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山の会昔語り・ 2005年10月4日 (火)

山の会昔語りー(2) 
こくわ会から出た駒



                         北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)

昭和39年に小生、日本橋の本社に転勤になったある日の夕方電話がきた。「山ケンだが」という。電話番号は山の会の名簿で見たのだろうから、その時は40年代に入っていたかも知れないが。
電話は「今、銀座の近のレインボーグリルにいる。山の会の古老が集まっているから、出て来ないか」というものだった。
時間は少し早かったけれど銀座は会社のすぐ先なので早速ズッコケて出掛けてみた。行ってみると山口健児、桜井信雄、小平俊平、大和正次、福島建夫、他数人の古老が札幌から来られた渡辺千尚(ダブサン)大先輩を囲んでいた。
話は一寸横道にそれるが、渡辺先輩は幅があったので俗称ダブなのだが、面と向かってはダブとも言えないので「ダブさん」とよんでいたが御本人はルームノートなどには一寸バター臭く「ダブソン」とサインしていたそうである。
このレインボーという店は、昭和15年に「こくわ会」で盛大なパーティーをやった所だという。そもそも「こくわ会」とは、いったい何であろうとケゲンな顔をしていた小生に山ケン先輩が、とうとう語り出したのが以下の話である。
東京在住の会員が初めての会合をもったのは昭和7年、東京駅の待合室だったという。東京の大学山岳部OBは適当な会を作って山に行ったり集会などもやっている。北大のUターン組は東京に母体もないので、この時の人達が主になって以前集まっていたのが「こくわ会」なのだそうだ。
その名は、第3回の折に栃内先生が上京したというので銀座の千疋屋フルーツパーラーに集まった折にこの会にも名前を付けようということになり、栃内先生と面識のあった千疋屋のご主人が「北海道にはコクワというユニークな果物がある」と言ったことから、この会を「こくわ会」と呼ぶことにしたそうである。山の会の初期の会報にはこの名称が登場してくるので、これは事実であろう。
そして冒頭に述べたグリル・レインボーでの昭和15年の会合の折に「もはや北海道のコクワを強調することもあるまい」ということで北大山の会を名乗ることにしたという。
これが支部の始まりであろうが昭和40年頃の会合やスキーの会の通知状は「北大山の会」としていた。東京支部の名称が明確になったのは、山岳部創立50周年記念にカナディアンロッキー登山を東京支部として編成した頃からであろう。当時、会則を見直して会則の第5条に「支部をおくことができる」を確認、対処して「東京支部」の名称が定着したといえよう。
ともあれ支部の発祥ともいうべき「こくわ会」を知る第一世代、すなわち明治の香りの残る先輩は、既に東京にはおられないのではなかろうか。
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