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山の会昔語り・ 2009年2月11日 (水)

山の会裏ばなしー(30) デブリをはねてバスが通った
山の会裏ばなしー(30)

   デブリをはねてバスが通った
            
    北大山の会東京支部・木村俊郎(1950年入部)
昭和三十七年に北大山岳部はチャムランの遠征に出発し成功を収めたが、小生は神岡で現場を持つ傍ら指名を受けて生産管理の猛勉強?中。出張で上京も多く、札幌との連絡は疎かだった。だが冬山の魅力からは逃れられず、この年は飛騨側に落ちる南尾根の新ルートで正月を越して一月三日、黒部五郎に登頂できた。金木戸川からの深雪をスキーに物をいわせるアプローチだった。

登頂後、かなりの風雪になったが、我々の登頂と同時刻頃、向い側の薬師岳では風雪の中、愛知大学の山岳部員十三名は頂上からの帰途全員遭難死していた。悪天候で捜索は難航し、風雪の合間に太郎小屋上空でホバリングできたヘリからザイルで降りた朝日新聞の本多勝一記者が全員の絶望を伝えたのは二週間も後になってからだった。その後も雪は降り続き稀にみる豪雪の記録を残してこの雪も三月には落ち着いた。

こんな年の三月二十四日に札幌から四人のパーティーが来た。三十五年入部のY君をリーダーにS君は通称もS、一年目のSは通称M、O君は通称がなかった。新穂高温泉から槍、穂高往復、常念を経て上高地へ下る九日間の日程で入って来たのだった。装備は現役時代を彷彿させる冬山で、神岡町に準備しておいた宿舎で、装備やら食料を広げて相談やら作戦等を練って出掛けて行った。その後このパーティーは豪雪の後にも係わらず事故もなく予定を完遂して帰った。

それから一年以上も経ったある日、小生は出張で高山行きのバスに乗った折に運転手が
「北大山岳部のお客さんが蒲田で雪除けをしてくれてね」
と言って次の話をしだした。
「以前に神岡から平湯への路線を運転していた時、蒲田の少し手前で道路にデブリが出ていて往生した。行くのを諦めて戻ろうかと思った時、乗っていた北大山岳部のリーダーが『やるか』と一声かけると、メンバーはリックに付けていたスコップを組み立てたり、バスの備品の道具を持ち出すやらして、雪を除けてしまった。平湯へ行くお客さんは喜んで拍手喝采だった」という。

北海道の山道では普通のことかもしれないが、山間の村々も軟派になってきたこの頃、リーダーの一声でサット行動する山岳部に感銘を受けたらしく、この話はしばらく運転手仲間の語りぐさになっていたようである。だが、ちょっと注釈しておかねばならぬのは、この話はこのパーティーのことだったとは思うけど、確証はない。この辺りにデブリが出る三月には前年もその直後にも北大のメンバーが来ていたからである。
  • コメント (1)

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村主   投稿日時 2011-1-25 16:09
山岳部と言われている方々は頭脳明晰であり、本当にたいしたものです

 
 
 
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