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7.日本の山水 河東碧悟桐(かわひがしへきごどう)/1914/紫鳳閣/678頁


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表紙
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背表紙
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左:河東碧悟桐
明治42年9月1日白山登山記念
左:河東碧悟桐
明治42年9月1日白山登山記念


河東碧梧桐(1873-1937)、俳人、旅行家、紀行家
 愛媛県千船町(現松山市千船町)に松山藩士の五男として生れる。1887(明治20)年、松山高等小学校から伊予尋常中学(現愛媛県立松山東高校)に入学、同級生の高浜虚子と共に正岡子規に師事する。1891(明治24)年、子規の奨めもあり、中学を4年で中退して上京、第一高等学校受験のため金城中学5年に編入するが、入学試験に失敗し帰郷、松山の中学に再入学する。
 1893(明治26)年、中学を卒業、虚子に1年遅れて第三高等学校に入学。学制改革のために三高が一時廃校となったために、虚子とともに第二高等学校(仙台)に編入するも窮屈な校風に耐えられず、3ヶ月で中退。
 1895年から新聞「日本」に入社する。明治30年、子規「ホトトギス」創刊、碧悟桐、のち虚子が選者となる。
 1902(明治35)年、子規35歳で没後、新聞「日本」俳句欄の選者となる。1904(明治37)年ごろから碧悟桐提唱の「新俳句」が隆盛となる。1906(明治39)年、師正岡子規の俳句革新の原点に立ち返り、いま一度自分を見返すべく足かけ5年にわたる全国遍歴の旅に出る。その時の紀行文が上信越、東北、北海道の旅「三千里」(1910年刊)、西国の周遊「続三千里」(1914年刊)である。碧梧桐は名所旧蹟を巡る旅に飽き足らず、人跡未踏の僻地や深山幽谷に分け入った。立山、白山、白馬、槍などの峻峰に攀じ、また冬の陸奥や北海道に足を伸ばしている。1913(大正2)年7月、越中黒薙温泉から黒部川清水平を経て白馬岳登山(本書「日本の山水」に所収)、1915(大正4)年夏に長谷川如是閑、一戸直蔵と針の木から槍ヶ岳縦走を実行した(「日本アルプス縦走記」)。
 子規以後の低迷する俳句を反省して「新傾向」を唱える碧悟桐と、「守旧派」の虚子と対立するようになる。自由律、ルビ俳句などを推し進めるべく努力するが、句力の衰えを感じ、1933(昭和8)年、還暦を機に引退を表明し、俳壇の第1線から退いた。
 大正10年1月〜11年1月、渡欧、ユングフラウヨッホに登る。
 昭和12年、腸チフスから敗血症を併発して急逝、65歳。

内容
 高浜虚子と共に正岡子規の弟子で近代俳句を拓いた河東碧梧桐は、俳句革新を推し進めるべく、一九〇六(明治三九)年八月〜一九〇七年十二月の第一次、一九〇九(明治四二)年四月〜一九一一年七月の第二次の延べ三年二百日の全国一人行脚を行なった。山好きの碧梧桐はこの行脚の途中や旅の先々で山に登り、登らない場合でもその景観・伝承・風俗を記録しているが、それらをまとめたのが本書である。

 内容は、序に代えて・山岳篇概論・富士山・各地の富士・日本アルプス・諸国の名山・その他の名山の七章からなる。碧悟桐は「序に代えて」で「日本には為にならない案内書が多数ある中で異色を呈するものは、日本風景論(志賀重昂)と日本アルプス(小島烏水)の二書のみであるが、これらも風景の美を言い、大を言い、壮を言い、偉を言うのみ、日本アルプスはヨーロッパかぶれして風景を趣味的にしか見ていない」と批評する。この二書にしてこうであるから日本の山岳書は「貧寒空虚」である。しかし、本書は「我等の見たる山水観、ただ全国を遍歴して得たる実地の見聞を叙述するに止まる。案内書の形式を脱することに於いて、この落莫境裡に立つ満足を思ふのである。」と自負している。

 第一次行脚の一九〇七(明治四十)年二月二十五日〜五月三日、北海道に滞在する。函館から根室へ向かう途中、蝦夷富士(後方羊蹄山)を仰ぎ見た。「各地の富士」の章でその印象を述べている。
函館より北して、渡島と後志間の重畳たる山間を過ぎ、真狩、倶知安両駅の一高原に出ずる時、何人も先ず眸を放って仰望するもの、その端正なる円錐形状の蝦夷富士である。

 まだ積雪が多かったため、山には登っていないが、地質・山名由来・古事記の阿倍比羅夫の故事・登山史を詳しく紹介している。

Highslide JS 一九〇九年七月末、立山へ登った。その紀行文は「日本アルプス 立山山塊」に詳しい。これから六年後の一九一五年七月、碧梧桐四十三歳の時、大阪朝日新聞記者の長谷川如是閑、天文学者・一戸直茂、七名の強力と共にで針ノ木峠から槍ヶ岳までの縦走を行った。この縦走は史上二番目の快挙であった。この時の記録は長谷川との共著で「日本アルプス縦走記」の題名で出版された(大正六年)。
 
 「日本アルプス」の章では「白馬山登山記」が圧巻である。第二次行脚の途中、信州側から秀峰白馬山を仰ぎ見て感動、登ろうとするが雪が深いことなどを理由に宿の主に強く阻止された。それから五年後四十二歳の時、今度は越中側から登攀を試みた。
「探険に登られるお方は年にお一人かお二人あるか無しですから」と前途を危ぶむ宿の主人の声に送られて、案内者と出発した。清水平を経て猫又谷を登る。この沢は現在でもかなり剣呑なルートである。沢をつめて一泊、翌早朝山頂に着いた。下りは信州側の大雪渓を葱平から白馬尻に出た。

Highslide JS 本書では二十三の独立峰と五つの山群について述べているが、いずれも俳人らしい細やかな自然観察とおおらかな性格から来る大きな情景描写は、読んでいて飽きない。俳人としてばかりではなく、登山家としても突出して優れた人物であった。

参考文献
日本風景論/志賀重昂/1894/政教社
日本アルプス(1)〜(4)/小島烏水/大修館
忘れられた俳人 河東碧悟桐/正津勉/2012/平凡社
 
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