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27.泉を聴く 西岡一雄(にしおかかずお)/1934/朋文堂/310頁


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表紙
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西岡一雄(1886-1964) 登山用具店主 登山家
 滋賀県大津市に生れる。大阪北野中学を経て、第三高等学校に入学するも中退。大阪、青島(中国)各税関勤務を経て、1921(大正10)年、友人の出資で大阪にマリア運動具店を開店、登山用具の他、野球やテニスボールなどの輸入品を扱う。東京、福岡に支店を開くが、関東大震災で東京店が全滅、その影響もあってマリア運動具店を閉鎖する。運動具店を通じて藤木九三と知り合い、藤木の指導と感化で登山が本格的になる。,br>  1924(大正13)年、登山用具専門店の草分けとなる「好日山荘」を開業、登山用具専門店の草分けとなる。戦争中一時閉鎖するが、店員の大賀寿二の協力で復活する。1925(大正14)年8月、北穂高岳滝谷の初登攀に友人と挑戦するが、豪雨に遇い不成功に終わる。1942(昭和17)年、高瀬渓谷北葛沢を櫻井順一を案内に完全遡行するなどの記録を残した。
 好日山荘は、山内、門田のピッケルとアイゼンを普及させ、また登山技術の向上を図り、登山とスキーの発展に大きく貢献した。西岡が亡くなった後は、大賀寿二が経営に当たったが、時代の流れには抗し切れず、2001(平成13)年に大阪・好日山荘は77年の歴史の幕を閉じた。RCC同人、日本山岳会会員

内容
 「好日山荘」の創立者として名高い著者が、昭和初期に書いた紀行と随筆45編が収められている。著者の「登山の小史と用具の変遷」(1958朋文堂)で用具に関する薀蓄の深さを窺い知ることが出来るが、本書にも用具に関する数編が収められている。その中の1編「アイスピッケルを讃ふ」では、札幌の門田直馬(註)と仙台の山内東一郎の製品の優れている事と、彼らの製品に打ち込む姿を次のように記している。
 「-----されば強がち、名も高い紅毛人の鍛えたといふ如上の優品以外にも、日本に於も、今や数々の良品が生れてきた。仙台山内作、北大系統の門田作(註)は即ちこれが双璧であって、細野のものは余程落ちる。
 蒼茫として雪にくれゆく札幌平野、窓をひらくと手稲の頂白雲低迷し、樹氷を叩く朔風は強い。その風の音をききつつ、灼熱の鋼片は、大鋏にはさまれてアンビルの上に躍る。カンカンカン、冴えたる槌の音、その火の色を凝視する人の顔。,br>  仙台は青葉の風が吹く。広瀬川を隔て古城には不如帰が鳴いている。ここ閑静なる大町の里、無口にして眉上れる工人、無限の良心を胸深く湛えて、火色を一心に見つめてゐる。女房の差し出す一椀の茶はその儘に、板戸の上におかれ、一人の徒弟を相手に、この寡黙な工人は、裸形にして、赤錬の焔をあげつつ、気のむくままに存分に、無碍にピッケルを打ち出している。」
 「滝澤谷をうかがふ」は1925(大正14)年8月、友人の辻谷と滝谷の初登攀に挑戦するが、途中で下山して来た藤木九三から藤木パーティと早大のパーティが既に登攀に成功したことを知る。諦めきれずに第3登を狙って、翌日の午前9時に小雨の中を槍平小屋を出発するが、途中から篠つく豪雨となる。止む無く濁流とひんぴんたる落石に恐れおののきながら、九死に一生を得て、ようやく下山することができた。無謀と非難されてもしょうがない登山ではあるが、登頂への情熱がほとばしり、臨場感に溢れた文章である。

 「澤・谷・川」などは、西岡の民族史に対する造詣の深さをうかがわせるエッセイである。
山岳館所有の関連蔵書
山河をちこち 西岡一雄/1947/朋文堂
山村好日 西岡一雄/1949/蘭書房
登山の小史と用具の変遷 西岡一雄/1958/朋文堂
人生翔び歩き 和久田弘一/1982/私家本
好日山荘往来(上下) 大賀寿二/2007,2008/ナカニシヤ出版

 1931(昭和6)年、北大の学生で山岳部員だった和久田弘一は、札幌の鍛冶職人門田直馬に試作させたピッケルを持って好日山荘を訪れた。その時の情景を和久田は、自著「人生翔(と)び歩き」で次のように書いている。


「当時大学生のシンボルであった角帽をかぶり、ピッケルを二本持って乗り込んだのですから、西岡さんも一寸びっくりされたことと思います。西岡さんの経営する大阪の好日山荘は山道具店としては最も信用のある店でした。多分、私の顔を見て山道具を買いに来たのだろうと思われたと思います。ところがピッケルを売り込みに来たと知って、さぞかしびっくりなされた事でしょう。私はこのピッケルの材質の特徴、同じ材料でアイゼンを作って成功したこと、それと門田さんの腕の良いことを話して、良かったら買ってもらいたいと話したのです。
 そこで西岡さんはピッケルを手に取り、姿をしげしげと眺め、それから手に握って数回振ってバランスの良し悪しを試され「これは良く出来ている、買いましょう」と言うことになり、このとき初めて門田作のピッケルが商品として認められたのです。その時のうれしかったことは今でも忘れません。‐‐‐‐‐」


 
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