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38 雪庇 田部重冶他(たべじゅうじほか)/1937/帝国大学新聞社/282頁


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箱と表紙
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寄贈者署名
佐々保雄
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佐々保雄
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挿入画
坂本直行
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坂本直行


内容
 この時代の著名な登山家他31名の随筆を収録したもので、帝国大学新聞社が編集、出版している。金天箱入の立派な装丁である。筆者は、田部重治、浦松佐美太郎、足立源一郎、武田久吉、三田幸夫、今西錦司、西堀栄三郎、松方三郎ら31名、中村清太郎、足立源一郎、坂本直行、茨木猪之吉が挿絵を担当している。北大関係では栃内吉彦、佐々保雄、坂本直行のものが載せられている。

あとがきに、
「ふかぶかと降る雪のかそけきささやきを外に、赤々とくべるたきぎの火にほてりながら、雪の夜の山小屋の囲炉裏ばたに、それぞれに懐ひ見る追憶のくさぐさ、本随想集『雪庇』はそのような『炉辺スキー談義』を一本として集め編んだものであります。スキー初心者のガイド・ブックではありません。高い技術のテクスト・ブックではありません。ささやかに贈る『雪の文学』たらしめんとするにあります。」
とあり、多くの登山家による「雪の文学」集である。

 以下は、山形県出身の歌人、結城哀草果(註)の「雪三題」の内、垂氷の1部。
「北国の子供らは、家の軒に垂氷が下がるとよろこんだ。夜草屋根に白く雪が積った翌日は、まばゆい冬日和、屋根の雪がしきりに解けはじめる。その雫が軒をしきりに落ちる陰が、冬日の明るい障子にうつる。それを眺めながら雪国の子供だちは炬燵をかこんで話をききながら育った。北国の人だちに生涯つきない夢があるとしたら、その源を幼年時代の炬燵生活にまで溯ると思ふ。」

 栃内吉彦先生の“十勝の連峰など”は、十勝、大雪、日高の粉雪の素晴らしさについて述べている。先生は、毎年参加していた北大山岳部の十勝スキー合宿の様子について、
「毎年のように行くせいか十勝連峰は自分にとって最も親しみが深い。十勝岳の中腹・高距千米の密林の中に、滾々と湧き溢れている吹上温泉は、連峰登攀の根拠地として実に得がたき好位置を占めている。この温泉を中心として、二千米を抜く十勝岳・美瑛岳、二千米に垂んとする富良野岳、或は上ホロカメトク等は、何れも楽な一日往復の行程である。森林地帯を抜けて尾根に出れば、大概いつも雪は風にたたきつけられて硬く岩膚に氷つき、頂上付近には蒼氷さえも現れている。高距は僅に二千米を前後するに過ぎないが、スキーデポを後に防寒着をぬくぬくと身につけて、横なぐりに吹きつける風雪に面をそむけつつ、黙々とクランポンを踏みしめて登高の息を弾ませる時、しみじみと身は氷雪の高根にあることを覚える。」

 佐々保雄先生の“直井温泉の頃”は、温泉宿として開業間もない頃の今の愛山渓温泉についての回想である。大正15年に温泉宿を開いた直井さんは、昭和8年温泉を人に譲りブラジルに移住したという。
「その直井温泉と言うのは、大雪山の北西の麓、永山岳の山裾に抱かれて、寂しく立っていた。それは温泉と言ふには余りに粗末な、僅かに雨露を凌ぐに足る程度の、チッポケな掘立の柾小屋だ。お客の為の、座敷と言う程でもない八畳と六畳に、台所と居間兼台所の一間、それに湯船の柾小屋といった十数坪の平屋。収容客も十人が関の山。大体が夏の登山客や湯治客も稀な位だったから、ふだんの冬は勿論之を閉鎖して、宿の人も安足間の自宅に下っているのだった。里の安足間駅までは一日がかりで漸く出るような所だ。だから食事など勿論贅沢は言えない。寧ろそうした簡素な、山小屋の生活こそ望ましいものだったから、何よりもそこの豊富な薪が一番のご馳走だ。あかあかと燃えるストーブを囲んで、ジッとしていると、そしてサラサラと窓を打つ雪の音に耳を傾けていると、しみじみと時の流れを感ずる。」

 坂本直行さんの“テレチャニア”は、小学生時代のスキー事始の回想で、羽織袴のスキーに思わず笑ってしまう。
「兎も角、羽織袴にボツコ靴をはいて、身長の二倍もあるストックをついて、三角山の麓迄歩いて行った。‐‐‐‐ストックの石突は殊に重たくて閉口した。僕はそれ迄スケートをやって居たので、中心を取ることには余り苦労しなかったように思ふ。滑る芸は直滑降の一本槍で、自然に止まるのを待って居る他に方法がない。スピードが出たり立木があると、物干竿を股に入れてブレーキをかける(これは今でも御老人連中が盛んにやる方法である)か、或ひは、横について体重をかけてブレーキしながら緩慢に方向を変える以外に術が無かった。中にはあまり力を入れ過ぎて、物干竿を折るほどの豪傑もいた。兎に角服装が服装であるから転倒した時の惨めさはお話にならなかった。先ず尻や腹に雪が浸入する事が一番辛かった。其の他襟から背中に、或ひは靴の中に雪の進入することは勿論である。かくてヘトヘトになって引き揚げる時には、頭はがりがりに凍り袴は鉄板の如くにしばれ(凍る)、すそからはつららが下がった。」

(註)結城哀草果(1893-1974)
 山形県生れ、本名光三郎。斉藤茂吉に師事し、「山塊」「赤光」を創刊・主宰。山形市名誉市民。
 
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