究をしたり、ヒマラヤ山中でスキーを教えたり、ビルマやアッサムへ旅行をして過ごした。

 復活祭の日、アルモラでシェルパのキタール(エヴェレスト、カンチェンジュンガ、ナンガ・パルバートなど多くの登山隊に参加したベテランで、この旅の数週間後にティルマンのナンダ・デヴィ隊に参加し死亡)カブールと落ち合い、チベット目指して出発した。途中で金髪を黒く染め、ターバンを巻いてインド人に変装、インド・ネパール国境のカリ河に沿って進んだ。途中でヨーロッパ人であることを見破られそうになりながら、リプレク峠(Lipu Lekh 17900ft、5450m)を越えた。
 「太陽が濃霧の中から徐々に姿を現してきた。北方にはグルラ・マンダータ(7728m)のすばらしい尖端が望まれた。もう私たちはチベットにいるのだった。あたりの景色は完全に一変した。ヒマラヤの南側斜面を特徴づけたあの硬い鋭い山容と見なれた松林とは姿を消して、目の前に見るチベットの山水は、まるで死物のように草木を欠いていた。」

 タクラコットに到着、チベットの役人をなんとかだまし、入国許可を取得した。ルンゴン村(標高約4300m)にベースキャンプを設営、グルラ・マンダータ登攀を開始した。カブール、通訳、コックのランシッド少年の3人はキャンプに残り、向かうのはシェルパのキタールと2人のみ、80ポンド(約36kg)の重荷に喘ぎながら歩き出し、ようやくC1を建設した。
 「私たち2人は、たとえどんな危険が前途に待っていようとも、あくまで戦い抜こうとする意欲に燃えていた。----------」

 4日目、重荷と高度障害に苦しみながら、晴雨計が23175ft(7064m)を示す地点まで達し、C3を建設した。
 「5日目の朝が来た。前夜の暴風はすっかりやんでいた。山の背に雲がかかり、霧があたりをこめて、雪片が静かに降っていた。私たちはテントをたたんで、ちょっとの間互いに顔を見合わせてから、うなずきあって――行動を起した。-------
--------霧がちょっとの間晴れた。私たちの前には近々と――しかもどうしても近付き難い――頂上が見えた。山の背は、現在の私たちの条件では絶対に登ることができない地点で頂上に通じていた。そこには幾つもの険しい岩塊が新しい雪をかぶって絶壁のようにそそり立っていた。-------」
 頂上まであと700mあまりに迫ったが下山を決意する。ベースキャンプへ戻り、別ルートからの再挑戦の計画を練っているとき、一行を金鉱探しと誤解した村人達が騒ぎ始めたことを知って、ただちにキャンプを畳み、逃げるようにカイラス巡礼の旅に出発した。

 チベットの役人に何回も身分を見破られそうになりながら、マナサロワール湖とカイラス巡礼を終え、6月1日の誕生日にキングリ・ビングリ峠(Kungribingri 5562m)、ジャンチ・ラ峠(Jandi Dhura 5611m)、ウンタ・ヅラ峠(Unta Dhura 5377m)を越えた。インド側の最初の部落ミランについた時はすでにモンスーンが始まっていた。

 鉄道の町カスコダムでキタールと別れ、ラホールへ帰った。ラホールでは1年余りを一緒に過ごしたカブールと別れ、オートバイでアフガニスタン北方の峠6つを越えてイランへ、そしてレバノンに入った。
 「ついに或る日、私はレバノン山の上に立って、海を見下ろしていた。遥か西方の海の彼方には私の故国が横たはっていた。黒煙を長く靡かせた一隻の汽船がじっと身じろぎもせず海面に浮かんでいた。」

山岳館所有の関連蔵書
  • Unknown Karakorum/R.C.F.Shomberg/1936
  • わが山の生涯/T.ロングスタッフ/望月達夫訳/白水社/1957
  • 地図の空白部(ヒマラヤ名著全集10)/エリック・シプトン/諏訪多栄三訳/あかね書房/1967
  • 未踏の山河−シプトン自叙伝/エリック・シプトン/大賀二郎訳/茗渓堂/1972
  • 異教徒と氷河チトラル紀行(ヒマラヤ人と辺境4)/R.C.F.ションバーグ/雁部貞夫訳/白水社/1976
  • プマリ・チッシュ登頂/北海道山岳連盟/1980
  • カラコラム登山報告書 SHUMARI KUNYANG CHHISH/北大山岳部・山の会/1981
  • オクサスとインダスの間に/ R.C.F.ションバーグ/広島三郎訳/理創社/1985
 
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