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山の会昔語り・ 2006年10月21日 (土)

山の会裏ばなしー(15) 金井さんの店でラムネ十本
金井さんの店でラムネ十本

           北大山の会東京支部 木村俊郎(1950入部)
昭和二十六年度の冬山は、部の総力を挙げて行う十勝岳から大雪山への縦走が計画された。冬山合宿で十勝岳の泥流スロープの猛烈な風雪は既に充分体験されていたが、美瑛岳に向かう這松の枝すら一本も見当たらない吹きさらしの尾根を黒岳まで進むことになる。長期間の尾根上の行動に耐える装備が必要だった。山岳部二十数年の歴史とともに研究され使用された製品も既に疲れ果て、大幅な改良や補強が必要で、そのうえ
数も不足していた。この装備の制作に尽力してくれたのが、現在の秀岳荘の創立者で先代の社長だった金井五郎さんである。

当時金井さんは進駐軍や市役所の縫製の仕事をしておられたのだがこの冬山の前年、恵迪寮に仕事の拡張に来られ山岳部員からオーバーグローブの修理などを頼まれて登山用具に興味をもたれたようだった。こんな時に丁度この冬山が計画されていた。仕事熱心で仕事は確実なことは万人が認めるようになっていたので、この冬山の装備は金井五郎さんにお願いすることに異議はなかった。少ない予算にもかかわらず、それを快諾してくれた。

真面目な記録は部報八号「冬の十勝岳大雪山縦走」の、装備について、の項に詳細を記してある。この縦走は好天に恵まれて二十日間で成功したが、金井さんの、山道具への熱の入れ方はますます激しくなっていった。

店は北十三条西四丁目あたりにあったためルームからぶらりと歩いて行けたので部員はその後もよく出入りしていた。ある時スキーの名手だったP先輩が金井さんの店から帰ってきた。

「やー、参った。ラムネ十本買ってきて、飲め飲めとすすめてくれた。だけど、ラムネ十本も飲めないよなー」

とラムネとは三口も飲み下すと鼻にツーンときた、あれである。当時は未だ家でコーヒーを飲んだり店先でオレンジジュースなど出せる時代ではなかった。ラムネでさえ大サービスだったのだろうが一人に十本というのも・・・・・

金井さんは、このように気さくな人だったので部員の出入りも多かったようだ。そのうち縫製だけではなく商品も置くようになったらしく、「秀岳荘」と呼び、部員の出入りは益々多くなっていったようだった。そして掛け売りにまで応じてくれたらしい。八年ほど後輩のS君によると、当時山岳部には「秀岳荘の借金取立担当」なるものを置いたと言う。したがって、この掛け売りの話もまんざらではあるまい。最近出た「山の仲間と五十年」という秀岳荘発行の本の中に「黒字倒産の危機。原因は掛け売り」というのがあった。一本十円のラムネの接待から掛け売りまで。この間には、その他にまだまだ金井さんのお世話になった人も居る事だろう。
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