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部報解説・ 2007年11月7日 (水)

これまでの部報紹介・部報7号(1940年)中編/(米山 悟1984年入部)

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遭難報告2題と追悼13題にはさまれたわずか三つの普通の記事。ペテガリ紀行は三人とも遭難死する前の夏の記録。みんなのペテガリに対する思い入れと情熱にあふれている。当時のメナシベツ川中流部の深山大河ぶり、ナナシ沢出会いの謎めきぶりもうかがえる。橋本による山名の真偽に関する小文は全文を掲載した。コイカクの名が変更された歴史的に決定的な一文である。アイヌ語山名の由来について書いた、あやうい根拠も示されている。カムエクの名はその後修正されることはなかった。


●紀行
・三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二
・遙かなるペテガリへ(遺稿)     清水誠吉
・カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて  橋本誠二
●紀行

三月の忠別越え石狩岳 橋本誠二

1939年3月11日〜23日、清水、片山、橋本で、これまで無かった積雪期の忠別岳の乗越し計画。松山温泉(天人峡)から化雲岳、忠別岳経由で未知の沢を下り、石狩川本流を前石狩沢から石狩岳アタック、層雲峡へ下る。
忠別への乗越しまではガスに阻まれる。「白い雪の原、白い霧、私達は逆さになつて歩いてゐる樣な氣持になつたりした。先頭の清水のシュプールが三人の世界の初りで、世界の終りは殿をしてゐる私 の十數米後である。『アツ』と云ふ聲が聞えると清水が見えなくなつた。例の崖かと驚く二人に、清水が右下の雪の中に轉んでゐたりした。所々クラストをして ゐて、使ひ古しのスキーにはエッヂが立たないからである。夢中で歩いてゐた私達は見覺えある所に出た。煙草の吸殼が轉がつてゐて、逆戻りをして了つた事が 判つた。茫然としてテントを吹きまくる風の間に擴げた。」というトボけた話。

忠別への日は晴れた。山頂より未知のシピナイへ下る。「一七〇一米に着くとケルンが積んであり、棒が一つ立ててあつた。その先きには雨や雪や風にさらされた布切れがハタハタとなつてゐた。黒々とした靜かな森 を一目に見下すこの高臺の端に立つてケルンを積んだ人はどんな人であつたらう。夕映えを身に受けてヂツと森に見入つては石を運ぶ一人ぼつちのアイヌの姿。 私はいろいろと想像を廻らせて見た。」その後下ったシピナイ流域の針葉樹林の見事さにすっかり酔っている一行。「私は泣き出し度ゐ樣な旅情にとらはれた。ラツセルが苦しくなつて來た。前も横もうしろも見渡せば黒木が映ずるのみである。私達はどこへ向つてゐるのか判らなくなつて了つた。何か人も知らない遠い美しい國を求めて彷徨つてゐる樣な幻想につつまれた。何處をどう歩いて、何處で休んで・・・。判らない。兎に角 深い、深い石狩の森の中を歩いてゐるうちに、シピナイに下つてゐたのであつた。」現在位置不明を、明らかに楽しんでいる。

翌日は石狩川本流へ。「臺地からワカンの蹟が急に下り出す。茂みの向ふが眩しい程に照り輝く。私達は斜めに廣い明るい寂やかな河原へ一氣に辿り下つた。『ウーン、石狩だぞ』ルツクをどさりと投げ出すと三人は顏を見合はせた。何か本當にホツとした。」

ここでの陣地作りは念が入っている。「昼からの四時間はキャムプを作るのに費した。山旅の喜びを一層深くする為に素晴らしく立派な宿り場を作り上げた。地面迄掘り下げた焚火場の廻りにはさらにブロックを積み上げ、屋根もふいて、丁度お城の様なものが出来上がったのである。」

ここから石狩岳のアタックを済ませ層雲峡へ下る。最後に渡渉のために一抱え半もあるタンネを倒して橋かけする。

遙かなるペテガリへ(遺稿) 清水誠吉

遭難死した清水誠吉の、前の夏のペテガリ山行記録。同じく遭難死した片山、有馬(弟)とのパーティー。三石川の東にある鳧舞(けりまい・当時はケリマップ)川からセタウシの東の稜線を越えて静内川に入り、コイボクから23へ登ってペテガリまで稜線藪こぎというハードな計画。今はこの尾根越えルート、やや西側の三石川から高見ダムにはいる林道がある。当時静内(メナシベツ)川中流部は中を通れるセンスではなかったのでこの尾根越えがとられた。その中流部は今やダムの底だ。

イベツ沢からメナシベツへ。「イベツの澤は暗かつたが歩き易かつた。約二時間して最後の小さな凾にかゝると俄然目の前が明るくなつた。行く手に白い河原が切立つた兩岸の彼方で盛り上 がつて居る。メナシベツだ、何と言ふ廣さだらう。何と言ふ明るさだらう。何と言ふ水の色だらう。白く盛り上がつた河原を分けて、メナシベツは緑の色をたゝ へて傲然と流れる。私達は暫し茫然として岸邊につゝ立つた。」ここまででまる二日。

函の巻きで有馬が落ちかけたり、片山が40mも落ちたりしたが怪我も無く進む。現在サッシビチャリ沢と呼ぶ沢はコイカクシュシピチャリ沢と呼んでいる。
ナナシ沢の入り口がどれか?地図の信用度も完全ではなく、迷いながらの山行である。結局、予定していたナナシ沢(→ヤオロマップ)を入り逃してコイボクシュシピチャリ沢(ここではカムエクが見えるような上流になるまでメナシベツ川と記している)に入ってしまった。まだ早いとパスした左岸の支流がナナシ沢だった。今やほとんど林道になっているこの中流部は函の高巻きの連続だ。ナナシを逃した事を知っても、巻きの途中で一泊までしていて、とても戻る気にはなれない。コイボクから23に登って延々藪を漕いでペテガリを目指そうと誓った(凄い・・・)。

一週間目に国境尾根を目指す。上で泊まるため飯ごうで飯を多めに炊き、水枕に水を入れて23北のポコに上がって泊まる。「一八二三米越しにコイカクが現れ、そしてその遙か彼方に目指すペテガリは青く澄んで居た。私達は暫し默々と遙かなる山ペテガリを眺めて居た。雲間から夕陽が流れた、と平戸古美山の山腹を圍むガスの上に圓い虹が現れた。そしてその中央に私達の三つの影が浮び出た。」
翌日はコイカクへ向かう。快適な尾根とあるが、8時間かかっている。コイカク山頂泊。翌日「愈々難關の尾根である。往年幾人かこゝでカンバに苦しみ、渇に苦しんだ事であらう。」翌日は藪を漕いでルベツネの肩まで。水も節約、メシもパンだけで、眠りかけたりしてペテガリへ。「かうして一寸の休む間もリュックに寄り掛ると、うとうとと眠り込みそうになつた。水も相當節約したので、十勝側の這松にガスが殘していつた水滴を吸つたりした。『行かうか』『もう一寸眠らせてくれ』本當に私達は疲れて仕舞つたのだ。ペテガリは仲々見えてこない。」
山頂にて「忽ち私達は座り込み、或は腹這になつて仕舞つた。私は大地に顏を押し當てゝみた、土の香がプーンと鼻に快く入つて來た。遙かなるペテガリは今此處に在るのである。昨日、そして一昨日見た青いペテガリは今此處に在るのである。あのコイボクシュシビチャリの凾をへづゝて居た私と、今ペテガリに居る私の間にどんな違ひがあるのであらうか。唯時間があの時の私と今の私を變へて仕舞つたのだ。一秒、一分、一時間、そして今私は寂寞たるペテガリの上に倒れて居るのだ。」理屈っぽいが気持ちはわかる。頂上の空き缶に名刺を残してAカールへ。翌日中の川へ下降尾根から奥二股へ下る。

下山して橋の下で新しいシャツに着替えてバス道路まで歩く。「三人の足は自然と早くなつた。リヤカーを引つ張つたあの日、イベツ、メナシベツ、そしてペテガリの頂上のあの日が遠いゝ夢の樣に思ひ出されてきた。一昨日のペテガリはもう遠く追憶の彼方へと私を離れて言つたのだ。遙かだ、やつぱりペテガリは遙かなる山であつたのだ。」ペテガリに入れ込んだ三人の美しい紀行文。清水、片山はコイカク沢の雪崩に死んだ。有馬は兄を亡くした。

カムイエクウチカウシ山、コイボク札内岳等の山名に就いて 橋本誠二

カムイエクウチカウシは「札内岳第二峰」の名を、コイボク札内岳には「コイカクシュ札内岳」の名を、という提案である。前者はそうはならず、後者はそのとおりになった。実際これまでの部報6号まではコイカクシュ札内岳をコイボク札内岳としてきた。その根拠なども記してあり、短いが重要な歴史的一文なので全文掲載します。

「陸地測量部圖幅札内川上流を廣げて頂き度い。吾々は古くより札内川上流一九七八米峰をカムイエクウチカウシ山と呼び馴らはして來た。この山名は故水本文太郎 の案内で、昭和四年一月、日高山脈に入つた須藤先輩等が、水本に尋ね聞き知つて以來の事である。しかし吾々がこの名を一九七八米峰に與へた以前、柳田氏他 五名の道廳測量隊による明治廿六年發行二十萬分の一地形圖測量の際は、無名の峰なる爲に札内嶽第二峰なる名を付けてゐたのであつた。私達が極めて不十分な幾つかの資料より考へて見たことなのであるが、カウイエクウチカウシ(ママ)と云ふ山は、實はトツタペツ上流一七五六米峰を指すらしいのである。現に吾々は之を單にカムイ岳と呼んでゐる。
そのカムイ岳の北面に發する一支流はカムイクウチカウと云はれ、『聖なる斷崖のあるところ』と云ふ意味なのである。そんな素晴らしいバツトレスがあるかどうかは知らないが、カムイエクウチカウシと云ふのは意味が不明である事やら、水本が初めは知らないと云ひ張つてゐたと云ふ事やら、後はもうその當時老齡で 忘れつぽかつたとかから、水本はカムイクチカウ山と札内岳第二峰を混同して了つてゐたに違ひないと思はれる。
 私は以上の事から一九七八米峰に、昔に戻つて札内岳第二峰なる名を用ひたほうが良いと考へる。
   ×  ×  ×
コイボク札内川と、吾々は札内川の内の字の處に右岸から注ぐ一支流を呼ぶ。然るに之は吾々の爲した誤りであつて、事實は本流がコイボクシュ札内で、その支流がコイカクシュ札内なのである。
 見ても判る樣に、コイボクシュは南ー北方向を示し、コイカクシュは西ー東方向を示すからである。
 吾々はコイボク札内をコイカクシュ札内と改めねばならない。從つて國境線一七二一米峰を今後コイカクシュ札内岳又は上述の道廳測量隊による如く南札内岳と改めた方が良いと思ふ。
 こんな山の名等はどうでも良い、馴れ親んだもので十分であると云へばそれ迄の事であるが。吾々のずつと前に大古そのまゝの日高の山脈に水脈を追つて入つて 行つたアイヌの感興そのまゝ與へた美しい名を、吾々が勝手に、別の地に、澤に與へて良いと云ふ理由も又ないであらふ。」


確かにカムエクの名には謎が多い。アイヌ語地名などは案外意味不明や謎のものも多いようだ。時代による変遷もあるだろうし、第一現代ではアイヌ語話者がほとんどいないので俗説がまかり通ることもあるだろう。カムエクの名に関してはほぼ水本氏一人の話だけから定着したようである。


追記2015.8.9.)
部報7号の橋本誠二のこの意見に対して、山の会会報11号(昭和16年発行)に、福地宏平の意見がありました。カムイエクウチカウシの名は既に山岳部員の間に定着しており、アイヌと何の関係もない陸地測量部の命名の札内第二峰では、ふさわしくない、という反論です。原文を参照したい方は山岳館までお越し下さい。
また、部報2号(1929年発行)の年報の、以下の登山記録のあとに、カムエクの命名に関わる初めての記述があります。橋本氏が述べている、「須藤氏のパーティー」の記録です。以下、引用します。
ーーーーーーーーー
1929(昭和4)年1月3〜14日ポロシリ岳ートッタベツ岳
メンバー:小森五作 野中保二郎 伊藤秀五郎 高橋喜久司 須藤宣之助 人夫(水本文太郎 中村政蔵)

カムイエクウチカウシ
これは陸地測量部五萬分の一の地圖『札内川上流』に載せられてゐる1979.4mの山で、南部日高山脈中の最高峰である。從前は山名がなかつた爲、1900mの山と呼んでいた。ところが私たちがトツタベツ岳に登つた日のその晩、水本老人から、これがカムイエクウチカウシといふ山だといふことを聞いた。老人は今まで忘れてしまつていたらしい此山名をその時、ふと思ひ出したのだらう。なぜといつて、それは以前、水本老人を聯れて行つた仲間が、その1900mの山の名を尋ねても知らなかつたと云ふから。それで私たちは、今後此山をカムイエクウチカウシ山と呼ぶことにした。因みに『カムイエクウチカウシ』は『熊を轉ばした所』といふ意味ださうである。

(解説前編中編後編
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