書評・出版・
2016年6月24日 (金)

セクシー登山部のなめたろうさん。那智の滝からの4年の軌跡です。沢登りする人の紀行文、記録文は、名文家が多いけど、宮城さんのようなのは初めて読みました。痛快娯楽書というか、チャーカンシーを攻める大西、佐藤たちがルパン三世の次元や五右衛門に見えてくるほど生き生きと描かれています。
大西が滝つぼから生還する下りなどはおみごとなもの。戦艦大和や孫悟空の比喩は興奮気味だけど、それだけすごい激流で絶望的状況であるのはよくわかる。ルートはもちろん世界最先端の未踏域ばかりです。岩峰を、「力道山の朝勃ち」に形容するあたり、語彙が諧謔的に豊かです。数十日の山行を黙々とやっていると、言葉が頭の中で沸いては消え沸いては消えるもの。大切なのはそれを消えないように捕まえておくことだとおもう。
「外道」のタイトルは逮捕を受けてのことだろうか。那智の滝逮捕を聞いたときには、我ながら逮捕の言葉に多少ビビったのが恥ずかしい。被逮捕経験は、サラリーマンや常識人にとって、やり直すことのできないほどの痛手には間違いない。しかし、サラリーマンの知人ばかりと付き合っていると錯覚するが、この世には自営業者、創作者、自活民、狩猟民・・・、人に雇ってもらわなくったって、図太くあるいはか細く生きている人はたくさんいるんだ。誤認逮捕だって山ほどあるんだ。警察発表、マスコミ発表に依存しない、ほんとうに人を見る目を持つ人と関わりを持っていけばよい。事件後の3人は職を失いそれなりにつらい別れはあったろうが、これを契機に長期の画期的山行に行く人生シフトを手に入れるチャンスになった。あの地獄のようなゴルジュの底から這い上がる力を持った人たちだ。当然と言えば当然の話だ。3人のこの4年の活躍は、山愛好家ならみな知っているだろう。
チャーカンシー、称名滝、ハンノキ滝、称名の廊下というスーパークライミング記録が挿入されるが、本書のメイン記録は未知未踏に対するこだわりを持ちながらも、スマフォで音楽を聴きながら登るようなタイのジャングル沢山行の話がメインだ。「頼りない相棒」との、泥沼、藪こぎがほとんどの46日間タイのジャングル沢の記録だ。「相棒」氏との殺意をいだくほどの心の葛藤がまるで小説のように描かれている。ヒマラヤ遠征隊など長期山行で人の嫌な面がむき出しになってくると、誰でも覚えがある「たかがメシの盛りひとつで殺意」のテーマ。豊かな日常じゃそんな恥ずかしいこと起きないけれどね。
「山を目的にしてその他一切を捨てて生きている沢ヤやクライマーが魂を込めて挑んだ未踏峰やゴルジュ、それらは冒険といっていい。」p123
「魂を込める」使い古したくない美しいことばだ。
あとがきの角幡氏の「宮城はそもそも表現者だった」という話に納得する。映像表現はセクシー登山部HPで衝撃的に突きつけられていた。そして山登りはそもそも反社会的行為であるのだということを那智の事件は我々に見事に突きつけたのだったというくだりは、私も学生のころからいつもずっとそうなのではないかと思っていた。山登りがどうして反社会的行為なのかわからない、という人はもちろん多数だ。しかし彼らは、自由な山登りからは遠いところにいる。
あすは海外遡行同人の2016年総会で、また彼らの今年の報告を聞ける予定です。聞くばっかりで申し訳なし!
四年前の7月16日記事
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=680
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書評・出版・
2016年3月18日 (金)

少し前、山岳部OBのMLで紹介されていた佐川さんの小説に、北大山岳部員のその後を書いた話があると聞いて、このたび読みました。2013年出版の小説で、読むの遅かったです。先月文庫化されたそうです。
北大山岳部で山を登ってヒマラヤにも登った主人公がバブル末期に都市銀行に就職して山をやめ、バブルの不良債権をひたすら片づける仕事を務めたあと、40代半ばで仕事を辞め・・・という話で、全く登山小説ではないのだけれど、同時代の作家が、同時代を生きたおそらくたくさんの惠迪寮生たちの人生で構成したフィクション・・かもしれません。銀行に行った連中は、多分、こんな風に90年代以降を送ったのだろうか。
佐川さんは、惠迪寮で私と同じ部屋で一緒に住んでいました。一年先輩で、大変濃厚な寮生活を共にしました。文章の端々に、寮生活の際に交わした部屋ノート(交換日記)や、とりとめのない部屋での対話を思い起こしました。更には寮生集会(寮生による討論会)、大学当局との交渉の場などで、中心となって寮生の意見を述べ挙げる頼もしい佐川さんの姿を思い出しました。
この小説の主人公は誰だろう?というような話もMLではありましたが当時の山岳部で大手都市銀に就職した人はいないし、モデルの人物はそもそも居ないと思います。ただ、主人公が松本の出身であることや、卒業間際に大切な山仲間が遭難死したのを機に登山家ではなく就職を決めた話など、なんだか思い当たる部分も少々ありました。
先日読んだ村上春樹の「職業としての小説家」という本で、作家は誰か特定のモデルをすっかり描いて小説を書くわけではない。ただ、日常の中で出会う人で、何かちょっと心に引っかかるしぐさや癖を、善悪を問わず、そのまま心の引き出しにしまっておいて、そのストックが多ければ多いほど、小説の中の小さな話があふれるように出てくる、というような事を書いていました。佐川さんの創作のごく一部に、何か引き出しの中にそっとしまわれた一部に私や、同時期を過ごした個性豊かな寮生たちの記憶があるのなら、とてもうれしいことだと思いました。
登山シーンは、ヤマ場の夢の中で意外にもたっぷり現れます。松本のふるさとの山、常念岳にも登る、それに1943年の冬季初登にまつわるペテガリ岳も出てきます。確かに現役部員にとって、冬季ペテガリ初登ルートは憧れの計画です。1982年冬季ダウラギリも、それに道岳連のガンケルプンズム遠征まで出てきます。よく調べていますよ。
この小説の肝は山登りでも不良債権処理でもありません。今もっとも進行中の大問題と新しい流れ、貧困母子家庭のための低金利銀行NPOの話、ノーベル賞受賞したバングラディッシュのグラミン銀行の話です。小説では、今の日本で、女と対等な関係を築くことができなかった男たちによって助け無しのどん底に落とされた女がいかに多いか、という社会問題と、それを解決できるかもしれない方法を訴えます。このあたりが佐川さんらしいところかもしれません。
しかし不寛容なフェミニストだった女性活動家の「家族帝国主義者!」のセリフには、佐川さんをおもいだして思わず大笑いしました。
当時の惠迪寮は反帝反スタ、というかノンセクトラジカル(無党派過激派)というか。学生自治運動封じ込め路線の文部省に忠実な北大当局が、新寮建て替えを契機に完全管理をもくろんでいて、これまで連綿と続いて来た寮の自治権を奪おうとしていた時期でした。旧寮時代には10人ぐらいの大部屋で、プライバシーは無くとも寝ても覚めても他者と付き合う生活を通し、他では得難い人格形成を培う部屋だったものが、この年の建て替えで一方的に完全個室になり関係を分断されました。考えた自治会側は分断統治を図る大学事務員を追い出して寮を占拠し、壁をぶちぬいて個室を減らして対抗しました。一時的に公権力の及ばないアジ―ルを作り出したのです。新入寮生は当局ではなくそれまでどおり学生自治会で選ぶとして、寮生による入寮銓衡委員会が、自主入銓を貫徹しました。その時の新入学生で強行入寮したのが私の代30人ほどで、熱烈歓迎されました。銓衡委員会にたしか、2年目の佐川さんがいました。委員長だったかもしれません。や、それはヤマジさんか。そのすぐあと、佐川さんは寮長を務めました。人と話す時、爛々と輝く目をいつもまっすぐ見据えて話す人でした。入寮希望者の面接で、学ラン正装した銓衡委員がズラリ並ぶ前で向かい合い、「米山君は山登りが好きとのことだが、寮の裏の空き地に雪山があるので、登ってきて感想を述べてくれたまえ」という課題を与えられました。私はその足で5mほどの除雪の山を登り、真っ白な雪の中を懸命に這っていた小さな虫を見つけ、その虫を救おうかと思ったけれどそれをやめた話をしたのを覚えています。
アジールですから怪しい人たちも出入りして、また活気がありました。大学事務員や警察が突入してこないようバリケードを作ってアングラ劇団のブルーシート小屋を寮の裏に建てて公演をしたこともありました。こうした抵抗運動と共に、太鼓を打っての寮歌放吟、赤フンのストーム乱入など数々の歴史的文化資産はたゆまず継承し、充実の寮生活でした。惠迪寮には、それまでの少年期を脱皮して「自由を手にして、遠くに行きたいんだ!」と津軽海峡を越えた若い男たちであふれ返っていました。
共用棟で寮生集会をやっている脇を、山に出かける私は大きいザックとスキーを担いで通ったこともあります。集会でなくて山に行ってすまんなあ、と思いながらもやっぱり山の方がいいや、と思っていました。佐川さんの脇を、楽しそうに山に出かけて帰って来る私の姿を、どこかで覚えていてくれて、銀行職場で浮きまくりのどこか世間離れした元山男像を描いてくれたのかもしれません。
「牛を屠る」「ジャムの空壜」で、佐川さんのその後の90年代は読んでいました。確かな屠場での技術と暮らしを時間をかけて身につけ、溢れ出づるものがあって、小説家になったんだと思いました。次は「おれのおばさん」読んでみよう。
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書評・出版・
2016年1月9日 (土)

インドヒマラヤの登攀史をまとめ、2015年現在までの画期的な登攀記録などを集めた、記録集大成です。1936立教大ナンダコートから、1974JACナンダデヴィ縦走、ピオレドール賞を受賞した2008カランカ北壁登攀(一村文隆、佐藤祐介、天野和明)、カメット南東壁登攀(平出和也、谷口けい(遺稿))始め日本人記録を中心に。2014年学習院大山岳部のギャルモ・カンリ初登記は翌年八ヶ岳で遭難死した吉田修平氏の遺稿となりました。
インドヒマラヤの有名ピークといえば、ナンダデヴィ、古いところではシニオルチューでしょうか。8000m峰の並ぶネパールヒマラヤと、パキスタン領になるカラコルムに挟まれてしまって、ティルマンが1930年代に初登したナンダデヴィ以外は、すこぶる地味な印象でした。深田久弥が紹介するヒマラヤ探検記録などの古典は戦前期のものが中心でしたが、当時ネパールが鎖国で入れず、西欧の探検家が調べたのがガルワール、アッサム、シッキムだったからでしょうか。1980年代までは、8000なのか、7000なのかと、何より標高重視で山を見ていた覚えがあります。それだけにインドヒマラヤは地味でした。
しかし、90年代以降は登攀技術の革新があり、難しい6000m峰の未踏峰がたっぷりあるインドヒマラヤに、また難しくない未踏峰も多く残されていて、若い遠征隊にも狙える山域として流行ってきた、という記憶があります。
この時期、最後の高峰ナムチャバルワ7843mをめぐる両者の確執もあったと聞きますが、ヒマラヤに登山隊を送り出す主体としては日本山岳会は衰えを見せはじめていて、東部カラコルムなど、まだまだ未知だった山域に精力的に通っていたのは日本ヒマラヤ協会HAJの面々だったように記憶しています。でもこの本を読むとJAC東海も90年代はインドヒマラヤに通っていたのを知りました。この本も日本山岳会110周年記念出版とのことですが、2015年の今、ようやく、日本の登山界が、JACだのHAJだのと言わず、皆の成果としてこの一冊を出すことができてよかったなあと思うところです。記録はもちろん日本人のものを厚く載せていますが、インドヒマラヤ登山全体に占める質量ともに、日本の登山家の割合は相当多くを占めると思います。やはり日本は登山大国だと思います。北大関連ではワンゲルの1980ゼット・ワン(Z1)、山岳部の1997ドーダなど、若手が持てる力を精一杯傾けた山行の記録もあります。数行ですけど。
ガルワールのメルー中央峰の最難ルート、シャークスフィンを2012年に登ったナショナルジオグラフィックの山岳カメラマンJimmy Chinがドキュメンタリ映画を撮ったそうで、今年日本でも劇場公開されるらしいですよ。昨年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞したそうです。
http://events.nationalgeographic.com/speakers/2015/12/01/making-meru-dc/最後に少し要望を書くと、もう少し充実した地図を期待していましたが、少ししょぼかったです。でも、良い本を出していただきました。
日本山岳会創立110周年記念
ナカニシヤ出版2015.12
6000圓
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書評・出版・
2015年12月28日 (月)

弘前の、山岳同人「流転」の遠征隊の報告書を送ってもらいました。スパンティークは、カラコルムの7000m峰です。こてこての手作り遠征です。旅は、山は、こうあれというもの。普段の地元の山のスタイルで、山スキー、テント無し(半イグル―)、うんこペーパーレス(もちろんゴミも無し)の三本の矢が光っています。
大物の予感漂う23歳女性メンバーの存在も輝いている。若手が続くチームってのが90年代っぽい。
90年代までは、ヒマラヤと言えばガイドと行くものではありませんでした。山岳部なり山岳会のもんが、休みを最低一カ月や二カ月は工面して、自分で梱包、発送して、現地ではポーターに札束配って交渉してキャラバンしてベースで粘って・・・というのがヒマラヤ登山だったのですが、最近、そんな遠征隊の話をさっぱり聞きません。山野井さんや佐藤さんや花谷さんや横山さんや谷口さんたちのような凄腕壁クライマーはもちろん今もやっていますが、僕らのようなセミプロのアマチュアが出かけていくような話をとんと聞かなくなりました。以前に比べ匿名化、非組織化が進んでいるので、日本ヒマラヤ協会も2000年ごろから日本のヒマラヤ登山隊を把握しきれなくなり、もう年報でも網羅できなくなりました。
初登頂じゃなくたって、ピオレドールじゃなくたって、テレビ局が取材してくれなくたって、県民栄誉賞もらえなくたって、全然構わないじゃないですか。もっと手作りで、いつものやり方で、若者がヒマラヤ行けばいいのにな。
久しぶりに送ってもらった手作り報告書。これでいいのだ。
書評・出版・
2015年12月22日 (火)

日本の山々を名前に注目して読ませる本です。著者は全国ひろく歩いているようで、以前、ヤマケイで山名考という連載を担当したことのあるライターさんのようです。
やはり珍名といえば北海道です。僕もカニカン岳のイグル―でカニ缶食べました。
カムイエクウチカウシ山の山名由来についてまえに著者から山の会に問い合わせがありました。山岳部の部報2号の当該個所、アイヌの古老、水本文太郎氏から、その名を聞きだす下りが詳しく書かれています。また、山の会きっての文豪・井田清氏による部報3号の水本氏追悼の印象的なところも引用されていました。ここは私も好きなところです。
日高の国土地理院の地形図の間違い訂正の一件(2013年)も厚く書かれています。小野有五先生の北海道地名に関する寄稿もありました。
聞いたところは面白いし意味も深いアイヌ語地名ですが、内地の山も修験道、タタラ文化、ご当地富士に富士塚、歴史のいきさつが盛り込まれた地名解が満載です。ガツガツ登る年ごろを過ぎると、こういう、山の歴史を知って、また楽しむというたしなみが、山登りにはあります。
思わず噴き出す珍名山リストに難読山名リストなどもたくさんあります。
やはり、山行計画では、無名峰よりは名のある山。同じ名前でもヘンな山名の山は、遠回りでもアタックしとこう、って事になります。モッチョム岳、タップコップ山、ペトウクル山、シートートゥムシメヌ山は、まだ未踏だなあ!
ブルーガイド 山旅ブックス
大武美緒子/著 中村みつを/絵
実業之日本社
1,728円
ISBN 978-4-408-11165-0
2015年12月
書評・出版・
2015年12月17日 (木)

古い写真の数々に、釘付けになりました。奥山章、吉尾弘、吉野満彦、八木原圀明・・、登場する若々しい面々の豪華なことももちろんですが、クライミング黎明期からの装備の変遷を知る上でも。
今、最先端のものには、過去の積み重ね経緯を知らないと、値打ちが分からないことが多々あります。最先端ばかり注目される傾向が特に強いのが、クライミング技術の分野で、古いものを振り返る機会は多くないだけに、この写真群には唸りました。しかも最先端を日々研究し続ける堤さんが出す本ですからね。技術面は細かいところにまで考えが込められていてさすがです。数多くの事故を自分の目で見てきた工夫が書かれています。ありきたりの入門書ではなく、基本的ガイドではないので、クライミングに打ち込む人の研究参考書です。
堤さんは年間通じてあちこちのクライミング講習会に講師として出かける忙しい人ですが、厳しい厳しい指導でも知られています。読めば分かりますが1970年代から常にクライミングの最先端で登攀史を歩み、生き残った旧日本兵のような大物です。
書評・出版・
2015年8月11日 (火)

トレイルラニングの日本代表選手クラス、ヤマケンの自伝。人の根源の力を発揮するのを阻むブロックのひとつは慾で、それを外していくと力を最大限発揮できる(96p)。これまで競技に縁は無かったけれど「山」という共通点で読んでみました。おもしろかったです。
山本健一
2015.7
トレイルラニングという新ジャンル、ここ数年で人気です。山は皆のもの、自分の体ひとつで挑むなら、どんな楽しみ方の人であっても寛容でありたい。けれども僕自身は、「競技であること」、「大勢で登る事」にあまり魅力を感じません。それでトレイルラニングはずっと人ごとだったのですが、職場の若いトレイルラナーの青年に一読を勧められ、またヤマケンが同時代同地域の山やさんなので読んでみました。少し前NHK-BSでやっていたレユニオン島のレースのドキュメンタリ番組も見ました。
やはり興味深いのは、人間の根源の力がその枷をかなぐり捨てて表出する可能性です。著者に寄れば、人に勝ちたい、順位を上げたい、という慾が消えた時、会心の走りが訪れ、更には、野生動物にかえった域を体感するといいます。24時間以上も山と空の境を走り続ければ、未知の境地もあろうと思います。このあたりの心境はたぶん、修験道者の体験した山岳修行や、「炎のランナー」(1981年)で、神に感謝するために走ったスコットランド人宣教師リデルの境地だろうか。ヤマケンさんは感謝の気持ちで笑顔になるといいます。
ヤマケンという人間が素直な性格で、周りの人たちにも恵まれ、当たり前の日常を丁寧に生きる事ができる人なんだと思います。あった事は無いですが。
楽しそうに走っている写真も良い本です。ヤマケンさんを慕って、良いカメラマンが撮っているのだと思います。
さて、私がトレランに馴染めなかった二点、
「競技であること」については、もはやヤマケンさんは競技を越えていました。
「大勢で登る事」については、「一人で走ってもつまらない」と書いています。声援送って、助け合って、喜び合う。もちろんそういう人たちが山を楽しむのに賛成です。山は皆のものだと思います。
モンブラン、富士山、ピレネー、アンドラ、レユニオン。ヤマケンさんの地元は、甲斐駒ケ岳の黒戸尾根、根っからの甲州人です。
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書評・出版・
2015年7月15日 (水)

「オオカミが厄介者ではなく、自然や生態系を守り維持していくために不可欠な頂点捕食者である」という生物学者の結論を、行政機関と多くの市民が受け入れて、オオカミ復活を実現させたアメリカのイェロウストン国立公園(を含むワイオミング、アイダホ、モンタナ3カ所)の試みを書いたドキュメンタリ。著者は野生生物保護活動家。訳者は、日本でのオオカミ放獣を目指して1990年代から活動している二人。
巻末の年表より
1926年イェロウストン国立公園で最後のオオカミが殺された。
1944年レオポルド博士オオカミ復活を提唱
1978年生物学者ウィーバー氏が公園内への放獣を提唱
1987年公園内への放獣議案提出
1990年オオカミ補償基金(万一家畜被害の保障)用意
1992年「オオカミ投票」で世論作り
1994年最終環境影響評価書が発行され、野生生物局によるオオカミ再導入の最終的な管理規則を発行。周辺牧場主が差し止め訴訟。
1995年裁判所は差し止め請求を拒否、カナダからのオオカミはY.S.国立公園に8頭放獣された。年末までに21頭に。
1996年更に17頭放獣、年末までに51頭に。
2002年オオカミ数目標値に。
増えすぎたエルク(ヘラジカ)は適正数になり、その後オオカミは100頭前後を維持。
***
アメリカでも、オオカミ放獣の実現に立ちふさがる誤解と利害からくる困難は多くあった。あんなに鉄砲を手放すのが嫌で、既得利益のためにはぶっ放すのが好きそうなヒトが多そうなアメリカだものなあ。こつこつと周りの説得を積み上げていくオオカミ導入支持研究者らの行いが書かれています。相手に敬意を払わない「話にならない反対論者」に対しても敬意を失わず対話を重ねる、ということだけが、最終的に多くの人の支持を勝ち得るのだと感じました。だからこそ議論には時間がかかるのです。「俺が正しい、間違ってるお前は黙れ」というのは言論の自由には含まれない言論なんですね。
訳者のあとがきの中で、北米でのオオカミ絶滅と日本のオオカミ絶滅のつながりについて書いてありました。
オオカミを滅ぼした時代の力は毛皮の狩猟圧だった。欧州で人気の毛皮、クロテンやラッコを数百年かけて北米、極東ロシアで獲り尽くし、海を渡って遂に日本を開国させた。その天敵、獲物を減らす厄介者として、ヒトの利益を横取りするものとして、オオカミは懸賞金付きで殺された。その思想が明治日本にも上陸し、1905年オオカミは日本から居なくなってしまった。
明治維新で日本が失ったもの。たくさんありましたが、オオカミを失った事、100年経っていま、シカの増大で日本の山の荒廃要因の一つになっているのだなあ。
前回、オオカミ放獣に関する書評でも書いたけれど、オオカミ放獣は、「シカ害」という人の利益のためではなく、先祖が犯してしまった罪の痛切な反省のためにも、子孫としてするべき落とし前ではないでしょうか。作ったけれど無用になった山の中の幾多の建造物の完全撤廃なども。21世紀は先祖の尻拭いをする時代です。
ウルフ・ウォーズ
オオカミはこうしてイエローストーンに復活した
ハンク・フィッシャー 著
朝倉裕、南部成美 訳
2015.4 白水社
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【オオカミの護符】
明治に失った日本のオオカミ信仰について、もう一冊です。
実家の土蔵の扉に貼ってあったオオカミの護符を追って、多摩丘陵のそして、秩父の山村集落の習俗と農事の伝統を発見していく本です。川崎の宮前区の丘陵地帯は、ほぼ僕と同世代の著者の子供時代には茅葺き屋根の農村最後の時代だった。川崎の宮前にも古い農民社会が40年前まであったのが驚きです。オオカミ信仰の講中登山を辿って、御岳山、さらには秩父へと話は進んでいきます。著者はその映像記録を撮り始め記録映画を作りました。本書はその書籍化。
僕自身、東京に住んで山に登った期間はわずかだったので、御嶽山(みたけやま)も宝登山(ほどさん)も猪狩山(いかりやま)も、三峰山(妙法ヶ岳、白岩山、 雲取山)も、名前も位置もほとんど知りませんでした。奥深い山と思っていた和名倉山も、以前は中腹まで焼き畑が覆っていた写真を見て驚きました。
今とは違う、線路や道路ではなく、山と川で繋がっていた武蔵国の範囲に読後初めて思いを巡らせました。
そしてテーマのオオカミ。オオカミは作物を荒らすイノシシ、シカを食べる農民の味方。
オオカミのお産のうなりを聴くとシカ、イノシシは逃げることから農民の神となった。うなりを聴く事の出来る「心の直ぐなる者」が、その場に赤飯を持っていき、オボタテ(御産立)というお祀りをした。そこからオオカミの護符信仰が始まったのだった。その行事を覚えていた人に出会うのが終盤の山場です。
とても面白い本でした。武蔵一円に暮らす登山愛好家にお勧めです。
オオカミの護符
小倉美恵子
新潮社2011
書評・出版・
2015年6月11日 (木)

オオカミが日本を救う!
丸山直樹 2014.1白水社
「日本は100年間、頂点捕食者を欠き続けて来た。これから人口減少する日本で、ヒトにはオオカミの代わりは務まらない。」
先週、日本オオカミ協会主催で、シンポジウムがありました。オオカミ復活先進地のアメリカ、ドイツからの報告者を招いて、各地でイベントがありました。残念ながら直接関われませんでしたが、オオカミ放獣に興味を持ち、日本オオカミ協会代表の本を読んでみました。明治中期、ヒトによる組織的な駆除によって滅ぼされたオオカミ。日本の生態系の頂点にいたオオカミを、もういちど日本の山に放つ可能性を語る書です。
オオカミ放獣が一見、荒唐無稽に聞こえるとしたら、それはオオカミに対する大きな偏見に自分が嵌っていることを知るチャンスだと思います。「オオカミはヒトを襲うというのは偏見である」という命題を、近代欧米の事例からあるいは、明治期にいかに政策的にオオカミを駆除し追いやるための濡れ衣として作られた話であるかを、当時の公文書を丹念に調べ、イザベラバードや南方熊楠の事例を挙げ、また現代欧米のオオカミ復活先進地のデータを示し論証します。オオカミを恐ろしいものと思い、拒否反応を示すことを「赤ずきんちゃん症候群」と述べ、著者に寄れば、オオカミ放獣を提唱し始めた20年前から、それが一番の大敵だったとあります。
そして、増えすぎたシカの数を減らすためにオオカミを放獣する、という、人間の都合としての動機にも一言書いています。ヒトの都合で滅ぼしておいて、またヒトの都合で放獣する。未来放獣することがもしあるならば、それは獣害対策という恥知らずな理由ではなく、ヒトの都合で滅ぼしてしまったオオカミと、日本の山に対する償いが動機でなければならないと云う点に、はっとしました。ここのところに一番共感しました。
北米イェロウストン国立公園では1927年にオオカミを駆除してしまいました。その後増えすぎたエルクによる害で生態系が長い時間をかけ蝕まれ、1995年放獣したオオカミによって十数年かけて回復してきた事例をあげています。90年代から合わせて3回訪問するたび、日本の鹿のようにどこにでもいた巨大なエルクがオオカミの放獣後15年後には適正な数になっていたと言います。オオカミが存在するだけでエルクのストレスが高まり、妊娠率も下がる効果に関する論文も紹介されています。
以下に代表的な反論三つとその答えを簡単に挙げます。
?オオカミはヒトを襲う?
→頂点捕食者のオオカミは、鹿が数を減らせば自然に数を減らすもの。人を襲う事例の数は例外的で、ほとんどが狂犬病によるものと見られる。明治以前の公文書にはオオカミは臆病であるとあり、オオカミが凶暴な生き物であるという印象は蛮獣視し絶滅政策をとっててきた偏見によるものが大きい。日本で鹿が数を増したのは、オオカミが消えて以降盛んだった狩猟圧が1980年代以降に減り、その影響である。
?オオカミは家畜を襲う?
オオカミは家畜を襲う。但し日本よりはるかに畜産の盛んな欧州での対策と現実例を紹介。日本の現実から見て、シカ害の環境破壊の深刻さと、ほとんど起きない小規模で数少ない放牧畜産の害とのバランスの問題。欧州のさまざまな対策が面白いです。
?外来種であり生態系の破壊では?
日本で絶滅したオオカミと、現在モンゴル、中国に居るオオカミとの種としての違いは亜種レベルである。頂点捕食者を欠いた不正常な状態を元に戻すことが最も簡単な環境保全方法である。
オオカミ放獣に必要な面積を最低五万ヘクタールとし、ヤクシカ、エゾシカの増えすぎた屋久島、知床半島での可能性について書いています。このあたりの生物群の野外調査を踏まえたシミュレーションもおもしろく読みました。例えば北海道で、どのくらいの地域でオオカミが暮らせるのかを調べるのに、携帯電話の受信不能マップが(2011年時点では)便利、という話もありました。それから5000万ヘクタールをはじき出し、およそ1000頭となります。
沖縄でハブ駆除のためのマングース放獣の失敗事例との比較もおもしろいです。頂点捕食者であるハブ補殺のため天敵でもないマングースを放った無分別な時代が、オオカミを絶滅させた時代と同じなんですね。
鹿のみならず猿害、イノシシ害、カモシカ減少の抑制に関するオオカミ効果の考察もあります。ジビエ解決法の限界もよくわかりました。獣害対策と地域おこしを抱き合わせても駄目というものでした。
オオカミ放獣が、人間の都合のためだけでない点が非常に重要なことだと思います。
オオカミを放つ」は2007年版、「オオカミが日本を救う!」は2014年の改訂、発展版とのことです。
書評・出版・
2015年6月3日 (水)

ダーチャと日本の強制収容所
未来社 望月紀子
2015.3月
1940年、北大山岳部の冬季ペテガリ岳遠征隊の雪崩遭難事故の際、娘ダーチャの発熱のため入山を遅らせ、遭難直後のBCを訪れた、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏はアイヌ民俗学研究者として妻、娘と遠路日本に来ていた。戦後は民俗学研究者、写真家、それに登山家として多彩な才能を開き、1960年ガッシャブルム4峰の遠征隊にも参加している。だが戦争末期1943年、単独講和を結んで連合国になった祖国イタリア。一家は反ファシズム側を表明したため、日本の特高に逮捕され名古屋の敵国人強制収容所に繋がれた。その当時のことを、マライーニ、妻のトパーツィア、そして作家になったダーチャのその後の著書や手記などから丹念に追った本。著者はダーチャ・マライーニの作品の翻訳家。
この一家はそれぞれ多くの著書を残しているので、既に明らかにされていることは多いが、マライーニ氏と妻がファシストの父と反目して、本国イタリアのファシズムから逃れて日本への留学を選んだいきさつなど初めて知った。
一家が長い船旅で神戸に着き、札幌へ移動する途上、東京で出征兵士を見送る場面に出くわし、100名ほどの見送りの若者が大騒ぎをして大声で歌い万歳三唱しているのを見て「恐怖を感じなかったと言えば嘘になる。それまで観察した日本人は極端なまでに自制的だったが、この若者たちは明らかに御しがたい暴力に支配されていた。数カ月まえに南京虐殺の記事をアメリカやイギリスの雑誌で読んだときは、大げさなプロパガンダだと思ったが、ふと、事実だろうと思った。」p51)と日記に書いている。時代に身を置いて得た直感を書いている。この時代の人たちはみな、居なくなってしまったが、親日家のマライーニが直感したむきだしの暴力性は異邦人ならではの客観性があったと思う。
以前にも触れた、スパイ冤罪で逮捕された北大生、宮沢弘幸氏のいきさつもある。開戦初日1941年12月8日には、同じ手口で全国で396名も逮捕されたとある。開戦キャンペーンであり、今も変わらない公安機関の特別取締と同じような官僚の仕事ぶりだ。宮沢氏は、マライーニ家や、同じく逮捕された米国人教師レーン夫妻と親交を深めていて、それだけで特高に目をつけられてしまったのだった。
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/AACHBlog/details.php?bid=699札幌での留学期間を終えても、戦争で帰国のめどが立たない。京都大学の講師の職を偶然得て、マライーニ一家は京都へ引っ越す。その後日米開戦。1943年9月8日イタリアではムソリーニが失脚し連合軍と単独休戦協定。北部は忽ちドイツ軍に占領され、ムソリーニがドイツに救出され4日後ナチス傀儡のサロー政権が生まれる。日本と同盟を結ぶこの政権への忠誠を、マライーニ夫妻はそれぞれ別々に尋問され二人とも拒否した。拒否したものは強制収容所に送られる。イタリア降伏後、情報がほとんどない中で、在日イタリア人の間で空気は豹変したという。疑心暗鬼になり、大使館はナチ式の敬礼をした。
「1943年の時点で日本が降伏していれば日本人の戦災死者310万人のほとんどは死なずに済んだ」と、今の私は知っている。イタリアはこの時点で降伏しており、以前は少し羨ましく思っていた。しかし現実は、ドイツ占領下のフランスやオーストリアと隣接していたために、あっという間にナチスに侵攻され、その後のイタリアはファシストとパルチザンが国を二分する内戦になっていたのだった。こちらも過酷だ。だが、そこが無謀な戦いをズルズル続けて、国としての主権も含めて何もかも失った(今もまだない)日本と決定的に違う。戦後70年辿った敗戦後史の行方も含めて。
マライーニ一家と60名ほどの宣誓拒否者の強制収容所は愛知県天白村の松坂屋デパートの社員保養所「天白寮」を接収して改造した施設だった。約2年間。今なら2年とわかるがその時は何年続くかわからない、特高警察監視の厳しい収容所で、食糧が減らされ、マライーニ一家は幼い娘姉妹3人ともども飢えに飢えた。特高は差し入れのパンを渡さず、地面に埋め人糞をかけておいた、それを掘り出して食べたという。子供も含めた収容者に対する念入りないじめが詳しく書かれている。そこまで居丈高な特高が敗戦の日を境に卑屈な態度に豹変したことも。
日本を愛するあまり、戦後の著書でのF.マライーニの記述は、「収容所時代を「」で括って書いている」という。父、フォスコばかりではなくその後作家になったダーチャでさえ、日本での収容所体験を、まだ書けていないという。
ダーチャ・マライーニは20以上の小説はじめ詩篇などを書き、現在イタリアでもっとも多くの外国語にその著作を訳され、度々ノーベル賞候補に挙がる作家だ。ダーチャの作品のテーマ、「牢獄からの解放」は日本での7歳から9歳を過ごした強制収容所時代の体験の影響が強いことは間違いない。ダーチャは、記憶を容易に文章にできず、ずっと先送りにし続けているが、いつか必ず文章にすると書いていた。
http://www.miraisha.co.jp/np/isbn/9784624601188
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