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坂本直行の遺品


坂本直行の遺品について

坂本直行の遺品
Collection/sakamoto/doshin.html 坂本直行の遺品 坂本直行の遺品 2015年6月、坂本直行先輩の遺品がご遺族から北大山岳館に寄贈された(下表)。 寄贈品内訳 詩誌「さとぽろ」創刊号〜6号 お宿帳 4冊 (1936〜1960年) ブロンズ「直行さん」峯孝作レプリカ  ピッケル 門田1932年製 木版画54点 スケッチブック 136点 写真 多数 画材 クレヨン、コンテなど 家具ほか  これらの遺品は、北大山岳部が創部以来90年にわたり引き継いできた図書、資料、山道具と同じように、北大山岳館が将来に亘って大切に管理・保管していく所存である。 希望者は山岳館運営委員会の許可を得て閲覧できる。  直行さんのアトリエ兼住宅が解体されることとなり、直行さんのご遺族(以下坂本家)は所有していた坂本直寛(龍馬の甥、直行の祖父)以来の資料を「高知県立坂本龍馬記念館」に寄託・寄贈した。  直行さんの山関係の遺品については坂本家の御好意と龍馬記念館のご理解により、かかわりの深い北大山岳館に寄贈されt。  1960年建設の直行さんのアトリエ兼住宅は芸術誌「さとぽろ」(創刊1925年)時代の友人で著名な建築家、田上義也の設計による。田上は次のように述べている(資料3)。 「『三十年も原野で雪かきをやってきたんでね、屋根のだけはかんべんしてくれよ』と直行さんの注文である。『ピロティ式のこの家なら、雪も自然にすべりおちるし、2.5mも地面から上がっているから土台だって、君の生きている間、いやそれ以上腐らないよ』と僕は言ったものだ。鍬を絵筆に代えて、三十余年の青春を原野に賭けたそのエネルギーが衰えないうちに、札幌に帰ってきた。彼の住居が出来上がったのは昨秋である。この開拓者の記念にもと、原野の家の古材を全部運んでもらって、屋根や梁に使いこんである」 1.ヘルヴェチアヒュッテ八十五周年記念講演会 2.「マックス・ヒンデルと田上義也-近代建築家の活動記録」1996 角幸博(北大山岳館蔵) 3.「田上義也建築作品抄」1966年 北方文化研究会編 坂本直行のスケッチブック(北海道新聞2015年7月3日朝刊) 坂本直行のスケッチブック (北海道新聞2015年7月8日朝刊) 坂本直行のスケッチブック (北海道新聞2015年7月9日朝刊)
ブロンズ像 “直行さん”
Collection/sakamoto/bust.html ブロンズ像 “直行さん” ブロンズ像 ”直行さん“(レプリカ) 峯 孝 1956年作 高さ24僉並羣8儡泙燹 ブロンズ像 ”直行さん“ (レプリカ) 峯 孝 1956年作 高さ24僉並羣8儡泙燹 ブロンズ像 ”直行さん“ (レプリカ) 峯 孝 1956年作 高さ24僉並羣8儡泙燹  坂本家より寄贈された彫刻家峯孝作の頭部ブロンズ像“直行さん”(レプリカ)は高さ24僂両品である。  「坂本直行作品集『坂本直行』」(京都書院 昭和62年刊)に掲載されている彫刻家本人のブロンズ像制作のいきさつ、また直行の岳友で義弟でもある朝比奈英三の画家直行について述べた記事を以下に転載する。 直行さんと私 峯 孝  直行さんの没後五年を機に画集が出版されますとの事、万に達する作品群の中から選び出す作は大変と思いますが、立派な画集がきっと出来ると期待しております。  私は氏が愛された山や野草についての体験や知識は殆どなく、随って氏と共に山に登ったという事もありません。自分の好きな道に現を抜かすという云う共通した接点があった為に何とはなしに三十年に近いおつき合いが出来たと思っています。  下野塚の山小屋に直行さんは開拓する為に入ったという事ですが、むしろ原野や山の美に魅せられ山に登り自然を描く為に入植された様に私には思えました。原野や山の夥しいスケッチや日高山脈を始め北海道の山々を歩き廻っての素晴らしい水彩画は、とても片手間に出来る業ではなく、開拓がおろそかになる事も無理からぬ事と思いました。此の南十勝の下野塚を初めて訪問したのは、昭和三十一年五月私が未だ四十三歳、坂本氏が五十歳頃だと思います。豊似の駅で下車、街の集乳所で坂本氏のファンらしき青年のお蔭で自転車を借りて山小屋めざし原野に入りました。残雪と未だ落ちない柏の葉が、赤く太陽に映えて紺碧の空をバックに、恐ろしい程静かだった瞬時の五月の原野の風景が、三十年を経た今も鮮明に浮かんで来て、氏の「原野から見た山」に収められている”原野の歌”を想い出します。其の頃の直行さんは厳しい生活の為か頬の肉は落ち、いささか疲れ気味の様子でしたが、ギョロリとした鋭い眼には人を寄せつけない精悍な気迫がありました。此の第一回の訪問で、私は思わぬ収穫を得ることになりました。あの夥しい量の見事な野草のスケッチ、稜線が明快で広い空間をもつ山野の水彩画を初めて拝見してすっかり感激しました。其の夜はランプのもと、温い囲炉裏の端で、奥さん手造りの蕎麦掻きのご馳走を頂きながら、ポケットウイスキーを汲み交わす仲となって、二日が三日となり、遂にリュックの中に用意していた粘土で直行さんの首の小品を三時間位要して強引に仕上げました。今思えば頑固な直行さんが、よくも黙っておとなしく坐って下さったものと恐縮しております。此の像は私にとっても家族の方にとりましても記念すべきものになったと思います。再びそんな機会はありませんでしたし、あの頃の直行さんの厳しい風貌は私にとって忘れ難いものです。其の後下野塚の開拓地を離れて、豊似の街に出られ、次いで札幌に新しいアトリエが出来たので早速に訪問しましたが、我がアトリエと比ぶべくも無いデーンとでかく洒落た近代建築に二度びっくり、其の気宇壮大でスケールの大きいところは、流石に坂本龍馬の末裔だけの事はあると同行の市岡君と感歎したものです。其の後も画題を得る為に遠くヒマラヤやカナダ迄足を延される等、其の健康と体力に氏の早急な死など考えたこともありませんでした。  私が小柄で軽いので「峯さん、リュックの上にのせて山に登りますか」と笑っておられた直行さん、今頃は黄泉の国の山々を、スケッチブックで一杯になった重いリュックを担いで相変わらず好きなだけ描き続けておられることでしょう。 (彫刻家 元武蔵野美術大学教授) 画かきになった直行さん 朝比奈英三  私が初めて下野塚の坂本牧場を訪れたのは、昭和十五年の十月も半ばを過ぎたよく晴れた日の午後であった。乾いた葉がカラカラと鳴っている柏林の中をバラ線の牧柵に沿ってゆくと、ぽっかり開けた草地に、三間に四間位の掘立て小屋があり、それが直行さんの家族、夫婦と幼児二人、の住居であった。二、三十間はなれて三頭の牛と一頭の馬の納まる牧舎があった。  入植してから五年目の牧場は、直行夫妻の血のにじむような努力にもかかわらず、南十勝の厳しい自然の前に、その経営は遅々として進まず、この時は丹精のサイロがやっとブロックを積み終えて最後の屋根葺きにかかったところであった。  その翌年の九月末、私は再び牧場を訪れた。ちょうど帯広の病院に入院していた三男の宏君が、やっと牧場に帰ってきたところで、竹行李の中で日向ボッコをしている幼い宏君をじっと見守っている若い直行夫婦の写真が私のアルバムに残っている。  この牧場のある東北海道の太平洋は、毎年六月下旬から八月半ばにかけて冷たい濃い海霧が襲ってくる宿命の場所である。この悪条件を充分覚悟して入植した直行さんではあったが、この二、三年の異常な大雪、大雨、再三の家畜の死といった災難続きで、愛児の病気を治すためには何より大切な牛まで売らねばならないような生活であった。  しかしこのような苦しい暮らしの中で、直行さんの画筆への情熱は少しも衰えなかった。学生時代はほとんど山ばかり描いていたのが、十勝に移ってからは、柏林を前景にした日高山脈の遠望は当然のことながら、大木の立枯れ、柏の切株といった原野の風物が画題を豊富にしていった。原野に入った当初、紋別の野崎牧場時代には、農事の合い間に山を描いていたようだが、昭和十年以降の開拓時代には、画筆を撮る暇もない多忙の年が続いていた。この苦しいくらしを見てきた学生時代の仲間が、いくらかは生活の資になるだろうと、札幌や東京でささやかな個展を開いたこともあった。多分この頃入手したらしい原野の白樺の油絵が一枚、私の部屋にもかかっている。署名もまだマル直ではなく、N. SAKAMOTOで、粗末な木版に描かれている。後年の作品の様な華やかな色彩はないが、いかにも開拓の苦労が伝わってくるような力強い作品である。  昭和二十七年には北大理学部の会議室を借りて「坂本直行山岳画小品展」というのを開いた。油絵が二十五点、水彩が十一点、いづれも色紙版で、価格も一点二千円以下であった。  本格的な個展は、昭和三十二年の三月に札幌大丸ギャラリーで開いた「坂本直行スケッチ展」が最初のものである。この時の目録に、「・・・開拓生活をつづけておりますため、思うように登ったり描いたりできず、きわめて稚拙な作品ではありますが・・・」とあるのは当時の直行さんのいつわらざる心境であろう。  この個展に至るまでに直行さんの心の葛藤は並々ならぬものがあったと思われる。大勢の家族をかかえて画筆一本の生業に充分な自信がなかったばかりでなく、ここで転向することは、二十余年にわたる開拓者としての生活に敗北したことを自認することでもあった。それまで困苦の中から、ほこり高い酪農の生活をようやく築いてきた彼にとっては、苦汁に満ちた選択であったに違いない。  ところで、この個展の成績は、初日こそいささか心許ないものであったが、二日目からどっと入場者が増え、結果は本人の予想をはるかに上まわり、五日間の会期中に、三十七点の出品作のなかで最大の十二号の油絵を含む十三点が売れ、終了直後にまた八点も売れた。  この第一回個展の大成功は直行さんの画家への転進を決定的にした。この以後は個展の開催も加速度的に増え、毎年の札幌の他に、東京、仙台、帯広、旭川など各地で開かれるようになった。回を重ねるにつれ直行さんの画家としての評価も高まり、初めはほとんど岳友、知己のみが顧客であった会場には、一般の愛好者が多数訪れ、もはや「開拓農家」という肩書きは不用になっていった。  このように直行さんが画かきになってからは、非常に順調に歩むことのできた最大の理由は、開拓時代から現在におよぶ実に多くのバラエティーに富む友人知己の変わらぬ協力と援助であったといっても過言ではない。また画についていえば、長年の十勝原野の生活に培われた、自然を友として暮らす心が、きわめて素直な形で画の中に生かされていたからに他ならない、彼が描く山々、特に北海道の山のほとんどは、親しい友との苦しくも楽しかった過ぎし日の山行の場であり、その尾根、その沢にひそむ限りない愛着が、あのように生き生きとした山々の姿を再現させてくれたのであろう。 (北海道大学名誉教授)
坂本直行のピッケル
Collection/sakamoto/piker.html 坂本直行のピッケル No,坂本直行のピッケル 製作者銘:MANUFACTURED-BY-KADOTA SAPPORO 初代:門田直馬(1877-1954) 坂本家より当館へ寄贈された直行愛用のピッケルは、札幌門田のごく初期、1932(昭和7)年作である。 ヘッド長31僉楕円形の頭抜き構造でピックにN.SAKAMOTOの刻印がある。全長86僂如▲侫ンガー長は160个3点止め、ブレードは二等辺三角形、製作銘はレモン型二重楕円の中にMANUFACTURED-BY-KADOTA SAPPOROとある。 この銘は山岳部員で門田直馬にアイゼンとピッケルの製作を指導した和久田弘一(工機1934年卒)が、門田ピッケルを世に出すにあたって命名したものである。門田はその後、昭和8年にはSAPPORO KADOTA、昭和10年頃から炭素鋼を用いたものにはSAPPORO BERGHEIL K.I.W.と刻印した。 「時折頼まれる原稿を書いて、山岳雑誌などに寄稿したりしたが、僕はその原稿料をためたりして、昭和七年にようやくピッケルとアイゼンを手に入れてよろこんだ。それは門田の製品だった。死んだ門田のおやじ(注:門田直馬)は、僕のおやじ(注:坂本弥太郎)と若い時、北海道に渡った時からの懇意さもあってか、特別入念な作品をくれた。今の門田のピッケルとくらべるとひどくごついものであるが、まだ愛用している。当時学友に和久田というのがいて、材料の分析まで行い、門田の現在のニッケル、クロームの製品を作り出させた。学友和久田の功績は後世に残るものである。アイゼンの方は日高登山の時(注:昭和8年冬、札内川より北日高諸峰登頂)寒気のために折れ、再び入念の作を門田からもらって、現在それを愛用している。楽しくない借り物のピッケル、たとえそれがシェンクにしたところで、門田に及ぶわけがない」(坂本直行「山と絵と百姓と」北海道の山8号、1961年1月より) 【参考】門田のピッケルについてはこちらのサイトが詳しい.
坂本家の宿帳
Collection/sakamoto/guestbook.html 坂本家の宿帳 坂本家の宿帳 坂本家から寄贈の直行遺品の中の4冊の”お宿帳” 坂本家から寄贈の直行遺品の中の4冊の”お宿帳”  坂本家から寄贈の直行遺品の中に4冊の”お宿帳”がある。下野塚での開拓時代の25年間と開拓地を離れて豊似市街で画業に専念した5年間の延30年間に、坂本家を訪問した人たちがこのノートに自分の想いを記していった。毎日の厳しい農作業の中での家族挙げての歓待、日高の山々の雄大な景観、柏林、遠くの海鳴りに感激した人たちは感謝の気持ちを抱いて帰っていった。 ご家族(ツル夫人)の手による宿泊、訪問客数を記した紙片がノートに挟まれているが、それは以下のとおりで、直行を慕って来た訪問者の多さに驚かされる。   1936年〜1965年 坂本家宿泊者数    589名   1936年〜1960年 下野塚原野訪問者数  440名   1960年〜1965年 豊似市街訪問者数   245名  お宿帳をご覧になりたい方は山岳館所有の複写(朝日新聞植村隆記者撮影)で閲覧できます。  以下、下野塚原野時代のお宿帳(1号〜3号)の中から北大山岳部員達が残した手記の一部を紹介する(いずれも原文のまま)。 1936(昭和十一)年一月十二日 「お宿帳」第1頁に記載 (本野正一、葛西晴雄、湊正雄 1935年12月30日〜1月11日南日高へ、トヨニ、ピリカ冬季初登) 湊正雄 ----トヨニ岳から眺めたピリカの大きな山容と山に入る日の原野から眺めたルベツネ、ペテガリのすばらしさは今度のもっとも印象的な場面だったと思います。冬来て初めてここがどんなに山を見るに良いところかを知り直しました。五月残雪のうるわしい頃に、また参ります。それを楽しみにしていつまでも居たいのですが、この居残りを打ち切ります。葛西晴雄 ----例によって山を出る頃ともなれば天気が良くなる。しかし、自分の登った山を見ながら下りられることは実によい気持ちだ。僕はこの頃このような気持ちを味わったことはなかった。 1937(昭和十二)年二月十七日 有馬 洋  (1937(昭和12)年1月〜2月、第1次冬期ペテガリ岳登山隊が、暴風雪で稜線上のテントが破壊されるなどして敗退に終わった後、直行に促されて訪問した。この隊には直行も参加し、長男の誕生を帰宅後に知った。有馬は医学部3年生だった1940(昭和15)年1月に葛西晴雄と共に第2次ペテガリ隊のリーダーとして参加し、葛西以下7名の部員と共に雪崩で遭難死した)  コイボクサツナイよりの厳冬期のペテガリ登頂を志せるも、一日の違いで天候激変のため退却の余儀なきに至ったのでした。一年間の計画も白かんの親なるかまぼこ天幕の為に山を下りなければならなかった時は、ようやく天気恢復せる山頂をのぞんで涙の出るほど残念でした。心の憂さを晴らすべ可く直行さんに供はれて牧場に来ましたが、丁度こちらはお産の翌日、土方さんの方はお引越しと云ふ大変な時に来てしまひ、おまけに自分は風邪を引いてとんだお世話様でした。 あのモルゲンロートの筆舌につくせぬすばらしさ、又は白銀のこい影を付けた山並みの姿は一生脳裏から離れぬことでしょう。牧場を去るに当って、登君の健やかなるご成育をお祈りします。 1936(昭和十一)年七月十九日 石橋恭一郎  昨日来て、きょうは既に帰る。僅か2日足らずの滞牧、今少しの日数と思えど、如何ともならず。心をここに残して去る。此も空蝉の世の習わしとか。過日、牧場主に案内されて海岸へ行く。その茫茫たる風景にすっかり魅惑された。  ―風もなく、ただ聞こえるは波の音のみ、沖ゆく船も見えずー 1937(昭和十二)年七月十一日〜十八日 中野龍雄 (夏休みを利用して開墾の手伝いに来た。遭難した有馬、葛西らと同期の中野は第1次冬期ペテガリ隊に参加、アタックメンバーに選ばれるなど活発な部員であった。昭和18年、ガダルカナルにて戦死)  僅か8日間、その内の半分は雨とガスの日でろくに仕事もせず帰るのは残念です。原野の開墾の現実、茫茫たる太平洋の荒波、連綿と続く日高の連峰、憧憬の牧場の8日間は愉快でした。  オニール作「地平の彼方」の兄のことなどが思い出されました。「あの丘の向こうの海の彼方に何かがある。きっと良いところがあるだろう」とか言ったロマンチックな詩人の弟に対し兄の『詩ばかり歌っていた日には牛や馬が飼えるかい』の言葉を。 最後の前日、不注意で馬を死なせてしまったことを深くお詫びして、簡単ながら筆を置きます。 1937(昭和十二)年8月十七,十八日 栃内吉彦(初代、第3代山岳部長 当時予科教授)  とっくに来可かりし直行氏の農場にやっと来ることが出来た。8月30日の朝札幌を出て、トッタベツ川のピリカペタンから札内岳に登り、尾根をエサオマントッタベツ岳に縦走し、更に南折して1852m峰ヲ越え、カムイエクウチカウシに登り、札内川の八の沢を下って上札内に出たのは16日の晩だった。一泊して翌朝一番のバスで豊似に来たり、折良く市街地に来ていた直行氏に伴われて荷馬車に新築用の屋根柾を積んだ上に乗っかって農場に着いたのは午後2時頃だった。独りで柏の林を逍ひ豊似川の河原を歩き海辺の砂も踏んだ。  夜は四八組の全部が集まって折からの月明かりに一本木丘上の草地に歓迎の宴を開いてくれた。仰いでは空を往来する雲を眺め、臥しては太平洋の波の岸打つ轟きを聞き、痛飲談論夜半に及んだ。この日偶然来合わせた文チが酔っぱらってトンガラカッチャダメヨなんかと唄って魚になってくれたのは大いに良かった。さもないと私の気持ちはあまりにしんみりし過ぎてむしろ感傷的になってしまったことだろう。然し私の感情が嫌にしんみりしてしまうのは無理もないのだ。この土地に対して私はそれほど深い関心をそもそも事の始まりから持ち続けているのだ。民有未墾地入地の前後に起こった坂本兄弟の身辺の事情や私の身辺の事情やらを回想しないわけにはゆかず、従って感傷的にさえならざるを得ないのだ。その感傷をビールと一緒に胃袋の中に流し込んで文チヲ肴にしてのけた。(文チよ許せ) −−−−−− 皇紀二千六百年(昭和15年)十二月三十一日  有馬 純  十月に来てから2か月を経てまたやって来た。  底の底まで澄んだ高雅な十勝の空と雪で真っ白になった懐かしい日高の山並みが再び私を迎えてくれた。汽車を下りて雨後でつるつるに凍った道を急ぐ。だいぶん遅れたこのサンタクロースの背には大きなルックが揺れる。牧場に入ると例の炭焼きのところへ飛んで行った。案の定、直行さんが一人で真っ黒になって炭を俵に詰めている。合宿に行けないと腐っていると思って、ちょうど呼んでやろうと思っていたと言われる。いつもながら嬉しい言葉だ。−−−−−−  牧場は来る度に大きくなって行く。大雪後の昨年の正月には馬に屋根を食われた馬小屋とこの家だけだったが、この前4月に来ていたときは家より立派な牛舎サイロが出来ていた。いつもの槲の林から直行さんがあれサイロの屋根が見えるだろうと言われる。屋根はこの前は出来ていなかったのだ。杉の皮で張ったサイロの頂上が見違えるほどサイロと馬小屋を美しい風景にしている。井戸と風呂場が今度は露天ではなく、小屋の中に納まっている。来年はどうなるか楽しみだ。−−−−−−− 1941(昭和十六)年八月二十六日  東 晃 (昭和15年1月、コイカクシュサツナイ川で遭難した部員のケルン建設後に立ち寄り)  初めて直行さんの牧場を訪ねることができた。ケルン積みの帰り、トーチカに誘われて急に思い立って来たが、日高の山から下りてこの原野で暮らすと、大和平原の対象を感ずる。雨でお手伝いできなかったが、乳搾りを見たり、子牛をなでたり、スケッチを見せていただいたり、外の雨音を聞きながらいろいろの話をしてよい時を過ごした。直行さんのお言葉に従い、また冬にでも来よう。 1942(昭和十七)年七月二十八日 今村昌耕  野塚岳―1371m―1320m―十勝岳―楽古岳の縦走を終えて、楽しみにしていたこの原野に先輩を訪い、一晩泊めていただく。誠に恵まれた日、ガスの無いいい月夜に訪れた。また朝は雲のかからない日高の山並みを、Heimatを、丘の上から眺める機会を作って下さった。この度も与えられる喜びに浸ってここを去る。この前の時はおばさんが子供さんのお病気のためお留守であったが、此度は皆さん一緒のところに来てとてもよかった。去る時はまた訪れる日の喜びを持って去るのである。作物が今年は良いとのお話で嬉しい。皆さんの健康を祈る。 1943(昭和十八)年一月九日 藤木忠美 (橋本誠二、石井次郎、藤木忠美、札楽古川―楽古岳―十勝岳縦走)  生まれて初めての冬山の旅を終えて、直行さんのところへ来た。苦しかった旅、苦しければ苦しいほど旅の思い出は楽しい。星空の下、寒風吹き荒ぶ中を迷いに迷って見つけた牧場の灯、あんな嬉しかったことは無い。丘の上から見れば、今日も日高は快晴である。ペテガリはどうしたろう、やってくれれば良いのだが。―――夏にはまたここへ来よう、また日高の山々と牛や馬も喜んで迎えてくれるだろう。そしてまたあの直行さんの話を聞くのだ。その時を楽しみに待とう。 1943(昭和十八)年八月十二日 今村昌耕 (同年9月医学部卒業、同時に海軍入隊)  卒業前最後の山登りを思い出深く男澤哲夫さんと一緒でき、男澤さん御一家と名残を惜しんだら次にまた名残に暖かき直行さんを訪ふことができた。こんな恵まれた日々は今まで与えられて来た幸福な山生活に最後のpointを打つべきこの上もなきものであった。身は山から、日高山脈から離れても変わらず山心を抱き、また山の生活に結ばれた方々への感謝とご幸福を祈る心でこの北海道を去りたい。この牧場を通してすぐれた実際的な豊かな教養を恵まれざる多くのお百姓さんに及ぼし、日本の農民が将来豊かな心を持って仕事に精を出せるようになったらどんなに日本に追って感謝すべきことだろう。10日、11日の間に、いろいろお話をお聞きできてうれしい。温かいおもてなしに感謝しつつ、皆様のご幸福を祈ってお別れします。またいずれの時にかお会いできるか思いにふけりつつ。 1943(昭和十八)年九月二日 大川勇三郎  初めて日高山脈に入り天候の悪い際に合いへとへとになって直行さんのお宅にやって来た。日高の山脈がつきる所遙かに太平洋を望みしかも不毛と言われるこの土地で直行さんの生活を実際に拝し泣きたいようにうれしい。それに自然と共に生きている登ちゃん達子供さんの生活はほんとうにうらやましい限りです。僕は山と言ってもただ自然と交わればよい。それはほんとうの山行でないかもしれない。しかしそれをつづけます。自然と生きる生活にどれだけ僕は引きつけられたことか。今年は天気が悪いとか、これからでも回復して実りの秋が迎えられるように祈ります。 1944(昭和十九)年三月二十五日 山崎英雄 (戦争の影響がますます深刻になり、この年、山岳部は夏、春に2パーティーのみ入山した)  4月から旅行制限になるので僕たちが当分の間、最後になるであろうと思うと感無量です。今頃スキーなど持って旅行できるかとヒヤヒヤしながらやっと汽車に乗れました。出発1日から札幌もベタベタ雪が降り始めて心配しましたが、十勝も昨晩一尺近く降った由にてそれが今日はベタベタ解けて、トヨニから牧場まで大いに弱らせられました。−−−−−  夕方直行さんと土方さんの裏山に登って日高の山々を見ましたが、生まれてこんなに感激して山を見たことはありません。尾根の雪煙が金色にかがやいて実に神々しく見えました。太平洋の色、カシワの色、雪の色、実に調和のとれた落ち着いた感じです。−−−− 1946(昭和二十一)年七月十七日 菊池 徹  AACHに育って七年、今度私は多く持つ希望の二つを成すことが出来たのを全く幸福に思います。その一つは初めてペテガリ岳に登ったこと、その一つは直行さんのお宅に泊まれたこと。卒業直前にこの二つの出来たことは私には一生忘れられない事となるだろう。私は近いうちに北海道を去って四国に帰る事になると思う。ペテガリよ!! そして坂本さん御一家のご多幸を祈りつつ−−−−−−。 1952(昭和二十七)年一月七日 岡本丈夫  山でさんざん吹雪かれたあとの温かい一日、ほんとうに里に下りてきたと言う感じがしました。 森厚  山での事が嘘のような暖かな平和な一日を過ごしているとこの土地に住み着きたいような気がします。静かな大地と日高山脈が、なんとうつくしい事、−−−−−−。 1958(昭和三十三)年八月十二日 渡辺興亜  自分にとって遥かなる山脈であった南日高にそれもペテガリに一年目部員として登れたことは非常な感激であった。毎年一度は来たいと思う。下界へ降りたとたんにわれらの大先輩坂本さんにお会いでき一夜を過ごさせていただいたということは、これまた僕にとって非常なる感激です。これからもラッコ、ピリカを訪れるときは迷惑なる後輩となりたいと思います。 1959(昭和三十四)年一月十二日 安間莊  冬のラッコに行く。原野からの日高はすばらしい。厳しい自然の中で農業を営まれてきた直行さんに全くの敬意を表します
詩誌“さとぽろ”
Collection/sakamoto/satoporo.html 詩誌“さとぽろ” 詩誌“さとぽろ” 坂本直行氏遺品寄贈品  坂本家から寄贈のあった「さとぽろ」は北大の学生が大正14年に創刊した版画と詩の雑誌で、伊藤秀五郎、伊藤義輝(北大山岳部部報表紙の作者(資料1))が同人として参加している。  学生の同人誌としては異色の雑誌の出版経緯について、同人代表の外山卯三郎は次のように述べている。(資料2) 「当時フューチャリズムを先端とするアヴァンギャルド版画が盛んに日本にも紹介されて、非常な勢いで青年たちの関心をひいていたのです。ところが大正十三年の秋から十四年の春にかけて、レアリズムの木版画を中心とする<詩と版画>という雑誌が出はじめていたのです。大正十四年(1925年)の春休みをおえて、札幌に帰ったわたくしは、友人たちとこの<詩と版画>をモデルとした月刊誌を出そうという相談をまとめあげたのです。それが札幌における雑誌<さとぽろ>の出発で、この時の同人が八人で北海道大学の学部と予科の学生、それに予科の先生という変わったものだったのです。雑誌名を<さとぽろ>としたのは、医学部服部光平君の主張で、バチェラーさんのアイヌ語辞典によると<さとは乾燥すること>で<ぽろは大きい>、つまり大きな地という意味だということで、このアイヌ語源をとって、<さとぽろ>としたのです」  伊藤秀五郎は創刊号に<枯林の春愁>他4編の詩を、坂本直行は第6号(大正14年11月)に「静物」「石狩風景」の2点を出品している。外山卯三郎は直行の作品を評して「直行君の<静物>というセピア一色刷も立派で、<石狩風景>の白黒一色版とともに、義輝君の二対をコントラストする圧巻でした」と述べている。(資料2)  この雑誌は昭和4年までのわずか4年間に29号まで出版されたが、坂本家からは創刊号〜6号が寄贈された。  北海道立近代美術館は平成27年12月19日〜平成28年3月21日「創刊90年『さとぽろとその時代』詩・版画・都市のモダニズム」展を、北海道立文学館はほぼ同時期の平成28年1月30日〜3月27日に開館20周年特別展「『さとぽろ』発見 大正・昭和・札幌芸術に賭けた夢」展を開催したが、伊藤秀五郎、坂本直行についても経歴や作品を紹介した。 資料1:北大山の会会報106号「第八号編集の回想と表紙版画家伊藤義輝」杉野目浩 資料2:「札幌・大正の青春−雑誌「さとぽろ」をめぐって」1978年札幌市教育委員会コピー(宇野彰男氏(慶応登高会、JAC)提供) 資料3:北海道文学館開館20周年特別展資料集”「さとぽろ」発見ー大正昭和・札幌 芸術雑誌にかけた夢”平成28年1月 
坂本直行の版画
Collection/sakamoto/hanga.html 坂本直行の版画 坂本直行の版画  寄贈された木版画は54点で、彩色したと思われる1点を除きいずれもモノトーンで、風景37点、机上静物5点、その他静物(花・木など)である。版画サイズはB5版以下で、55亰造留澤舛里發里50x80mmの小品もある。  直行は中学へ入学してから本格的にスケッチを始めたが、版画も中学4年から始めた。 「僕は絵の他に版画も少しやった。中学四年頃、僕に五万分の一地図の存在を教えてくれた今田求氏(北大林学の教授今田敬一氏の弟)が上京の時、僕が欲しがっていた木版のノミを四、五本土産に買ってきてくれたのが始まりである。はじめは版木がなくて百人一首の板カルタの裏をほじってしかられた。----------その後久世君の追悼録(1924年5月3日、銭函の天狗岳で墜落死した札幌二中旅行部員)をガリ版で出したが、この追悼録の表紙は僕の木版画にした。バレンがなかったので、本を丸めてこすったり、足で踏んだりして、木版を刷るのに三日も悪戦苦闘した時の印象が、妙に胸にこびりついていて、版画を見るとよくこんなことが思い出される」(北海道の山6号) 石狩風景(1925年) 机上静物(1925年)  54点のうち出品先が明らかになっているものは少なく、札幌詩学協会が1925年に発行の「さとぽろ6号」の机上静物と風景の2点、部報(札幌2中「ヌタック2号」表紙、北大山岳部報4号扉)、その他雑誌表紙2点の6点である。札幌詩学協会が開催した第1回版画展(大正15年10月)に11点を出品したという記録があるが、どの作品かは明らかではない。北大山岳部部報の扉は1号から8号まで、直行の木版画(静物画)を使用している。  机上静物や植物のデフォルメしたものには閉じ込められた息苦しさを感じるものがあるが、風景に彫られた空や山の稜線、また平野やポプラなどには風景画に見られる伸びやかさを感じる。 雑誌<さとぽろ>同人で、北大山岳部部報表紙の作者の伊藤義輝は前述版画展の直行作品について次のように評している。「いくらか無用意な力の運びを惜しむが、坂本氏の素直さを取る。一寸エッチングの味です。がこのメディウムに依るからには、モチイフの心がもっと端的に生かされるべきではなからうかと思ふ」(資料1) 札幌二中部報表紙(1930年) 北大山岳部報4号扉(1933年)  寄贈版画54点には伊藤義輝が<さとぽろ>に掲載したものが含まれており、すべてが自身の作ではないようである。 資料1:「札幌・大正の青春−雑誌「さとぽろ」をめぐって」1978年札幌市教育委員会コピー(宇野彰男氏(慶応登高会、JAC)提供) 資料2:道立文学館開館20周年特別展資料集「さとぽろ発見」平成28年1月 他の木版画は,
坂本直行のスケッチブック
Collection/sakamoto/scketchbook.html 坂本直行のスケッチブック 坂本直行のスケッチブック  寄贈されたスケッチブック136冊の表紙と背表紙には直行自身がスケッチの場所、年月日を、さらにスケッチ1点毎に対象の地名・山名・花の名等と月日が、場合によっては時間を記し、一見してスケッチの場所、対象、時期がわかるように整理されている(下の写真)。  直行が居住した地域ごと(年代ごと)にスケッチブックを仕分けすると以下のとおりである。33歳の「日高山脈」から76歳の「神威、烏帽子、百松沢南峰」まで、2500点超のスケッチ群はまさに直行の履歴書である。山が単なる風景ではなく、「生きた山」であった直行の人生に接することのできる貴重な資産である。 下野付開拓時代(1936年〜1960年)10冊 スケッチ数 243点 豊似市街時代(1960年〜1965年) 46冊       798点 札幌宮の沢時代(1966年〜1982年)73冊      1427点  その他(時代不詳、図書の挿画、人物画など)8冊   70点  坂本嵩氏(直行二男)は直行のスケッチブックについて次のように述べている(「坂本直行スケッチ画集」1992年8月ふたば書房刊) “父が逝ってから、私はアトリエの戸棚を開けてみて驚嘆した。大版のスケッチブックが何百冊も整然と並べられ、表紙や背には描かれた月日、場所などがメモされていた。私は、この時初めてスケッチブックを手にとり、ゆっくりと見ることができたのである。それらは大部分が着彩され、日記風の書き込みがあった。”  何百冊もあったものが最後に140冊弱となったことには様々な事情があったと思われるが、それがどうあれ、残されたスケッチは生き生きとして魅力にあふれ、直行と共に山を愛する我々を存分に楽しませてくれる。スケッチ2534点の中から時代を追って、直行の見た山のほんの一部をご覧いただく。  絵と登山が苦しい生活の中での純粋な喜びであり楽しみであった開拓時代の、細部の写し取りに注意を払った繊細な線が特徴の風景と開墾生活のスケッチ、原野を離れ、画家として生計を立てるようになってからの大胆で骨太な稜線と色使い、その大きさを見事にとらえたヒマラヤ、晩年のどことなく頼りなげな、それでいて引き込まれるような温かさを感じる線と色。スケッチ1点1点から、それが例え稜線だけのスケッチであっても自然と対峙する素朴な喜びが伝わってくる。 "坂本さんの絵を見せて貰って” 峰孝 1956年6月17日(坂本家お宿帳3号より)  白い山の絵 坂本さんの山の絵は氏の山に対する愛情がしみじみとにじみ出ています。やはり命がけで大自然を愛されている事を私は絵を通じて知り、ほんとうにうれしく思いました。絵の中の山はただの絵ではなく、それは大地から大空にそそり立つ一つ一つの峰が正確につかまれており、その山は坂本氏なら歩けるがとても私たちに登れない美しいけわしい山々です。 静かに眺めていると、いつか私はその大自然の中に入ってゆくのを感じます。さすが三十年の年月を経て得られた氏の尊い生活が作り出した画面であると私は一彫刻家として、絵を通じて立派な氏を知ることができました.  北大山岳館は、スケッチのすべてをデジタル化し、画像アーカイブサイトを通じてネット上で閲覧できるようにしている。 (1)下野塚開拓時代(1939年、40年)(アーカイブサイト) 下野塚開拓時代(1939年) 下野塚開拓時代(1940年) (2)豊似市街時代(1965年)(アーカイブサイト) 豊似市街時代(1965年) 豊似市街時代(1965年) (3)札幌宮の沢時代(1967年、1974年)(アーカイブサイト) 札幌宮の沢時代(1974年) 札幌宮の沢時代(1974年) (4)晩年(1977年、1981年)(アーカイブサイト) 晩年(1977年) 晩年(1981年) 坂本直行生誕110年記念企画展示「直行さんのスケッチブック」展
直行さんのスケッチブック展
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坂本直行の写真
Collection/sakamoto/photos.html 坂本直行の写真 坂本直行の写真  直行遺品のモノクロ写真は383枚で中学時代から下野塚時代までを含む。この内、登山に関するものは217枚である。この他、宮の沢に移住以後のネガフィルム数百本がある。  登山関係の217枚の内204枚は、直行自身の手で大判の台紙に1枚づつ丁寧に糊付けされ、裏面には直行作の木判が押されてそれに山行の内容を記載している。1923年から1937年の15年間の山行であるが、行先は日高、十勝・大雪、夕張・芦別、札幌近郊他に25回と多彩である。これらの内、山岳部部報に寄稿文のある山行について、その一部を紹介する。 1927年3月18〜21日 トムラウシ (no.515,522))  部報1号「三月のトムラウシ山」坂本直行  メンバー:野崎健之助、坂本直行、板橋卓、渡辺千尚、徳永芳雄、佐々保雄、佐山英駿  同じく3月に北大卒業となる野崎に誘われて、タロマップの農家をベースに硫黄山経由3月20日、頂上に達した。積雪期トムラウシ初登頂である。 1933年12月28日〜1934年1月15日 札内川から北日高 (no.402,417)  部報5号「一月の札内川」照井幸太郎  メンバー:坂本直行、相川修、照井幸太郎  厳冬期の状況が未知のままであった札内川上流のコイカクシュサツナイ川、七の沢、八の沢、さらに上流の沢にベースを置き、夫々のベースからラッシュで1839m峰から札内岳までを登頂しようという意欲的な山行であった。荒天に阻まれて貫徹ならず、コイカク、ヤオロマップ、1900m、カムエク、ピラミッド(1840m)に登頂。 1937年1月27日〜2月7日 第1次冬期ペテガリ登山 (no.421)  部報6号「ペテガリ岳―厳冬期における―」登山隊員  メンバー:坂本直行、葛西春雄、有馬洋、林和夫、中野龍雄、岡彦一、及川盛也、福地宏平、駒沢欣一、星野昌平、橋本誠二  燃料、食料の研究、新しいテントの製作など1年間の準備を経て、極地法によりペテガリ岳冬期初登頂に挑んだが、強風で稜線上のテントが破壊され1599m峰から撤退した。この時登路に使用したコイカクシュ札内川で、1940年の第2次ペテガリ隊の8名が雪崩に遭遇し死亡した。 他の写真は,
 

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