書評・出版・ 2016年7月28日 (木)
暮しの手帖96 特集戦争中の暮しの記録 1968 うちにありました 米山悟(1984入部)
朝のドラマ、とと姉ちゃんの元の話、暮しの手帖を紹介した特集番組をこの前見ていたら、テルマエロマエのヤマザキマリさんが、「この雑誌はどうかしている!」と、賞賛していました。彼女のお母様が全部持っている愛読者で、昔から読んでいたそうです。徹底的な商品テストや、読者目線の編集方針を一貫して貫いた編集部のことを紹介していました。
その番組の中で紹介された異色の96号、「特集・戦争中の暮しの記録」は、戦争が終わって23年経った1968年、公式の記録に残らない庶民から寄せられた話を延々書いた雑誌でした。今日は何を食った、何時から何時まで働いた。あそこは焼けてどうなった。という生の声でいっぱい。今日ではありがちだけど、この目線での手記の募集は当時初めての試みで、絶対売れないと言われたのに、ものすごく早く売りきれたそうです。戦争が終わってから23年間も、誰もこういうことができなかったのでした。以下に編集者、花森安治の序文です。
その番組の中で紹介された異色の96号、「特集・戦争中の暮しの記録」は、戦争が終わって23年経った1968年、公式の記録に残らない庶民から寄せられた話を延々書いた雑誌でした。今日は何を食った、何時から何時まで働いた。あそこは焼けてどうなった。という生の声でいっぱい。今日ではありがちだけど、この目線での手記の募集は当時初めての試みで、絶対売れないと言われたのに、ものすごく早く売りきれたそうです。戦争が終わってから23年間も、誰もこういうことができなかったのでした。以下に編集者、花森安治の序文です。
●この日の後に生まれてくる人に
君は、四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは、六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。
いま、君が手にしている、この一冊は、おそらく、その大部分が、そういう人たちの文章でうずまっているのである。
〜(略)〜
それは、言語に絶する暮らしであった。
〜(略)〜
しかも、こうした思い出は、一片の灰のように、人たちの心の底ふかくに沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも、戦争の記憶というものは、そうなのだ。
〜(略)〜
その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、それについての具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。
その数すくない記録がここにある。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
〜(略)〜
できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者のひとりとしての、切なる願いである。 編集者
この96号はうちにあります。昨年、97歳になる山岳部の先輩今村昌耕氏宅を訪問した時、卓の上にたまたま置いてあって、私が手に取り吸い込まれて読んでいると、やはり同年代のその奥様が、「ご興味がおありならどうぞお持ちください。年寄りにはもう取っておくものなどありませんから」とおっしゃったので、ありがたく頂戴してきたものです。
帰宅してこの編集者の前書きを読んで、「これは引き継ぎを受けたのだ」と思い知りました。
「この雑誌はどうかしている!」と、私もまた驚歎しました。
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/editorsnote/160719
この96号はその後、一介の雑誌ではなく保存版として出版され、いまも読むことができるようです。雑誌というには密度の濃い、しかし読み応え有る記事に満ちています。
君は、四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは、六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。
いま、君が手にしている、この一冊は、おそらく、その大部分が、そういう人たちの文章でうずまっているのである。
〜(略)〜
それは、言語に絶する暮らしであった。
〜(略)〜
しかも、こうした思い出は、一片の灰のように、人たちの心の底ふかくに沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも、戦争の記憶というものは、そうなのだ。
〜(略)〜
その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、それについての具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。
その数すくない記録がここにある。
いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。
〜(略)〜
できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者のひとりとしての、切なる願いである。 編集者
この96号はうちにあります。昨年、97歳になる山岳部の先輩今村昌耕氏宅を訪問した時、卓の上にたまたま置いてあって、私が手に取り吸い込まれて読んでいると、やはり同年代のその奥様が、「ご興味がおありならどうぞお持ちください。年寄りにはもう取っておくものなどありませんから」とおっしゃったので、ありがたく頂戴してきたものです。
帰宅してこの編集者の前書きを読んで、「これは引き継ぎを受けたのだ」と思い知りました。
「この雑誌はどうかしている!」と、私もまた驚歎しました。
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/editorsnote/160719
この96号はその後、一介の雑誌ではなく保存版として出版され、いまも読むことができるようです。雑誌というには密度の濃い、しかし読み応え有る記事に満ちています。
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コメント一覧
米山
投稿日時 2016-7-28 22:47
文章の人となりは、真似できなかったり、影響を受けたりですね。花森さんの文章を読むと、ひらがなと、句読点の使い方が独特です。
書写ではないけど、キーボード写しただけで考えました。
書写ではないけど、キーボード写しただけで考えました。
さわがき
投稿日時 2016-7-28 18:37
『戦争中の暮しの記録」制作秘話』という下記の記事に「決して上手ではないけれど、切実とした文章でした。・・・編集者根性で、間違いがいっぱいある原稿を直したことがあったんです。そしたら、なんか面白くないの、いきいきしないの。だからそのまま活かそうと決まりました。」と書いてあったのに感心したことを思い出しました.https://www.70seeds.jp/kurashi-no-techo/