ログイン   :: お問い合せ :: サイトマップ :: 新着情報 :: おしらせ :: 
 
 
メニュー
前 次

6.アルペン行 鹿子木員信(かのこぎかずのぶ)/1913/政教社/


Highslide JS
表紙
表紙
Highslide JS
見開き
見開き


鹿子木員信(1884-1949)、教育者、哲学者、思想家、登山家
 旧熊本藩士の家系で、甲府に生まれる。東京府立第一中学から海軍予備校を経て、一九〇四(明治三七)年、海軍機関学校卒業。同年、日露戦争が勃発し、巡洋艦「八雲」に乗り組み従軍する。一九〇六年、海軍を退き、京都帝大で哲学を学び、翌年、渡米。ニューヨークのユニオン神学校に入学、一年後にコロンビヤ大学でニーチェについて修士論文を提出している。滞米中に本格的にドイツ哲学を学ぶことを決意し、一九一〇年、ドイツに渡ってイエーナ大学のルドルフ・オイケンのもとで学び、博士号を取得した。
 滞欧中の一九一一年八月下旬から一ゕ月間,、ヨーロッパアルプスの高原を一人で踏破した。この時の紀行が本書「アルペン行」である。
 一九一四(大正三)年、帰国し、慶応義塾大学哲学科教授となる。槇有恒ら山好きの学生に請われて一九一五年、慶應義塾山岳会を設立し、多くの登山家を育てた。
 一九一八年、慶應大学を辞し、細川護立公の後援を得て、哲学研究のためにインドへ向かった。ダージリンに五ゕ月間滞在し、その後、シッキムに入り、カンチェンジュンガ地域を踏査した。登山を終えてカルカッタに戻り、仏跡巡礼などを行うが、これら一連の行動をインド独立運動を扇動するスパイとイギリス官憲に疑われて拘束され、即時インドから追放、シンガポールの牢獄に九日間監禁されたのち、日本へ強制送還された。シッキムでの紀行は一九二〇(大正十)年「ヒマラヤ行」として出版された。
 一九二一年、東京帝大文学部講師となる。この時代に東大スキー山岳部の創設に協力する。一九二三年、文部省在外研究員としてドイツへ赴き、滞在中にユングフラウやマッターホルンなどアルプス登山を行なう。帰国後、日独文化協会設立に携わり、一九二七(昭和二)年四月、再びベルリンへ赴き、昭和四年までドイツ日本協会の運営にあたった。
 一九二九年、九州帝大教授、一九三二年、同法文学部長。一九三九年、九大退官後、徳富蘇峰が会長の大日本言論報告会の事務局長を務め、国粋主義思想の普及に努めた。戦後は戦中の右翼的思想・行動を問われてA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに拘置された。一九四七年、釈放される。一九四九年逝去、六十五歳.

内容
 スイス・アルプスのベルナーオーバーランド及びチロルの山旅の紀行で、筆者の感動がひしひしと伝わってくる。時代はまだ日本人の訪問は極めて少なく、加賀正太郎がユングフラウに登頂したのが前年の明治四十三年、ユングフラウ鉄道がヨッホ駅まで開通したのが翌明治四十五年であった。

 序「アルペン行にはしがきす」でこの旅について鹿子木は次のように語っている。
Highslide JS 明治四十四年、夏八月の下旬より、その秋立つ九月の末に至るまで、背嚢を背に、チーゲンハインの杖を手に、健脚に委せて、孤影飄然、ヨーロッパ・アルペンの高原を踏破した。
 僕はヨーロッパ・アルペンの大自然に対して、心行くばかり、時に涙出づる程までに、之と語った。この大自然と拮抗し、之と闘い、之を克服しつつある勇敢なる民を見、親しくその間に交わった。
   八月二十日、イエーナを発ち、スイス国境の町バーゼルへ向かった。バーゼルではニーチェが十年を教授として過ごしたバーゼル大学を訪問、そのみすぼらしいたたずまいに驚くが、そこから輩出した偉人たちを思い、「校舎などは第三も第四も第五も、第十ものことだ。医学であるとか、農工、理化学であるとか、完全した特殊の設備を必要とするものの外校舎などは、どんな廃屋でもいい。私立大学の管理者などは以って顧みる所あって然るベシだ」と思う。
 ジュラ山脈からオーバーベルナーランドのアルペンの連山を見ようとしたが果たせず、少年時代にバイロンの筆によって深く心に刻み込まれたジュネーブに向かう。ジュネーブではルソーの銅像に何とも言えぬ温情を感じ、サンピエール大聖堂はじめジュネーブ大学の創設者ジョン・カルヴァンの遺跡を訪ねる。
 レマン湖を船で渡り、東岸のシヨン城を訪れた。
 此等の区画を通って奥に進むと即ちバイロンがその熱烈の筆に不朽ならしめた窟牢である。ーーー様々な人が彫った数知れぬ名前の内バイロンの名を探していると、突然、右の学生が「あゝバイロン!」と叫ぶ。その指さす所を見ると成程例のバイロンの狂ったような筆跡、まがうべく もない。小さな謙遜なしかも覇気に溢れた字の跡は、百年を経った今日尚ほバイロンその人の精神を彷彿せしめている。
 レマン湖畔のベイトー・ションから鉄道でローヌ川上流のロイク村に向かった。明日のゲンミー峠越えに備えて、古靴に鋲を打ってもらった。明日の峠越えに備えて体を休めておこうと思ってベットに入るや否や、南京虫の襲撃を受け、首筋、腕等が腫上ってしまった。その夜は南京虫との戦いに明けてしまった。

 翌朝快晴の中、ゲンミー峠を目指して出発する。この絶壁のような峠は十八世紀中頃に地元の人間が三年間かけて作ったという。この頑強で偉大な自然に対して挑むスイス人の勇気に感心せざるを得なかった。ついに峠の頂上に達した。
Highslide JS 見るとレムメルンの氷河が直ぐそこになだれかかって青白く氷付いている。そしてその少しづつ溶けた水が、流れてダウベの湖水をなしている。西南を見るとダーレ、ローンの谷を挟んで向こうにワリス、アルペンの連山が一団となって雪を戴き雲に纏われ、層重の波を為して聳立している。その間にモンテ・ローサの高峰が恰もこの羣雄を率いる帝王であるかの如くに白皚々の衣を装うて羣を抜きんでている。

 下りにかかってしばらくすると、右の靴のかかとが取れてしまった。足を引きずりながらカンダーの谷を下り、夜八時に近いころ、カンダーステークの小さな宿に泊まった。インターラーケンで靴屋を探して厚さ一分もあろう牛の皮で作った頑固な人間の歯のような鋲をぎっしりと打ち込んである靴を買った。ユングフラウの気高く清らかな姿を見ながら、ラウターブルンネンに一泊、翌朝、旅行以来の快晴の中をミューレンへ登り、ユングフラウ、メンヒ、アイガーの景観を楽しんだ。

 ラウターブルンネンから汽車でウェンゲンヘ、クライネシャイドエッグ、アイガー氷河の散策を楽しんだ。夕方七時、グリンデルヴァルド目指して靴擦れに痛む足を引きずりながら歩く。グリンデルヴァルドについたのは夜九時過ぎであった.

 翌日、グリンデルヴァルドの氷河巡りを楽しみ、マイリンゲンを目指して下山の人となった。途中、純白の青みがかった氷塊が剱を逆立てたように群がり立つローゼンラウイ氷河を見た。
 此の氷の山、之を囲む赤裸々の高山薄暮一人此の雄大なる大自然の間に立ちて、僕は自然が特にこの地を僕のために造ったように感ぜざるを得なかった。沈黙、寂寞、然り荒寥、偉大の自然の中にある時にーー僕は限りなき喜びと感謝と、心の躍りを感ずる。

 フィーアヴァルトシュテッテ湖畔のキュストナハトからアルペン最後の山、リーギーに登り、アイロロへ、ルガノ湖畔の小村マロッジアに泊まる。翌日汽車でチューリッヒへ向かった。翌日チューリッヒ美術館を見学、画家の生命そのものが躍っているフェルディナンド・ホッドラーの絵に感動する。

 チューリッヒからサンモリッツへ、シルヴァ・ブラナ湖畔の心地良い、親切なホテルに一泊。翌日、ベルニナなどの高山に囲まれたシルス湖のほとりで、病める心を抱いて訪れたニーチェを想った。ここの自然はニーチェに偉大な感化を与え、永遠の否定、一面灰色の世界から永遠の工程、光と力と寒気の世界へ大飛躍を試みた。

 十五日間のスイスアルペンの漂泊に別れを告げ、九月五日、チロルへと向かった。チロルではアーヘン湖のほとりに粗末な一室を借り、チロル・アルペンでの生活を始めた。読書をし、アーヘン湖の周りを経めぐり、時に山へ登り、二週間をこの地に過ごした。九月二十七日、アーヘン湖を去って、墺独国境の険を超え、健脚の人でも普通二日かかる行程を一日で馳せて、夜中にテルツの街に入った。

参考文献
ヒマラヤ行 鹿子木員信/1920/政教社
登高行15号‐山岳とスキーの思い出‐/鹿子木員信/1957/慶応義塾体育会山岳部
わたしの山旅/槙有恒/1968/岩波書店
わが登高行/三田幸夫/1979/茗渓堂
 
Tweet| |
前
千山萬岳/志村烏嶺/1912

次
日本の山水/河東碧悟桐/1914
 
 
Copyright © 1996-2021 Academic Alpine Club of Hokkaido