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部報解説・ 2007年9月28日 (金)

これまでの部報紹介・部報7号(1940年)前編/(米山悟1984年入部)

image
戦前発行では、最後の部報。ペテガリの冬期初登を目指して1940年1月、4回目の挑戦中、史上空前の雪崩事故に遭った。その報告書として少数出版された。時代は世界大戦に進む頃。山に行けない絶望的な世相の中、1943年1月、ペテガリの初登に成功するが、その報告は18年後に発行される部報8号に。

また、1938年12月、上ホロカメットク山直下で、山岳部で初めての雪崩死亡遭難があり、7号は事故報告と追悼一色である。これまでの日高へ、未知へという生き生きとした雰囲気が意気消沈してしまっている。


目次

●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎

●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
三・救援経過
四・遺骸発掘
五・雪崩に関する考察
六・結言
● ペテガリ隊遭難報告
一・緒言
二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二
四・一月の捜索 中野征紀
五・アバの建設 中野征紀
六・七月の捜索 原一郎
七・雪崩に就いて 石橋正夫
八・結言
【総評】
1938.5-1940.10の二年半の記録。遭難報告が二件合わせて49p。記事、寄稿は遺稿を含めわずか3つで17p、追悼が48p、年報100pの合計214p。これまで最も薄い部報だ。版数も少なかったという。編集委員は6名の連名。編集後記は橋本誠二。価格は2円50銭。

【時代】
1938:F.ガスパレク、H.ハラー(墺)(『チベットの七年』の著者)とA.ヘックマイヤー、L.フェルク(独)が共同でアイガー北壁初登。
カシン、エスポジト、チゾニ(伊)が、グランドジョラス北壁直登ルートを初登。第7次エベレストH.W.ティルマン隊(英)、P.バウアー隊ナンガパルパット遠征(独)。C.ハウストン隊K2遠征(米)。いずれも未遂。1月、慶応大・井形健一らが、西穂から奥穂高岳を極地法で攻略。
日本軍重慶空爆、武漢占領。国家総動員法。ドイツがオーストリアを併合
1939: K2遠征。頂上直下230mまで。下山時に隊員ヴォルフとシェルパ3名が死亡(米)。P・アウフシュナイターら(独)がナンガ・パルバットに偵察遠征。2カ所で6000m地点に到達。大戦の勃発で、下山後に隊員4名がイギリス軍の捕虜として拘束されのち脱走してチベットへ。3月、旧制大阪商大パーティが、積雪期の黒部・下ノ廊下横断に成功12月、登歩渓流会の松涛明(17才)が、穂高滝谷第一尾根積雪期初登攀
9月ドイツ軍ポーランドに侵攻。第二次欧州大戦始まる。8月ノモンハンで日ソ戦闘して完敗。

1940:
1月、北大・有馬洋ら8人パーティーが、日高山脈のペテガリ岳・札内川で雪崩により遭難
京都大学士山岳会(AACK)が、軍部から解散命令を受ける。
日独伊三国同盟結ぶ。欧州大戦はフランス降伏。ロンドン空爆。
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●山登りの危険に就いて 伊藤秀五郎
多くの死者を出した遭難をうけて、何故我々は危険かもしれない山に登るのかを説いた文章。新東亜建設にだって冒険的情熱は必要だ。人類に冒険心は不可欠である。と書いているあたりが時代的であり、伊藤的である。

●十勝上ホロカメツトク山遭難報告 湊正雄
一・緒言
二・遭難経過
1938年の年末の十勝合宿中の雪崩遭難事故だ。上ホロのD尾根の八手岩と反対側の富良野岳側の斜面上部(Co1760m)が現場。合宿は総員118人13班。遭難は合宿五日目の12月27日だった。天気は視界100ほどのガス、軽い吹雪。第10班(湊正雄、瀬戸、高田)は旧DZからH経由上ホロをアタックして帰るところ。すぐ後ろを八班の五人が歩いていた。図によるとD尾根の稜線より少し南側をトラバースしている。シーデポへもうすぐと言うところで雪崩れた。50m以上流されて湊一人かろうじて自力で這いだした(12時40分)。湊はデブリの端にいた。瀬戸と高田はすぐには発見できなかった。デブリ中央のさらに下流にいた(発見は五月)。
三・救援経過
後ろパーティーの二人を連絡に降ろし、すぐ二人を捜す。デブリは巾30m、長さ120m。3mの厚さの全層はげ落ちている箇所もある。誰も二人が消えるところを見ておらず掘り出す道具はピッケルとスコップ一つのみ。もう一人を富良野岳方面の他班を呼びにやり、現場は四人になる。二時半12班の五人が到着。三時には続々到着、スコップも増えて組織的に探し始める。しかし日が暮れても見つからず、吹雪寒気も厳しくなり、吹上温泉に帰還する。「途中幾度となく、突風にてラテルネの灯を消されたりしながら」。当時の灯りは意味どおり燃える火だった!全員帰還は夜12時半。
四・遺骸発掘
年報参照とある
五・雪崩に関する考察
八手岩分岐のポコの南側は傾斜三〇度のところに雪堤状に厚くて堅硬な風成雪が出来ていてこれが雪崩れたようだ。また、3日前に異常に暖かい日があり、弱い層が出来ていたとある。今西錦司の論文をひいて、「積雪が風によつて吹き飛ばされたゝきつけられ『次第に間隙を充填され、次第に緻密になつて、終ひにはその上を歩いてもわからぬ程度』に叩かれ緊めつけられた斜面の、特に上半部に異常に厚く堆積し得た風成雪地帶では、嘗ては春期に多いとされてゐた所謂底雪崩が、嚴冬にも慥かに發生するといふ事」「特にかゝる雪崩は極めて豫見し難いから最も恐るべき雪崩である事を説いて居られる。」



● ペテガリ隊遭難報告
一・結言
1940年1月5日、コイカクシュサツナイ沢の雪崩で8人が遭難死した。冬期初登を目指して1934、1935と従来の「突進法」(樹林帯の最終テントからのロングアタック)では限界を知り、1937年は新型テントを試作研究して臨んだが悪天で敗退した。これに続く四度目の大規模な登山隊だった。以下、この登山隊の準備から詳しく述べている。

二・ペテガリ隊の準備 橋本誠二
前回同様のコイカク沢ルートで、ベースを二股、C1をコイカク山頂、C2を1599に設ける。A班(葛西、清水、近藤)B班(有馬、戸倉、片山、橋本)C班(内田、羽田、渡邊)の10人。BとCはAをサポートするパーティーとした。C2のテントは渡邊設計の通称「盛達テント」。底面七角形の防風二重張り。

三・ペテガリ隊の行動 内田武彦、橋本誠二

1939年12月30日:広尾線で入山。「ガリガリに凍てついた窓ガラスの霜をカキ落しカキ落し私達は山に見入った。『カツチヤイては眺め、カツチヤイては眺めか』有馬の言葉に私達は笑ひくづれた。」
中札内から馬橇で上札内奥の男澤先生宅へ。
12月31日:トムラウシ沢合流まで前進と荷揚げ
1月1日:コイカクシュ合流まで前進と荷揚げ
1月2日:コイカク沢上二股300m下流のベースキャンプへ前進と荷揚げ
1月3日:上方偵察と下のキャンプへ荷をとりに行く橋本は風邪で休養。
1月4日:風強く雪の工合も思はしくないので途中にデポして荷揚げ途中で帰る。夜は星が輝いていたので焚き火で歌い、「有馬の持つてゐた唯一本のブラシで齒を磨いたりした。」
1月5日:風邪の橋本を除く全員で沢の中を出発。二の滝、三の滝をアイゼンで越えたほかは快調にスキーで進む。標高1000mあたり幅5mのルンゼで先頭のあたりから来たさらさらの雪に腰まで埋まり10数m押し流された。全員無事だが、いくらか荷物をなくしたので探し始めた。が、時間にして5分ほどあと、「誰かの叫聲を聞いた樣な氣がしてハツと頭を上げた瞬間、濃い雲の樣に眞白な雪煙が澤の幅一杯になつて此方に押しよせて來るのが目に入つた。」内田は一人デブリの上でわれに帰った。バンドに結んでいた懐中時計は「ポケットから飛出し、蓋が開いて短針だけが空しく四時一寸前を指して止つてゐた。」
あたりは暗くなり始め、一面に何も見当たらず、手袋をなくした両手は白くなっていた。BCに戻って橋本に合流できたのは午後9時。
1月6日:橋本が朝現場を見るが、ほとんど何も発見できない。「つき上げて來る涙と共に、私は彼等と共に喜びにつけ、淋しみにつけ、唱ひ合つたカメラーデンリートを唱つた。今私の出來得た唯一の事は之丈けなのだ。」
1月7日:札内川出会いまで降りる。
1月8日:この日、送れて入山のイタリア人留学生マライーニと、右岸左岸のすれ違いで行き違う。男澤先生宅まで行き着けず、農家に泊まる。
1月9日:「すつかり先生に手筈を決めて頂くと私は札幌の何にも知らずにペテガリ隊の成功を祈つてゐる部の人達に、又吾が子を氣遣つて居られる友の御家庭へ、本當に情けない知らせをする爲に、重い、寂しい、辛い氣持を抱きつゝ上札内へと馳せ下つて行つた。」

四・一月の捜索 中野征紀

「ペテガリタイコイボクノノボリニテナダレノタメソウナンス、カサイ、アリマ、トクラ、カタヤマ、シミズ、コンドウ、ハネダ、ワタナベノ八メイノゾミナシ、スグテハイナラビニシレイヲコフ、ナダレハ五ヒ四ジゴロナリ、オビヒロホクカイカン、ハシモト」の電報を受けた中野が山岳部員による捜索隊を組んで現場に向かう。
1月10日:南札内分教場の男澤先生宅まで。坂本直行が合流。
1月11日:ベースキャンプまで。「ベースキヤムプにはマライニ君と男澤不二彦君が何も知らずにゐた。この遭難事件を聞いてマライニ君はブロウクンの日本語で目茶苦茶に質問を繰返した。」
1月12日:捜索は内田が止まった三の滝上流からはじめた。四の滝近くで渡邊の遺体を発見、掘り起こし石門までおろす。「雪崩發生地點は猶上流の如く、コイカクシュ札内岳頂上直下の斜面と思はれた。(略)大體三の瀧上より標高千二百米附近までに搜索の主力を注ぐ事にした。」ほかトレンチ掘ってゾンデしたが何も見つからず。
1月13日:マライニと不二彦が下山。13名でゾンデを続け、葛西を発見する。更に10名到着。
1月14日:溝は深さ2m半、更に1m半のゾンデ棒で深く探る。連日の好天と寒気で雪が固くなっている。近藤発見。午後羽田と片山を発見。リーダー有馬も発見。「四人を竝べてA.A.C.Hの旗で蔽ひ、全員默祷す。自ら愛する山に逝けるこの若い美しい山友達の冷たき顏を見て斷腸の思ひに胸せまり、黯然歔欷を禁じ得なかつた。」
1月15日:現場作業に17名。雪が吹雪になる中、清水を発見。この日7名加わり総員27名。残るは一人戸倉のみになる。
1月16日:石門の遺体を柴橇を作って搬出する。「粉雪の中に時には腰までもぐり、或は雪壤が踏み壞されて流水に落ちんとする柴橇を川に飛び込んで支へなければならなかつた。」ゾンデはほとんど済ませ、天候も悪化傾向で疲れも深いことから、捜索作業を切り上げることにする。
1月17日:二岐下の搬出には上札内青年団員30人が手伝いに来てくれた。
1月18日:8人を南札内まで運び、タンネを敷き詰めたお棺にいれ、馬橇で上札内へ向かった。

五・アバの建設 中野征紀

五月増水前に遺体流出を防ぐため、三月、アバ(網場)を作ることになった。営林署の協力で人夫を手配してもらい、標高660m、二股の少し上流に三月下旬に設置した。丸太で組んだ大きな三又を二つ流れに並べて固定する。これを上下二つ。

この作業に伴って中野が鋸、鉈を持っていってコイカクへの尾根ルートを開いた。尾根末端の猛烈なブッシュを切り払い、取り付き部分を楽にした。このルートから楽にコイカク山頂をアタックしている。これまでの冬季沢ルートを改め、尾根ルートに変更した最初の記録だ。「五時間で楽に頂上に達することが出来た。」頂上から派生する三本の尾根の中央の尾根とあり、今でいう冬尾根のようだ。

六・七月の捜索 原一郎
三の滝を越えた雪渓の脇で戸倉を発見。一の滝下のキャンプまで下ろして荼毘に附す。

七・雪崩に就いて 石橋正夫
登路のコイカク沢左股の地形、気象などを解説。原因を、この気象、降雪条件で沢ルートを取ったことに置いている。
八・結言

==========
当時ペテガリ冬期初登の機運に盛り上がる山岳部に、イタリア人留学生フォスコ・マライーニ氏が関わっていた。マライーニ氏は当日二歳の娘が風邪を引いたため入山を遅らせ雪崩を免れた経緯がある。

この後昭和18年(1943)の冬期初登に登成功した勝因は、稜線に耐風用の重いテントを使わず、コイカクの山頂にイグルーを作り、精鋭のロングアタックをする方法を取り、軽量化した事だった。そして北大山岳部にイグルー作製のヒント或いは直接的な影響を与えたのはマライーニ氏ではないかと言われている。このころ、マライーニ氏が手稲山山頂などでイグルー泊実験をする記事などが当時の新聞で紹介されている。当時のヨーロッパアルプスではイグルーを実践するアルピニストもいた。その後京大で教員をしたあと一時名古屋の捕虜収容所に囚われの身になる。戦後は母国に帰り北大で研究していたアイヌ民俗学に加えチベット民俗学などを専門にしながら山岳写真家としても有名になり、1958年のガッシャーブルム4峰のイタリア隊にも参加している。同時期に隣のチョゴリザ遠征していた京大隊のBCに表敬訪問している。ペテガリ遭難にも関わった超日本通のアルピニスト謙芸術家兼研究者として長生きし、つい数年前亡くなった。AACHイグルーのご先祖さまである。

↓以下はマライーニ氏に詳しい高澤光雄氏の小文。http://kamuimintara.net/detail.php?rskey=123200505z03

以下は次回後篇で紹介。

●紀行
三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉
カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二

●追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一

年報
1938.5-1940.10
写真二点、スケッチ一点、地図五点

(解説前編中編後編
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