番外 フォスコ・マライーニ(Fosco Maraini)人物伝
フォスコ・マライーニ(1912-2004) 文化人類学者、写真家、探検家、登山家
1912年11月15日、彫刻家の父アントニオ・マライーニ、小説家の母ヨイ・パブロフスカの長男としてフィレンツェに生れる。フィレンツェ大学で自然科学を専攻。1935年、シチリア貴族の血を引くトパーツィア・アッリアータと結婚。
1937年、著名な東洋学者ジョゼッペ・トゥッチ教授のチベット学術探検隊に写真家として参加。写真集「LONTANO TIBET」(邦訳「チベット」)、「Dren Giong」(邦訳「ヒマラヤの真珠」)を出版。
1938(昭和13)年12月15日、日伊交換留学生として日本の国際学友会の外国人研究者奨学金を取得し、トパーツィア夫人、1歳半の娘ダーチャを伴い来札。北大医学部解剖学教室の児玉作左衛門教授の下で、無給助手の身分でアイヌ民族の人種的起源についての研究を行った。
マライーニはイタリアの山岳界では名を知られた一流の登山家で、学生時代からイタリア・アルプスの峰々を歩き回り、ドロミティのいくつかで初登頂の記録を持っていた。スキーの腕前は素人の域を脱しており、札幌にも自前のスキーをイタリアから持ち込んでいた。
北大構内の外国人教師用宿舎へ入り、英語講師レーン夫婦、ドイツ語ヘッカー講師らと親交を結ぶ。レーンの紹介で宮沢弘幸、武田弘道、松本照夫らスキーと登山が好きな学生達と冬山登山、スキーツアーに盛んに出かけた。特に宮沢とは登山や小旅行で行動を共にする機会が増えていき、その度に2人の友情は深まっていった。山岳部員でスズメの愛称で親しまれた武田との交流は、武田が1984年に死亡するまで続いた。
1939(昭和14)年初夏、学生の発案で発足した外国人講師と学生の親睦集会「心の会」(心のふれあいの会)が、外国人家庭を持ち回りの会場として始まった。国全体がますます軍国主義に傾斜し、若者に閉塞感が漂い始めていた時代、外国人との交流、自由な発想と発現のできる場は、学生達にとって自由な空気を呼吸できる、世界に向って開かれた小さな窓であった。のち、この集会を特高が目をつけるところとなり、後に述べる宮沢とレーン夫婦の逮捕へとつながる。
1940(昭和15)年1月5日、北大山岳部ペテガリ隊10名の内8名が、コイカクシュ札内沢で雪崩により遭難死した。マライーニも当初よりこの隊に参加する予定であったが、娘ダーチャの発熱の為、本隊より3日遅れて出発、隊員が誰もいないBCで3晩を過ごし、連絡が取れないまま下山を開始した。下山途中で遭難の知らせを受けて現地へ向う坂本直行ら捜索隊と遭遇、遭難を初めて知った。
マライーニはこの遭難事故から稜線への重い幕営装備荷上げの不利を覚り、イタリアの山岳雑誌に掲載されていたイグルーの試作を思い立ち、宮沢と手稲山に登り実験、問題なく作成できることを確認した。この結果に自信を持ち、同年3月、宮沢と旭川の八島定則の3人で十勝岳から大雪山への縦走をイグルーを使って敢行する。美瑛の澤でイグルーに1泊、翌日十勝岳に達したが、激しい暴風雪のためにそれ以上進めず続行を断念、白銀温泉に下った。マライーニのイグルーはしっかりと山岳部員に引き継がれ、昭和18年1月5日、今村昌耕らはコイカクシュサツナイ岳頂上に建設したイグルーから、山岳部宿願のペテガリ岳厳冬期初登頂を果たした。
アイヌ研究ではしばしば二風谷を訪れ、そこで知合った医師ゴードン・マンローと宣教師ジョン・バチェラーのアイヌ救済、殉教的な生き方に強く惹かれた。昭和17年、マンローの臨終には、この時期外国人が遠距離の旅行をするのは至難の業であったが、京都警察の上層部に必死に嘆願し、旅行許可を得て二風谷まで駆けつけ、チヨ夫人と2人で最後を看取った。アイヌ研究の成果は、1942年イタリア大使館から「GLI IKU-BASHUI DEGLI AINU」(アイヌの髭揚箆)として刊行された。
1940(昭和15)年6月、イタリアの欧州大戦参戦により、奨学金が切れたあとの戦火のイタリア帰国が困難になり、京都大学に開設されたイタリア語科に講師として採用され、1941(昭和16)年3月末、トパーツィア、ダーチャ、札幌で生れた二女ユキを連れて京都へ移った。2年3ヶ月半の札幌滞在であった。
1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争開戦と同時に、レーン夫婦と宮沢弘幸がスパイ容疑で特高に逮捕された。宮沢は若者らしい興味から、また自身の見聞を広める為に日本各地、千島、満州などを頻繁に旅行していたが、旅行中に得た軍事機密をレーン夫婦に提供していたという容疑であった。特高による全くのでっち上げであったが、翌年12月、レーン夫婦に懲役12年、宮沢に15年の有罪判決が確定する。
1943(昭和18)年9月8日のイタリアの無条件降伏以来、特高はマライーニ一家を京都飛鳥井町の自宅に軟禁し、外部との一切の交信を禁止する。10月13日、ムッソリーニに代わったパドリオ政権のイタリアがドイツに宣戦を布告、敵国人となったマライーニは夫人、3人の娘(ダーチャ、ユキ、京都で生れたトニ)と共に名古屋市郊外天白にあった松坂屋の保養施設天白寮に、各地から送られてきた16名のイタリア人と共に捕虜として強制収用された。これから1年半、マライーニ一家は幼子を抱え、飢えと寒さとの壮絶な戦いを強いられる事になった。日本政府から捕虜への配給食糧を警官が横流し、そのため1日僅か800カロリー分の食料しかを与えられなかった。警官の不当で過酷な捕虜取扱いに抗議し、マライーニはついに、警官達の目の前で自分の左手の小指をマキ割り用の斧で切り落とした。この事件後、警官たちは食料の横流しをやめ、待遇は少しずつ改善されていった。マライーニの必死の抗議が勝利を勝ち取ったのである。
昭和20年5月中旬、名古屋へのB29による空襲が激化する中、イタリア人たちは天白寮から豊田市東広瀬にある広済寺へ移された。監視は以前より緩和され、住環境などもある程度改善したものの、食料不足は相変わらず深刻で、蛇、蛙、野草を取って飢えを凌いだ。終戦翌月の9月、ようやくイタリア人たちは解放され、愛知県が用意した名古屋市内の宿舎に落ち着いた。2年に及ぶ非人道的で過酷な収容生活であった。
英語、日本語に流暢なマライーニは、釈放後、丸の内の占領軍事務所(GHQ)の要請で、日本人採用の面接係として働いていた。イタリア帰国の船が手配されるまで、何もしないで居られるほどの経済的余裕はなったのである。昭和21年1月、この事務所を宮沢弘幸が訪ねてきた。宮沢は昭和20年10月10日に宮城刑務所から釈放され、東京の両親の下で静養していたのである。4年間、日本の警察に非道な虐待を受け、心身ともに破壊されてまるで老人のような26歳の宮沢にマライーニは驚き、ショックを受ける。1947(昭和22)年2月22日、宮沢は刑務所生活で罹った結核の為に死去する。盲目的で残酷な日本の軍国主義の犠牲となったのである。
懲役12年の刑で刑務所生活を送っていたレーン夫婦は昭和19年、交換船でアメリカへ帰国する。事実無根のスパイの罪を着せられ、日本の官憲に非道な虐待を受けたが、戦後昭和26年、北大からの求めに応じて、再び北大で教鞭をとることになった。
1946(昭和21)年2月中旬、マライーニ一家はイタリアに帰国する。来日以来7年2ヶ月ぶりであった。帰国後、東洋各地を精力的に歩き回り、1948(昭和23)年にはジュゼッペ・トゥッチ教授の率いる第2回チベット遠征隊に加わり、2度目のチベット入りを果たす。帰国後、その経験を「Segreto Tibet」(邦訳:「チベット―そこに秘められたもの」)にまとめ、1951年出版した。
1953(昭和28)年、マライーニはに苦難の経験をし、愛憎交々の感情の染み付いた国・日本に取材の為に8年ぶりに帰って来た。マライーニはある種の日本人を憎んだのは確かであったが、それが日本人全体に対する偏見につながらなった。それはレーン夫婦と共通する感情であったろう。マライーニ自身の言葉を借りれば、捕虜経験のおかげで、彼の日本に対する親愛の念は「戦前よりも成熟し、深まっていた」のである。(石戸谷滋「フォスコの愛した日本」)
来日の目的はイタリアのある放送局がスポンサーの、日本についての文化映画作成であった。長期間にわたり京都、アイヌ、東京、舳倉島などを取材した。舳倉島での取材からは1961年、「L’isola de Pescatrici」(邦訳「海女の島」)を出版した。
帰国後、3年を費やして長年の日本文化研究、撮り溜めた選りすぐりの写真、そして長年の日本での経験を材料に「ORE GIAPPONESI」を1956年、マライーニ42歳の時に出版、各国語に翻訳され大きな反響を呼んだ(邦訳「随筆日本」は2009年発行)。
1955年、戦中、戦後の苦楽を共にしたトパーツィアと離婚。
1958年2月、マライーニはイタリア山岳会のジョバンニ・モリーニ会長から、この年のガッシャーブルム?峯(8068m)を目指す遠征隊への参加を要請されて快諾、直ちに登山許可を得るためパキスタンへ向った。希望していたガッシャーブルム?峯は、既にアメリカ隊が許可を取得していた。次に前年へルマン・ブールが遭難死したチョゴリザ(7654m)を申請するが、これも桑原武夫を隊長とする京大学士山岳会が既に許可を取得していた。パキスタン政府は、代わりにガッシャーブルム?(7980m)を許可した。これを受けイタリア山岳会は、リッカルド・カッシン隊長以下マライーニを含む8名の隊員を送り、チョゴリザ初登頂の2日後の1958年8月6日、ワルテル・ボナッティとカルロ・マウリが辛苦の末についに頂上に立った。チョゴリザ隊は、登攀活動の途中で前年遭難したヘルマン・ブールのテントを発見、遺品を回収し、チョゴリザ隊のBCを訪問したマライーニらイタリア隊にヘルマン・ブール夫人に引き渡すべく託した。
(写真:チョゴリザBCの日伊登山隊、後列右から3人目桑原隊長、前列左から2人目マライーニ。提供:チョゴリザ隊隊員 芳賀孝郎氏)
マライーニは翌1959年、イタリア隊の公式記録「G4-Karakorum」(邦訳:「ガッシャーブルム?」)を発表、従来の登山紀行のマンネリズムを打破した世界を創出したとして評者の絶賛を浴びた。日本語版は、2段組み370頁の本文と80ページの綴じ込み写真からなる分厚い本である。
引き続いて1959年、東ヒンズークシュ・サラグラール峯(7350m)にイタリア山岳会の登山隊を率いて初登頂を果たした。
1959年から64年にかけて、オックスフォード大学セント・アンソニー・カレッジにフェロー(特別研究員)として招かれて滞在。
その後も1968年には並木見江子と再婚、1970年には大阪万博イタリア館副館長、1972年の札幌オリンピックにはイタリアチームの選手役員として来札するなど、終始日本との関係を持ち続けた。札幌オリンピックでの来日を機に日本をより広く世界に知らしめようと、日本文化、日本人、歴史を紹介した「JAPAN ‐Patterns of Continuity‐」(邦訳なし)を講談社インターナショナルから発行した。
1972年、新設されたフィレンツェ大学日本語・日本文学科に教授として招かれ、1983年まで11年間勤めた。この間、1973年に伊日研究学会を設立、会長に就任、その後名誉会長となった。フィレンツェ大学退官後は、生来の放浪癖を蘇らせ、東洋の国々を精力的に歩き回った。
1987〜88年、国際日本文化研究センター客員教授。
2004年6月7日、フィレンツェで91歳の生涯を閉じた。この世を去るに際し、神の啓示は特定の宗教のみに現れるものではなく、地球上のあらゆる事象から得られるものであると説く「最後の言葉」を“親しき友人諸氏”に残し、葬儀は無宗教で行なわれた。
フィレンツェのストロッツィ宮殿内、ヴィエッセウ図書館にはマライーニの希望によりその生涯をかけた東洋書籍コレクション8000冊と自作の写真7000点が収蔵されている。
長女ダーチャ・マライーニは現代イタリア文学を代表する作家。
1982年、勲三等旭日中綬章
1986年、国際交流基金賞
日本山岳会名誉会員
著書(邦訳のあるもの、*印は山岳館所有)
- *チベット(Lontano Tibet) 塩見高年訳 春鳥社 1942
- *ヒマラヤの真珠 牧野文子訳 精華房1943
- *チベット―そこに秘められたもの 牧野文子訳 理論社 1958
- *ガッシャーブルム?―カラコルムの峻峯登頂記録 牧野文子訳 理論社 1962
- 海女の島―舳倉島 牧野文子訳 未来社 1964
- アイヌのイクパスイ ロレーナ・スタンダールディ訳 アイヌ民族博物館 1994
- 随筆日本 岡田温史監訳 松籟社 2009
上記以外の参考文献
- 北海道および大雪山の印象(北大山岳部部報7号) フォスコ・マライーニ 1928
- フォスコ・マライーニ氏とペテガリ遭難の秘話−其の時代(北大山の会会報100号) 今村昌耕 2007
- ペテガリの思い出(北大山の会編「日高山脈」付録) フォスコ・マライーニ 1971
- イグルー普及と実践的登山(山の仲間と五十年(秀岳荘) 高澤光雄 2005
- フォスコの愛した日本―受難の中で結ぶ友情 石戸谷滋 風媒社 1989
- チョゴリザ登頂 桑原武夫 文芸春秋社 1959
- 武田弘道追悼集 会議は踊る―ただ一度の 武田ひろ子編 ミネルヴァ書房 1985
- ある北大生の受難 上田誠吉 朝日新聞社 1987
- フォスコ・マライーニの死にちなんで(aackニュースレター32号) 谷泰 2004/9
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34. 世界最悪の旅/ガラード/1944 |
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