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8.秘密の国 西蔵遊記 青木文教(あおきぶんきょう)/1920/内外出版/463頁


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背表紙
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表紙
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青木文教(一八八六〜一九五六)僧侶、チベット研究者
 滋賀県安曇川町の正福寺の長男として生れる。京都府立二中から京都仏教大学(現龍谷大学)に入学。西本願寺大谷光瑞法主(註1)に認められ、在学中の一九一〇(明治四三)年、大谷探検隊の一員として海外に派遣される(ヨーロッパ、インド)。同年三月、清軍の侵攻によりダージリンに避難したチベット法王ダライ・ラマ十三世に拝謁する。一九一二年九月、ダライ・ラマの招聘により、留学生としてチベットへ入った。ダライ・ラマの招聘ではあったが、チベット国境を越えるまでは、外国人のチベット入国を厳しく禁止していた英印官憲の目を逃れてネパールから入蔵した。入蔵後は寺には入らず、ダライ・ラマ十一世の生家を宿舎に、市井の人としてチベットとチベットの風俗、文物を記録した。チベット語文法学、修辞学、歴史学を学ぶ傍ら、ダライ・ラマの教学顧問として近代化のための助言を行った。本格的に学んだ文法学により、文教の書くチベット文字の美しさは、抜群であったという。また観察は常に詳細を極め、その報告は当時のチベットに関する第一級の情報であった。
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著者肖像
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 大谷光瑞からの帰国の命を受け、一九一六(大正五)年正月に滞蔵三年にしてラサを去って、翌年4月に帰国した。ラサを去るにあたってダライ・ラマより外国人としては初めてのサンピリクト(別名パンディダ)の学位を授与された。   尚、文教と一緒に入総許可を得て、一九一三年に入蔵した多田等観(註2)は、その後七年を経た一九二三(大正十二)年に帰国している。 

 帰国後、日本国内のチベット研究への関心の低下、河口慧海(註3)との経典の帰属に関する争いは文教に深刻な打撃を与え、社会的に孤立状態に置かれた。学会からも特に認められることはなく、大谷光瑞というバックを失ったこともあり、その当時はチベット学の分野では孤立無援で不遇であったという。大谷光瑞の命を受け、一九一八年より東南アジア、満州方面と日本を往き来した。「西蔵遊記」がまとめられたのはチベット帰国から五年後であった。一九二九年以降、大谷光瑞のもとを離れ、機関誌「大乗」の編集、生家「正福寺」住職を務める傍ら、チベット研究を行った。
 一九四一年から終戦まで外務省調査部嘱託職員としてチベット問題研究に従事した。戦後は連合国軍総司令部民間情報教育局に勤務、一九五一(昭和二六)年、渡米した多田等観の後を受けて、東京大学文学部チベット語講師となる。「チベット文化の新研究」「チベット文典」「Study of Tibetan Chronicle」を著した。一九五六(昭和三一)年逝去 七十歳。

内容
 本書は文教が三年のチベット留学中の見聞をまとめたもので、当時のチベットの実情を豊富な写真(百五十一点)と共に紹介した報告書である。チベット事情の紹介は既に河口慧海(註3)によってなされているが、密入国の慧海には行動に制限があり、その報告には隔靴掻痒の感がある。一方、文教は法王ダライ・ラマ招聘の留学生としてチベットの上流社会に身を置く幸運に恵まれたために、心おきなくすべてを見聞・調査し得たものであり、その報告は広範囲で充実している。 内容は入蔵記、西蔵事情、出蔵記の三編より構成されている。

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「第一編 入蔵記」は、筆者が西本願寺大谷光瑞法主の仏跡巡礼の随員としてインドに過ごす間に、中国清朝の圧迫を受けてインドに亡命していたダライ・ラマ十三世に謁見、入蔵遊学の希望を述べる所から始まる。希望が叶って一九一二(大正元)年九月八日、ダージリンを出発、外国人がチベットと接触することを極度に警戒する英印官憲の追跡を逃れるために、チベット僧に変装してグームから西行してネパール東辺のイラムに入り、シェルパ地帯を通って入蔵し、チョモトルテン湖の西辺、ティンギェゾンからシガツェに至っている(附:西蔵遊記図参照)。
 シガツェから五日の行程のチュンコルヤンツェにあるダライ・ラマの行宮に到達、ラマに拝謁し、ここで三ゕ月を過ごした。ラサは当時、支蔵両軍が交戦状態にあったためである。行宮滞在中、文教はダライのチベット近代化のためのさまざまな相談と資料取り寄せの求めに応じている。
 一九一二(大正元)年十二月、支那政府袁世凱から長文電報がダライ宛に届いた。それは清朝が滅び、中華民国の成立を告げるものであった。

 十二月上旬に至り、支那政府から一通の長文暗号電報が達頼政庁に達した。其れは大総統袁世凱から達頼法王に宛てたもので、其要旨は清朝亡びて中華民国新たに成れるを告げ、清軍が西蔵を侵せし非違を悲しみ、速に西蔵内地の秩序を回復すべきことを約し、終りに中華民国の善政を布くべきことを誓ったものであった。

 これを受け、清軍撤退後のラサの秩序回復を待って、ダライは三年ぶりにラサに帰還した。文教はダライの賓客として遇され、十一世ダライ・ラマの実家であるヤプシブンカンという貴族の家に居を定めた。

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 「第二編 西蔵事情」は、ラサ付近の名所、チベットの地理・外交・歴史・景観・国情・宗教・教育・産業・交通・軍備について、十六章、二百二十頁にわたってチベット体験について述べている。生き生きとした描写からは若い文教の息遣いが感じられる。
 有名な五体投地礼について「第四章拉薩観察記」で、チベット人はこの礼拝を一日に何百回と繰り返すことを説明して、一日に二千回に及ぶこともあると聞いて、実際に試みた結果を次のように報告している。

仮に一日中食事と休憩の時間を除いて約十時間を作礼に費やすとせば二十秒間に一回の割合でこの難礼を繰り返さねばならぬ。予は自宅に於て之を試みたが一日に二千回は甚だ至難である。最初二時間ばかり続けると疲労を生じ、しかも三十秒に一回平均となり、さらに続けると一分間に一回としなければ到底耐えられなくなる。初めて試みる者が一日に五百回以上を繰り返すことが出来れば成績のよいほうであろう。

 葬式について「第十四章人情風俗 十八死骸を猛鳥に」で次のように報告している。

 葬式は略四種の別があって、高僧高貴の遺骸は火葬に附し、其の他の一般のものは鳥葬を行い、伝染病患者は埋葬、変死者は水葬ということになっている。此のうち鳥葬というのは西蔵では最も普通の葬式で彼のパーシーの拝火教徒の葬風に能く似た所がある。即ち墓地に運び入れた死骸は祈祷式の進むと共にその場で小片に切り離して付近にばら撒くと、グウという猛鳥(禿鷹)が彼方此方から集まって来て、それを食ってしまう。又肉切の付着いた骨は石で細かく砕いてこれも禿鷹に食わせる。残ったところは唯一頭髪のみである。此の葬風をチャトル(鳥散)といっている。是宇宙万物は悉く地水火風の四大素よりなるを以て、人間の死後霊魂と離れた肉体も終には此の四大素の何れかに還元するものとし、鳥散(チャトル)を以て「風葬」することにより元の大気に帰するものと信ぜる印度思想(?)に基づくのではあるまいか。

 「拉薩の日本人」では、ラサに一時文教の他に四名の日本人が同時期に居住しており、青木文教、セラ寺院の大学院で学ぶ多田等閑、経典の収集と霊蹟の巡拝が目的の河口慧海、兵舎の教官の矢島泰次郎であったが、全員が集うことは滅多になかった。

「第三編 出蔵記」は一九一五(大正四)年が終わろうとするとき、大谷光瑞から帰朝命令が届き、在蔵三年にして翌正月にラサを発ち、ギャンツェ、シガツェ、チュンビ渓谷を経由して、シッキムに至る帰国の旅の記録である。

 斯くて留学の第三年度を終わり、愈々文法、史学の蘊奥を極めんとした處、本国から帰朝の命令に接し、最早三年の留学期も充ちたれば直ちに出蔵せよとのことに止むなく其の企図を中止し、法王庁にその旨を申し出た。そこで法王はその年(大正四年)の十二月五日を以って余の留学を記念せんとて特別の恩典により学位を賜い、サンピリクト(又はパンディク)と名付けらるることとなり、ーーー。

 一月二十二日、法王が自ら証書を下賜され、同学位授与は外人中先例なきことを語られた。一月二十六日、多くの人々に送られてラサを出発、英国代表官事務所の置かれているギャンツェに数日間滞在し、その間にシガツェも訪問した。 二月二十八日、シッキム・チベット国境のゼレップ峠を越えた。

 予は暫らく馬を停めて北東拉薩の空を顧み三年間遊学の蹟を想うて無限の感慨に打たれ如何にしてもこの峠を去るは名残惜しくてたまらなかった。

 三月六日、四年ぶりにカリンポンに帰還、四月にカルカッタに出て、海路帰国した。

(註1)大谷光瑞(一八七六年〜一九四八年) 浄土真宗本願寺派二十二世法主 伯爵
一九〇二年〜一九一四年の間に三次の学術探検隊を中央アジアに派遣、霊鷲山、李白文書の発見などシルクロード研究上の多くの貴重な成果を挙げた。同時に秘密の国と言われ、生きた仏教国であるチベットに並々ならぬ関心をいだき、それとの提携を考えていた。そのための工作として青木文教・多田等閑をチベットへ送った。宗主として教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教員を派遣するなど、海外伝道を積極的に行った。一九一四年、大谷家の巨額の負債、教団の疑獄事件のために法主を辞任、以後、著述・講演・事業に傾注した。

(註2)多田等閑(一八九〇年〜一九六七年)
 秋田市の西船寺の三男として生まれる。一九一〇年秋田中学卒業後、西本願寺に入籍。法主大谷光瑞の命により、チベット留学僧の世話係となる。青木文教と共にダライ・ラマ法王から入蔵許可を得て、文教より半年遅れて一九一三年九月、ラサに入り、一九二三年までの十年間、セラ寺でチベット僧として修行。帰国後、東京帝大嘱託、東北帝大講師。「西蔵撰述仏典目録」により日本学士院賞受賞。

(註3)河口慧海 (一八六六年〜一九四五年)
「三、西蔵旅行記」参照


参考文献
  1. 青木文教「西蔵」芙蓉書房 一九六九年
  2. 河口慧海「西蔵旅行記」白水社 一九六七年  
  3. 河口慧海「第二回チベット旅行記」河口慧海の会 一九六六年
  4. 多田等観「チベット滞在記」 講談社学術文庫 二〇〇九年
  5. 高本康子「ラサ憧憬 青木文教とチベット」芙蓉書房出版 二〇一三年
 
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