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部報解説・ 2006年10月16日 (月)

これまでの部報紹介・2号(1929)上 /(米山悟1984年入部)

image

昔の部報紹介の不定期連載です。さらっと読んで短評のつもりだったのですが、やはりとてもおもしろいのでさらっとは読めませんでした。地形図片手に80年前の記録を読むのはとてもおもしろいです。2号は記録も多いので、今回と次回、2度に渡って紹介します。

北大山岳部部報2号(1929年)

【総評】
1928.4-1929.8の1年5ヶ月分の山行記録と16の紀行、研究小文。編集長は須藤宣之助。価格は2円、334ページ。戦前の部報では最も厚い一冊である。1号発行からわずか1年半でこれだけの記録集。当時の山岳部創生期の熱気がムンムンしている。
【時代】
1928年山東で日中軍衝突。張作霖を関東軍が暗殺
1929年P.バウアー(独)第一次カンチェンジュンガ遠征
北海道駒ヶ岳大噴火

●知床半島の山 原忠平

部報1号には無かった知床特集である。過去数度の知床山行記録に基づく夏期登路案内。積雪期記録はこれまでに無いとのこと。宇登呂、羅臼に港は有るが陸路が無かったそうで、網走か根室から発動汽船を手配してアプローチするとのこと。「人夫はウトロにて雇うのが最も適している様に考えられる」ほとんど海外遠征だ。

・1928年7月、三日間でテッパンベツ川から知床岳往復の記録。
・同年同月、6日間でカムイワッカ漁場から硫黄山、羅臼岳縦走。途中、グブラー氏(スイス人教授。ヘルベチアヒュッテの設計者)と出会う一幕あり。羅臼平のコルで雨天停滞中、グブラー博士とドイツ語で冗談を交わすあたりが当時の大学生である。
・ テッパンベツ川河口で2週間、山にも登らず番屋暮らしをする記録。番屋でおむすびを握ってもらいルシャ乗越をして根室側に出、海中に湧くセセキの湯を引き潮のタイミングで入る。漁師の手伝いをして鱒採りなどして過ごす。

● 幌尻岳スキー登山 須藤宣之助

1号の目玉が冬期石狩岳初登記録なら、2号はこの記録である。石狩岳で中央高地の冬期登山に区切りをつけ、いよいよ冬の日高にねらいを定め始めた。

1929年1月。5人と人夫2人でほぼ10日間。登路はトッタベツ川を遡行しトッタベツ岳から直接降りる尾根をたどって、稜線をアタックと言うもの。石狩岳同様、秋のうちに小屋を建てている。ルートはもちろん行ってみなければわからない時代だ。B.C.の小屋からアタックの朝、伊藤秀五郎氏はスノーブリッジが崩れ沢に落ち、足を濡らしたのでリタイアしている。当時の装備では足も濡れやすかっただろう。南に見える「1900米の山」に目を惹かれている。エサオマンだ。積雪期日高の記録は、まだ1号のピパイロ岳とこの幌尻岳だけである。

● 美生岳・戸蔦別岳及幌尻嶽 星光一

1929夏、ピパイロ川から主稜線にあがりカムエクまでの計画だったが、天候悪く日数切れで戸蔦別川へ降りた。10日の山行。

● 日高山脈より新冠川を下る 坂本正幸

1928年7月ピパイロ川から1940を越えてトッタベツ岳、幌尻岳、未知のルート、プイラル沢へ降りて新冠川を下る。アイヌの水本新吉氏を人夫に一行4人。水本氏は遠くのクマをすぐに見つけるいい目をしている。現在はダムの底に沈んでいる中流域の様子が面白い。付録の地図にもリビラ山東面のシウレルカシュペ沢の下流に長いゴルジュが描いてある。日高側の里に下りると白い髭のアイヌの渡し守がいる渡船場がある。11日間の旅。

● トッタベツ川を入りカムイエクウチカウシ山を登る 山縣浩

1928年7月ピリカペタン沢から札内岳を越え、札内川8の沢からカムエク往復。一行の人夫はアイヌ老人水本文太郎氏。13の頃から日高の測量を案内し、56歳。著者山縣は老人の年季のいった風格と技能に、尊敬の情を隠さない。カムエクの8の沢は日帰りが出来る、北西面沢(シュンベツ川カムエク沢)は非常に困難な沢である、と語る。よく歩きこんで、何でも知っている。札内川下山も今はピョウタンの滝でヒッチするところだが、この先岩内川を越え、トッタベツ川の橋も越え、上清川の駅(当時あった十勝鉄道)まで20キロ歩いている。

● 静内川よりカムイエクウチカウシ山 福西幸次郎

1929年7月、16日間、3人+人夫1人

現在は高見ダムに沈んでしまっているメナシベツ川中流部の函函函を、泣き言を交えながら進んでいく。本人たちも現在地を把握できておらず、記録としてはどこの事を書いているのか判然としない部分もあるが、未知の長い沢を何日も恐れ喜びながら進んでいく彼らの様子がよく分かる。「ステップも切らずに急な斜面がへづれるなんて全く熊に御礼をいわなければならない」とあるほどクマだらけ。遡行10日後に国境に上がってみるとサッシビチャリのつもりがコイボク沢を23の北側に上がっていた。その後カムエクを登って札内へ降りた。札内川という歩きやすい川があるのに何もこの開拓期に苦労して日高側の静内川など登る物では無いと書いてあるのがおかしい。立派な静内川初期遡行記録である。

● 日高山脈中ノ川地形について 大立目謙一郎

林道のない時代に、河岸段丘のある下流から入山。中ノ川を登って神威岳を目指すが、函に苦労して天気も悪く敗退している。これまで戸蔦別川や美生川など、楽な沢の時代だったが、中部日高の沢に目を向け始めた頃の記録。「地形について」とは、敗退しているので、山行記録と書いていない様だ。「丁度川が西南に廻る所、984.3の三角点の下の辺で函に出会ふ。之こそ物凄い。水がめのようだ。中は真暗で急角度で折れ曲がる。両岸は跳べば越せる程せまく、とても、ぢき下からなど上る事は出来ない。」今では林道終点から数時間でこの函だが、下流部、中流部を何日もかけてここまで来ての敗退である。

● 日高山脈単独行 伊藤秀五郎

当時案内人を伴わずに日高にはいるのは珍しかったので、単独行としての日高沢旅の始めではないだろうか。単独行についての心持ちを大いに語っている。行程は8月27日〜9月9日
千呂露川から北戸蔦別岳に登り、戸蔦別川を下る(予定では新冠川、イドンナップ、シュンベツ川を考えていた)。そして一度帯広にでて、広尾まで乗り合い自動車(バスのことか?)、札楽古右股から楽古岳、パンケ川を下る。

油紙で小屋がけをするのがおもしろい。ビニールかブルーシートのような感じなのだろう。帯広から広尾への乗り合いバスで見る風景「それは、未だ嘗て斧鉞の加へられたことの無かった強大な柏の原生林だ。小高い丘陵地帯を概そ数里の間、人間の手からとり残されている広大な森林世界だ。私はこんな雄大な景観は多く知らない」。坂本直行の絵にこんな風景があった。この時代、山の記録以上に、麓の話が興味深い。

● 石狩川を遡りて音更川を下る 河合克己

瓔珞磨く石狩の源遠く問い来れば原始の森は暗くして雪解の泉玉と涌く(大正9年桜星会歌)

の歌詞そのまんま。層雲峡の大函を、胸まで浸って通過して、これまで遡行した誰もが口をそろえて美しいと称えた石狩川本流をまる三日かけて大石狩沢から登頂。稜線づたいにニペソツまで行く予定だったが、ブッシュのすごさに作戦を変えて音更川に降りる。途中大滝で行き止まり、尾根を藪こぎでまたぐ途中で暗くなり、横にもなれないところで朝を待つ。鉈でケガしたのでニぺはやめて音更川を下る。音更川は、十勝三股はもちろん、ニペソツ東面の幌加音更川の出会いあたりまでが原始林だ。南クマネシリからの13ノ沢出会いから1里続く一枚岩の岩盤が「音更川で最も美しいところ」とある。幌加音更川の林道は、昨年来たときにはまだ原始の森だったのが、わずか一年でニペソツのすぐ近くまで林道を延ばしたとある。このころの開発の進み具合がわかる。下山して最初の宿が「ユウンナイ温泉」今の糠平ダムの湖底と思われる。7月だというのに、「今年初めての客だ」といわれたというのがおかしい。

石狩川の焚火の傍らでの記述。「夕食後の雑談も長くは続かない。焚火を見つめて黙り込んでしまふ。何を考えて居るのか、それは誰にもわからない。自分にもわからないんだ。時々パイプから吐出される煙の様なものを考えて居るのかもしれない。此の時間が最も楽しい時だ。都会に住む自分等は山の中でなければ自分一人になれないのだ。」

以下、次回で紹介します。

● 十勝岳―十勝川―ニペソツ山 山縣浩
● 石狩岳とニペソツ山を中心に 伊藤秀五郎
● ニペソツ山 徳永芳雄
● 五月の芦別夕張連峰 山口健児
● 三月の利尻岳 井田清
● 国後島遊記 島村光太郎
● アレウシアンの旅 高橋喜久司
● 日高山脈アイヌ語考 山口健児
● 山に就いて(詩) 伊藤秀五郎

年報 1928/4−1929/8

写真12点、スケッチ5点、地図3点

部報2号(1929)後編に続く】
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