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部報解説・ 2007年5月18日 (金)

これまでの部報紹介・部報6号(1938年)後編/(米山悟1984年入部)

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後編です。樺太、台湾の山行記や1823m峰の冬季初登記。それから二編の追悼です。

・ 樺太の山雜感     岡彦一
・ 北部日高山脈の旅   山崎春雄
・ 一八二三米峰     中野龍雄
・ 蕃人         岡彦一
● 最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー 朝比奈英三
● 追悼
・懷舊         伊藤秀五郎
・伊藤周一君      福地文平
=========================
・樺太の山雜感 岡彦一

1937年3月、渡邉盛達、岡彦一の山行。「北海道がもし北歐的だとすれば樺太は確かにシベリヤ的なるものを供へてゐるのであらう。山や溪のみでなく、それに連なる、果なき雪の野。あくまで線が荒い、より粗放的であり、單一なる美、チエーホフに書かれてゐる感じである。」で始まる樺太最高峰敷香岳の登頂記。山行記録は巻末の年報にある。稚内から砕氷船で大泊、鉄道で豊原、落合、敷香。上敷香、第二支流の直営事務所(BC)までパルプ(日本人絹パルプ)会社の馬橇。ここまで8日。

敷香アタックは登り5時間下り3時間。ウインドクラストでラッセル無し。敷香岳向かいの無名峰山頂では快晴に恵まれた。「輝かしき快晴、澤を隔てゝ昨日の敷香岳が高く、又三六〇度の展望は贅澤の限りだつた。眞黒な森林の擴り。そしてその上に輝く無數の無名の頂き、遙かに遠い。之が樺太の山なのだ。恐らくは沿海州にもシベリヤにも同じ樣な山波が續いてゐるのではないか知ら、間宮海峽を隔て實際の沿海州が見えてゐる、夢を追つたのであつた。」

帰りは敷香で「オタスの杜」も訪ねている。営林署や造材会社に橇や宿を便宜してもらい、行く先々の先輩にご飯もごっつぁんになりながらの山行。当時の学生が社会に期待されていて、社会も旅行者探検家に太っ腹だったよき時代。

・北部日高山脈の旅 山崎春雄

山崎や中野征紀を中心メンバーに3年続けて5月の北日高、狩振山からピパイロまでを踏査した記録。この山域の記述はペンケヌーシを除けば部報では珍しい。石狩、胆振、日高の三国境と石狩、日高、十勝の三国境の二峰は二キロしか離れていない。これを「四国山」と呼んで初登を目指した。ここでいう石狩は、石狩川の流域という意味で、いまは上川支庁南富良野町の空知川、ルーオマンソラプチ川のこと。又、胆振は、鵡川の水域という意味で占冠村の双珠別川源流のこと。つまり「四国山」とは、狩振山南東の標高点1383と1286の肩だ。これは新鮮な視点で、期待したのだが、「國境は特徴のない畑地を走り、雨水も空知川へ注ぐか鵡川へ流れるか困りさうな散漫な地形となつた。山稜も亦幅ひろく頂上に立つても大したこともなかつた。」とのこと。

この後年などにペケレベツからウエンザル、ウエンザルからペンケヌーシ、チ芽室を超えてルベシベ分岐からピパイロアタックまでしている。「霧は次第に低く沈んで美生川の谷から尾根を超えて千呂露川の谷へと大洪水の樣に流れ落ちる。東の方は霧が日光を透すまいとして必死の努力にもがき狂つてゐるが次第に其色が明るくなつて來る。息を凝して見てゐる眼前の空間に思ひがけず白い鋭い水平の山頂線が浮び出す。美生岳だ。秒一秒、山頂は次第に霧の世界から青い大空に頭をもち上げて來る。遂に陽光が雲を破つて絶顛の雪を颯と染める。」

・一八二三米峰 中野龍雄
1937年12月29日〜1月5日、中野龍雄、清水誠吉、湊正雄の三人の積雪期初登記。あくまでも思いはペテガリである。前年敗退し、この年も準備しながら計画は流れた。「國境は曇つて見えなかつた。その見えぬ彼方をぢつと涙ぐんで見つめた時、又はその時の皆の顏等が次ぎ次ぎと浮かんで來た。暫時『何、今度こそ』と強く打消して元氣よく出發する。」

コイカクへの尾根は、いわゆる馬鹿尾根という急斜面、足元が決まらぬ雪質にはまってしまい、晴れの一日を無駄にする。「何のことはない。胸までの深い溝を作る樣なものだ。之湊に依れば直行の所謂馬鹿尾根だつた。」「氣は焦つても胸までの溝掘りは『此の野郎!コン畜生!』の體當りとブランコの連續だつた。」カムエクから縦走してくる別班の伊藤パーティーに「先をやられたら癪だなあ」などと焚き火で悶々している。

この馬鹿尾根を見限り、日を改めて函を抜け、谷ルートから国境に上がり、風強い中23をアタックした。「周公達のアイゼンの蹟は無かつた。感激の握手!時正に三時。見よ北にはエクウチカウシ、幌尻、南遙かにペテガリの雄姿──日高十勝の海は夕陽に金色に輝いてゐるではないか。『直行登つたぞ。來る二月はあのペテガリだ』。

尚、周公こと伊藤周一らのパーティーはカムエクの八の沢アタックに長引き、翌四日に七の沢からアタックに成功している。

・蕃人 岡彦一

1938年3月27日〜4月5日、タロコ峡谷から中央尖山と南湖大山を超えて霧社へ抜けた山行の、現地先住民たちとの交わりを中心に書いた随想。当時は日本の占領時代で、山間の山岳先住民四人を案内にして台湾の脊梁山脈を越えた。いずれも3700mを超える高山。稜線でゾンメルシーを彼らに穿かせてみたりした。

また一行の中の老人、シチヤカンが焚き火を囲んで即興で作った歌(先住民語)を若い一人が国語(日本語)に訳してくれたものが書いてある。ここでさらに要約すると「色々御馳走になりました。酒まで御馳走になり、ありがたう。皆樣わざわざ遠い所から來てありがたう・・・今夜今皆樣が一本酒を飮ませました。ありがたう。もし皆樣がタウサイに降りたら私の所に寄つて私の造つた酒を飮んでください。大抵醉つぱらふまで飮ませませう。・・・」と言った歌。これを丁寧に長く紹介している。これを読んで、大工哲弘の八重山の民謡や戦前の台湾の酔っぱらい歌を思い出した。レコードも携帯ラジオも無い時代、焚き火の前で、即興で歌を作れる楽しい技能が羨ましい。1920年代の記録にあったアイヌ老人との語らいにも、この楽しみがあったのだろうか。

「ブナツケイのカールヴァンドの粉雪の樣に白いザラメの上で彼等二人にスキーを教へた。鞜を貸して穿かせると彼等は何も雪を厭はない。暫時にして驚くほどの上達振り、何時しか遙か下に消えて失せた。面白がつてもうスキーを返さない。臺灣の山も多い年には實に豐富な殘雪がある。何時か彼等も手製のスキーを造る樣になり、臺灣の尾根の上に滑り廻る日が來ないかなと微笑ましき空想を描いたのだつた。」

●最近の十勝合宿について
ー冬期合宿覺え書きの一つとしてー    朝比奈英三

部報3号で詳細に記した当時の十勝合宿の雰囲気から、10年経って、その変化と最新情報をまとめた一文。当時は毎年100人近い部員で、1年班2年班、3年班をそれぞれ3〜4班編制。山岳部員全員が年に一度一堂に会して部の雰囲気と意義を高め合うという機械。合宿は1990年代半ば以降、部員不足のため行われていないが、80年代まではほとんど同じ様式、目的で行われていたことを知り、驚いた。

三年班というのが当時独特で、メンバーが三年目以上だから精鋭のパーティーだ。美瑛谷の岩稜を登ったり、富良野岳の独立岩(今はチンポコ岩と呼ぶ)の上の吹きさらしに7人用カマボコテントと3人用クレッパー変形型テントなど張って泊まったりしている。この新兵器は、ペテガリの1937年遠征の際使っている。

当時の装備を述べている部分で、「私達の作らせたウインド・ヤッケは市場にも普通な最もシンプルな實用價値のある型で、布は出來るだけ防風完全な上質を選び内側に腹部を縛る紐を入れて不愉快に膨らむのを防ぎ、又顏の兩側に當る部分に心を入れて一寸馬車馬を思ひ出させる樣な感じの防風壁を作つたが甚だ效果的であつた。そして必要の時以外は出來るだけ著ない樣にして完全な防風性を保存する樣に勉めてゐる。」「手袋は厚い毛製の物の上に二本指の皮手をはめるのが寒氣には最上とされ、乾いた軍手の上にしただけで間に合はせて居る者も多い。」オーバー手はまだ皮だった。戦後発明された化学繊維は全く偉大なものだ。

1937年度から専門の合宿幹事を二名、リーダー以外に専任したら円滑に運んだという。

● 追悼
・懷舊    故和辻廣樹、故伊藤周一両兄の霊に捧ぐ    伊藤秀五郎

和辻氏は1929年卒業で、部報1,2,号の頃に大活躍した。部員章の図案を考案した人物。伊藤秀五郎氏と共に1928年2月冬の石狩岳初登をしている仲間だ。卒業後朝日新聞記者になり、京城(現ソウル)に通信局勤務して満州事変勃発の際は飛行機で奉天(現・瀋陽)の空の一番乗りをやったとある。その後ベルリンオリンピックの為深夜勤務で体調を崩し、33才胃ガンで亡くなったとある。「彼の最も優れた美點であり、多くの人に好意を以て迎へられた理由にもなつたのは、彼の感情にどこかゆとりがあり、性格に輕妙さがあることであつた。當時,血氣盛んな、感情の激し易い山岳部の雰圍氣の中に、常に一脈の明朗さを與へたのは、和辻の諧謔性と、澤本の良識とであつたと思ふ。」

・伊藤周一君    福地文平

伊藤氏は「周公」と呼ばれ、この6号でもあちこちの記録に登場する。「體重十八貫の彼は度々彼ならではの凄まじい處を見せた。丁度忠別川からクワウンナイに入る時に一人が足を滑らせて二丈位の處を忠別川に落ちかけたのを重い荷物と一緒にむんずとばかり宙に釣り上げたの等は周公でなくては出來ない術だつた。」

1937年暮れのカムエク、23を最後の山行にして亡くなった。原因は触れられていない。旭川師団の陸軍獣医委託生として忙しく働いていたとある。

年報(1935/10−1938/4)
写真13点、スケッチ4点、地図3点

(解説前編中編後編
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