1月29日、今年は名古屋駅前、名鉄グラントホテル宴会場で執り行なう。
開始10分前に参加予定1名未着、もしやと思いご自宅に電話を入れると、悪い予感が的中、ご本人が電話口に。これからすぐ行く、とのこと。京都からは無理だと期待せずに開会。
内藤支部長のカンパイ、その後は渡辺(尚)さんから席順に3分間スピーチ。今回は東京から佐々木(正雄)さんと松本からは江島さんが参加されたので、久し振りに自己紹介も入念になされる。
心臓の弁を取替えた話、自ら撮影したネパールでの写真がン万枚になり整理に忙しい話、中国の南極観測と覇権主義について等など。合間に江島さんのみやげの地酒をふくむと、かすかに麹の香りが残り、懐かしい味がした。ご息女の突然の病死に対する内藤さんの哀惜は、子や孫を持つ我々の胸に不条理の影を残す。佐々木さんの東京支部の近況を聞き、岡島君の氷瀑登りの話に若者の残像をみる。年に一度、こうして皆様の話を聞いていると、生物多様性という言葉にアナロジーをみる思い。
川道さんが京都から新幹線をヒッチハイクしつつ閉会20分前に駆けつけ到着。とみるまに、四季が入り乱れた歌詞の「山の四季」を歌い、もう宴会時間が過ぎたとの注意もものかわ、名越さんが睦月なのに「都ぞ弥生」を主導する。十年一日が如しという言葉を実感。
名鉄グラントホテルの会計を済ませた時フト、宮路さんがご存命なら会費が安くなっていたのかと、せこい事を考え、2年前には原さんとこの近くで別れたことを思い出した。 (岸本 記)
出席者(敬称略、入部西暦年)
吉田57、神戸59、高橋(昭)59、田中(英)59、内藤59、渡辺(尚)59、佐々木(正)61、伏見61、川道62、須田62、名越63、福本66、江島78、岡島83、岸本65
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峠越えした人:井上ボンタ、下沢、矢野ヘルス、竹田、高田グジュ、アキオ会長
車の人:サンカク、安藤組長、岩間(と友人)、高篠おじじプラス現役8名 合計19名
夕方夜差し入れ:今村カケス夫婦(翌日よりネパールトレッキング)
当日参加:山田マユミ、山崎クンクン、白濱カリ公ら3名
前夜祭は暗くなる18時近く生ビールで乾杯。交通事故で亡くなった渡部老人の追悼もこめてアキオ会長が献杯。料理は野菜ドレッシングの他、ダッジオーブンで炊き込みご飯、手羽鶏と野菜のポトフとサツマイモ。さらにちゃんこ鍋やまぐろのカマと豪華。
幹事の高篠がヘルベチア委員会発足の事務連絡。次に今村トーチカからの祭の日程を早く連絡せよという苦言の手紙を披露。毎年の行事として10月の第4週目という事に決定を総会や会報で示すことに。さらにサンカクの国際スキー場上の白井岳を望むシャングリラの不法建築に撤去命令が出ているので、協力して解体の手伝いを誰かに頼もう・・・という話で盛り上がる。
いつものとおり焚き火を囲んでグダグダと昔話や、現役と交流をしながら、十六夜のおぼろ月の下、12時過ぎまで今回は歌も歌わず(しかし竹田さんかが山の歌をハーモニカで吹いてくれてた)に殆んどの酒を飲みつくした。
翌朝皆で水源とホースを点検。水源を直し2箇所でソケットの外れを仮に繋ぐと水が出るではないか!春になって水が減ったら修理を約束。薪も冬は持ちそうだが春になったら2tは納品する(以上今日サークル会館にお願いした)。
朝飯の煮込みうどんを食べていると大先輩3名が現れたので、いよいよ本祭りの開催。といっても簡単な紹介と記念撮影。その後第1回ヘルベチア委員会を開催。委員は4名欠席で、現役小屋管の高橋君と私と白濱さん、相談役のクンクンの4名で。ホースの修理品、鍋やランプ、薪などの備品のサークル会館への注文依頼、峠からの登山道の草刈(ヘルベチア基金を使う)、春と秋に水のホースの設置と撤去など、管理含めて今後とも現役と連携をとって、維持管理に努めることを約束した。次の委員会は7月の総会の日を予定。
帰りは朝里峠あるいは定山渓経由で車に分乗。定山渓は紅葉が見事であったが今日はいきなりの雪で真っ白になっている筈。会計はもあり、現役タダでOB会費3,000円、計33,000円と今年も去年も山田先生の差し入れと残合わせて58,102円。出費は58,693円でトントン。案内の葉書代1,500円のみヘルベチア基金から出してもらうことにします。
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宴会開始時間の少し前に別部屋で結婚式が終わったところとかで、2階の会場に登る階段は花びらが敷き詰められ、踊り場には純白のレ−スでアーチがかかり、その中を通ってやや気恥ずかしい集合となりました。
支部長内藤さんのカンパイの号砲一発で、宴開始。最初に原真さん、大井幸雄さんと渡辺眞之さんに黙祷をささげる。
わざわざ札幌から小泉会長が参加。まずは札幌の近況や現役の活動とともに空沼小屋の現状を話してもらう。湖畔に立つこの小屋のシルエットはいつまでも心に残っているが、その再建についてはお金や人手、大学との関係、更には長期ビジョンなどをどうまとめて折り合いをつけるのか、安間さんの尽力に我々は声の応援だけでいいのか、等など出された料理の「海の幸タルタル仕立てスモークサーモン包み」を頬張りながら考えた。
また昔関西支部が利用していた芦峅のトンコの小屋について、名越さんから現状報告がありました。今はトンコの奥さんが農作業の時に利用するぐらいだとか。ここを訪れることももうないのでしょうか。
昨秋の関西支部の月見の会は参加者が5名しかなく、ほとんどの皆様とは1年ぶりの顔合わせです。各人はこの一年の山登り、旅行談や仕事の話が中心で、現役の頃の話題となると記憶も老眼並みにぼんやりしてしまい、とつ戻りつ取り止めがない。でも一応会場の貸しきり時間までには、何とか全員話終え、集合写真もとることが出来て区切りはつきました。そろそろお開き。
が、小泉会長が参加するというので、会いたさ見たさに忙しさも忘れ榊原さんが会場に駆けつけたのは、延長してもらった宴会終了時刻の20分前。「10分で君の分の料理を平らげ、デカンタのワインを飲み、と同時に自己紹介をすること」とギリシャ神話並みの難題。更に彼からも会費をきっちり取って午後8時半、今年の関西支部新年宴会は終了。
最後に榊原さんには何だか悪いことをしたような気がしていましたが、帰りの電車の中で小泉さんから彼の現役のころのエピソードをニ三聞き、まあおおらかに許してくれるだろうと、ほろ酔い気分で家路に着いたのでありました。 (岸本 記)
参加者(敬称略):吉田(1957)、窪田(58)、高橋昭、内藤、渡辺尚(以上59)、益田(61)、川道、須田(以上62)、名越(63)、福本(66)、石松(73)、小泉(74)、榊原(76)、岡島(83)、岸本(65)
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天候に恵まれた心地良い晩秋のヘルベチア2日間でした。
今村カケス、下沢、矢野ヘルス、町田、伏島コーシャク、高田グジュ、小泉アキオ会長、工藤サスネらは草刈されて快調になった銭函峠越えで。三角と私は車、現役7名は小樽赤岩から買出し後、総勢17名が集まる。
メニューはおつまみと野菜サラダ、ビーフシチュー。さらにダッジオーブンでキノコご飯、手羽元と野菜でポトフを順番に作る。まずは樽ビールにて小泉会長の音頭で「ベチアの女神に乾杯!」。現役と私の合作料理は好評で「今までベチアでこんなにうまいものを食ったのは初めて」と皆に褒められ、苦労の甲斐があった。
最後に三角持参の大カボチャを同じくオーブンで砂糖とジャムを混ぜてオーブンを焚き火に突っ込むとこれまた美味!
現役1年に紅一点の女性から自己紹介がスタート。あとはいつもの年寄りの愚痴とも助言とも分らないお説教やら昔話。酒の勢いで記憶も定かでないが山の歌や寮歌を合唱。夜は冷えて星もきれいだったとか。朝には氷が張り、焚き火の脇で寝ていた現役の寝袋の上は真っ白。
翌朝は薪割りからスタート、老いも若きも技と力を競った。朝食メニューはウドン煮込み。これまた二日酔いの朝には最適、好評。
持参の重い斧を2丁持ってきたので薪割りもテンポが早い。約2tのイタヤやアカシアの薪を割り終わる9時半頃、車でお迎えの岩間夫婦ら登場。今回定山渓寄り四峰トンネルの亀裂騒ぎで国際スキー場で通行止めのゲートがあったが、通行証無くても通してくれたそう。さらに10時には山田、クンクン、白濱、沢尻(部外)らも現る。
記念写真を撮ると20名を越えたベチア祭りで、今年も82年になるそうで毎年たぶん欠かさず続けているこの祭りと小屋が健全である事を感謝。ただしカケスは早めに帰りも峠へ向かい(走って)何と2時間半で桂岡の自宅に帰ったそう。
小屋は新マットが入り快調。なお沢水を釣ってるホースが壊れていて来春の補修が必要。また今回の会計は下記のとおりだが山田(真弓)先生からのご厚志や総会懇親会の残など頂き、参加費は1,000円で間に合うところ会長が「返却せずベチアの基金に入れなさい」という一声で、約2万の残を組み入れる事にした。感謝します。
最後に小屋ノートの最新ページに先日亡くなられた大井さんが泊まった時の本人コメントが書いてあり感無量。その後に書き込む事を皆遠慮してしまった事を付け加える。
ヘルベチア委員 高篠(1972入)
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コンピュータを駆使して出された快晴の予報が合えなく外れ、雨の一粒でも降らなきゃメッケものといった様子のどんよりとした曇り空。ただほとんど風もなく比較的暖かい一日で、琵琶湖畔は打ち寄せる波もしんなりと、全天が穏やかに暮なずみ、月なし、オリオン座流星群なしも気にならない。
今回は常連の皆様の多くが時を同じくして別予定があったようで、総勢は5名。湖の大きさからするとやや小じんまりです。でもまあ2−3回噛んだだけで喉もとを通り過ぎる焼肉と、普段みたこともないような上品な酒をお供に、清談は尽きず放歌は延々。赤松の大ぶりの切り株を継ぎ足し続け盛大な焚き火を囲んで6時間のマラソンバーベキューになりました。勿論前支部長の原さんのご冥福を祈り、新支部長の内藤さんには任期をまっとう(?)していただくようお願いしたのはいうまでもありません。
翌朝はうす曇りの下、3名が勇躍1214Mの武奈岳を目指し、峠を3つ越え、沢を5−6本繋いで7時間の紅葉狩り登山を楽しみましたとさ。
では、また新年宴会でお会いしましょう。(岸本)
参加者(敬称略):相田(58)、田中英(59)、内藤(59)、名越(63)、岸本(65)
登山は相田、内藤、岸本
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浜名純会員が毎日新聞2009-6-24の朝刊に,原真氏の追悼記事を寄稿していますので,紹介します.
米山会員による追悼記事は
こちらにあります.
今日訃報を聞いた、全然想像していなかった、原さんの死。事故でもなく、病気というのでもないが死とはかくも突然やってくるものか。原さんと過ごした数々の楽しい時間を思い出している。
僕が現役学生だった1985年頃、原さんの本を読んで大きく影響を受けた。原さんは学生時代に弟を鹿島槍北壁で失い、その後もヒマラヤで、何人もの死を見つめ、生と死に関する、優れた言葉を多く残していた。
「山の中の死ーすぐれた登山家の死ーは、ときに人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻を持つ、完璧な姿だ。
なぜ山へ登るのか。答えは簡単だ。山には死があり、したがって生があるからだ。下界には多くの場合それがない。」(北壁に死す・あとがきより)
「人間は必ず死ぬ。人間にとって確実に達成できる唯一の目的、それが死である。死なくして人間の生はない。このあたりまえの理屈を、山は彼の死という手痛い鞭をもって私に教えたのだ。私の登山はここから始まる。それは同時に、私の人生の出発点であった。
かつての私は、登山を、自分の人生の中の、いくつかの小部分の一つにすぎない、と考えていた。その後の私は、どんなささいな日常の行動においても、登山の影響を受けている。かならずしも、登山が好きでたまらないということでもないが、登山を考える時、もっとも自分を考え、登山を行う時、もっとも自分が生きているという事なのだ。
登山を通して、私は自分を知ろうとすると同時に、他人をも知ろうとする。登山をすることによって、私は自然への興味だけでなく、人間への興味を深める。登山という行為に含まれる、いくつかの典型的な現象が、人生全般に対する物差となる気がする。」(乾いた山(1977山と渓谷社より)
原さんの文章には歯に衣着せぬ表現が多かった。簡潔で明快、大人の事情を配慮していない潔さが僕を惹きつけた。とにかく文章がおもしろい。ぐいぐい引き込まれるのである。後に親しく会うようになって解ったが、それは彼の類い希な読書量の多さに基づくものだった。いつ訪ねても本を読んで、山積みになっていた。「ヒマラヤ研究(1983山と渓谷社)」後書きの、登山家達によるお勧め図書書評欄があり、僕は原さんの勧めていたマンメリーの「アルプス・コーカサス登攀記」はじめノイス、ロングスタッフ、テレイ、エルゾークなど何度も読んでいた。90年代には岳人誌で書評を連載していた。毎回楽しみにしていたのだが、原さんは出版社が困るような事(スポンサーの批判)も正直に書くので恐らくそのため長く続かなかったのだろうと推察する。彼の持論は月刊アナヴァンで読むことができた。学生時代に送ってもらった高山研究所の季刊誌は21世紀、原さんの月刊オピニオン誌になっていた。アナヴァンは、「前へ」。探検家ティルマンが80才で南氷洋で行方不明になった最期のヨットの名前だ。月刊で原さんの時評、書評、映画評、山行記録などが読める、購読料年に1000円の会報だ。
「既得権益の山小屋は全て廃止せよ」「日本山岳会は解散して、登山者全員の利益を代表する団体を作り直せ」「軍隊を持つなら国民皆兵にして軍の暴走を押さえよ」「天皇家は引退して伊勢神宮の神官になれ」「日本は国民投票で選ぶ大統領制を導入せよ」「日本は移民を受け入れて多民族国家となれ」どれも普通の日本人は発言しない言葉だが、自分が日本人であることを忘れて、もし外人の目線で見たらと考えると、どれも筋が通ってまともな意見だ。正論に聞こえる。原さんとは、そういう、外からの視点を持った国際人だったのだ。たいていの日本人には共感されないかもしれない。これらの発言はどれも実体験で得たものに基づいていて、ただ公言するばかりでなく、「皆兵」「多民族」論については個人的に実行しているのである。そんな原さんがあるとき、何かの話の最後に「ストレス尽くめの人生だったよ」と言ったのを聞いて、僕はとってもウケてしまった。だって、この強気で四面敵だらけの人生を自ら歩んできた原さんがそんなことをいうなんて。
僕が名古屋に住んでいた1999年から2004年まで、原さんの家をよく訪ねた。エリザベスさんの料理を一緒にごちそうになったり、そこで会う様々な人達も面白かった。エリザベスさん、末娘の円さんと共に大晦日の名古屋城公園に夜の散歩にでかけたのも忘れられない。僕が合気道の稽古で靱帯をケガしたときは診てもらった。原さんは空手や日本拳法の達人で、屋上にトレーニングルームを作っていた。武術論でも話があった。エリザベスさんとの毎日の言い争いも楽しかった。「日本の男は家事を何もやらない!」と結婚して30年近くにもなるエリザベスさんが多分いつものようにこぼせば、「リーダーに必要な資質は、何でもかんでも自分でやらないことだ。」と、偉そうにとぼける。だけど「エリザベスは本当に料理がうまいんだよ」と何度も聞いた。
僕がお付き合いしていた頃には、もう高所登山の最前線からは身を引いていた。けれど、原さん主催の高山研究所には1980年代、若い時代の長尾(山野井)妙子、小西浩文、遠藤由加らが出入りした。極地法や物量に頼らない、体を高所の為に鍛え抜いて高峰に望むという作戦を日本で始めた第一人者だった。自らの原病院経営の傍ら、JAC東海支部を率いてマカルー南東稜初登(1970)の遠征も成功させたリーダーシップの持ち主だった。この年は本家のJACが南西壁を登るといいながらノーマルルート止まりだったエベレスト遠征の年。外貨も、ネパール登山枠も、「政治家」だらけの本家と全面バトルして、その上未踏ルートからの8000峰を成功させるという実のあるクライミングをした手腕は今では想像できないくらいの快挙だと思う。
2006年夏、原さんにモンブラン登山に誘われたので、ご一緒させてもらった。僕の家族には山麓でエリザベスさんたちと観光してもらって僕は登るという段取りのうまい夏休み。いざジュネーブで会うと、原さんは風邪をひいていて、登山は欠席。それでもエリザベスさんが手配してくれたガイドと共に、僕は何人かでモンブランのノーマルルートを登ってきた。このときは久しぶりに御一家の皆さんと車でジュネーブ、シャモニーを移動、ジュネーブに住む娘さんの恵さんのところでやっかいになったりと、楽しい時を過ごした。僕の妻も娘も、比較的こわもてなのに原さんにはとても親しみを持っていた。その後は、キャンピングカーでの旅行先に、僕のいた函館を候補にしてくれていたのだが、何かの都合で延期になったままだった。函館山を案内して、100年前の海峡要塞の遺跡廃墟群を案内したいと思っていたのだが。
山のこと、歴史のこと、国家観のこと、家族のこと、全てにわたり大きな影響を受けました。原さん、これまでどうもありがとう。
2009.3.21.
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1月31日久し振りに中京名古屋で、関西支部新年会を開く(岸本記)
場所は名古屋駅の桜通口側の駅前。少し早めに着いた私は市内の繁華街をぶらぶらしたが、年明け1ヶ月にもなると華やかさはない、とはいえ自動車産業を直撃している不況の影も見当たらない。会場に向かう途中、内藤さんからは熱が出たと、田中(英)さんからは福井を出たが、列車が強風のため今庄から進めない、と相次いで欠席の連絡。
今回は長老の和田さんに乾杯の口火を切っていただく。その和田さんは蒸留酒を生でいくのが流儀、今は中国の水井坊がお好みとか。向かいに座った原さんは、相変わらず抹殺論を展開、ヤル時はギロチンがいいのだそうだ。今回参加者の中で一番若い松原君はそんな二人に囲まれて内心はどうであれ、先輩の話を拝聴する姿勢はディリジェントにして積極的。ここ数ヶ月名越さんは酒量がいつもの千分の一になった。調子がいいのだそうだ。何せ酒にまつわる話が一杯有るお方故、今更減った、止めたと言われても誰も気に留めない。
ネパールのナキウサギの遊び場とおしっこについて誰かが喋れば、「伏見(ネパール在住)と連絡が取れて、俺は今年ネパールに行く」と別の誰かが宣言。後はだれが何を喋ったのか、記憶もうつろになる・・・・・とその前に、今回の参加者(敬称略):和田、原、吉田、窪田、神戸、高橋(昭)、渡辺(尚)、川道、名越、石松、松原、岸本(計12名)
追記:本当にうつろになっていたようで、いつもの集合写真を撮るのをすっかり忘れていました。
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八甲田山麓にてイグルー稽古会を催しました。やる気満々の参加者数名は前日入りして、独自イグルーを作って迎え撃つなど、向学心満々。お伝えする僕も感激しました。
これまで山中イグルー泊50泊(たぶんもっと)の米山が実用お手抜きイグルーの技術をみんなにご披露した。面々は、山岳同人たがじょの皆さん。青森で米山がお世話になっている青森県で最強勢力の山岳愛好家集団です。技術は真綿が酒を吸うように、伝授されました。
これまで何度かイグルーの製作法をあちこちに書いた
http://www.tokyo-np.co.jp/gakujin/gak2003121501.htmlが、読んだだけでやみつきになった人はあまりいない。イグルーを実践している人は、実地で作るのを見た人ばかり。やはり文面だけではわかりにくいようだ。特に三段目で内傾ぐぐぐっとさせるテクニックなどが。今後はもっとわかりやすい文章と図解で普及をはかりたい。
本日は前夜から泊まった人たち含め25人。昼過ぎまで合計25基のイグルーを構築した。一人で三つ作る人、あまり作らず飲酒でゴキゲンの人もあり。講習前と後の違いは所要時間。実用イグルーは一時間弱で作らなければならない。今日の雪質はくっつきやすく、大抵四〇分で二,三人用が仕上がった。
オサナイさんの作ったイグルーはこれまでに見たこともないほど美しいフォルムをしていた。僕が手抜きする三段目以上も緻密に作ったので、まるで札幌ドームのように美しい。こういうところには性格がテキメンに出る。オクヤさんは、単独で一人用イグルーを作る稽古に没頭し、三つも四つも一人で作っていた。これは命を救う緊急用だ。一人でもスコップとノコさえあれば疲労凍死する事は無い。僕の一人用シェルターイグルーは二〇分でできた。一度やってみせると勘のいいひとはすぐに身につける。
終えたら樹林帯の中はイグルー村と化していた。まるで世界遺産のイタリアの【
ここ】。
これでもうたがじょは冬テント要らず。
家に帰って、まだ日があったので、待っていたこども(四歳児)用に、自宅庭でもう一つ作った。これも二〇分。なかでお茶ケーキをいただいてままごとしてあそんだ。青森は八甲田が近くて本当に良い。
家
よろこぶ子供
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直行夫人つるさんから寄贈の絵画5点が山岳館へ届けられました。夫人から熊野純男会員に託されていたもので、油彩3点、水彩1点、コンテ1点です。これらは山岳館に掲示します。直行さんの絵は山岳館には既に3点ありますが、これらを含めて館内に直行コーナーを設けて展示の予定です。
熊野ボンちゃんと晩秋の南日高(山岳館図書室にて)、油彩(31x41)、前景が未完成の習作で署名がない
題名「原野の立ち枯れ」1931年作、このコンテは戦後油絵となった同名の原画
水彩、裏書にポロシリ七つ沼カールにて、坂本直行、1959の署名
油絵31x41、初夏の南日高(楽古岳)、前景が未完成の習作で署名がない。
油絵33x45、大雪山、前景が未完成の習作で直行さんの署名がない。
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