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55 開墾の記 坂本直行(さかもとなおゆき)/1942/長崎書店/314頁


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表紙(B6版)
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越年小屋(最初の小屋)
越年小屋(最初の小屋)
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丘の下の谷地に咲いた黒百合
丘の下の谷地に咲いた黒百合
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早春の放牧
早春の放牧
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大雪の春
(暮から降った大雪は5月になっても溶けなかった)
大雪の春
(暮から降った大雪は5月になっても溶けなかった)
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ニリン草とエンレイ草
ニリン草とエンレイ草


坂本直行(1906-1982) 登山家、開拓農民、山岳画家
 1906(明治39)年、釧路に生れる。1919(大正8)年、札幌第二中学入学、入学後山登りを始め、同時に絵を描き始める。当時の二中は登山が盛んで、徳永正雄・芳雄兄弟、相川修(何れも山の会会員)などが活躍しており、直行さんの挿絵の入った内容のある旅行部部報「ヌタック」(1,2号)を発行している。1924(大正13)年、北大農学実科に入学、1926(昭和元)年、北大山岳部創立と同時に入部、道内の山々を精力的に歩いた。北大卒業後、東京の園芸会社に2年ほど勤務、その後北海道に帰った。1930(昭和5)年、北大の同級生で岳友の野崎健之助会員が広尾で経営していた牧場に誘われ、同牧場で6年間働く。同じ時期働きに来ていたツルさんは、のち直行夫人となり、終生直行さんを支えた。直行さんの処女作「山・原野・牧場」は、この時代の生活を描いたものである( 39参照)。
 1935(昭和10)年秋、野崎牧場から独立して、下野塚の原野で念願の自力での開墾農業を始めた。原野での生活は、これから1960(昭和35)年の豊似市街へ居を移すまで続く。「開墾の記」は、入植後5年間の生活を描いたものである。
 多忙な開拓生活ではなかなか山へ入る暇は無かったが、その間にも北大時代の仲間と冬の楽古岳、コイカクシュサツナイ岳−ヤオロマップ岳−8の沢−カウイエクウチカウシ山、第一次ペテガリ隊など、冬の日高のパイオニアとして立派な記録を残している。 
 入植から30年経った1965(昭和40)年、開墾生活に別れを告げて札幌に移り、画家生活へとスタートを切った。
 直行さんの良き理解者であった林和夫会員は、直行さんの30年間の原野生活を次のように評価する(アルプ295号“日高の夜空に輝く星”より)。
「人間が真面目に営々と努力を積み重ねれば必ず良くなるのかと言えば、稀にそうでない場合もあることを、三十年かかって身を以って証しされたわけである。−−−−あの強健な身体と心、ユーモアと温か味のあふれた人柄、すぐれた画才と文章力などの本来的な能力に一層磨きをかけ、後年多くの人々を魅きつけた源は、この原野の時代に発している。直行さんの全ては、この時代に蓄積され、それが後年花開いたものと考えている。」


内容
 本書は、1936(昭和11)年に入植した下野塚での最初の5年間の開墾生活の記録である。内容は、「まえがき」と「十勝原野 新しい生活への準備」「新しい生活 第一年目」「希望と現実 第二年目」「建設の戦い 第三年目」「雪、雨、霧、霜 第四年目」「百姓の未来 第五年目の春に」の6章からなる。

 前作の「山・原野・牧場」の時代は(B-39参照)、激しい労働の明け暮ではあったが、施設の整った農場での生活には気持ちにも余裕があった。その時の牧場生活の充実感を次のように述べている。
「原野の物は何でも美しく、また楽しい物ばかりに見えて、それを絵にしたり、文にしたりすること自体、原野での生活から生れる予想外のうれしい副産物でありました。」

 下野塚に25町歩の土地を得て、いよいよ入植の準備を始め,これからの生活を明るい希望と多少の気負いをもって冒頭の「十勝原野 新しい生活への準備」で次のように記す。
「海岸との間には防霧林として残された柏の大森林が横たわっていた。海までは半里程なので、荒天には遠い怒涛の響がこの山の中まで伝わってくる。景色は美しかった。しかし瘠薄な地味と冷酷な自然の所作に対する戦いは長年にわたるであろう。希望のすべては酪農にのみつながれた。−−−−
しかし私の目的への情熱は、来らんとするあらゆる困苦を乗り越えて、消えつつも細々と湧き出る泉の如く、遂にはおおらかにうねって流れる大河となり得るような希望を常に心に固く握らせてくれた。」

 入植は、生活の為の掘立小屋建設から始まった。そして、その後に続いた開墾生活は、原野とのすさまじい戦いであった。それに立ち向かう直行さんのエネルギーと情熱、そしてそれを支えたツル夫人の献身にはただただ驚くばかりである。しかし、直行さんの人に抜きん出た知恵と学識と伝説的な体力をもってしても、生活の困苦から開放されることはなかった。
 最終章「百姓の来年 第5年目の春に」で次のように苦しい現状について述べる。
「私はこれ以上書き続けることが出来なくなった。春の融雪は私に時間を与えてくれなかったし、石油とローソクの欠乏は、日没とともに私達を寝床の中に無理に押し込めたからである。しかしそれから二年後の大凶作は、恐らく私達の生涯を通じて特筆されるべき事柄でもあるであろうし、芋と大根で冬を過ごした生活は、私たちに尊い多くの経験と教訓とを与えた。
五月の播種時期が一番に暖かくて、それからだんだんに寒くなり、除草期に入って連日のガスと降雨で、盛夏の頃もストーブを焚いて暖をとった。日照時間の極度の減少と低温とは、収穫皆無に近い秋を私達にもたらした。−−−−
深刻な食糧難が、私達の生活を襲った。牛馬はようやく命をつないだ。一年間汗水たらして、高い肥料をただ畑に捨て、徒らに借金を増やしただけで、農家の困苦欠乏は極度に達した。」
 直行さんの困苦欠乏の原野生活は、この後さらに25年間続く。

 長崎書店主長崎次郎氏による“あとがき”に佐々(茂雄)教授と佐々(保雄)助教授の名が出てくるが、佐々教授は函館高等水産学校(旧北大付属水産専門部)の初代校長を務めた方。佐々助教授は、佐々教授の令息で当時理学部地質鉱物学科、のち同教授、山の会名誉会員、日本山岳会会長(1981-84)。長崎書店主が佐々助教授に依頼され、刊行に到った経緯を述べている。 長崎次郎は北大農学部学生時代、札幌の坂本家の家庭教師として出入りしていた。在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後は出版社長崎書店を起こした。新教出版社のルーツである。

 本書は柏葉書院(1947)、日本週報社(1956)、茗渓堂(1975)、北海道新聞(1992)から再版された他、没後発見された原稿を北海道新聞が1994年「続・開墾の記」として刊行している。

山岳館所有の関連蔵書
続 開墾の記 坂本直行/1994/北海道新聞社
原野から見た山 坂本直行/1957/朋文堂
蝦夷糞尿譚 坂本直行/1962/ぷらや新書
私の草木漫筆 坂本直行/1964/紫紅会
雪原の足おと 坂本直行/1965/茗渓堂
山・原野・牧場 ある牧場の生活 坂本直行/1975/茗渓堂
私の草と木の絵本 坂本直行/1976/茗渓堂
坂本直行作品集 坂本直行/1987/京都書院
坂本直行スケッチ画集 坂本直行/1992/ふたば書房
ヌタック1〜2号 札幌第2中学山岳旅行部/1928・1930
北大山岳部部報1〜14号 北大山岳部
北大山の会会報1〜103号 北大山の会
雑誌「山」(復刻版)1巻〜6巻 梓書房/復刻版:出版科学総合研究所
北の大地に生きて/2006/高知県立坂本龍馬記念館
日高の風 滝本幸夫/2006/中札内美術村

 
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