32 ヒマラヤの真珠 フォスコ・マライーニ 牧野文子訳 1943年/精華房 230頁
原題:Dren Giong/1939/Fosco Maraini
フォスコ・マライーニ(1912-2004) 文化人類学者、写真家、探検家、登山家
人物紹介は番外「フォスコ・マライーニ」を参照のこと。
内容
マライーニは恩師ジュゼッペ・トゥッチ教授の1937年と48年の2回のチベット学術調査隊に同行し、第1回目の遠征では写真集「LONTANO TIBET」(参照23章「チベット」)と本書を発行している。
チベットからの帰途、マライーニはトゥッチ教授の許しを得て、単身でシッキムに凡そ1ヶ月滞在した。本書はその旅行記である。
本書の題名について、訳者は“あとがき”で次のように述べている。
「本書は昭和14年5月、フィレンツェのVallenchi発行のDren-Giongと題する書で、トレン・ジオンとは、シッキムのチベット名ですが、この名は我が国ではあまり知られていませんので、本訳書では、其の地理的意味を思い合わせて「ヒマラヤの真珠」と解題しました。」
10月7日、ガントクからティスタ川を北上、マンガン、チュタン、ラチュンを経てサムドーン盆地に到る。ここはカンチェンギアウ(6889m)、バウフンリ(7128m)、チョンブー(6362m)に囲まれた渓谷で、ここにベース・キャンプを置いて、ドンキア峠、セブ峠、カンチェンギアウ氷河などに登った。ティスタ川沿いのルートは、古くからのラサに至る交易路で、特別に新しいルートや登攀を行なったわけではないが、単身での気ままな旅を、人夫との交流を通じて心行くまで楽しんでいる。そして、今はなきヒマラヤの小王国の様子を暖かく美しく描いている。
この紀行のおもしろいところは、雪のある4000m以上では徹底してスキーを使って楽しんでいることである。ラチェンを過ぎて森林地帯を抜けると最近降った新雪が積っていた。さっそくスキーを履いた。人夫たちはスキーなど見たこともなかった。マライーニがスキーに乗って滑り降りてきた時の彼らの驚きを次のように述べている。
「人夫たちは休息していた。前進する前に、彼らはお茶でも飲んで元気をつけたいのである。 (中略) そこから「おーい」と、人夫たちに大声で呼ばわるや否や、すぐに下り斜面を、右に左に早いクリスチャニアで回転しながら、下へ降って行った。瞬時のうちに、私は、人々と焚き火のそばへ、蒼ざめた九つの顔と、疑惑に満ちた九つのまなざしの前に一気に滑り降りて来た。すると一同は、はっと我に返って笑い出した。とってもひどく笑うのである。だがまるで、背中から身震いを払いのけたくて堪らないというようである。こんな魔物のようなものをまだ見たことの無い彼らを、私は本当に恐ろしがらせたものらしい。」
この後マライーニは雪の深いところではラッセルして人夫を先導する。ある日、サムドーンのBCから渓谷の上方にあるピークに登った。展望を満喫したのち、スキーで下りにかかった。その時の快感について、次のように書いている。
「アルピで滑り降りたのと一寸似通った完全にいい雪の上の最上級の下り坂である。どのスキーヤーでも、まるで踊りのようなスキーでの飛翔が、どんな感じのするものか、そしてちょうど愛する持物のように雪の表面を愛撫しては、調子を変えて飛ぶのが、どんなに夢のような言い知れぬ気持ちのするものであるかを良く知っている。私は処女地を滑っている。誰にも未だ知られない尾根に沿って、クリスチャニアの律動に乗り、唯一の友である風に向かい、もう二度と味わえそうも無いこの喜悦を歌って聞かせるように唸りつつ滑っていく。」
山岳館所有の関連蔵書
- Karakorum, The Ascent of Gusherburm? Fosco Maraini 1961
- Case, amori, universi Fosco Maraini 1999
- 写真集チベット(Lontano Tibet) 塩見高年訳 春鳥社 1942
- ヒマラヤの真珠 牧野文子訳 精華房1943
- チベット―そこに秘められたもの 牧野文子訳 理論社 1958
- ガッシャーブルム?―カラコルムの峻峯登頂記録 牧野文子訳 理論社 1962
- フォスコの愛した日本―受難の中で結ぶ友情 石戸谷滋 風媒社 1989
- チョゴリザ登頂 桑原武夫 文芸春秋社 1959
- 武田弘道追悼集 会議は踊る―ただひとたびの― 武田ひろ子編 ミネルヴァ書房 1985
- ある北大生の受難 上田誠吉 朝日新聞社 1987
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31. ヒマラヤ探検−ディーレンフルト婦人の手記/ディーレンフルト/1943 |
33. 神々の座−インド・西蔵紀行−/ティヒー/1944 |