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記事・消息・ 2011年6月12日 (日)

白石淳也君お別れ会 米山悟(1984年入部)
五月末、アラスカのデナリ登頂後、そのとなりの山、Mt.フランシス西面の未踏ルートで雪崩事故だった。
白石君は2001年入部で、11年目。学生のころからヨセミテにでかけ、大岩壁クライミングの経験を積み重ね、ネパールヒマラヤ、パタゴニアと、卒業してからも好きな山登りを続けるため自分で働きながらお金と暮らしをやりくりして登り続けて来た。山岳部員なら一度は憧れる、理想のクライマー人生だ。いつか死ぬかもしれない。でも、こんなふうにしかやりたくない、こんなふうにしかやれない者は山岳部に多くいる。もちろんその才能が無くてはできはしない。自慢の後輩だった。

世間の人は哀れな事だなどといろいろ言うかもしれない。しかし死は人生の重要な一部であり、友人の多くは死者である。白石君が死の間際まで生の喜びを満喫していたのは間違いない。「命を大切に」という言葉はそういう意味だと僕はおもう。彼が持てる命の価値を知り、誰よりも大切に使っていたことが、羨ましいのである。

土曜日は、白石君の人生に共感できるものだけが集まったお別れ会だった。日取りが決まったのは間際だったが、函館から帯広から東京から、奈良から大阪から長崎から、六十人も来た。僕は夜行で札幌に着き、札幌駅から学内を久しぶりに北十八条のはずれまで歩いて行った。春の野草と薮に埋もれた山岳館にはきれいなお花がたくさん。彼が持っていたiPodかなんかの曲をかけ、格好いい白石写真を大判でたくさん貼って、ルームノートのヨタな書き込みを壁新聞にして延々6時間飲んだ。大きな声で歌も歌った。そのあとつるでまた数時間。

ネットを見れば白石君は2009年美瑛岳遭難の時のツアーのガイド等と書かれている間違い記事がほとんどだ。彼はガイドの資格も無いし、この遭難ツアーのガイドリーダーではない。このときもポーター役としてアルバイト参加していた立場だった。たまたま下山のところでガイドとは何かを知らない不注意なマスコミに囲まれて、彼は誠実だから問われるままに応え、問われるままに名乗ったのだろう。応えなかったリーダーは名前も知らない。

僕が函館山の麓に住んでいた四年前、函館山南壁でクライミングした帰りに、白石君とウラニンがアイヌネギを袋一杯に抱えて訪ねて来てくれた。ちょうど今頃の季節。アポ無し晩飯時訪問がうれしかった。世間での迷惑は、親近の証なのである。にこにこ笑って口数少なくご飯おかわりする白石君。たいしたものは無かったけれど。
ご家族親縁のみなさんには切ないことでしょうが、彼がみんなに愛され尊敬されていたことを何度でも話したいです。
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のいり   投稿日時 2011-8-8 13:11
7月23日、白石君を送る会が横浜市内であり、北大水産ワンゲルの関係者とご遺族、それに一緒に遭難した栗原さんのご遺族が集まった。北は北海道、南は鹿児島から集まった仲間が白石君のことをたくさん語り合った。彼と久々に乾杯したが、細身の体に似合わないたくましく太い腕がみられないのが無性に寂しかった。
白石くんの実家が横浜ということもあって、集まった30人超のうち半数はご遺族の方々でした。白石君の幼少期は知っていても大学進学後の活動をよくご存じないご親戚の方も多く、この会に参加してよかったと涙を流しておられました。
また、栗原さんの遺骨と遺影を抱いて参加された奥さんともお話することができました。
白石君とは函館の寮で一緒に生活し、よく一緒に飲んだものである。彼は読書家で、よく居間でいろんな本を読んでいたのが印象的だった。
彼と登山といえるものに行ったのは、2005年に道南メップ岳の目名利別川で一緒に沢登りをした位だ。雪渓が多い沢だったが、白石くんのロープワークに助けられたのを覚えている。
白石くんのことを思い出すとき、不思議にとても爽やかな気分になれる。彼は女子部員にも人気であったが、純真で山に情熱が強い男だった。そんなかわいい後輩のことをいつまでも忘れない。
スズキジュンコ   投稿日時 2011-7-17 1:57
淳也の足跡を追って、こちらを拝見しました。
彼との出会いは彼が高校生の時。
アメリカで行ったキャンプに参加した時の事でした。
カスケード山脈のハイキングで大自然に感銘を受けた彼は帰国後、
バレーボール部を退部し、登山を始めたと言っていました。

最後に合った時、久しぶりに会った彼は、たくましい男性となっていました。
ただ、その笑顔は10代の頃と全く変わらずに。
とても楽しそうに山の話をしてくれました。

今日、彼の両親から訃報を受取り、あまりにもショックが大きく、未だ信じられない状態です。
こちらのメッセージを拝見して、淳也はどこに行っても静かで、思いやりがあり、でも根はしっかりとしてたくましい笑顔の素敵な人柄だったと確信しました。
28歳と言う若さや、淳也の人柄を想うと悔しさが募ります。

残念です。本当に、本当に残念です。
今はただ、ただ、彼の冥福を祈るばかりです。
 
 
 
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