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部報解説・ 2008年1月25日 (金)

これまでの部報紹介・部報7号(1940年)後編/(米山悟1984年入部)

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部報7号の後半は、総て追悼文集である。卒業後の故人二名、1938(昭和13)年12月上ホロ雪崩遭難の二名、1940(昭和15)年1月ペテガリを目指したコイカク沢の雪崩遭難の8名で、あわせて計12名の追悼13題。二年にわたって雪崩遭難を起こし、冬季の沢ルートの行動が見直されていく転換点になった。ルームの中核、有馬(兄)と葛西をはじめ、上級部員を多く失ったが当時は部員がたくさん居た。生還した橋本、兄と友人を失った有馬(弟)の追悼文がある。戦前最後の部報である。(敬称略)

追悼
故島村光太郎君の追憶 櫻井勝壽
徳さんを憶ふ 相川修
憶ひ出 本野正一
追憶 朝比奈英三
徳さんの憶ひ出 橋本巌
有馬洋 福地宏平
追憶 湊正雄
戸倉君を憶ふ 林和夫
清水誠吉君を憶ふ 有馬純
近藤達君 橋本誠二
追悼 倉林正尚
羽田君 新美長夫
渡邉盛達君を憶ふ 塩月陽一
●故島村光太郎君の追憶  櫻井勝壽

島村光太郎氏は1926年の創部期から活躍。理学部に進んでは植物学教室。チャチャヌプリに足跡を残し、部報二号で「国後島遊記」を記している。植木会社に就職していたが、1938年召集令を受け、北支で匪賊討伐戦の輸送指揮にあたる。1939年1月、河南省の戦闘で32歳で戦死した。小さな男の子がいた。従軍中も植物標本を集めていたという。

●徳さんを憶ふ   相川修

●憶ひ出    本野正一


徳永正雄氏は1929(昭和4)年入部。坂本直行、相川修らと共に、札幌二中の出身組だ。予科からあわせて6年間1935年1月までの記録がある。畜産課を出て満洲に赴任。病死したとある。

●追憶    朝比奈英三

瀬戸三郎氏は1930年から山行記録がある。予科を修了して畜産の学生になってから正式に山岳部員になった。37年1月の利尻も踏んでいる。1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した。

●徳さんの憶ひ出   橋本巌

1938年12月の上ホロ雪崩で遭難死した高田徳氏への追悼。1934(昭和9年)入部で遭難は5年目の冬。猛烈に勉強する医学生だった様が記してある。長崎の出身で、シーボルトにも詳しかったと。

●有馬洋    福地宏平

1934(昭和9年)入部で、1940(昭和15)年一月のコイカク沢雪崩で遭難。その前昭和12年の冬季ペテガリ隊にも参加、部報6号には「ペテガリソナタ」と題した夏の紀行がある。今回のペテガリ隊の中心メンバーだった。

「多くの人が横道へそれたり、或は安逸に流れる間に有馬は多くの輝かしい業績を殘しながら遂にペテガリ岳に於て北海道の冬期登山の形式に新しい方法を取り入れ、又トムラウシより二ペソツへの企てに於て冬期登山の形式を飛躍せしめて、冬山に漂泊の旅をなしたのである。」

また昭和12年のペテガリ遠征のときの話、「『下らずに矢張り連絡に行かう』と最初に云ったのは有馬だつた。そして坂本直行兄と二人で吹雪を衝いて出掛けて行った。居る丈けでも危險な日高の痩尾根、而かも晴れてさへザイルの要るヤオロマツプを此の烈風中に行く事は死を賭して義務を遂行する事、寧ろ自分の死を賭しても友を救ふ事である。かゝる行爲を書物で讀んだ人は居やう。然し實際に體驗した人は多くないと思はれる。眞の友は窮境に於て始めて得られると云ふ。學生は總て友を有する、然しかゝる眞實な、赤裸々な、崇高なる人格を友の中に眞實の意味で信じ得る幸福を持つものは山嶽部員のみではなからうか。」

有馬洋は山岳部を引っ張る、時代の寵児であり、当時皆からもっとも頼りにされていた一人だった。


●追憶     湊正雄

有馬と同じ昭和9年入部でリーダー格の葛西晴雄(コイカク沢遭難)の追悼。二人と同期の湊は上ホロ雪崩にあいながら生還している。有馬と葛西が昭和13年冬の神威岳山行に出かけた際、行きそびれた事を悔やんでそのときの思い出を書いている。「私は彼がよく山の歸り等に、炭燒く直行さんを訪ねて、獨りで柏の林の中を行く氣持を何かしら深い感謝と共に思ひ浮かべるのである。霙降る日、私は二人で圓山の林等歩いた事があつたが、そんな時彼は、だまつてゐれば何時間でも雨に打たれて邊りを眺めてゐる樣な人であつた。」有馬と葛西の二人は皆が認める当時のルームの引っ張り頭、山行を共にする機会も多かったようだ。

●戸倉君を憶ふ   林和夫

1936(昭和11年)入部、4年目でコイカク沢で遭難した戸倉源次郎氏の追悼。林和夫は札幌一中時代からの先輩で同じ電気工学科。戸倉氏は始めは自転車旅行や他の事に興味があって山登りは片手間だったようだが、夏の計画で林氏の助言で石狩岳、トムラウシの沢旅に行ってからは俄然山岳部の活動にのめりこんだという。

「雨の中でした石狩岳登頂の不安、その後に得た雲表上快晴の頂上の思ひ出等を非常な喜びを持つて話してくれた。之以來彼の登山態度は變はつて行つた。」「彼と最後に逢つたのは十四年十二月二十九日、合宿を終へて一緒に下山し、歸郷する私と朝比奈を上富良野驛のプラットホームに見送つて呉れた時の事で有る。此の度は事情あつてペテガリ行に參加出來なかつた私の名刺を頂上に置いて來て上げると言ひ懷に入れた。そして明日から始まる激しい登行に對して沈潛した情熱と確信を、強い近眼鏡の奧に細い目を光らせ、口をすぼめた穩やかな顏の陰に祕め、汽車が寒い風を切つて動き出すに連れ、次第に遠のいて行つた彼の姿は私の目にやきついて忘れ難いもので有る。かくして私は最も信じ愛した友を失つた。」

●清水誠吉君を憶ふ   有馬純


コイカク沢で遭難した清水誠吉氏は1936(昭和11年)入部、4年目部員だった。有馬純は有馬洋の弟で、清水とは旧制中学二年以来の親友だった。

「清水は決して遠慮しながら一歩距てて愛した友ではない。少年の最も彈力ある心に素直にお互を受入れ、破綻無く育つた二人の間である。」「實にリファインされた文化人と云ふ感じ」「清水程常識の廣い男は居ない」という評価をルーム内で受けていた。有馬は一緒にコイボク23、ペテガリの山行をした折の思い出、一本の鷹の羽を拾った清水の美しい感性の話(部報7号に遺稿あり)を思い出す。亡き後の清水の部屋の「机のペン皿の上にあのシュシビチャリの鷹の羽を見た。かくして私は今更無限の山の思ひ出と少年の思出をもつ清水を失つた事を知つて唖然とした。」

●近藤達君   橋本誠二

1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した近藤達氏の追悼。遭難死した清水、片山、近藤、渡邊と橋本は同期。雪崩の日は体調不良でテントに残り遭難を免れた。事故後最初にデブリを前にしたのは橋本である。「あんなに良い仲間なんて再び出來るものではない。私は彼等の美しい思ひ出を一生胸に抱いて居られる丈でも幸福である。一月六日あのコイカクシユの雪崩の翌日デブリの一角に立つた時、私は之から如何にして毎日を暮らしたら良いか判らなくなつて、いつそ死んで了つたらとさへ思つた。」近藤は真面目な上に世話焼きで、学校をサボろうと帰りかけた橋本を捕まえ「缺席日數も彼は調べ上げてゐて、後何囘で及落會議にかゝるとか云ふのには私も全く閉口した。私をこんなに迄心配して呉れる君の氣持ちを無視した結果は試驗になると、君や片山シヤモに來て貰つてはブランクを必死で埋めなければならなかつた。」後年地質学教室の大先生になった橋本ヤンチョ氏の不真面目学生時代の思い出も記されている。「私は當時のことを囘想すると狂はしい迄な感じが心を搖すり、何をする事さへも出來なくなつて了ふ。本當に樂しい張りのある日を過ごして居るうちに、隱された雪庇のシユパルテに落ち込む時の樣に、私は突然悲しみの中につき落とされて了つた。暖かな目でヂツと私を見守つてゐて呉れた葛西、有馬の兩先輩を私は失つて了つたし、本當に親しかつた仲間とも永久に別れなければならなくなつた。私は山から歸つて色々な人に運がよかつたと云はれたが、私にはさうはどうしても考へられないのである。寧ろ私はあんなに氣持ちの良かつた友や先輩と一緒に死んで行つた方がどれ程良かつたか判らない。私はコイカクシユの美しい雪の中から、一人又一人と友の生けるまゝの姿が見出された時、その一人一人に仲間外れにされて行く樣に思はれてならなかつた。」遭難後一年、パーティー生き残りの橋本による追悼。

●追悼    倉林正尚

1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した片山純吉氏の追悼。片山氏は津山の出身で、遭難死した清水、近藤、渡邊と同期。片山の二つ下の倉林が、恵迪寮時代の話などを記す。片山はあだ名でシャモと呼ばれた。「全く打解けた、外から見れば禮儀を辯へぬと言はれさうな仲間が在つた。其の各自も何等自覺した目的や理想を、何時も用意などはして居なかつた。其れは其の點に關して言へば穉兒の集ひと同然であつたらう。之が私達の間に生活せられた數年の月日であつた。無言の内に、決定的美を各々に認め合つて、何等の形式張つた事を必要とせず、常識を脱した或物から發する直觀によつて自然に結ばれた此の仲間に於いて、兄は好き中心であつた。そして私達は兄を『シヤモ』と呼んでゐた。」戦前の恵迪寮もまた、この雰囲気だった。山のみならず、里での楽しい思い出について触れられている。


●羽田君    新美長夫


1936(昭和11年)12月入部、4年目のときコイカク沢で遭難した羽田喜久男氏の追悼。あだ名は「二代目消耗」。「彼は二代目消耗と呼ばれてゐました。山嶽部に於いて消耗なる語の定義は『決して消耗ばかりしてゐる人の事ではなく、毎時もは消耗してゐる樣に見えながら、他の人々が消耗した樣な時に俄然素晴らしい馬力を出す人』でなければならないのです。」口数の少ない羽田氏と相手のことをあれこれ詮索しない新美氏。羽田が死んで初めて、たいした言葉も交わさずとも一番多く山をともにした相手であったことに気づく。「彼は自分の氣持を口に出しませんでした。又そんな事を何も書きませんでした。その事が彼の氣持を推察するのに物足りない事等でせうか。私は何の感想も書かれてゐない彼の山日記の記録こそ、本當に彼の氣持を傳へてゐると思ふのです。日時、天候、時間、それこそ、その日の空の樣子を、周圍の景色を、そして彼の姿を、顏色を、又彼の心持をも想像させて呉れるものなのです。」

●渡邉盛達君を憶ふ    鹽月陽一

1936(昭和11年)入部、4年目のときコイカク沢で遭難した渡邉盛達氏の追悼。「君を始めて知つたのは山嶽部の新入生歡迎會の夕べであつた。高い足駄を穿きマントを羽織つた紅顏の少年は今でもはつきり思ひ出される。」「又君は部に於いても級に於いても喧しい連中の一人だつた。」恵庭、漁岳の春の山行で、行動中のたくましさとテントに帰っての馬鹿話のうまさの転換振りを紹介している。また、製図が得意だった。「冬のペテガリ登攀にもテントのデザインを製圖して熱心に備品を研究してゐたのでもその一端を窺ひ知ることが出來る。」


年報

1938.5-1940.10

写真二点、スケッチ一点、地図五点

(解説前編中編後編
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