久しぶりに札幌を訪問しました(12/3)。澤柿さん(1985)を北大に表敬訪問したところ、最近南極に関する著書を出したそうです。また、「つる」にて、同世代で久しぶりの再会を楽しむとともに、20近くも先輩のヒヤヤッコさんや、現役部員全員や若手OBとも合流し、楽しく世代を超えて交流を図りました。(報告:山森聡、1986入部)
北大地球環境科学研究院の澤柿さん(1985)を表敬訪問した。澤柿さんは、このホームページやAACHメーリングリストの運営管理をボランティアで行っており、AACHの発展に多大な貢献をしていただいていることに感謝したい。澤柿さんの隣の部屋は、石川ヤンケ(1987)の部屋だが、残念ながらシベリア・ヤクーツクに凍土の研究で出張中だった。
澤柿さんは1993年(第34次)、2006年(第47次)の2回、南極越冬隊に参加しており、このたび、「なぞの宝庫・南極大陸 100万年前の地球を読む」を共著で出版されました。
購入はこちらからどうぞ。 「つる」のマスター大内さん(HUWVの大先輩)も元気でした。
「つる」のホームページはこちら。 左から、斎藤(1987),柳澤Dick(1986),大内さん(HUWV),山森(1986),冷奴さん(1969)。
冷奴さんとは、偶然、会うことができました。
柳澤Dickは、1999年に南極(第41次)の観測隊に参加しており、その時を含め7年間、冷奴さんの会社に所属していました。久しぶりの上司と部下の再会だったようです。
斎藤(1987)が最近現役を連れて山に行っている縁で、例会終了後に、若手(2003入部、6年目)の勝亦君と、4年目以下の現役全員(6名)も駆けつけてくれました。
写真左から、斎藤(1987),野沢(2),井村(1),勝亦(6),鹿島(1),田中バイエルン(3),田中省(2),小池ダイゴロー(2)。
前列は、柳澤Dick(1986)、大内さん(HUWV)、山森(1986)。
冷奴さんは残念ながら、現役勢と合流する前に帰宅されました。
先程の写真は、野沢君(2)の顔が半分切れているので、もう一枚アップ。こちらの写真は、井村君(1)の顔が切れかかっている。この写真に写っているのが、4年目以下の現役部員全員だそうです。
(計6名、4年目0名、3年目1名、2年目3名、1年目2名。)
6名とも、私(山森:1986入部)が現役時代にオギャーと生まれた人達でした。世代を超えて、交流を図ることができました。
それでは、冬山、春山と続きますが、みなさん安全に山行を楽しんで下さい。
私の方も、東京組で、恒例のスキー山行を地道に継続していきます。
記録は
http://homepage2.nifty.com/yamamori/ を参照下さい。
(報告:山森聡)
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2008年11月15−16日、岐阜高山市にて開催。私は15日朝から焼岳に登る段取りで14日の晩に高山に入った。大阪のかったるい冬の空気と違い、高山の夜は澄んでいた。見上げる月は真ん丸で、暦を無視して何度か「月見の会」をやっていると、たまにはお題目の通りになるものだと妙に感心。
宿の国民宿舎「飛騨」には、時間通りに皆様到着。数日前まで参加予定だった内藤さんと松原君が共に体が空かず不参加となり、総勢は9名。
風呂上りの浴衣姿で須田さんち畑で取れた特選みかんを頬張りながら大相撲をテレビ観戦する様は、まるでどっかのじいさまみたいじゃないの、名越さん。そういえば原夫人は別にして、お集まりの面々は私も含め、70代から60代。どっかではなく単なるジイサマ連中です。でも田中(英)さんから、トイレが2つも付いたクルーザーでの話を聞いていると何だか不良ジイサマの感じもする。あるいは昨夜満月の下で、不登校気味の孫娘と手をつないで夜道を歩いたという渡辺(尚)さんの話は普通のおじいちゃん。
宴会もそこそこに、大部屋に戻り部屋を暗くして、この夏にアンデス38日の旅に出た高橋(昭)さんのDVD映像や吉田勝さんのネパールヒマラヤのパワーポイント資料などを、原さんの昔訪れた話を織り交ぜながら鑑賞。夜は更けて団欒は続く。
翌朝は雨で明ける。期待していたがこの小高い位置の宿から北アルプスの姿は煙って見えない。朝食を終え、少し小降りになるのを待つでもなく、別れを惜しむでもなく、三々五々に帰路につく。今度は新年宴会でまたお会いしましょう。
参加:原夫妻、吉田(勝)、高橋(昭)、田中(英)、渡辺(尚)、須田、名越、岸本
(記:岸本)
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2年前の6月に札幌から歩き始めて琉球の大東島までいき、今年の春鹿児島から北上をはじめた石崎は先週水曜日、青森にきた。携帯電話の着信に「公衆電話」と出るのはまあ石崎くらいだ。公衆電話→携帯電話は料金が高い。すぐ10円玉が切れるので、会話は合言葉なみの短さだ。
うちでは4歳になったまきちゃんのおもりをしてもらい、yes!プリキュア5GoGo!には相当詳しくなった。食客として逗留。スープカレーを作ってもらう。体重が3キロ増えたところで旅立った。
次はいつやってくるのか時間感覚江戸時代男。
ヤマレコにnezzrow名でヤマレコならぬ「トホレコ」の記録アップを始めました。ヤマではないので標高グラフはまっ平らですが、歩いたトレースが赤くなって日本を巡るでしょう。更新は江戸時代スピードで随時。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/userinfo-2199-prof.html きょうは南部領に入り、陸奥湾を左手に下北半島のどこかで泊。
1月27日(日)JR京都駅前ホテルセントノーム京都にて参加者(敬称略)
駒田、原、(吉田勝)、神戸、高橋(昭)、田中(英)、内藤、渡辺(尚)、伏見、益田、川道、須田、名越、石松、岡島、岸本 計16名
午後6時に三々五々集合。どうも同じ階の手前の会場では女子大の同窓会が開かれるようで、ロビーにあふれたその人垣を縫ってやって来られる面々はいつになく笑顔。新年はやはり笑顔が無くてはネ。
駒田先輩の乾杯の発声ではじめます。
今年は鍋を囲んでの宴会で、ややみやびに欠けるきらいはありますが、この時期ですので熱燗とのバランスはいいようです。
一人三分間で一年の抱負なりのご披露をおねがいします。
年に2度5000M以上の山に登っていると一切病気はシナイ、今年も又2度ヒマラヤを目指すと言い切るお医者さん。ペルーアンデス登山を7月に敢行するという半ご隠居さん2人。
気が付いたらネパールヒマラヤのツアーコンダクターになっていた元学校の先生、同じく再就職のために毎日自転車走をこなし10キロ痩せた元学校の先生、同じくネパールの野原で新種の蜂を捕まえた元学校の先生。
NEETにしてメタボリックシンドロームまっただなかの元地質屋、ワーキングプアを自認する現地質屋。
多忙につきこの5年は登山もできない働き者の会社役員、同じくこの10数年毎年夏の日高で山登りをしている怠け者の会社役員。等等。
欠席された方からのお便りを吉田さんが読み上げ、近況を知ります。
出席の面々を見回すと現役の会社勤めは少数となり、話題も何となく「遊ぶこと」が中心です。本来ならば遊びというのは非生産的社会活動なのですが、喜々として話し合われるその内容は、あたかもデパートの刃物売場のセールストークの如く、何となく引き込まれてしまいます。
かくしてあっという間にお開きどきとなり、原支部長の締めの音頭の後、大声で山の四季を斉唱して今年もすっきり年が明けました。
(岸本 記)
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毎年なぜ今頃と言われ続けて、今年もまた11月17ー18日、関西支部月見の会が近江舞子の琵琶湖畔で行われました。(写真:伏見さん)
そもそも11月の琵琶湖北西部は日本海側特有のしぐれの季節。昨年などは冷たい風雨の中、ブルーシートをはためかせ、こっけいなほど頑固に月見をしたものでした。
だが今年はやや冷えるものの風もなく穏やかな日和。午後4時に湖畔に繰り出し第一次乾杯。おでんと焼き魚、伏見さんご持参のふなずしと湯葉、それにこの一年の各人の近況なりを肴にのどを潤す。午後5時、原支部長と夫人のエリザベスさん、ワン公2匹到着で第二次乾杯。
上弦の月は直ぐに山の端に隠れる。打ち寄せる波音を聞き、焚き火のあかりを浴びながら、延々と皆様の昔のお話、今の話題、あるいは山の歌等などが続きます。程なくして丁度近くに滞在中の相田夫人と相田さんの親戚の婦人お二方が、今年早速名物となった「湖畔おでん」をご賞味に飛び入り参加。
湖畔の清掃の意味で始めた今年の焚き火もまた快調で、明るく暖かく楽しい宵を過ごすことができました。(勿論、白砂が汚れることの無いように翌早朝、きちっと後処理をしたことはいうまでもありません)
やがて時は亥ノ刻を過ぎ原夫妻はキャンピングカーに戻られ、我々はベルドール琵琶湖(マンション)に引き上げ、冷えた体を大浴槽で揉み解したのでした。
翌18日はマンションで朝定食をいただきコーヒーのお代わりをしながら雑談の後、解散。皆様今度は新年会でお会いしましょう。
参加者(敬称略): 原真、原夫人、吉田、相田、田中英、渡辺尚、高橋昭、伏見、岡島、岸本、途中参加: 相田夫人、同親戚ご婦人2名
18日、比良山に登る。朝食後、登山組6名は、西の空、山に掛かる朝虹を眺め、上部はみぞれか雪になるか判らないまま登山口を出発(9:50)、金糞峠というやや品のない峠(11:00)に立つ。南北に伸びる比良山地は、約900mより上部は高原状になっており、一息で登ってしまうと、後は登降も楽になります。中峠(11:50)の沢中で昼食。杉、ぶな、かえでが雨に濡れそぼつ中、暖かいスープが有難い。
1214mの武奈ヶ岳山頂(13:10)では若狭湾からの風と舞う初雪に高揚して、何となく皆さんと握手してしまった。後は北比良峠を経由して下山、登山口着(3:30)、駐車場に帰り着く。私よりも何歳も年上の皆様の、いやお元気なこと。たっぷり6時間半、雨の中の紅葉、頂上の初雪、なかんずくおしゃべりな方々との楽しい山登りでした。
帰りのJR車中では昨日までとはうって変わって、コートや厚手の上着姿が目立ち、関西にも一日で冬が来たことに気が付きました。
参加者:リーダー岡島、メンバー相田、渡辺尚、高橋昭、伏見、岸本
以上、記録:岸本
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没原稿復活編.
北大広報誌リテラポプリに「知床学のすすめ」という連載がある.世界遺産に登録されるかどうかが話題になっていた2004年から始まり,2007年冬号の時点で10回を数えている.
地球生態学講座時代に,その初回から数回分の記事を依頼されたことがあって,教授らとともに取材旅行にでかけたりした.第一回は平川教授の記事で,これにのっている地図を描いて提供もした(この号には「神谷正男の仕事」ってのもあるヨ).
私自身にも原稿依頼があって,なんとかひねくりだして書いてみた.しかし,その後,編集部の都合かなんかで連絡が途絶えてしまい,また時期を逸したという面もあって,この原稿は結局没になってしまった.なんだか,私の原稿はこんなのばっかり...
このエントリーの前の二つの投稿にある,現役が知床や大雪山でコンフリクトに遭遇した記録を読んで,ボツになった原稿のことを思い出した.内容的には古くなってしまったところもあるし,結局未完成のままなのだけれど,コンフリクトを体験した現役たちへのエールを込めて,一応ここに未完成のまま復活させておくことにする.
【リテラポプリ・知床学のすすめ 没原稿:最終校正日は2005年1月25日】
「知床学を学ぶもの」
調査旅行で夏の知床半島を訪れた。相泊から船を出してもらって海上を進み、岬の先端に上陸してみたら、そこには草原に寝ころんで海を眺めている若者達がいた。羅臼から三日かけて海岸を歩いてきたのだという。さらに話を聞くと北大のワンダーフォーゲル部員だという。我々が北大の教員であることを知ると、彼らはなんだかばつが悪そうな表情を見せた。ひとけのない最果ての地で自分たちだけの岬を思いっきり堪能しようと思っていたのであろうから、そこに突然現れた我々は、彼らにしてみれば、とんだ邪魔者に映ったにちがいない。
北大は、研究と教育を担う場である。そこで学ぶ学生達は、教員とならんで忘れてはならない北大の重要な構成員である。彼らが大学で得るものは、キャンパスで日常的に受講する講義にとどまらず、公認・非公認の自主的あるいは個人的な課外活動によるところも決して小さくない。特に、北海道の雄大な大地への若き憧れも相まって、北大には野外活動系の学生サークルが多い。野外系サークルに籍を置いて全道の自然の中を巡り歩く北大生達は、バスやレンタカーで刹那的に観光地を訪れるツーリストとは明らかに性格を異にする。ガイドや案内板に頼ることなく、自分で計画をたて、自分の足で歩き、自分の目で見て、本当の自然を感じ取ろうとしている。さらには、野外で遭遇する様々な危険にも自分たちの責任で対処しようという心構えもできているのである。
近年、知床に限らず、保護を必要とされるような景勝地や国立公園では、マス・ツーリズムによるオーバーユースが問題視されている。同時に、一過性の観光よりも、もっと深く自然を理解して自然と共生する意識を高めるような「エコ・ツーリズム」の必要性も叫ばれるようになってきた。そのような社会情勢にあっても、岬で出会ったような北大生達を、オーバーユースの一因でもあり、またエコ・ツーリズムへの誘導を必要とするようなツーリストの範疇に当てはめてしまうのはどうも無理なようである。また、一方的に自然保護を叫ぶ活動家とも明確に一線を画しているといっても間違いはないだろう。彼らの中でも特にアクティブな者たちは、北海道の野山をくまなく歩き尽くし、比較対象ともなるべき多くの地域で多用な自然に触れ、経験もつんで、消化しきれない感慨や疑問を多く抱いていることだろう。私には、そういう彼らが、まだ何色にも染まっていない、いわばフィールド・エキスパートの卵であるように思える。
私自身、学生時代から北海道の山々を登り歩いてきたアウトドア派である。知床にも数度足を運び、山頂ではなく岬の先端を終着点として目指す山登りを楽しんだ。だから、岬で出会った学生達の気持ちはよく分かるつもりである。そのような先輩として、岬で哲学的な思いを巡らせていた彼らにはあまり干渉しないように心がけたつもりであるが、一つだけ尋ねてみたいことがあった。知床半島は、北海道好きのアウトドア派であればだれもが一度は憧れる地であるが、世界遺産の候補地として脚光を浴びつつある現在では、従来以上の新たな付加価値を得るとともに、注目されるが故の問題も抱えるようになってきている。まさにその時期に、この岬を夏の山旅の目標地として選んだこと、その地に足を踏み入れていることの意味、そして、今の知床が彼らにどのように映っているのか、ということを、フィールド・エキスパートの卵たちに尋ねてみたかったのである。
その質問を彼らに繰り出すには、鹿による食害、土壌浸食、人為的攪乱など、この岬で起こっている問題についてまず講釈をたれる必要がある。そんなことを言い出せば、せっかくの旅の雰囲気も興ざめになってしまうことは目に見えていたし、まずは学生たちの率直な感覚を大事にしたいという気持ちもあったので、軽く説明するにとどめた。そのせいもあったのか、残念ながら、その場では彼らからめりはりのある回答は得られなかった。
しかし、きっと彼らは、ウトロへと戻る海岸を歩きながら、我々が投げかけた質問や解説した知床の現状について、自分なりの考えを巡らせていたに違いないし、そうあって欲しいと期待したい。岬を巡る道中で、「保護地域に何しに来たんですか!」なんてぶっきらぼうに叫ぶ保護活動家に出くわしたかも知れないし、黙々と番屋で生業に勤しむ地元の漁師さん達に出会ったかも知れない。何も考えずに無邪気に観光を楽しむツーリストに遭遇したかも知れない。自分たちで計画し、自分の足で歩いてきた知床である。その思い入れがあれば、抽象的な議論や小難しい理論に対しても、現実味を持って取り組む素養ができているはずである。しかも、大学へ戻れば、それぞれが専攻する分野で、知床について考える課題はいくらでも見つけることができるだろうし、その思考を手助けしてくれる知識や指導者や文献はそろっている。
これが、北大の持つポテンシャルである。ここを巣立った学生達が社会に出たとき、再訪する知床は学生時代とは異なった顔色を見せてくれていることだろう。そのときにどう考え知床とどう向き合うか。その姿勢を決定づける素地作りの場を提供するのも大学の役目である。しかし、複雑で変化の早い現代社会の様々な問題に対応するだけの知識や技術を身につけるには、学部で学ぶ四年間はあまりにも限られた時間でしかない。特に、環境問題には社会科学と自然科学の双方から取り組む必要がある。専門の殻にこもっていては総合的な解決は難しい。時には、何が正しくて何が間違っているか、という判断を、従来の価値観を越えた新たな価値観の創造を通して下さなければならない場合も多い。
大学院地球環境科学研究科の地球生態学講座では、2002年度から環境保全に関わるNPOや自然ガイドの指導者となるべき人材を養成するコースを開設した。このコースの特徴は、環境保全に関わる社会活動の中で自分自身が抱えている課題について、もっと勉強したいとか、集めたデータを活用したい、という明確な目的を持つ人をメインのターゲットとしていることである。その第一期生の一人として、知床国立公園羅臼ビジターセンターで臨時の仕事をしながら活動していた女性が入学してきた。彼女には知床での活動の中で抱いた疑問を解消したり、自身が取り組んできた課題をまとめたいという強い意思があった。新コースとして歓迎すべき入学者の一人であったわけである。
これまでの活動やコースで実施する研究内容についていろいろと話をしていくうちに、彼女もまた、学部生時代に野外活動系のサークルで北海道の自然を楽しんだ一人であることが判明した。彼女は、修士研究のテーマとして羅臼の海岸に飛来するワシの目視観測に取り組み、野外活動の経験で得たバイタリティを発揮して、ほぼ一冬に渡って一日も休むことなく調査を貫徹させた。流氷の接岸状況やワシの目視観測数が克明に記載された調査シートは百数十枚におよぶ。一人現地で調査に励む彼女の様子を見に冬の羅臼を訪れた折に、宿泊先で、こんな結果が得られました、とその調査票の束を見せられた。その時、調査票の解析から得られる結果の有望性を直感し、研究者魂を揺さぶられ、わくわくする感慨を覚えたのが忘れられない。
地球環境科学を専門とする大学院のカリキュラムの中で我々教員が指導できるのは、事実を見極める訓練を受けた専門家として、いかに自然を評価し事実を確定するか、という自然科学の理念とその手法についてである。事実の確定とは、正しさの評価と表裏一体の問題でもある。従って、研究の末にたどり着いた結論は多くの専門家によって批判的に検討される必要があり、そのプロセスを通じてようやく一つの「正しさ」としての地位を得ることになる。そういうことを大学院で教えるのである。
こういうと、まるで象牙の塔にこもった研究者像を起想されてしまいそうだが、多様な価値観や意見が交錯する環境問題においては、確実な事柄を一つ一つ積み重ねていくことも重要なことであり、様々な利害が対立する社会の中での環境保全活動の実践現場ではなかなかなしえないこととして、大学が果たすべき役割であると考えている。昨今では社会活動の中でも学ぶ機会はいくらでもある。しかし、大学院に戻って学びなおそうとする入学生たちの姿勢の背景には、利害を超えた「真理としての正しさ」への欲求がある。それはまた、環境問題に関わる得体の知れぬ権威や影響力のある活動家の意見への疑問の裏返しでもあり、真実の自然を伝えたい、という誠意に基づく意思であるようにも思える。
彼女の修士論文は優秀な成績で審査を通過したものの、学会誌に発表するまでには至っていない。その意味では、外部の専門家によるピアレビューを受けていないので、結論を事実として確定するには残念ながら十分な条件を満たしているとはいえないかもしれない。しかし、修士論文への取り組みを通して、科学的に事実を明らかにし、その意味するところに考察を加えるという訓練を行ったことは、今後の彼女の知床での環境保全活動に有効に働くことであろう。
知床は、自然遺産の候補地として様々な問題が議論されているところだが、人の営みと自然との共生が主要なテーマになっているという点では、まさに環境問題の側面を備えているといえるだろう。環境問題には、いつでるとも知れぬ学者の議論の結論を待っていては手遅れになってしまう緊急の課題も存在することは確かである。しかし、それは正しさをないがしろにしてよいという免罪符にはならない。むしろ、将来にわたって禍根を残さないためにも、訓練された専門性や専門家どうしの相互批判によって確定された「正しさ」に基づく判断力を持つことを目指さなければならない。
世界遺産とは、いわば、国際機関によってお墨付きを得た絶対的な価値であり、人類が共有して後世に伝えていかなければならないものとしての正しさを有するものである。この是非については議論の余地はない。しかし、特定の建造物や地域に世界遺産という価値を適用させるには、様々な対立や問題が介在する現実的な過程を経なければならないのも事実である。そのような問題を解決するためには、たとえば社会科学と自然科学を融合させるなど、専門家にもこれまでにない展開が必要とされることになる。これは、世界遺産という絶対的価値が、我々に新たな価値観の創造を要求しているのだ、とも取れはしないだろうか。
新たな価値観を創造する必要はあるにせよ、いやそういう不安定な時代である今こそ、大学は教育・研究機関として、地道で慎重な科学的態度を貫く役割を担っていくべきであろう。そのような態度は、純粋な学生達に普遍的な探求心を身につけさせ、現実社会と向き合っていく力を与えるのにも必要であると思う。本稿で紹介したような地域や真理への個人レベルの情熱と、アカデミックな厳密性の上に「知床学」が発展していくことを望みたい。北大はそのポテンシャルを十分に備えている。
(未完成)
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部員求む!下記の要領で新歓をやってますので、よろしく!また、このページ左列の「北大山岳部案内」のところをご覧ください。
4月12日(木) 19日(木) いずれも18:00〜30に教養(高等教育機能開発総合センター)1Fロビーにて部員が勧誘をしているので声をかけてください。説明会に案内します。ごっつぁんあり。
19日は他の山系団体(山スキー、ワンゲル、医学部山岳部ふらて)と合同で行いますので、他の山系団体も見てみたいという方におススメです。
12日、19日に行けないが興味があるという人は、090-4649-3830(吉本)まで連絡をください。
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2月25日、宮井さん(81入部)が亡くなった。そのお通夜が小樽で2月27日あった。
25日はよく晴れた気温の低い日曜日で、宮井さんは積丹岳を単独で登った。持参のカメラの写真によれば、おそらく登頂しているようだ。下山して車を運転中、心臓が止まったそうだ。ガードレールで車は止まった。家まで数キロの所だった。
会場にはその日の山の装備が置いてあった。ナダレヒモやAACHと書いた赤のデポ旗、自作デストロイヤーの目出帽、予備のハンガロン、細かく防水パックしたマッチろうそく、水線とコンタラインを書き込んだ地形図など、山岳部現役の基本そのままの個人装備を一つずつビニール袋でパッキングしてある。几帳面な性格を思い出した。僕が入部した春、この装備の意味を一つ一つ説明して揃える面倒を見てくれたのは宮井さんだった。
生涯最後の日に晴れた積丹に登り、春の日本海を見下ろした様を想像した。この季節の積丹はまだ第一級の冬山だ。天候、雪崩の判断も難しい。ガリガリでバリズボの稜線、アタックの時間読みの駆け引きもある。山は久しぶりだったそうだが、この日のアタック、いろんなそれまでの社会でのいきさつから行こうと思って計画し、結果貫徹したのだろう。どんな気持ちだったのか。できることなら本人に聞いてみたい。久しぶりのマジな山で、ちょっとはビビったりしたんじゃないかな。社会や仕事でおかれた身でなすべき事をしてきて、僕達山岳部員のささやかな成功(山行の企画と貫徹)をこの日深く味わい、家族の待つ家に帰るところだった。人は誰でも死ぬ。宮井さんの死は悪くないと思った。なぜならお通夜におつきあいして、宮井さんが家族みんなにとても深く愛されていたのを感じたからだ。お父さんお母さん奥さん五歳二歳のこどもたち。いつまでも棺からはなれられなかった。
お通夜と翌朝の告別式へは前田さん、キンペイさん、キンドーさん、スエさん、松っつあん、樋口さん、藤原さん、ホースケさん、高原さん、ノムラさん、タゴサクさん、名取さん、米山、ディック、しゅうじ、たまちゃんが来た。それから高校の教え子達。
(米山・84入部)
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1990年2月10日オロフレ山で雪庇を落として雪崩に埋まり遭難死した小松健の追悼で今年も6人集まった。
現場はオロフレ峠の自動車道から100mほど登った所。今年は米山,キンタ、ディック、シェイク、梶川、小ノムラだった。斎藤はインフルエンザで断念!天気がよかったのでいつもより長くウダウダしていた。酒をまいて、カメラーデンリートを歌った。小松も生きていれば子供ぐらいいるだろうか。今日のメンツは総じて晩婚組(あるいは晩年未婚)で、そのせいもあって現役時代と代わり映えのしない様子だった。トシに一度しか集まらないのに相変わらず別れ際はさっぱりしたものだ。
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北大学務部学生支援課の茂木氏から、空沼小屋に宿泊したグループより外部煙突が倒壊しているとの知らせが鐙山岳部長宛にあった。この小屋自体の老朽化はかなり進んでいて、かねてより屋根積雪の重みによる倒壊も懸念されていた。自分の目で小屋全体の状況を見てこようと、9月8日の「小林年さんを偲ぶ会」の翌朝、やや重い頭のまま家内を伴って5年ぶりに小屋へ出かけることとした。
登山口に車を置き、石ころ混じりの山道を辿り、親子連れや夫婦連れの登山者と共に2時間程で万計沼に到達した。
写真1
写真2
小屋の周りには雑草と灌木が茂り(写真1)、藪をかき分けて入り口の鍵を開けた所、土台の沈下のためか床が大きく傾き(写真2,3)、内部のドアの開閉もままならない状態であった(写真4)。
写真3
写真4
写真5
窓の外の鎧戸を開け放ち、やっと内部様子が見えてきた。テーブルやベンチの上は一面に白いカビで覆われ、割れた窓ガラスは代物で塞がれていたが、バネのはみ出したソファー、破れたハンモック、昔の管理人室に放置されている古い寝具等々、かってのヒュッテン・レーベンを楽しんだ空沼小屋の心地よさはそこにはなかった。(写真5,6,7)。
写真6
写真7
写真8
コンクリートのストーブ台がプラトーの頂部になったように周りの床が沈下し、ストーブの煙突も支持する部材の変形のためか横引き煙突はうねうねと曲がり、煙り漏れの防止のためかアルミホイルやガムテープで補修がしてあった(写真8)。
写真9
壊れかかった鎧戸の戸締まりをして外部の状態を調べてみた。小屋の基礎部分は10数年前に中村晴彦、木村恒美、上野八郎会員らの手で一時的に補強されたものの、基礎部分の沈下と土台の腐れが進み、沼に面したベランダは使用不能、土台より上部の外壁を構成するログ材も至る所で腐朽が進んでいた。(写真9,10,11,12)
写真10
写真11
写真12
以上は会報100号掲載の「空沼小屋の現状と今後について」を補足するものである。
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