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部報解説・ 2007年3月24日 (土)

これまでの部報紹介・部報6号(1938年)前半/(米山悟1984年入部)

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1937年1月末の(第一次)ペテガリ冬季初登頂作戦の遠征報告がメイン記事。残念ながら途中引き返しだが、これまでにない大企画だった。このあと1943年の成功(部報8号に報告)の前には1940年の雪崩遭難という苦難があるがそれは7号での報告。時代はペテガリまっしぐらだが、冬期のトヨニ、ピリカ、神威岳、1823峰の初登頂記もある。

また海外記録が豪華だ。北千島、中部千島(新知島の新知岳、松輪島の芙蓉岳など初登)、択捉の散布岳初登、樺太の日ソ国境周辺の山散策、ほか朝鮮の冠帽峰、台湾の新高山や合歓山はもちろん、タロコ峡より中央尖山、南湖大山を「蕃人」たちの案内で登り、山稜でゾンメルスキーをやっている。東亜の山へ存分に足を延ばす1930年代。京大が白頭山、大興安嶺、京城帝大や早稲田が冠帽峰を登っている。数年後に迫る世界戦争が無情だ。これらは次回後篇で紹介する。


部報6号(1938年)前半編
● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき       葛西晴雄
・ 準備         有馬洋
・ 經過         有馬洋
・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫
・ 食料ノートより    岡彦一、中野龍雄
・ 氣象について     星野昌平
● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ 湊正雄
・ 一月の神威岳        葛西晴雄
【総評】
1935/10月から1938/4月の記録。記事140p、年報119pの合計259p。編集委員は10名の連名。編集後記は葛西晴雄。これまでの部報の挿入写真は、風景が多かったが、今号ではペテガリ隊のキャンプ地での何気ない焚き火の写真など、気取らぬものが増えている。

【時代】
1935年:積雪期、北アルプスでは鹿島槍北壁右ルンゼ(浪速高)、剣岳小窓尾根(立教・早稲田)、東大谷中俣、本谷、池ノ谷右俣(以上立教)、穂高ジャンダルム飛騨尾根(東京農大)などが学生山岳部によって次々初登攀された。北岳バットレス第4尾根初登(東京商科大)もこの夏。1月に加藤文太郎が、立山から針ノ木岳へ黒部横断の厳冬期単独縦走。極地法を身につけたAACKは朝鮮白頭山遠征をする。第5次エベレスト遠征(英)・シプトン隊
1936年:積雪期剱尾根初登(早稲田)、立教大が日本初のヒマラヤ登山ナンダ・コット(6861m)初登頂。京大AACK中部大興安嶺踏査。加藤文太郎北鎌尾根で遭難死。エベレスト第6次隊。ティルマン(英)、ナンダデヴィー初登。バウアー(独)、シニオルチュー初登。世間は2.26事件。日独防共協定。西安事件で国共合作。スペイン戦争。ベルリンオリンピック。
1937年:北岳バットレス第4尾根積雪期初登(東京商科大)、鹿島槍荒沢奥壁積雪期初登(東京商科大)など。第3次ナンガパルバット(独)で16人雪崩死。
世間は遂に蘆溝橋事件、日中戦争始まる、12月の南京陥落後も重慶政府と戦争は続く。スペインではナチスがゲルニカ空爆。
1938年:西穂〜奥穂1月初縦走(慶応大)、前穂北尾根松高ルート初登。北穂滝谷第4尾根単独初登(松濤明)など。第7次エベレスト(英)・ティルマン隊。バウアー(独)、第4次ナンガパルバット。ハウストン(米)、K2。いずれも届かず。ハラーら(独)アイガー北壁初登。世間では国民総動員法施行で戦争体制に。日本軍が重慶空爆、広東占領、武漢占領。ドイツがオーストリアを併合。


● ペテガリ岳ー嚴冬期におけるー
・ まへがき     葛西晴雄
・ 準備       有馬洋
・ 經過       有馬洋

1937年1月28日から2月7日まで四班十一名で挑んだ厳冬期初登。1934年入部の三年目葛西、林、中野(龍)、有馬(洋)らを主体とし、一年目の橋本(ヤンチョ)、OBで卒業後十年たつ坂本直行もいる。札内川から入りコイカクシュサツナイ岳より稜線を往復の計画だが、悪天のため1599峰(初登)までで断念した。「 かく此の山が冬期に於て再三の試みをも退け今日なほ未知の姿として山脈の奧深く殘されてゐる主な理由としては、種々の不利なる條件のために澤を最後迄利用して頂上への登高を行ふことの困難なる事を擧げなければならない。そして利用出來る澤の上から頂上迄長い間尾根傳ひキヤンプを進めていくのである。」「三月にはその氣温、氣象的關係から雪崩の危險を増し、或いは不規則な雪庇を作り叉例年に依ると概して荒天が多いやうである。澤の結氷状態、尾根上の雪の堅さからみても最も寒氣の烈しい二月が最良であることよりして、」この時期が選ばれた。前の夏から二パーティーが此の山域に入って研究し七人用かまぼこ型テントや小型テントなどを考案製作した。そしてルームには珍しい極地法的な「サポーティングシステム」を取り入れている。が、天気周期悪く、新兵器のテントも潰され、1599m峰までで退却した。

このパーティーの中から、1940年再びペテガリ(第二次)に挑戦した有馬、葛西が雪崩で帰らず、橋本がかろうじて助かった。

・ 冬期登攀用品に就いて 林和夫

今回の大作戦では初めて厳冬日高の稜線上に泊まるため、コイカク山頂のC2には蒲鉾型テントを、ヤオロマップ山頂下には耐風型変形三角テントを作って、初使用した。一方樹林帯のC1では、いまも変わらぬ三角テントで、支柱を現地で調達、中にタンネを敷き詰めるという創部以来の方法が部報では初めて詳しく記述されている(図解入り)。しかし梁を載せ、紐で結わえ、吊り下げたのはこのときが初だったようだ「立ち木はいくらでも豊富にあるのだからと云ふわけで、ペテガリ行のベースキャンプではこれを吊り下げ式にして使用してみた。」。C2,C3の新型テントも、暴風にあっけなく壊され、敗退の一要因になった。樹林帯からのロングアタックでは届かない初めての山頂であるペテガリのために、苦労している。これらドームテントの骨は、トンキン竹や槲(かしわ)の木だ。何故、ペテガリが未踏峰として残ったのか、こういう面からもよくわかる。ペテガリ岳は、ルームが初めて樹林帯ではなく、白い稜線に泊まる必要に迫られた山だった。

当時、ヒマラヤを目指して1931〜2年に京大山岳部が富士山で日本初の極地方登山を実践し、1930年代を通じ、慶応や早稲田の山岳部が、槍穂高、剱でやはり初めて白い稜線での高所露営を実践し始めていた時代である。どこもイギリスのエベレスト遠征隊などの情報を元に手作り試行錯誤で研究していた。

その他の装備も、タンネの葉が敷けないC2,C3では初めてマットレスを用いた。「一人につき巾四〇糎長さ100糎のもの一枚を用ひ、微粒コルクの入つた巾3.5糎(センチ)の部分と、入らない巾1.2糎の部分とが連續して100糎になつてゐるのである。一人用一枚230匁(一匁は3.75グラム、一貫は3.75キログラム)になり非常に優秀なものである。」

オーバーシューズも今回に備え美瑛岳の合宿で初めて試したところ、「零下三〇度と云ふ寒さに加へて烈風が吹いた爲、足を凍傷した者多かつたが、これを用ひてたものは足の冷たさをさへ感じず、優秀性を裏書きした。」シーデポの旗もタダの赤ではなく、「ソビエト北極探検隊に倣つて黄色の入つた赤、即ち明るいオレンヂ色を」用いて遠くからも吹雪の中でもよく見えたという。ベンジンのストーブとアルコールストーブを較べ、火力でアルコールを採用している。

「吹き晒しの日高の尾根の夜、外に出て小用をする等到底不可能な事だつた。それで始めは交互に、天幕の底布に開けてある塵出しの穴ですましたが後にはアルコールを入れて行つた一立入りの罐ですました。」なんと!いまに伝わるテント内床ション、ビニションのルーツはここにあった。

・ 食料ノートより 岡彦一、中野龍雄
食料の詳細が書かれているのは部報では初めて。朝は餅入りみそ汁、夜はご飯と乾燥野菜やベーコン入りみそ汁で、基本はみそ汁味だ。このころはインスタントラーメンや、手頃なカレールーがまだ無かったようだ。「京都某商店製の味付きうどん」というのが、煮るだけの簡単麺のようだ。昼の行動食はフランスパンが主流。
・ 氣象について 星野昌平
ペテガリ敗退の気象分析をしている。当時は当然ながら携帯ラジオはなかった。現場では風向風力観測と、気圧計を使っての情報で判断している。天気図を見るという方法ではないので、風向には非常に敏感だ。

● 冬の南日高連峰
・ 豐似川よりピリカヌプリ山へ     湊正雄

「ピリカと云つてもそんなに有名な山ではないが之は日高山脈も南端に近いヌピナイ川の上流にある山である。」から始まる1935年末からの冬期初登記。十日間、本野、湊、葛西の三人パーティー。当時のピリカはこんな認識だった。豊似で牧場をしている坂本直行は忙しくて参加を断念。パーティーは直行宅にC0(前夜泊)する。

「烈しい鋭さ等といふものは勿論求められないが、何處となくゆるせないものを包んでゐる大きな山容はペテガリと共に高く買はる可きものである。事實、日高と十勝の國境線の上に竝んだ大小幾多の峰頂の中で、最後の鞍部から頂上まで三〇〇米以上もの急騰を強ひるものは、情けない話であるが、此の山を除いては一つも無いのである。しかしそんな事はどうでも良い。私達がはるばる此の名も良く知られてゐない山に出掛けていつたのは唯この山に魅せられたが故であり、ひどく愛したからであつた。」ルートは豊似川から。入山時は雪が少なかったのに、中流部標高580m附近で「馬鹿雪」に降られ停滞。ここをBCとしてロングアタックする作戦に変える。「長い毛皮の長靴は愚か腰も沒する樣な四尺からある豪雪だ。其んなひどい雪では何も出來はしない。寢て落ち着くのを待つのが一番だといふのでシュラーフに入ると眠つてしまつた。不精者が三人揃つたので歩かない時は飯もつくらない事になつてゐた。」パーティーの雰囲気が匂い立つ一文である。

いくつもの滝を捲き、沢を詰め、トヨニ南峰1493m(当時はトヨヰ岳1520mと呼んでいたようだ)東のコルにシーデポ、ピリカをアタックする。朝四時前出発の十七時間半行動だった。「それから翌日の夕方おそく、五里の道を再びトヨニの友の所に歸つて行つて、心から祝福された。牝牛と、よごろく號(馬の名)の間に吊り下げられた直行氏得意の吊り風呂で、痩せ細つた體がランプに照らされてゐた。」卒業後十年経っている坂本直行の、山への意欲はまだ現役に影響を与え続けている。ピリカは南からが格好良いという方針で、ヌピナイ川からを避け、豊似川に登路をとった。

・ 一月の神威嶽 葛西晴雄

1937年暮れからの十日間。ヌピナイ川からの神威岳冬期初登記。入山六日目に尾根に出て、七日目登頂。葛西晴雄、中野征紀、有馬洋。全体に、少しとぼけた面白い記録だ。

「笹の密生した斜面や倒木と戰ひながら_いた。笹の斜面を登る時はルックと身體の重量の爲屡々一寸した加減で足がツルンと滑つて掬はれ、その度毎に朝食べた二切分の餅に相當する位のカロリーが豫期せずして一瞬に失はれたやうに感ぜられるのは癪にさはつた。」この気持ち、よくわかる。渡渉の際、「私達は此の時とばかり用意してきたゴム長靴の股迄來るやつを穿いて渡つたが、しかしかゝる天氣の良い暖かい日の下では、スキー鞜にゲートルのまゝ淺瀬を狙つて走り渡つた長髮兄(中野征紀氏のこと)の方が結局時間的に遙かに頭が良い事になつた。」これもよく経験する一幕。

一度ラッセルして、余計な荷物を取りにもどって運ぶ方法を、ヴィーダーコンメンメトーデ(wieder kommen methode)という怪しげなドイツ語で呼び始めたのもこの山行からのようだ。現在、これは「ビーコン」などと呼ばれている。

ヌピナイの函の手前にBCを作り、函地帯は軽い身で、ザイルなど出しながら捲いて進む。ソエマツとピリカの中間のポコから降りている尾根を登ろうとその基部(上二股のこと)にアタックキャンプを構える。ここで一停滞のあと、この尾根の標高1340mにアタックキャンプを全身させる。翌日、ここからロングアタック。厳冬初登頂のソエマツ山頂から見た、神威岳の美しさに賛辞を惜しまない。この光景を見たのは、彼らが初めてだ。写真で見た上で登った僕らでさえ、息を呑む美しさだった。

「午後零時卅分、遂に神威の頂上に立つことができた。之でやつと來たんだ、私達は默つて互ひに祝福し合つた。ヤンチョ(橋本誠二氏)送る處のチヨコレートが取り出された。私達は未だ誰にも示されなかつた此處からの嚴な冬の景色を眺めて何故とはなしに嬉しかつた。此處に一つの足蹟を殘し得た事に無上の喜びを感じた。」結局十四時間行動。この時代の日高の未踏峰山行は、沢を詰め、最終キャンプから軽い身で10時間以上のロングアタックをかけて樹林帯に戻る。その典型的な形式である。何か潔い、知力と体力を尽くす登山スタイルだと思う。


以下は後半編に続く

●忠別川遡行           石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行       豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行           中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池        鈴木限三
・ 散布岳             岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ        有馬洋
・ 樺太の山雜感          岡彦一
・ 北部日高山脈の旅        山崎春雄
・ 一八二三米峰          中野龍雄
・ 蕃人              岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊              伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君           福地文平

年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点

(解説前編中編後編
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