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部報解説・ 2006年11月20日 (月)

これまでの部報紹介・3号(1931)上/(米山悟1984年入部)

image

部報3号も二部構成とします。時代らしい文章を引用していたら、長くなってしまった。でも大部分の人は読めないので、エッセンスを載せていきます。

部報前半の目玉企画は夏の神威岳登頂記。険悪な中ノ川からの登路をあきらめ、ヌピナイからのアタック。カッコいい神威は南日高の憧れの目標だったようです。山案内人のアイヌ老人、水本文太郎氏との最後の山行でもあります。

次回後半はいよいよ積雪期カムエクの初登頂記からです。


●第零義的登山                  部長 栃内吉彦
●神威嶽                        相川修
●五月の武華・武利・支湧別岳              大和正次
●ニペソツ山よりウペペサンケ山             福島健夫
●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山         徳永正雄
●五月のニペソツ山から松山温泉まで           佐藤友吉
【部報3号(1931年)前遍】

【総評】
1929/10−1931/9の2年分の山行記録と12の紀行など。「記念」として追悼4文。編集長は江(巾者)三郎。価格は1円50銭、300ページ。
ニペソツ周辺や武利岳周辺の記録が多い。ニペソツの幌加音更川と武利のイトンムカ鉱山の森林開発が進み、比較的奥まで入りやすかったようだ。その周辺の原始林との対比が顕著なのがこの時代である。日高では、名峰神威岳の無雪季登頂とカムエクの積雪期初登が看板記録である。ほか、追悼が数件。部員の遭難はまだ先の時代。2号以来たびたび登場するアイヌの水本文太郎老人の追悼もある。明治期の測量山行時代以来の案内人で、おそらく日高のいくつかの山頂の初登頂者だろう。

【時代】
1930~31にかけRCCの加藤文太郎が北アルプスのあちこちで冬期単独初縦走記録を立てている。
1931年、P.バウアー(独)第二次カンチェンジュンガ遠征
アジアでは前年の1928年、満州の軍閥張作霖が関東軍に暗殺され、1931年9月には満州事変が始まるという時代。西洋では1929年10月24日、NYで株価暴落、世界恐慌が始まった。

●第零義的登山      部長 栃内吉彦
一号、二号には無かった部長挨拶。アルピニズムとアカデミズムを山登りの第一義的、第二義的、どちらで登るか?「學が既に其の人の人生の基調となるの域にまで達した學究者にあっては、其の山登りは第一義も第二義をも超越した第零義的にものでなければならぬ」。多少理屈っぽいが学生よ山へ行け、と述べている。

●神威嶽                    相川修
1930年7月、二名+案内人で9日間の記録。この数年来、北大や慶応大の山岳部が中ノ川やヌピナイ川などから山頂を目指していたが登れなかった神威岳。1920年陸地測量部が登った可能性はあったが、それがこの山かどうかは不明だったとある。
たびたび登場している芽室のアイヌ、水本文太郎老人との最後の山行。水本氏自身これまで何度も威を引き返していて、この登頂を後にとてもうれしそうにしていたとある。
ヌピナイ右股からソエマツに上がり、神威ソエマツ間の馬の背藪こぎの途中、中ノ川側に下りたところで前進キャンプ。ここから再び国境尾根の藪をこいで神威をアタックした。このキャンプは30mの崖の上の緩傾斜を無理矢理開いたところ。アタック後、中ノ川を下れればと偵察したが、滝や函で断念し、戻った。当時の技術と常識では中ノ川はまだきつかったのだ。
「一六四六米、之をソエマツ岳と名付けようと思ふ、元浦河のソエマツ澤の名を取って。之をヌピナイ岳とするよりは妥当であらう。」まだソエマツ岳に名が無かった。神威は格好がよい山だから、やはり別格の名があったのだろう。神威山頂には朽ち壊れた三角点があった。

●五月の武華・武利・支湧別岳              大和正次
五月下旬、残雪の大雪山。留辺蘂から森林鉄道に便乗して無加川を行き、イトンムカ川から武華山に登り、スキーをしながら武利に乗越し、その北、1758m峰(ニセイチャロマップ岳)から支湧別岳をアタックし、沢を北へおり、上支湧別、白滝へ下山した5日間。1758mの無名峰や、支湧別岳というマイナーピークを踏んだことを喜んでいる。当時からすでにマイナーピーク愛好派がいたのだ。「此の支脈の端に一人の登山者の訪れる者もなく、ポツツリ取残されて居た此の山は小さいながらも頂上近くにお花畑と岩を持った美しい山である。その暖かい乾いた岩に腰を下ろして、今まで寂しかったであらう山を初めて訪れた喜びに静かにひたりながら、しばしの名残を惜しんだ。」

●ニペソツ山よりウペペサンケ山              福島健夫
1930年八月初旬に一週間。幌加音更(ホロカオトプケ)川の六の沢の左岸にあたるニペソツ南東尾根からニペソツアタック。その後情報の無い五の沢を遡り、ウペペサンケをアタックする(おそらく初登頂)。六の沢から南東尾根は、前年営林署が頂上まで苅分をつけたとあるので意外や人臭いのかとも感じたが、糠平の手前でバスを降りてそこまでは、すべて徒歩でのアプローチだ。
五の沢は未知の沢だ。何が出るか、期待しながら進んでいる。「上の二股に辿りついた時,此は又意外にも沼の様に不気味に蒼く澄んだ水を湛えた処に遭遇した。周囲の鬱蒼と繁った樹々の影をその水面にうつして怪異な印象を与へる。その中にあって呑気そうに魚が群れをなして走り廻っている。此二股を左へ遡ると水は尽き、厚い濃緑色の苔に包まれた岩塊が続く。足をかけるとジュッとそれが浸み出て心地よい。」こんな天然林と、人夫三〇人が泊まる飯場があって山頂まで刈分道のある山が隣り合わせの時代だ。下降は南西面のシーシカリベツ川。伐採林道が奥まで来ていて驚いている。「此の分ではウペペサンケも遠からず楽に登れる様になるだろう」と。

●ニペソツ山―トムラウシ川―トムラウシ山        徳永正雄
1931年8月16日から10日間二人+人夫一名。幌加音更川の六の沢左岸尾根からニペソツへ。その後ヌプントムラウシ川に降りてトムラウシ川を登り再び十勝川水系に降りてシートカチ川から十勝岳を乗っ越す計画だったが、不良品わらじの減りが早かったのであきらめトムラ〜十勝間は山稜を繋いだ。この辺り一帯の原始の香る山谷を巡る紀行。
ヌプントムラウシ川の標高700附近、現在は林道が通っている沼ノ原温泉のあたりにさしかかってのくだり「その『花咲く原を流れる川』といふヌプントムラウシの名は、きつと此処から名付けられたのではなからうか。それにしても何んと適切な、うるわしい名ではあるまいか。いまはただ衰滅の悲運におかれつつある先住原始民族のもつ、甚だ素朴で而かも詩的なトポノミイが、北海道の山々を彷徨ふ登山者のみならず、平地旅行者にまでいかにしばしば深き興趣を感ぜしめたことであらうか。北海道の山の良さ、山登りの良さはまたここにも在るのだ。『アイヌほど美しい地名をつける種族はないやうだ』とは私達も全く同意するところなのだ。」
トムラウシ南面の本流沿いで垣間見た記述「一帯は美しい針葉樹の純林で、ここから眺めたトムラウシ山の、大きな堡壘の如く悠然と倨座する山姿の立派なのには尠からず驚いた。さうして同時に又「トムラウシってこんなにも高い山なのか」とまったく感心して了つた。化雲岳や奥硫黄山の方向から眺めても勿論その特異な山容は立派には違ひない。石狩岳あたりからも実際仲々立派に見える。けれどもそのやうな場所からは到底みられないところの、その山の高さ、奥深さ、端麗さはやく言えばトムラウシといふ山のほんたうの良さは『これだ。』とはつきりいま教へられた。」
トムラウシの美に惚れ込むこの山行、今では林道だらけだが追体験してみたい。ツリガネ山はスマヌプリで、コスマヌプリは小スマヌプリだったのを、この記録で知った。「コ」だけ日本語だ。

●五月のニペソツ山から松山温泉まで               佐藤友吉
5月下旬、5人+人夫1名。ニペソツと石狩の間の未踏の稜線を、残雪期を利用して繋ごうという計画。
ニペソツ北のコルから振り返っての下り、「ニペソツはこの尾根から実に立派に見えた。時々晴れる雲間から射す、幅の広い光の帯があの見事なホルンを照らし出すのである。その左に天狗岳〜略〜私達はストツクを押す腕を休めては、しばしば振り返つて見てその壮大な姿を仰いだ。その姿を見てもマツターホルンは思ひ出せなかつた。見事だなあとも感じなかつた。恐らくは私達の誰もがそんな気持におそわれた事だつたと思ふ。私達は此の時見たニペソツの姿ほどに山の威圧を感じたことはなかつた。長く目を向けて居る事が出来ない程、私達はニペソツに押しつけられて、小さくなつて居た。山はどこが大きいのであろうか、何処に偉大さを有つて居るのであらうか。」
天気に恵まれず、石狩岳には向かわず沼の原、五色が原の大平原へと濃霧の中磁石を頼りにかろうじて抜ける。「丁度その尾根の中の瘤を通過したと思ふ所で岩でもない怪しげな物に出曾つて仕舞つた。濃霧をすかして見てると動く様でもあり、動かぬ様でもある。熊にしてはあまり動かぬ。而し距離が非常に近いので、ありと凡ゆる音のする物を取り出してオーケストラを始めた。果たして反応があり、こつちに移動する気配がある。矢張り熊だつた。」クマに道を譲ったおかげで、せっかく濃霧の中正確に切ってきた方角を見失ってしまった、とあっておもしろい。
忠別川の渡渉点では橋が流されていて、2時間もかけて木を切り倒し丸木橋をかけた。松山温泉とは現在天人峡温泉と言われている所。改名は1937年。

以下、次回

● 三月のカムイエクウチカウシ山とその附近       徳永正雄
●ニセイカウシュペ山(茅刈別川から)と屏風岳     江(巾者)三郎
●屏風岳−武利岳―石狩岳                徳永正雄
●沼ノ原山・石狩岳・音更山・ユニ石狩岳・三國山     中野征紀
●山の拡りと人間化(特に北海道の山岳に就いて)     伊藤秀五郎
●山岳部冬季スキー合宿おぼえ書き            江(巾者)三郎
● 記念
・野中保次郎君                    須藤宣之助
・中村邦之助君                    井田清
・水本文太郎爺さんの追憶               高橋喜久司
・同                         井田清

年報 1929/10−1931/9

写真10点、スケッチ3点、地図1点

部報3号(1931)後編に続く】
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佐々木惠彦   投稿日時 2017-1-29 17:43
佐藤友吉の記録文読ませていただきました。佐藤友吉は私の父でして、養子として、私の家(佐々木)に入り、母と結婚しました。私の子供のころ、家の応接間にある本棚に北大山岳部の部報があったのを覚えています。父が亡くなった後、母は部報を北大の山岳部に寄付したのをおぼえています。父の指導教官は同じ山岳部出の舘脇操先生で、先生は東京に出張されると、良く私の家においでになっていました。福島健夫さんは日赤の部長先生でした。私の家で良く宴会をしていたのをおぼえています。私は東大に入りましたが、私が山岳部に入るのは父は許してくれませんでした。この記事は私の娘が送ってきたものです。家にも、コピーがあったのではと探しましたが、みつかりません。おかげさまで、家族一同で、家の歴史を見る事が出来ました。
佐々木惠彦(ささき さとひこ)


 
 
 
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