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空沼小屋保存計画 »

空沼小屋(旧秩父宮ヒュッテ)の価値について

北海道大学大学院教授・北海道文化財保護審議会会長
 角 幸博

1. ヒュッテの建設経緯と沿革

 札幌市南区空沼岳、万計沼北側湖畔に所在する空沼小屋は、当初秩父宮ヒュッテとして創建された。1928年2月、北海道視察を目的として初めて来道した秩父宮は、20日上野駅を出発し、21日函館経由で札幌三井別邸に宿泊された。22日、午前中札幌神社、北海道庁、北海道帝国大学、植物園を縦覧の後、午後は三角山で開催の北大スキー部競技会を観覧し、翌日のスキー練習後、24日手稲山でスキー登山を北大スキー部員とともに堪能された。その夜は、テイネパラダイスヒュッテに宿泊し、そこで自身のヒュッテ建設の希望があったという。
 秩父宮ヒュッテ候補地選定並びにプラン作成の命を受けた大野精七北大スキー部長(医学部教授)は、候補地を空沼岳万計沼ほとりの現在地に定め、プランの作成をスイス人建築家マックス・ヒンデルに依頼した。ヒンデルは、妹婿故ハンス・コラー(1885-1925、北大ドイツ語教師)を通じて大野部長や医学部教官らと親しく、またテイネパラダイスヒュッテ(1926)の無償設計やヒンデルらの個人ヒュッテであるヘルヴェチアヒュッテ(1927年竣工、1934年北海道大学に寄贈)の設計者として知られている。同年7月末にヒンデルのプランが完成し、8月初旬大野部長が宮家を訪問、8月25日宮家から建設決定の電報があり、28日工事一切を北大で司るようにという書面があり、御手許金が直接北大に下賜されることになった。
 9月10日、横浜居住のヒンデルの来札を待ち、建設地検分が実施され、ほぼヒンデルの原案どおりに建設されることになった。実施設計図は、北海道帝国大学営繕課課長萩原惇正、雇村井栄吉、雇原源太郎らが携わったと考えられる。
 工事は、伊藤組(伊藤亀太郎)が請負、9月18日付の見積額で9,740円、その後変更・訂正で調整し、5,500円と見積もられた。木材の伐開は伊藤組が負担し、釘金物一式、大工・鳶人夫、小屋掛などの単価軽減、損料諸雑費の減額等で対応したという。結局1,450円程度の伊藤組側の持ち出しとなっている。施工監督は、伊藤組の現場代人井上亀之助、監理は原源太郎が担当したと思われる。
 工事は、10月17日地鎮祭、11月16日上棟式を経て、12月10日完成した。設備品としての布団や毛布、炊事具などは12月15日までに備え付けられた。わら布団一人用16枚、二人用2枚は、北海道帝国大学病院で作製された。
 翌1929年1月22日〜25日まで高松宮がヒュッテに宿泊、24日「空沼小屋 Soranumakoya」と命名された。1930年2月11日から一般解放され、1947年2月17日北大に寄贈された。846m2の小屋敷地は、秩父宮家と帝室林野局との無償貸与期限が切れた1948年7月以降有償貸与に変更されている。
 2006年10月、小屋の傾きによって、一般宿泊者の使用を禁止し、現在に至っている。2007年9月23日、土台腐朽部分の補強と傾きの矯正の部分的な応急処置が、大学教員(2名)、同窓生(4名)らのボランティアにより実施されている。
2. 建築概要
梁間24尺(7.2m)×桁行21尺(6.3m)の主屋に24尺×4尺の下屋を付属した2階建てヒュッテで、1階16.67坪、2階14坪、延べ30.67坪のログキャビンである。
1階は北側下屋中央から入り、東側を「御薪木置場」、西側を「御踏込」「御厠」(室名は創建時の呼称)とし、扉を隔てて「御広間」(6×10尺)、東隣は戸棚、机を挟んで「御厨房」(6×11尺)であった。「御厨房」には、長さ7尺5寸、直径1尺7寸の丸太半割材を使用した流しが置かれていた。
居間ともいうべき「御休憩所」は、中央に大ストーブを置き、東西に「御寝台」(シングル)と造り付けの腰掛・「机」を並べ、南西正面に「机」とコの字型の「腰掛」を造り付け、左右は「御寝台(ダブル、6×7尺)である。「御休憩所」上部は吹き抜けており、中央ストーブで上階まで暖房する。
「御休憩所」北側壁面に備えた直梯子で昇降する2階は、中央の吹き抜け(12×6尺)と板敷き踊場、および1尺ほどの通路をはさみ、東西両側は通路側に約1.5度の勾配をつけた板張りの「御寝台」が設えられていた。
定期的な維持管理や補修を十分に受けてこなかったために、台所水回りの処理の不整備、土台周りの腐朽、万計沼側への傾き、1階床組の不陸などが見うけられるが、内外部ともに、多くの木材は比較的健全と考えられ、ログの木材についても下方数段の取り替えですむと考えられ、早急に復旧措置を施すことによって、創建時の姿に容易に復することが出来るものと考える。
3. 空沼小屋の価値について
 空沼小屋の価値については、築後80年経ていること、日本近代建築史上著名なマックス・ヒンデルの作品の一つであること、戦前期のログ工法の数少ない実施例であること、市民に長年親しまれてきたなどの理由から、登録有形文化財になりうる価値を十分有する歴史的建造物であるということができる。本建築の保存、活用、維持管理のためには、本建築の大学における位置づけを明確にすることが、望まれている。
 維持管理に要する財源については、同窓生、市民による寄付等の動きも見られる。管理方法についても、指定監理者制度の導入等の提案も聞かれるが、財源の手当てにしても、管理手法についての検討にしても、本建築の大学における位置づけを待って、サポート体制として動きたいとの意向も多く聞かれ、早急に態度を決める必要があろう。
 本建築の歴史的、文化史的、建築学的価値については、以下の5点を挙げることが出来よう。
  1. 積雪寒冷地に位置する北海道大学の特徴ある施設である。
    スキーヒュッテを専用小屋として新設する機運は、1929、30年以降であり、1930年ハンネス・シュナイダーが来朝したことが拍車をかけることになるが、北海道ではすでに1926年竣工の北海道帝国大学所有のテイネパラダイスヒュッテから始まるヒンデル設計の一連のスキーヒュッテ作品が、その後のヒュッテ建設機運に大きな影響を与えた。ヘルヴェチアヒュッテ(1927年竣工、1934年北海道大学に寄贈)および本ヒュッテは、ヒンデルの3部作であり、以降中山ヒュッテ(1928年)、朝里ヒュッテ(1929年)、奥手稲山の家(1930年)、無意根小屋(1931年)、冷水小屋(1933年)、余市ヒュッテ(1941年)などが、毎年のように建設されていった。
    現在本学は、本小屋のほか手稲パラダイスヒュッテ(1994年)、ヘルヴェチアヒュッテ(1927年)、奥手稲山の家(1930年)、無意根小屋(1931年)の5棟を所有し、北の大学にいかにもふさわしい施設群を有している。使用頻度が低い、利用が特定の団体サークルに限られているので、小屋数を減らすとの考え方もあるようであるが、この小屋数の多さが、本学の一つの魅力にもなりうるものと考える。どのように活用し、頻度をあげていくのかというソフトの問題と単純に小屋数を減らすというハードの問題とを混在すべきではない。他大学との差別化を図る上でも、また本学の歴史と伝統を社会的にアピールする貴重な証の一つとして、この戦前期からの歴史ある山小屋を有効に活用すべきであろう。

  2. 宮家と関係の深い山小屋である。
     上記、「ヒュッテの建設経緯と沿革」でも述べたように、本建物は、秩父宮家から下賜された費用によって建設された山小屋である。1)でも述べたように、宮家と関係の深い施設を本学が有していること自体が意義深い。特に秩父宮家は、北海道のスキー文化とも関連が深く、スポーツの宮様とも知られ、1930年から毎年行なわれている宮様スキー大会開催とも縁が深い。また、秩父宮の1928年手稲山スキー登山時の警護は、すべて北大スキー部に委嘱されるという、北大史の中で、宮家との関係を象徴する建物ともいえる。

  3. 北海道の近代建築史上において著名なスイス人建築家マックス・ヒンデル(1887-1963)のスキーヒュッテ3部作である。
     マックス・ヒンデルMax Hinderは、1924年に来道したスイス人建築家で、北海道でプロフェッションを強く意識した自営建築家の魁の一人である。1927年に横浜に本拠を移し、1935年まで在日外国人建築家として活動した。代表作として、札幌の北星学園女教師館(現北星学園創立百周年記念館、1926、登録文化財)、函館の天使トラピスチヌス修道院(1927)、新潟カトリック教会(1927)、東京聖母病院(1931)、上智大学校舎(現上智大学三号館、1932)、宇都宮カトリック教会(1932、登録文化財)などの現存作品や、札幌藤高等女学校(1924、2001解体)、札幌藤高等女学校寄宿舎(1927、1963解体)、聖フランシスコ修道院(1925、1982解体)などを挙げることが出来る。本建築は、ヒンデルが札幌から横浜に活動拠点を移した転換期の作品群の一つであるとともに、小規模ながらヒンデルが伸びやかに、楽しげに腕を振るったヒュッテ3部作の一つとして、北海道近代建築史上貴重な歴史的建造物といえる。

  4. 北海道における戦前期のログ工法の数少ない実施例である。
     北海道におけるログ工法の導入は、開拓使期に長官黒田清隆の主導の基に1875(明治8)年から調査が行われ、明治15年までに24棟が建てられた記録が残るが、構造的問題、防寒的問題から失敗に終った工法であった。その後北海道での導入事例はほとんど知られず、テイネパラダイスヒュッテ以降のヒュッテ3部作が大正期以降の代表例として挙げることが出来、うち2作品が現存する。本建築を含むこの2作品は、スイスのログ工法を我が国で実現したものともいえ、ヒンデルというスイス人建築家を介したとはいえ、北海道とスイスとの交流を示す事例の一つとしても興味深い。

  5. 札幌市民に長年親しまれてきた建築である。
     空沼岳は、市民の登山愛好家にとって、日帰り可能なスポットであり、休日に限らず訪問者は多い。多くは向かいの万計小屋周辺で休息を取っているが、本建物が何らかの方法で一般解放されるならば、本学の歴史やスキー文化、宮家との関わり等を札幌市民に広報できるとともに、歴史的建造物が有する風格、雰囲気、空間の豊かさ等に市民や学生がふれることのできる、もしくは提供できる貴重な資産であるということができる。


【参考】
 
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北大・空沼小屋 修復保存工事決定と募金のお知らせ(2016年2月掲載)
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