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    Re: 【読書感想】七帝柔道記 米山悟(1984年入部)...GG

部報解説・ 2007年4月21日 (土)

これまでの部報紹介・部報6号(1938年)中編/(米山悟1984年入部)

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二部構成の予定でしたが、味わいのある原文を引用していたら長くなってしまいました。三部構成にします。中編の今回は悪絶な初遡行記録2本(忠別川、キムクシュベツ川)と「新しき山行より」と題した随想風山行記録集から4本。当時はキムクシュとは一言も出てこない。「ペテガリソナタ」は、前編ペテガリ冬期山行の前の夏の偵察山行だが、水無しの稜線を雨水で1週間もよくもまあ!

●忠別川遡行           石橋恭一郎
● ヤオロマップ川遡行       豐田春滿
● 新しき山旅より
・ 音更川遡行           中村粂夫
・ 蘆別岳北尾根の池        鈴木限三
・ 散布岳             岡彦一
・ ペテガリ・ソナタ        有馬洋
●忠別川遡行 石橋恭一
1937年秋、ゴルジュの殿堂・忠別川(化雲沢)のおそらく初遡行記録。しかも単独。この年の7月、朝比奈ら3人パーティーが下流部で水の多さに敗退している。唯一人で未知の悪い沢に向かうときの緊張感と喜びが読み取れる遡行記録だ。

「昨夜も止められた、今朝も言はれた、忠別川は到底遡行出來ない相だ、お止めなされ、今も此の川に入つた鑛山技師が二人怪我をして湯治してゐますよ。成程川巾の廣い此の附近でも相當深い、行けなければ行けないで見物してきますよと言つたものゝ引返す氣は無かつた。」

9月といえども水量が多く、渡渉は一々苦労している。一日目の右岸(標高860m)、大高捲のシーンで、「本流が左轉した、今度は凾だ。あの本流の水勢が重く澱み、兩岸は高く天を摩して、長髮(中野征紀氏)の言つた猿も取り付けない岩壁は凾の左岸に覆ひ被さつて來る。左岸は到底登れない。右岸は或いは卷けるかも知れない。然し暗澹たる凾は此處でぐつと擴がつて奔流してゐる。渡るのは危い、引返すか───時間は未だ一時だ、天氣もいゝ、よし行かう───何囘目かの泳ぐ樣な渡渉であつた。」こうして熊の足跡を追って大高捲を終えて一泊。翌日は核心の二股越え。悪絶なゴルジュの中を進み、「何時しか再び澤の左轉する樣子に前方を見れば、愈々狹い一枚岩の凾が控へてゐる。僕は初め此の眞黒い一條の直立した線が何であるかわからなかつた。今迄通過した凾は割合廣く、且岩肌の關係もあり明るい感じもあつたので、此の暗い或物を何物ならんとしばし凝視してゐた。それが遙に聳え立つ岩壁の間に深く切れ込んだ巾二間とは無い凄い凾であるとわかつた時、僕は驚嘆と失意とに茫然としてゐたのであつた。」という感じのゴルゴルのゴルジュの中二股を超え、右岸の大高捲きをして、ワル場を抜ける。

「河原だ。此の旅の初めての安息處だ。僕はドツカとリユツクを降し、ゴクンゝと甘い水に口を付けて立ち上がると、双手を擴げてぐるんゝと廻し始めた。今までの何物かに壓倒された追はれる樣な氣持から、今こそ開放されて思ひ切り深い息を吸ひ込んだのであつた。」源流の天場の朝、「きれいだ。十歩歩んでは眺め、二十歩進んでは止つた。實に美しい。僕は心を躍らして最も恰好の場所に荷を下した。出發してよりまだ二十分とは經たない。前を見ても左右を眺めても、後を振返つてもいゝ。荷を背負つて狹い澤を左に廻ると、朝日の屆かぬ暗い樹影の彼方に夢の樣な淡紫の忠別嶽が忽然と現はれた。其の時僕の心はゝづんだ。一歩一歩と風景は開けて行き、遂にこの荷を下すまで、夢中で四圍の美しさをむさぼつて歩いて來た。今迄に其樣な自然の美しさを見た事がなかつた。其處は實に五つの澤の合流する實に廣々とした河原で、柔い尾根はすつかり紅葉し、その裾には幾條かの白絲の瀧が掛り、僕は只々造化の神の美妙さに恍惚と時の經つのも忘れて了つてゐた。」悪い沢を突破したあとの大雪山の秋は目にしみる事だろう。化雲岳から松山温泉(現・天人峡)へ夏道を下山。

● ヤオロマップ川遡行 豊田春滿

ヤオロマップ川のキムクシュベツ川の完全初遡行記録。核心部丸二日、ペテガリBカールへ抜けてから中ノ川上二股への下降尾根を下る。1937年7月上旬。豊田、中野(征紀)、駒澤の三人。アプローチは札内川のトムラウシ川(今はダムのすぐ下流)から1000mの尾根を乗っ越して、歴舟川の410m二股附近に降り、そこからキムクシュを登る。この乗っ越し尾根は当時砂金取りが入山するため結構な踏み跡になっていた模様。「中野の小堀流とか云ふヤツはこれからの活躍を思つて頼もし氣である。然し之は阿蘇に源を發し、熊本の城下を流れる白川の激流に發達した泳法で、水府流などの海向きの泳法とは違つて甲冑のまま急流を押切るのに適してゐるのだと云ふその註釋の方が更に頼もし氣である。」古式泳法達人を加えてのキムクシュ突破計画である。砂金取りや山女釣りの入らない核心部へ入り、函や滝をへつり、捲いて行く。核心部一日目、「三時近く一つの長大な凾に行當つた。これが後で考へると川筋のごとく屈曲してゐる所であつたらしい。右岸の岩壁は尾根の上まで續くかと思ふ樣に高く聳えてゐる。河相は次第に豪壯にして而も險惡な幽谷の相貌を呈して來た。だんだんヤオロマツプ溪谷の心臟部に近づいて來たのだ。」(720の) 「三岐から少し登ると本流は長大な雪溪となる。ぬれた草鞋の下に冷たい雪の感觸を樂しみ乍ら、兩岸の岩壁の間に續く此雪溪を登つて行くとそれも大きな瀧にプッツリ切られて、遙か暗い穴底に瀧壺の音が聞こえる。小黒部以來かふ云ふ所が山で一番恐しく感じる。今にも此雪溪が割れはしまいかと思ふのである。」ガスっていたけれど満足な登頂を終え、中ノ川の下山。何度もこの川に通っている中野氏は既に顔なじみの砂金取りの親子などがいて、「やあ、来たなあ。好きだなあ」などと言われて、煙管など取り出して話し込んだりしている。未踏の沢なのに途中までは人が多い。今とは違った、よき時代だ。

● 新しき山旅より

部報6号独自の編集で、記録性よりも随筆風の山行記のひとまとまり。8編。

・ 音更川遡行 中村粂夫
1936年3月、7人14日間。音更川十勝三股にベースを置き、石狩岳、ニペソツ山をアタックする。音更川からの石狩は初登頂。当時、十勝三股への鉄道(士幌線)は十勝平野の縁にあたる清水谷まで。幌加川に入る糠平までは造材林道が出来ているのがこれまでの部報でも知られるが、その先は函有り、橋掛けありの未開地なので、大々的なポーラーメソッドでやってきた。しかし、糠平〜十勝三股間の鉄道敷設道がこのとき出来ていて、意外や楽をしたとある。今は鉄道も無くなり、自動車道で一走りだが、この時代の音更川上流は榛の木が生い茂り、とてもタイヘンなヤブヤブ盆地で、沢沿いを苦労して進んだ。十勝三股まであげた荷物は90貫(340キロ)。当時は最先端のポーラーメソッドを実践してみて満足している。
山頂にて「嬉しさ極まり他云ふ無し。こゝに、周公の遺稿の言葉を借りるなら『一眺千里見えざるは無く、彼方より走り來る雲、又走り去る雲、その一つ一つに、先輩や友の顏が寫つてゐる。そして、凡てが祝福の微笑を投掛けて消えて行く。暫し茫然。唯感謝』と。流石の周公も餘程感激したらしい。」周公とは伊藤周一氏。次回に追悼文有り。

・ 蘆別岳北尾根の池   鈴木限三

1936年五月中旬、布部駅から十線沢経由、布部岳北東コルの池畔のキャンプを目指す山行。夫婦岩に抜け、ユーフレ谷を降りている。当時はまだ布部岳とは呼ばれていない。1345峰とある。「一三四五米の瘤の北に一つの小さな池が、陸地測量部の地圖に載つて居るのを、諸君は見らるゝであらふ。恭さんは云ふ『山上千古の水を湛へて俗人未踏の池』。その水を飮みたいと云ふのが我々一行の目的である。」

沢から尾根にあがり、途中に一泊。「恭さんは焚き火のために雪中に穴を掘つた。穴と云ふよりは立派な塹壕である、これは事物を徹底的にやる彼の恐るべき現はれである。盛に唱ふはBunch君、伴奏は嘉四ちやん、獻立係は山に入つてはあらゆるものを材料とし、一度は食つて見るとの噂ある恭さんである。麓で採つて來た土筆も晩飯のお菜になつた。暗黒の山中に何物も忘れ、焚火の照らす雪中の森林、十間四方が吾等の生くる暖かき宇宙であつた。」

「春の雪の山である。Tannenの林である。雪上に藍色の影の落ちるところ吾々の心は樂しからざるを得ない。Tannenの林を過ぐれば、行手には一三四五米の眞白き雪の山頂が現れた。正午頃、池の邊に着いた。白樺とハヒマツの疎生する雪原である。」「先づピツケルで池の中央と覺しき邊を掘つて、飯盆で水を汲み上げた。鐓冽透明、千古の雪の融けたる未だ俗塵に汚れざる水である。蘆別山塊の黄金水である。黄金の水で飯を炊いた。味噌汁を作つた。美味、流石は山中汚れざる池の鐓水である。」編集委員による附記には、その後しばらくこの池は限三池と呼ばれたとある。

・ 散布岳     岡彦一

1936年七月、三年前に択捉最高峰の単冠山(ヒトカップ)を三高山岳部(現・京大)が登っている。それに次ぐ択捉第二峰、チリップ岳の初登頂記録、とあるが、現代の地図ではチリップの方がヒトカップよりも高い。岡による単独行記録である。

根室発二日かけて択捉の紗那へ。散布岳西麓の漁場、トーマイまで船。漁場の食客となりアタックを目指す。漁民たちとの交流も面白い。登り七時間半、下り5時間半の一日アタックで往復する。沢を詰めカール状、ヤブを漕いで稜線へ。下山後も別飛、留別など二〇日以上も島をブラブラして、漁場巡りなどして漫遊する。豊かな漁獲の様が記録にある。

「苦鬪の後の頂だつた。ブッシュと蚊は想像以上、又常に一種の壓迫感を受けつゝ登つてきた。しかし初登攀と言ふ些かな喜びもあり、又長き憧れを果した安心を味つて高い塔の上から、鮮やかに澄み渡つた夏の北海と、一刷毛なでつけた樣な輝く雲海を見下してゐた。」

「輝く夏の光を浴び、竒妙にも靜かな一角、時々落石の響が眼下の物凄い崩崖よりはるか彼方にまでエコーする。長い雪溪を散りばめた北撒布は目のあたり海中に浮かび、遠く連なり消えるこの島の背後の山々も皆指摘できる。部落部落の細やかな家竝や、その側の小さな湖水、廣大な緑の中に雲が流れるばかり、無力な單獨行の惠まれた一刻だつたのだらう。(札幌憲兵分隊檢閲濟)」


・ ペテガリ・ソナタ      有馬洋

1936年7月、元浦川から尾根乗っ越しでペテガリ沢、a沢からペテガリ、その後稜線をコイカクまで漕いで札内川へ。太田嘉四夫、葛西晴雄、福地宏平、有馬洋のペテガリ山行。最後は尾根に逃げているがa沢の初遡行記録。第一楽章アレグロ、第二楽章アンダンテ、第三楽章アダヂオ(ロンド)、第四楽章プレストという急緩舞急というソナタの形式のちょっと気の利いた山行記録。

「一楽章アレグロ」は元浦川入山、ピリガイ山南面ショシベツ川の天場までの五日間。入山早々砂金採りの溺死体を発見、その上の渡渉点でやはり流され、リュックを濡らしてしまう。当時ビニール袋がないので渡渉の失敗は大損害となる。「もう何も彼もない。寫眞機もパンも米も砂糖も水浸しだ。河原にすつかりさらけ出して干す。此の河原で背伸びすれば未だ先刻の屍體のショイコが見える。」

「第二楽章アンダンテ」。ピリガイを乗っ越してペテガリa沢を登り、半ばから国境尾根に逃げ、延々ヤブこぎをして山頂までの五日間。「澤は此處から上は増々急で、狹い廊下見たいになつてつき上がつてゐる。全部が瀧である。右手の尾根をへずり乍らもう此處からは尾根を登つて了へと云ふ事になつて猛烈なブツシユの急斜面の尾根をもりもり登り出す。幾らフアイテイングを出しても水の用意はないし、六百米も根曲り笹の急斜面を上るのは顎出す所の騷ぎではない。〜中略〜頂上へ着いたのは七時を過ぎてゐた。何の氣力もなく足を投げ出して、此の頂で開けようと買入れて來たマンダリンの罐詰を貪る樣に飮み込むと、唯ボーツと、黄昏れゆく日高の山々が目に寫つて來るだけだつた。去年から目指し、張つてゐたペテガリにやつと着いて、こんな姿を晒すのは殘念だが、然し半死半生の樣な自分にはそんな考へすら浮かばなかつた。」カールに降りて心ゆくまで水を飲んで寝た。

「第三楽章アダヂオ(ロンド)」は、雨にたたられ飲み水のない稜線を進む、コイカク沢までの六日間。「ブツシユと云ふよりは一五九九米との間は嶽樺の林なのだ。背の低いのが意地惡く腕をつゝぱつて、押しても何しても微動だにしない。〜中略〜喉の渇を慰めて呉れたのは嘉四ちやんの持つて來た口を開いたキウリだつた。何とそのうまかつたことよ。夕飯のパンの後のホツト・レモンには何時迄も舌鼓を打つて名殘りを惜しんだ。」
ハイマツの葉先の霧の玉露を吸って歩き、雨の宿では飯ごうに雨水をためて飲んだ。コイカクの下りも踏み後を見失い、二時間のつもりが七時間かかった。「“三日たてば里に出て───”とペテガリの籠城で思つた三日はとうに過ぎてゐた。が、もういゝ。今度こそ確實だ。一週間振りで盛大に焚火をし、飯を八合炊き、味噌汁には玉葱も入れて心ゆく迄食ゐ、最後の夜を樂しんだ。」

「第四楽章プレスト」、札内川を下山する。「帶廣だ。約廿日の山旅を終へて、今人間の世の中に歸つて來たのだ。驛にルツクを置くと、小雨のしよぼ降る中を待望の禿天へと走つた。」今に至るまで延々続く、帯広下山のハゲ天通いが部報に記述されたのはこの記録が初めて。一体、これまでに何杯の天丼が、山岳部員の腹に収まったことであらふか!この夏も行けよ現役。

以下は次回後篇にて紹介。お楽しみに。

・ 樺太の山雜感          岡彦一
・ 北部日高山脈の旅        山崎春雄
・ 一八二三米峰          中野龍雄
・ 蕃人              岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊              伊藤秀五郎
・ 伊藤周一君           福地文平

年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点

(解説前編中編後編
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