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山の会昔語り・ 2006年6月26日 (月)

山の会昔語りー(10)
日高を乗越して札幌まで?

                         北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
 昭和二十五年、冬の日高は雪が来るのが遅かった。小生は始めての冬山、先輩のSさんをリーダに同輩のK.H.君との三人パーティーで野塚岳の厳冬期初登頂を目指すものだった。リーダーのSさんの通称はKさんと付け加えておこう。
この年、十二月中旬の十勝平野には雪らしい雪は降らなかったらしく、出発準備をしていた我々に、大樹の村で開墾し、農業を営んでいる坂本直行大先輩から電報が入って、「ヒトフリマテ」とのこと。出発は一月十六日となった。
 野塚駅から歩き始めて凍結不良の野塚川を遡行し、空いた炭焼き窯の中で寝てテントの凍結で荷が重くなるのを避けたりした。二日目も川幅はまだ広かったが、全面凍結のスノーブリッジもあった。不注意にも小生はこれを踏み抜きルックを背負ったままスッポリ、川に落ち込んでしまった。頭上は氷の天井。しかし、幸い水は減水していたので踝まで位。もう少し多ければ流されて上には出られず、登山は勿論、人生も終わっていただろう。
 坂本大先輩の
「ヒトフリマテ」
のサジェスチョンには感謝のしようもない、どころの話ではない。
 さて、沢の遡行三日、そして尾根に前進キャンプを設営する計画なので、尾根用の食料は餅。これは搗きたての餅二合二酌分を二枚になるように切ってすぐ凍らせたものを持つ。コッヘルに固形醤油で味付けした湯を作り、凍ったホーレン草を折って入れてから、一人分、二枚の餅を入れ、湧き上がったら火を止めて直ぐに食べる。湯気がこもると、布製のテントは凍結して撤収が大変になる。食後凍ったミカン一個を皮のまま齧ればビタミンもOK。しかし、燃料はガソリン、テントは沢用も尾根用も帆布製のために荷は相当の大きさになる。黙々とラッセルしていると遠くでアマッポーの音が響いた。昨日歩き始めたとき、炭窯の番人が言っていた仕掛銃である。獣道に張った細い糸の先を猟銃の引き金に結んでおいて、獣が来るのを待つ、あれである。当時はもう禁止になっていたようだが、そんなことおかまいなしに昨日注意してくれたのだった。
「気を付けて歩きな、もし、テンがかかってたら持ってっていいよ。札幌へ行けば8,000円になるよといっていた」
 今にすれば二、三十万円である。おおらかなものだなあと思っていると後ろからアイヌの人が追いついて来て
「何処へいくのか」という
 リーダーが
「野塚岳に登るんです」と答えると
「それからどうする」と重ねて聞くので
「札幌へ帰る」と答えると、そのアイヌの人は、訝しげな形相で
「シュンベツ川はいいが、サル川は未だ凍ってないなー」
といって、手に船の櫂のような物を一本もち、腰には弁当箱の包みを一つ付けただけで先へ消えていった。
 我々は無言でスキーを前へ進めていたが、暫くして突然リーダーのSさんが言った。
「あー、あのアイヌの人は、我々は歩いて札幌まで行くと思ったんだ。それで沙流川の徒渉を心配してたんだ」と
 登頂は成功で、五日後には楽古川を下って野塚に戻り車中の人となった。
登山というのを知らない現地の人なら、こんな大きな荷を背負っていれば、山伝いに歩いて札幌迄行くに決まってると思ったのも当然だったろう。
 なお、同輩のK.H.君はこの冬山の後、だんだんカスんでいって現在の名簿には残念ながらその名はない。
  • コメント (2)

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平田   投稿日時 2006-7-3 13:50
米山君へ
木村さんのコメントを代行入力します。
「固形醤油については、旧陸軍が使用していたもので当時は未だ市場に出ていました。粗雑な食塩に焦げた蛋白質を混合したような物で瓶に入っていました。携帯に便利なので山ではひろく使用していた物です。戦後五年、発展途上のまだ混乱の時代でした。
その後にも未だ面白い話があります。昭和40年頃のパタゴニアではダーウィン峰に向かう隊に『シンプトンルートだな』と言ったら、事もあろうに少し離れて座っていたのがエリックシンプトンだったとか。小生もその頃ルクラからナムチェバザールへの途上で偶然ヒラリー卿と遭遇して談笑したりという時代もありました。」
米山   投稿日時 2006-6-26 21:44
昭和25年にもまだそんなにアイヌの中のアイヌらしい人と山の中であえたとは。坂本直行氏の本に出てくる広尾又吉さんのような話です。

今や野塚岳の下には国道が貫通して、冬でも日帰り出来るルートになってしまっています。初めての冬山(1年目の冬メイン)で日高の冬期初登頂を踏める時代というのもうらやましい限り。
固形醤油というのはもしや自家製ですか?
 
 
 
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