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高山植物 武田久吉(たけだひさよし)/一九一七年/同文館/一〇二頁


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表紙
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武田久吉(たけだひさよし 一八八四〜一九七二)植物学者、民俗学者、登山家
 英国公使アーネスト・サトウと武田兼の二男一女の二男として東京に生れる。府立尋常中学校、東京外語学校卒業。一九〇七(明治四十)年札幌農学校講師。一九〇九(明治四二)年英国へ留学、ロンドン大学、バーミンガム大学に学ぶ。一九一二(明治四五)年、王立キュー植物園を本拠に植物の研究を続け、一九一六(大正五)年帰国後、京大、九大、北大(一九二〇年、北海道帝大附属水産専門部)などで講師を務め、植物学を講じた。
 小学生の時に妙義山登山を手はじめに富士山、八ヶ岳、日光、白馬岳、北岳など各地の山に登り、中学時代には博物学教師・帰山信順の薫陶を得て博物学同志会に参加、「博物の友」を創刊、研究登山を行って同紙に紀行・研究を発表した。一九〇五(明治三八)年七月、初めて尾瀬に足を踏み入れ、日本山岳会会報「山岳」創刊号に「尾瀬紀行」を発表、尾瀬の素晴らしさとその真価を世に伝えた。
 最初の尾瀬訪問から四半世紀後の一九二三(大正十三)年、尾瀬にダム建設計画が浮上していた。これに危機感を持った尾瀬小屋主人平野長蔵から請われる形で調査のために尾瀬を再訪した。この調査には館脇操(註1)も同行、尾瀬ヶ原をくまなく探査し、桧枝岐にも足を伸ばしてた。ダム建設はそれから四十年に亘る粘り強い反対運動の結果、一九六六年に東電の水利権破棄で決着を見た。尾瀬の自然保護に対する思いは深いものがあり、ダム建設の阻止、国立公園の指定など、彼の存在と努力に負うところが大きい。
 日本山岳会の創立に参加、第六代会長を務めた。昭和三十五年に日本自然保護協会を設立するなど、エコロジストの草分けとしても知られる。山歩きは七十余年に及び、植物学方面の、特に高山植物の著作も多いが、山の随筆・紀行も出版し、「尾瀬と鬼怒沼」(一九三〇年朝日新聞社)が代表作である。
 一九六九(昭和四五)年、八十六歳で天然記念物緊急調査のため館脇操、鮫島惇一郎・和子夫妻(註2)の案内で、大雪山黒岳に登った。辻井達一は「大雪山の高齢者登山の記録であろう」と述べている(北海道大百科事典一九八一年道新)。国際民族学会委員、日本自然保護協会理事、国立公園協会評議員、日本山岳協会初代会長などを歴任。一九七〇(昭和四五)年秩父宮記念学術賞受賞 一九七二(昭和四七)年6月逝去、八十九歳

内容
 A6版、図版十六頁、本文百二頁の小冊子で、英国留学から帰国直後の大正六年の出版。“はしがき”で我が国の自然の美観を説く書籍は数あるが、高山植物の一般書は見当たらないのは遺憾とした上で、
ーーー多年内外山嶽の間を彷徨して、自然より学び得たる賜物を經とし、先進書家の学説を参酌して之を緯とし、以って此の小冊子を編むに至った。幸にして登山者の伴侶となり、究学者の僚友ともならば、余の望はこれに過ぎないのである。

と述べ、登山者用ハンドブックを目指したものであるとし、素人にもわかりやすく解説している。どのような場所でどのような植物が見られるか、例を挙げて説明、図版も多く掲載している。例えば、木曽の御岳について、
往古より芙蓉峰についでの名山である御岳は、山上の地域が甚だ広いから、高山植物の量も種類も更に豊富で、いはゆるお花畑の美観を恣にすることができる。

として二十数種類の高山植物を挙げている。

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 内地産高山植物の種類の数はざっと百五、六十種類もあり、その内我国特有の顕花植物は七十種類ほどあるとしている。

 本書と全く同時期(一九一七年)に岩波書店より河野齢蔵(註3)の布張上製本「高山植物の研究」が発刊されている。河野も武田と同じように高山植物の著書に見るべきものはないので、浅学を顧みず出版するとし、得意の山岳写真技術を用いて写真を多数取り入れている。全体の半数近くを割いて低地での栽培法について述べているが、現代の高山植物保護の観点からすると疑念を抱かず採取することに時代を感じる。

 本書は坂本直行氏の寄贈であるが、武田の希望したように山へ携行したものか、かなり使い込んでいて植物の標本も挟まれていた(註4)。

(註1)館脇操 一八九九年〜一九七六年 北大山の会会員 植物学者(植物地理学 植物群落学)
 横浜市に生まれる。神奈川県立第一中学校(横浜一中)を卒業後、一九一八年北海道帝国大学予科入学、宮部金吾、工藤祐舜に師事。一九二四(大正十三)年七月、武田の尾瀬調査に同行、武田の代表作「尾瀬と鬼怒沼」に館脇の記録「尾瀬をめぐりて」が収録されている。同年北大農学部生物学科卒業、一九五二年北大教授、北大附属植物園長を兼ねる。
 学生時代、北海道を隅々まで踏査、卒業後は千島列島、アリューシャン、満蒙北支、黒竜江上流から大興安嶺ほかに旅した。戦後はヨーロッパ各地、ロッキー山脈、カナダから北米太平洋岸国立公園ほかに、六十九歳の年にはシベリヤを訪れた。これらの旅の紀行をまとめた「北方植物の旅」が一九七一年、年朝日新聞社より発刊された。
受賞=一九四九年北海道文化賞、一九六〇年日本農学会賞、一九七二年北海道新聞文化賞
主な著書=「植物誌北方編」「北欧雑記」「植物の分布」「北方植物の旅」など

(註2)鮫島惇一郎 一九二六年〜
 北大山の会会員、一九五〇(昭和二十五)年、北大理学部植物学科卒業、北大助手を経て、農林省林業試験場北海道支場に勤務。エンレイソウ属を研究。「スウェーデン・イェーテボリ植物園紀要」および「原色図譜エンレイソウ属植物」を植物学者の妻和子と共著。著作「草と樹」「北海道の花」「草樹との出会い」など多数

(註3)河野齢蔵(一八六五年〜一九三九年)
 信濃国安曇郡犬飼新田村(現松本市島内)の庄屋河野通重の四男として生まれる。明治二十二年、長野県尋常師範学校を卒業。長野県内の小学校、師範学校、高等女学校などで教鞭をとった。在職中から県内はもとより、北海道、千島、樺太まで出かけ、登山、高山植物研究、山岳写真撮影を行った。「高山研究」、「日本アルプス」共著、「日本アルプス登山案内」など著書多数。
 松本サリン事件の第一発見者河野義行は、齢蔵の孫娘の夫。事件の舞台となった義行の棲んでいた河野家には今でも河野齢蔵の表札が掲げられている。(深志同窓会トンボの眼鏡第45号2014年)
 三兄は河野常吉。常吉は北海道拓殖行政に関わり、アイヌ研究分野に大きな影響力を残した。常吉の子息で北大農学部卒業の弘道は昆虫学者・アイヌ研究者、北海道学芸大学教授。広道の子息本道は北大文学部卒業のアイヌ研究者、常吉以来三代にわたりアイヌ研究に携わった。

(註4)図版「えぞつがざくら」「こけもも」(植物名鑑定は鮫島惇一郎)
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参考文献
  • 武田久吉「尾瀬紀行」山岳第一巻第一号 一九〇六年
  • 武田久吉「尾瀬と鬼怒沼」梓書房 一九三〇年/li>
  • 武田久吉「登山と植物」河出書房一九三八年/li>
  • 武田久吉「明治の山旅」創文社 一九七一年/li>
  • 河野齢蔵「高山植物の研究」岩波書店 一九一七年/li>
  • 館脇 操「北方植物の旅」朝日新聞社 一九七一年/li>
  • 石村義典「評伝河野常吉」北海道出版企画センター 一九九八年/li>
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