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部報解説・ 2007年2月14日 (水)

これまでの部報紹介・部報5号(1935年)前半/(米山悟1984年入部)

image

積雪期の札内川からのアタック山行、夏のペテガリ周辺渓谷探査の当時最先端の記録。ヒマラヤを見据えた極地法研究が、他大学山岳部では始まっている頃。石狩岳でやってみようかなどとも書いてあるが、全体には北大は今と変わらぬ、少人数軽量長旅アタック山行が主流である。


部報5号(1935年)前半分
●一月の石狩連峰    徳永正雄
● 吹上温泉よりトムラウシ山  石橋正夫
● 一月の札内川上流   照井孝太郎
● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克
● ペテガリ岳      石橋恭一郎
● 三月の千呂露岳    奥田五郎
● ペンケヌシ岳     西村 正
【総評】
1933/10-1935/10の2年分の山行記録と13の紀行など。北千島幌筵(パラムシル)島の後鏃(しりやじり)岳からの千倉岳連峰パノラマ写真などを含む。編集長は照井孝太郎。価格は1円80銭、316ページ。石狩岳への新ルート(現、石北峠)から初の極地法登山、一月、三月の札内川からヤオロ、39、カムエクなどのアタックを狙う野心的山行、ペテガリ、ナメワッカなど日高深部への夏の挑戦、北千島や樺太の山域記事も久しぶりである。

【時代】
1934年東北地方大凶作、函館大火。毛沢東軍「長征」開始。ドイツ、メルクル隊の第二次ナンガパルバット遠征10人遭難で失敗。12月今西錦司ら京大AACK朝鮮白頭山冬季初登遠征。1935年、イギリス、シプトン隊の第五次エベレスト遠征。

●一月の石狩連峰 徳永正雄

1933年12月28日〜1月9日、10人を3班に分け、前進キャンプを設けて進む極地法を実践した。また、石狩岳冬季の登路として、石狩川側、音更川側に次ぐ第三の選択肢、イトンムカ川から峠越えで石狩川源流に入ってアタックする手を発案した。当時石狩川は層雲峡の大函の通過がポイント、音更川は本流の水量が多く、中流部の通過が難しいとされた。イトンムカ川からの峠とは、現在国道39号の走る石北峠の事だ。

「『なるべく多數の人員を伴つて、相當な山へ登り得べき計畫』にして、しかも所謂ポーラーメソッドといふやうな形をとつてみるのも面白からうといふ提案に對して撰んだのがこの石狩連峰であつた。」1931年京大の富士山の極地法登山に刺激を受けている。京大は翌冬、白頭山の遠征に成功している。

今は無き留辺蘂発造材事務所行き森林鉄道の様子がよい。九里の行程は「座席は勿論板張りで我々十人で超滿員である。六時半發車、この愛すべき小型の汽車の燃料は薪でスピードは案外出る。車の中で會話が出來兼ねる程えらく噪音をたてゝ搖れるが、これが卻つて我々を寒さから防いでくれるのであつて、停車すると急に寒さが全身に襲ふてくる。」

音更山の北面沢を登り、ユニ石狩岳、音更山、石狩岳の三山をアタックして成功している。


● 吹上温泉よりトムラウシ山 石橋正夫

吹上温泉での合宿後、美瑛岳の樹林帯中腹を捲き、美瑛川源流からトムラをアタックして硫黄沼の尾根を超えて俵真布へ下山の計画。
「この平らな廣い平原の上は風一つ吹かない。すべてがじつと靜止してゐる。クラストの雪を踏み散らし、いくら急いでも、いくら着こんでも寒い。一寸でも休むものなら體が冷え切つてしまひさうだ。〜〜眞冬の山頂で私達は一時間も休んで居た。チカゝ目を射る高原の上を、今朝は全く考へも付かなかつた氣持でてんでに考へ込んで歩いて居た。〜〜元旦の夕陽が夕張山脈を越して、十勝嶽を燒き、オプタテシケを燒き、私達まで燒いた。太陽がすつかり沈んで終ふと、三人とも滑降レースの樣に一せゐに、滑り出した。いゝ斜面と、いゝ雪とで惠まれたタンネの疎林の尾根を、一とほしに縫ひ、數分間でテントの前まで滑り降つた。」

● 一月の札内川上流 照井孝太郎

1933年12月29日〜1月13日、小屋掛けして16日間の山行。若手OBの坂本直行氏発案、現役、といっても医学部で6年目勘定(相川、照井)二名との1月札内川山行。コイカクから39アタック(引き返し)と、カムエク、1900、1840などのアタックをしている。部報4号に3月の記録があるが、1月は初めて。雪が少なく本流の渡渉が未知だった当時、計画が難しかったが、麓で働く坂本氏が案を練って山行を開始した。当時コイカク沢はコイボクサツナイ川と呼ばれていた。標高950まで沢の中を進み、ここでシーデポして尾根に上がるというスタイル。雪崩にたいする姿勢は今と違う。

コイカクの二股で3停滞の後、39アタック。快晴の稜線では例によってバリズボに消耗し、猛烈な風の中、ヤオロマップまでで引き返す。「直ぐ西に私達の目指した一八三九米峰は黄金色に輝く海を背に秀麗な弧峰を聳え立たせ、鋭い雪の稜線と精緻な山襞は愈々私達の登高慾を煽り立てた。峰頂に向つて測らざる事故のためとは云へ虚しく敗退しなければならなかつた友の心情がまざまざと憶ゐ出される。七年前此の頂を極はめんとして果し得ず今亦その頂を踏む事が出來ぬ相川は喰入る樣に見入つて居る。」雪の39峰、今回もまた未踏のままだ。

股までのゴム長まで使って渡渉しながら十五貫しょって本流を八の沢出会い下の小屋掛けまで移動、8の沢左岸尾根頭の1900m峰(現1903m)をアタックする。早朝「八の澤合流に着いた時黝い谿の間に仰がれる一八四〇米峰の山容にしばし足を止めた。その端麗な頂は紅に染抜かれ頂の光冠は炎々と燃えた。」一八四〇米峰とは1853mの「ピラミッド」のようだ。合流右手の尾根を登って藪と少ない雪に苦労して1900m峰を登頂する。「僅かに国境線より離れて居ると云う理由のために今日迄、何人にも踏まれずに取残されて居た此の一九〇〇米峰より足下に急に落ち込んだ左右の深い広々とした圏谷底に目を落とすと、渺茫たる山並に接した時とは異なった不思議な感興が湧いて来る。暮色は既に圏谷に這寄り圏谷底の雪水をあつめて落ちる瀧の音が幽かに聞こえて来る。黄昏の嶺に佇む喜悦はささやかではあつたが初登頂の悦びとあの苦闘の後の勝利感にも似た感情とで幾倍にもされた。」カムエクは時間切れ。

小屋は夏の間に直行らが骨組みを組んでおいたもの。タンネの葉で屋根や壁を葺くのに、内側に建築紙を張っておくと、焚き火をしても滴が落ちなくて良い。建築紙とは油紙の一種だろうか?楽しそうな小屋作りの一日がある。大鋸を持ち込んでタンネをめきめきぶっ倒し、四.五日分の薪を小屋の前に積み上げた。

カムエクの再度アタックは日を改めて沢を詰め、北のコルへの沢は滝が露出しているようなので、カールに達するルートをとる。カムエクの山頂でとっておきの羊羹を食べて、八の沢カールを滑って降る。「頂を極めた私達には大きな愉悦が殘されて居た。それはデポーより澤への滑降であつた。廣々とした圈谷壁の急斜面を思ひゝに處女雪をねらつて大きく弧を描いて滑り出す。鋭い囘轉毎に濛々たる雪煙を上げて、吸込まれる樣に圈谷底へと息つく間もなく豪快な滑降を續けた。登行二時間を要した所を僅々二十分を要したに過ぎなかつた。」

その後エサオマンを目指したがラッセルで時間が足りず、9の沢源頭の1853m峰(現・1855m峰)と1900m峰(現・1917m峰)のアタックに変えたが、滝壺付きの函を負けず、敗退。翌日も悪天なので小屋暮らしを満喫して下山した。

● 三月の一八三九米峰とカムイエクウチカウシ山 伊藤紀克

前の記録の二ヶ月後、同じく札内川から39とカムエクを登る。3月23日からまで。積雪期39峰初登頂。伊藤紀克、豊田春満、西村正+新人アイヌ人夫中田仁三郎。

コイボクサツナイ川(現・コイカクシュサツナイ川)の中を進み、沢山のデブリを発見しながら、アタックキャンプを沢の中に設ける。このころはまだこういう判断基準だった。記述は沢の中、函が巻けるか、渡れるかが最大の関心事だ。沢を詰め、1400附近から右の支尾根に取り付いて、稜線に出る。コイボクに13:40、ヤオロマップに15:15分。「當然引返さなければならない時刻である。三人とも暫くは一八三九米峰を望んで無言であつたが、誰しも時間の遲い事を氣にして居たのである。叉一方では天氣は急には惡くなりさうも無い事、氣温は割合高い事、それにコイボクサツナイ岳からの距離に較べると、此處からの一八三九米峰は、ほんの目と鼻の先である事等を考へて居たのであらふ。誰云ふと無く「行かふ」と云ふ聲に皆簡單に應じて三時二十分此の頂を後にして、今度の山行の大きな目的の一つであり、叉今日迄誰も其の雪の頂を踏んだ事の無い一八三九米峰に向つてヤオロマツプ岳の腹を急ぎ下つて行つた。」「処女峰アンナプルナ」のラシュナルとエルゾークの会話のようだ。

39峰に17:40分登頂、キャンプ帰着は夜中の24:00。深いラッセルだったが、気温高く風も静かなので、積年の課題、三九峰をアタックした。帰りは雪明かり。シーデポからの下りは暗くて滑れずスキーを引っ張って降りたため、時間も余計にかかった。

この山行、はじめはペテガリへの予定もあり、1599に天場を進めるつもりもあったが、やはりヤオロマップ以南の稜線は夏の状態を見てからと、思い直している。コイカク出会いまで人夫が運んでおいてくれた食料などを持って、八の沢出会いの前回の小屋に移動。その後はイドンナップを目指して10の沢から国境稜線まで上がったりするが結局8の沢からカムエクを登る。最後はカールの壁を右寄りにほぼ山頂に直登。カールボーデンからの下りは「一度滑り出すと久方振りのスキーの面白さに魅せられた如く、思い思いの方向に物凄く、すつとばして行く。未だ澤に入りきらない山腹の滑降では大斜面を余す所なく荒し回る如く、右を行く者と左を行く者との間隔は一町以上も開いてしまふかと思ふと、叉忽ち近寄って来る。眞に豪壮な滑降である。」8の沢のスキーがこんなに快調とは。今は誰もやらないだろう。

その後は悪天が治まらず、気温も上がり、下りの雪橋が心配になってきたので、まだ日数はあるし登り足りないが雨の中下山することにする。

● ペテガリ岳 石橋恭一郎

この時代に日高に残った未踏の地域、ヤオロマップから神威岳までの稜線と、その東西に流れる谷。この時点での最先端の探査をまとめた小文。いよいよ憧れのペテガリ岳を照準に合わせている。

1932年夏、慶応山岳部が日高側から全くの尾根伝いで初登頂。
1934年夏、北大山岳部がコイボクサツナイ川(コイカクシュサツナイ沢のこと)から、中ノ川から、日方川(歴舟川のこと)から3パーティーが登頂した。
1935年夏は、ポンヤオロマップ川遡行で目指したが、悪天で敗退。
しかし、どれも沢を最後まで詰めたのではなく、まだまだ幾多の魅力ルートがある、として研究している。サッシビチャリ川とペテガリ川は全く手つかず。人家からの距離が相当長そうで、中流部の函の通過が鍵となるとしている。

・ 日方川パーティーは、キムクシュベツ川の核心あたりで増水に合い、左岸の尾根に上がってのっこし、ヤオロマップ川一本北の、1599南東面の沢に降り、そこから1599南の国境に上がってそこから藪をこいでルベツネを超えてペテガリに達した。
・ 1934年夏中ノ川からの記録は上二股の間の「下降尾根」を登っている。そのときの記録が後半に詳しく載っている。以下にその紹介。

三股の上の核心の函は、捲きルート取りに苦労したが熊の足跡を発見してこれを追い途中ザイルを出して切り抜ける。上二股までの函の状況を詳しく記述している。そして二股。「左にするか右にするか、暫時私達は行路を求めた。左するも枝澤は凡て瀧の連續で到底利用し得べくもなく、叉右するも、るつぼの底の如き澤の相貌に、遂に決心して國境線まで六百米を登らざるを得なくなつた。草鞋と足袋を鞜に穿き變へ、これからの尾根歩きにと、水も充分水枕に詰めて、ブッシュを漕ぎ始めた。」このヤブ漕ぎ中にペテガリから降りてきた中野、相川と出会う。情報交換して別れる。

山頂にて「其處からお花畠を傳つて、頂上直下の偃松を少し分け、ペテガリの頂を踏んだのが一時間後であつた。頂の歡喜、幾日振りかの苦鬪の後の、而も此の快晴の日の頂、私達は唯々滿足と幸福とに溶け込んで行つた。不圖北の尾根を見ると、熊が一頭、お花畠で盛に何かを求めてゐる、その姿は實に山の親爺にふさはしい。「おーい」と呼ぶと「おや」と云つた顏つきで、後脚で立ち上がり、こちらを不思議さうに眺めてゐる。多分此の熊も人を見るのが初めてなのだらう。」

このあとカールで泊まって1599への稜線をヤブこぎで進み、ヤオロ、コイカク経由で下山する。「山に入る時の林道は頂への憧れの道であり、山を出る時の林道は里への憧れの道である。」

慶応大が延々と尾根からペテガリに登ったのに対し、北大山岳部は、少人数のパーティーで思い思いに三つの沢ルートから攻めている。本当は沢を最後まで完登したいのだが、当時はザイルを積極的に使うほどの沢登りセンスでは無かった。その時代最先端の必要最小エネルギーで、秘境のペテガリ山頂へ達している。

● 三月の千呂露岳 奥田五郎
1934年3月、奥田と初見による積雪期の初登頂記録。ピパイロ川八の沢二股からルベシベ分岐東尾根経由で、ルベシベとチロロのロングアタック。チロロはパンケヌーシ川の奥にあり、稜線からも離れているので、未踏のまま残っていた。計画ではピパイロ、芽室岳などもアタックざんまいの予定だったが、悪天で行けず。冬のピパイロ川の可能性について大いに考察している。

● ペンケヌシ岳 西村正
1935年9月、福地、有馬洋、西村と、千島から帰ったばかりの岡の4人。「僕達は今、その内懷に飛び込まうとしてゐるんだ。日高の北の端、地圖には名もなく今迄殆ど顧られてもゐなかつたペンケヌシ岳、何の考へがあつて目指す譯でもない。たゞ美しい山と聞いてゐたのと誰も登つてゐない山といふ漠然としたものとが、強ひて言ふならばあつたかも知れないが、然しそんな事はどうでもいゝんだ。僕達はそんな事よりか晴れた日高の山脈を享樂しやうと出て來たのだから。」元祖マイナーピーク山行だ。ルートは芽室川から国境を越えてパンケヌーシ川に降り、南東面沢(六ノ沢)からアタック。後パンケヌーシ川を下り、沙流川へ降りている。当時沙流川流域は未開で、日勝峠も不便。入山は十勝側からの国境越えが一番良かったということだろう。地図には「辨華主岳」と書いてある。

西村氏の愉快な文には、食べ物の記述が実に多い。「有馬の忍ばせてきた玉子はオムレツとしてみんなを喜ばした。食後のレモンテーまたよし。」「天幕の中では無駄骨折つた慰勞コンパとして有馬、福地はコンビーフキヤベジを料理に餘念がない。」「フランス料理と稱しフランスパンと紅茶で朝食を濟まして出發」「釣つた許りの岩魚は或いは燒かれ或いは玉葱と共にバターでいためられ腹を滿たした。茄子の味噌汁も惡くはない。」「初めて食べた生の卵巣も所謂『乙な味で鹽氣がある。ナトリウムを含んでゐる故であらふ。』それよりも食後澁い緑茶を飮みつゝ燒いたトーキビの味は斷然札幌の秋を想はしめて傑作であつた。」「五日の夜はカレーライスであつたが今日はライスカレー、物凄く辛かつた。」

パンケヌーシの源流はカール状地形で、稜線に上がると「廣い尾根は一面のお花畑。彈力のある低い偃松。限りなき喜悦を胸に一歩々々ゆつくり歩いた。ナーゲルの底を通して柔らかい感觸が五體を驅けめぐる。さうだ、かふいふ山を長い間望んでゐたんだ。頂上、ベルクハイル、一人で呟いたがみんなは默つて居た。よく晴れてゐる。北日高は勿論の事、中央高地の山、夕張の山、遠く羊蹄、惠庭、余市、札幌岳まで見えるのだ。今、日高に居るのは僕達だけだと思へば「ワーツ」と聲一つぱいに叫んでみたくなつた。札幌の方から「うるさい!」叱る誰かの聲が聞える。すると石狩の頂上からチョコレートを頬張つた林や湯川が「ワーイッ」と叫ぶんぢやなからうか。〜〜バロメーターは正確に一七五〇米を示してゐた。ケルンを積んで最初の名刺を入れた罐を埋める。」これが初登頂時代のしきたりだ。

下山した最終集落が右左府(ウシャップ)とあるがここはどこだろう。会話した老婆、「札幌で流行の歌を歌ってくれ」と頼む若い青年などとの話が面白い。現代なら、まるでブータンヒマラヤの麓のような話だ。

以下、後半分は次回です。

●シユンベツ川より滑若岳へ 水上定一
● 北千島 初見一雄
● 北樺太の山々
名好山 本野正一
樺太に関する文献表 水上定一
●知床半島の春 豊田春満
●三月の石狩川 石橋恭一郎
●創立前後の思出 渡邉千尚

年報(1933/10−1935/10)
写八点、スケッチ三点、地図五点

(解説前編後編
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